しずくとつむぐ
・企画名:しずくとつむぐ
http://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/46398/blogkey/194314/
・企画概要:『高校二年生のある梅雨の日。放課後、図書室の日本文学の棚前に呼び出された僕は、名前も知らない女の子から告白された』
というシチェーションの短編作品を投稿。他の参加者の皆様との描写や発想の違いを楽しむ短編企画です。
雨がしとしとと落ちている。窓の外に見えるのは灰色の雨雲。暗くしずんだ町並み。
聞こえてくるのは誰かが本をめくる音。抑えた息づかい。雨の音。
椎名明之は図書室の一番奥の席で目にかかる前髪を時折気怠そうにかき上げ、窓の外を眺めていた。
『突然のお手紙すいません。もしよろしければ、今日午後四時に図書室日本文学の棚のところに来てください』
以上。
宛名なし。差出人なし。下駄箱に入っていた謎の手紙。
なんだこれは、と思いながらも瞬時に高鳴る鼓動。ちくりと胸を刺す痛み。誰かが自分を見ていないかあわてて周りを確認し、まるで何事も無かったかのように椎名は封筒を右ポケットへ突っ込んだ。
放課後。普段あまり来る事のない図書室の扉を椎名はゆっくりと開いた。埃と紙と湿気の匂いがする場所。背丈程の本棚が何列も整然と並んでいる空間。ここに来るとなぜか騒いではいけないという気持ちがわき上がってくる、一種独特の世界だ。
無人のカウンターを通り過ぎ、奥にある書架配置図で日本文学の棚を確認する。図書保管室の扉前、奥から三列目の棚だ。
哲学、歴史、自然科学、社会技術と通り過ぎる。棚には様々な色の背表紙がぎっしり詰まっていて、知らない知識とまだ見ぬ物語であふれていた。どうやら誰もいないようで、雨の音と足音だけが聞こえる。
産業、芸術、世界文学、そして日本文学。歩みを止めて携帯を開く。時間は午後四時五分。ポケットに携帯をしまうと最後の一歩を踏み出した。
そっとのぞくと、そこには一人の女の子が立っていた。肩にかかるかかからないかの艶やかな黒髪と目元のほくろが印象的だった。
ああ、イタズラじゃないんだ、とちょっとホッとすると同時に、いや、まだ分からないぞ、と椎名は自戒する。女の子も椎名に気が付いたようで慌ててぺこりと頭を下げた。
「あ、あの、初めまして。八組の藤崎千里……です。来てくれてありがとう」
小さな顔、気の強そうな目。きれいな形の鼻から唇へ。少し視線は下がって胸、そして足。最後に全身へ。悲しき男の性か。椎名は無意識に藤崎千里と名乗った女子を見ていた。
「で、用件は?」
椎名は自分なりに精一杯冷静に質問する。藤崎は深呼吸をひとつ。そしてもう一度深く息を吸うと、椎名を真正面から見据え、言った。
「好きです。もし良かったら私と付き合ってください」
窓を叩く雨音を激しい図書室中に響いた声。静寂が戻ると再び雨音があたりを染め抜く。
告白があまりにストレートだった為、椎名は思わず言葉を失う。うらはらに頭の中では様々な思いが交錯していた。
いきなりだな、おい。付き合うって話した事もないんだぞ。
いやいやちょっと待て。
でもまぁいいじゃないか、知らないなら付き合ってみて確かめるのもいいんじゃないか? これから夏だぞ。
いや、ちょっと待てって。
けっこうかわいいよな。このレベルなら文句ないよな。
だからちょっと待てよ。俺は三日前、彼女に振られたばっかだろうがっ!
