SF作家のアキバ事件簿276 ミユリのブログ さよなら秋葉原
ある日、聖都アキバに発生した"リアルの裂け目"!
異次元人、時空海賊、科学ギャングの侵略が始まる!
秋葉原の危機に立ち上がる美アラサーのスーパーヒロイン。
ヲタクの聖地、秋葉原を逝くスーパーヒロイン達の叙事詩。
ヲトナのジュブナイル第276話「ミユリのブログ さよなら秋葉原」。さて、今回は推し変され超能力を喪失したスーパーヒロインの身体に異変が!
突然の荷電、放電を繰り返す身体。死の恐怖に怯える彼女が自らに下す悲しい決断。その時、彼女のトップヲタク、ヲタ友は?
お楽しみいただければ幸いです。
第1章 ミユリのブログ
"殺人音波が私のカラダを貫いたとき、テリィ様は、こう言ったの。
「ミユリさん。僕だけを見て」
あの声が、ホントに私だけに向けられたものなら、良かったのに。
でも、メイド協会のマデラは、こう言った。
「テリィたんは、出禁にしたわ。もし彼が出禁を破ったら、貴女を大阪の全寮制の御屋敷に配属させるつもり」
「そこまでするの?」
「すべてはミユリ姉様とテリィたんを引き離すためよ。そのためなら、私は手段を選ばない」
マデラは本気だった。
そして、その頃。
私の親友スピアも、百合の彼女に告げていた。
「別れてもらいたいの」
恋人たちが別れ、親友たちが離れ、世界は少しずつ、誰かの望む形に組み替えられていく。
それでも、私はまだ知らなかった。
テリィ様の推し変によって失われた超能力が、再び私の中で目を覚まそうとしていることを。"
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
秋葉原。パーツ通り。
雑居ビルの地下にある小さな箱。
ステージでは、スピアがアイドルソング"STOP"を熱唱している。
バックバンドは、ラギィ率いるデキシーランドジャズバンド。
ラギィとスピアは、1本のマイクを挟んで、ほとんど抱き合うような距離で歌っている。
ノリノリのアリーナ。
ノリノリのバンド。
そして、ノリノリすぎる2人。
"STOP!
先に進む前に答えて
私をリアルに愛してる?
リアルに永遠に愛してる?
恋の途中で捨てたりしない?
ガチで幸せにしてくれる?
そして……リアル嫁にしてくれる?"
スピアの歌声が地下空間を揺らす。
テーブル席で、カレルが深い溜め息をつく。
「ねえ、ミユリ姉様。気持ち悪いンだけど」
「どうして?上手じゃない」
「幼馴染が大家さんとデュエットしてルンだぜ?しかも百合だ。気持ち悪いよ」
「百合が嫌なの?」
「そういう問題じゃない!」
カレルは、ステージを指差す。
「エルトン・ジョンとキキだって、あんなにくっついて歌わなかったぞ!」
「エルトン・ジョンはゲイでしょ。それに"UAP"がヒット中の"パンクレディー"は百合じゃないけど、もっとくっついてるわよ」
「なんでそこで"パンクレディー"が出てくるんだよ!」
「カレル、百合がダメなの?AVは百合ばっかりなのに」
「なんでソレを知ってるんだよ!」
カレルは、頭を抱える。
その間にも、ステージの2人は世界を狭めている。
ラギィがスピアの肩に頭を乗せ、求婚の歌を歌っている。
スピアは満面の笑みで、ラギィの顔を意味深な眼差しでのぞき込む。
"今すぐ答えて!
私をガチ愛してる?"
「もう目が腐りそうだ……」
カレルは、席を立つ。
その横では、女性プロデューサーがタブレットを片手にリズムを取っている。
最初は面白半分だったらしい。
しかし、今は違う。
彼女の目は、ステージに釘付けになっている。
「これは……スゴい子を見つけたカモ」
タブレットに、さらに熱心に打ち込む。
そこへ、僕が遅れて到着する。
「ミユリさん、ごめんごめん」
僕は、彼女の額にキス。
「遅かったのですね。どうしたの?」
「図書館に寄ってたんだ」
軽く嘘をつく。
ホントは、マチガイダでチリドッグを食べていたら、インバウンドの巨乳金髪の、しかも母娘に話しかけられて、少しばかり話が長引いて……
図書館とホットドッグ。
ずいぶん違う2つの場所だが、僕の人生では、しばしば位相が重なる傾向がある。
「テリィ様、エアリたちは?」
「今、ハネムーンで熱海」
「マリレは?」
「さあ?」
ミユリさんは、ステージを見つめる。
「スピアにとって、今日は地下デビューを飾る大切なステージです。今夜のために、ずっと前から練習していたのに……誰も来ないの?」
その言葉には、少しだけ寂しさが混じっている。
僕は、ステージを見る。
スピアは、誰も気にしていない。
いや、気にしていないどころか、世界中の人間が自分を見ていると信じているようだ。
「あのノリなら、彼女は何も気づかないさ」
「テリィ様!」
「ごめん。悪かったよ」
「謝る相手が違います」
「……どうしたの、ミユリさん?」
彼女は少し考えてから、僕の手を取る。
「それが……ちょっと体調が悪いの」
「えっ(まさか妊娠?)」
「ヒドいインフルエンザが流行っているみたいです」
「それなら予防接種を受けたよ。港区は無料なんだ。275回目のコロナのワクチンもね」
「まだコロナのワクチン注射をやっているの?」
「とにかく!何でもかかったら大変だから、ミユリさんも気をつけないと。熱、喉の痛み、吐き気。それに、どうしてもヲタ芸を打ちたくなる衝動とか」
「いやーん!やめてください、テリィ様!」
ミユリさんは笑いながら、僕の手を握り直す。
体調が悪いという割には、ずいぶん楽しそうだ。
僕たちは席を離れ、アリーナへ向かう。
テーブルには、食べかけのアメリカンパイが残されている。
その皿を、メイドが片づけようとする。
「あぢっ!」
指先が触れた瞬間、メイドは手を引っ込める。
皿が熱を帯びている。ただ熱いだけではない。
白い陶器が、青白い光を放っている。
次の瞬間。
皿の縁が、グニャリと歪む。
まるで、見えない手で握りつぶされたかのように。
「……なんなの、これ?」
メイドは、変形した皿を見つめる。
周囲の誰も気づいていない。
ステージではスピアが歌い、ラギィが踊り、アリーナは歓声に包まれている。
その真ん中で、ミユリさんは僕に手を引かれ、今はくるくると回っている。
「ミラーマジック!」
僕がふざけて叫ぶ。
「キャハハハハ!」
ミユリさんは笑い、僕にしがみつく。
もう1度、くるりと回る。
彼女の髪が揺れる。
僕の腕をつかむ指に、力がこもる。
そして、ほんの一瞬。
ミユリさんの笑顔が止まる。
何かを感じたように、自分の手を見つめる。
けれど、すぐにまた笑い出す。
「テリィ様、もう1回!」
彼女は、未だ知らない。
失った超能力が戻るとき、それは必ずしも、本人の望む形で戻るわけではないということを。
第2章 夢と放電と面接
ライブ直後のライブハウス。
客が引けたあとのフロアには、熱気と紙コップと、誰かが落としたサイリウムだけが残っている。
カウンター席でジュースを飲んでいるスピアに、ミユリさんが歩み寄る。
「これは私からのおごりよ」
花火を立てたアメリカンパイを、そっとカウンターに置く。
「ありがとう」
「おめでとう。じゃあ、私は帰るわね」
ミユリさんはひらひらと手を振り、去って行く。
スピアが花火を見つめていると、入れ替わるようにラギィが飛び込んで来る。
「スピア!これ、渡しておくわ。今宵のギャラよ」
封筒を差し出す。
「今はまだ少ないけど、貴女の分」
スピアは、封筒を受け取らず首を振る。
「良いのよ。歌えただけで、私には十分だもの」
「そう言うと思った。でも、これは受け取って」
ラギィは、薄い封筒をカウンターに置く。
そして、少しだけ真面目な顔になる。
「ねえ。メンバーとも話したの。全員の意見ナンだけど……スピアさえよければ、これからもずっと、このバンドで歌わない?」
「ホンキなの?」
「もちろん。バックコーラスじゃないわ。デュエットもソロも任せたい。曲も考えてるのよ。ロカビリー風なんか入れたら、面白いんじゃないかって」