叫び。千切れるような心の叫び。
別れた彼女の一ヶ月前の笑顔、五日前の悲痛な顔、そして三日前の泣き顔を思い出し、椎名は心の中に軋みを感じた。あの時の激しい後悔と喪失感はまだ癒される事なく胸の奥にある。心が重く固まった。
「なぁ、一個質問があるんだけど。別れたって事、知った上でなのか?」
考えるよりも先に言葉が出ていた。
「え? その……」
言葉に詰まったのは肯定を意味すると判断した椎名は、くるりと踵を返し歩き出す。
「待って! あの……そうだ! 私、将棋指せるの! ホントだよ!」
これが最後の切り札なのだろう。藤崎の言葉からは何かにすがるような、そんな懸命さが伝わってくる。だが椎名が振り返る事を選んだのは別の理由だった。
「なんで知っている?」
トクン、と高鳴る。それはちくりと刺す痛みを消し去る。椎名の隠していた趣味。別れた彼女すら知らなかったはずの趣味。他の人が知る訳ない。知ってる訳がない。誰にも言った事がないからだ。
「私が勝ったら話を聞いてくれる?」
「質問で返すのか? それに盤も駒もないだろ」
藤崎は三歩下がり、図書保管室の扉をそっと開けた。薄暗い部屋の中、そこには縦横二十本の黒線、クチナシの実を模した足、厚さ六寸の立派な将棋盤がテーブルの上に置かれていた。
「な、なんでこんなのここにあるんだ?」
「昔、将棋部があったんだけど、廃部になった時に備品を図書室で保管する事になったって先輩が言ってた」
一段低いテーブルに将棋盤を置き、駒を箱から取り出す。盤上に転がる将棋の駒。王将を見つけると藤崎は手に取り、静かに言った。
「ねぇ、約束して。私が勝ったら話を聞いてくれるって」
「話くらい勝たなくても聞くぞ」
「ちょっと。余裕ないんだから茶化さないでよ」
真剣な顔の藤崎は椎名に王将を手渡す。やや気圧されながらも椎名はいすに座り、澄んだ音と共に王将を置く。それを見た藤崎は玉将を自陣に置く。椎名が金を並べると藤崎も金を並べる。銀、桂馬と交互に並べていたが、椎名が香車を置いたところで藤崎は左端から歩を並べ始めた。伊藤流だ。並べ方の作法を知っているだけでも珍しいのに相手に失礼のないようにと配慮した伊藤流とは殊更珍しい。
「その並べ方は誰に習ったんだ?」
「ん? えっと……おじいちゃん。私、おじいちゃんと一緒に住んでるんだけど毎日帰ったら将棋の相手させられてね。駒には並べる順番があるんぢゃ、って。どーでもいいじゃんそんなのって思ってたんだけど。おじいちゃんにマジ感謝」
椎名が見た、藤崎の初めての笑顔。
小さな戦場に互いの二十の駒が揃う。先手は藤崎。金を右手で持つと乾いた音と共に盤上を一歩進む。ネット将棋では決して味わえない緊張が椎名の背中に強烈に走る。
響く駒音。盤上を走る駒。相手がどう出るか序盤はお互い様子見だ。中盤、まず仕掛けたのは藤崎だった。繰り出す一手一手はなかなか厳しく、鋭い。微笑む藤崎。
そして終盤。椎名の一手。藤崎の表情が変わる。好きで将棋を指していた椎名。おじいちゃんの趣味に付き合っていただけの藤崎。将棋への取り組みの差がはっきりと出る。
八九手。目に涙を浮かべる藤崎。
九二手。もはや時間稼ぎにすらならない。
九九手。泣きながら、藤崎は投了した。
絶え間なく降り続ける雨。厚い灰色の雨雲。しずんだ町並み。聞こえてくるのは誰かが本をめくる音。抑えた息づかい。雨の音。
「おまたせ、明之」
抑え気味ながらも明く澄んだ声が通る。声のした方へ視線を向けると、艶やかな長い黒髪を揺らしながら歩く藤崎の姿。なぜか微笑んでいる。
藤崎の笑顔を見て、椎名はふと思い出す。
負けた次の日『あれは勝ったら話を聞くという約束でしょ? 負けたら終わりって約束してないし』と藤崎はやけに明るく言い再度勝負を挑んできた。呆れる椎名。ふふん、と不敵な笑みの藤崎。少しだけ目が腫れていた。
何度も対局を重ねたある日、椎名は藤崎になんで俺と付き合いたいのかと聞いた事がある。
藤崎は照れる様子もなく、そして一瞬の間もなく雨の音を聞きながら二人で読書をしたいんだ、と答えた。ま、将棋でもいいけどね、とも小さな声で呟いていたが、残念ながら椎名には届いていなかったようだ。
今日も相変わらずの梅雨空。窓の外には無数のしずくとつむぐ雨の音。初めて対局した日からちょうど一年目だ。椎名は駒を並べる藤崎をちらりと見て、そろそろ勝ってくれよ、と心の中で呟いた。
「で、いまさらだけどさ。なんで俺が将棋好きだって分かったんだ?」
椎名は歩をひとつ進めながら藤崎に聞いた。
「ん? ああ、ほら、去年の四月頃に食堂で携帯のニュースサイトを見てたの覚えている? ほら、ニューヨークでアマ竜王戦がどうとか」
一瞬、椎名の方へ視線を向けるが、すぐに盤上へと戻した藤崎。右手であごをさわりながら、どこか懐かしむように答えた。
「ああ、そういえばあったな」
「そんなニュースを箸を止めて必死で見てる人って普通いないよね」
「……確かに」
藤崎は銀を右斜め前に進める。一瞬眉をしかめた椎名。それを見てニっと笑う藤崎。顔に出てしまった事にやや悔しそうな表情を見せるが、すぐにいつものポーカーフェイスに戻り、椎名は飛車を前に進める。それを見て藤崎はとある駒を手に取った。
「その……あのさ、気付いてた? いつも近くの席で私、食べてたんだけど」
「いや、全然」
「ふふふ、だよ……ねっ!」
言い終わるや藤崎は手駒として持っていた桂馬を盤上に差し向ける。響く駒音。桂馬が絶妙な位置に陣取った。
王手飛車取り。魂のこもった一手だった。
201106121800:ラストをちょっと変えました。
201106100030:後書き追加しました。