「ロカビリー?い、良いんじゃない?」
スピアの返事は、少しだけ詰まる。
「それから、うちの定番曲も何曲かお願いしたいわ」
「そ、それも良いカモ……」
「なによ。自分の好みははっきりしてるのね」
ラギィは笑う。
「で、うちで歌ってくれる?」
「……良いわよ」
「よし!じゃあ、明日からリハ!」
ラギィが拳を握った、そのとき。
「ちょっと、ごめんなさいね」
聞き慣れない女の声が割って入る。
タブレットを手にした女性プロデューサーが、スピアの前に立っている。
「貴女、スゴく良かったわ」
「え?」
「ワラッタ・レコードのドミニよ。私、新人はめったに褒めないの」
スピアが驚いていると、ラギィがすかさず身を乗り出して来る。
「それはどうも!私がリードボーカルのラギィです!」
ドミニは、ラギィを一瞥する。
「そう。バンドもマァ良かったわね」
「YES。スピアが加わって大成功でした!」
「貴女もバンドのメンバーなのね?」
ラギィの動きが止まる。
「……リードボーカルだけど」
「そうなのね」
ドミニは、もうスピアに向き直っている。
ラギィは、目に見えない何かにつまずいたように、カウンターの前でズッコケる。
「で、スピア。あなた、苗字は?」
「えっ?」
突然の質問に、スピアは固まる。
本名を名乗るべきか。芸名で答えるべきか。
そもそも、まだ芸名はナイのだが。
一瞬の沈黙のあと、彼女は適当な苗字を答える。
ドミニは、タブレットにそのまま打ち込む。
「うん。そのまま使えそうね」
「そのまま……?」
「貴女、きっとモノになるわ」
スピアも1発カマす。
「貴女も。そのブーツ、イケてる」
「ありがとう」
スピアは照れくさそうに笑う。
「でも、ちょっと私のこと、過大評価してる気がするわ」
「いいえ。私はトータルメディアを目指すワラッタグループが立ち上げる、芸能・音楽部門のディレクターなの。今、新人を探して秋葉原の地下を回っているトコロ」
ドミニは、スピアをまっすぐ見る。
「貴女は声だけじゃない。そのファッション、その存在感。絶対にイケるわ」
「……ホントに?」
「向こうで、もう少し話せるかしら」
スピアは、ゆっくりと立ち上がる。
「ええ。OK」
ドミニは2人を連れていくのではなく、スピアだけを促す。
すれ違いざま、ラギィの前に名刺を1枚置く。
「あ。これ、どうぞ」
ラギィは、名刺を受け取る。
受け取ってしまう。
渋い顔で。
ドミニとスピアはボックス席へ移動する。
カウンターに1人残されたラギィは名刺を裏返す。
表を見る。もう一度、裏を見る。
「……私、リードボーカルなんだけど」
誰にともなく、つぶやく。
ステージでは、あれほど主役だったのに。
アキバの地下では、アンコールを待たずに主役が交代するコトがあるようだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
御屋敷のバックヤード。
お給仕中のミユリさんに、マデラが声をかける。
「スピアのライブ、どうだった?」
「とても良かったわ。おやすみなさい」
ミユリさんは、手を止めずに答える。
「まだ早いンじゃない?」
マデラは、わざとらしく咳払いをする。
「ところで、大阪から連絡があったの。向こうのメイド長が妊娠して、卒業になったらしいわ。それでメイド長が務まる人を探してルンですって」
「その話は明日にして」
「ミユリ姉様」
マデラの声が、少しだけ強くなる。
「貴女の大阪行きを取り止めたのは、貴女が自分を大切にすると言ったからよ」
ミユリさんの手が止まる。
「貴女は秋葉原のどのメイドより、頭脳にも才能にも恵まれている」
「マデラ、やめてよ」
「だって、ホントでしょ?」
マデラは畳みかける。
「今年はパークリー音楽院の留学試験の面接もある。進学を希望している人が何人いると思う? ほとんどの人が地下アイドルに憧れて、小屋で歌って、いつの間にか夢を諦める。あとは動画を見ながら、昔の自分を懐かしむだけ……」
そのとき。
バックヤードの扉が勢い良く開く。
両手を高く掲げたスピアが、飛び込んで来る。
「契約成立よ!」
ミユリさんとマデラが振り返る。
スピアは息を弾ませ、満面の笑みで叫ぶ。
「私、ロックスターになったわ!」
沈黙。
マデラの口が、わずかに開く。
ミユリさんは、目を丸くする。
「……え?」
「メジャーデビューよ!ワラッタグループの芸能・音楽部門!ドミニっていうプロデューサーが、私の才能を見出したの!」
スピアは、まだ両手を上げている。
「ねえ、聞いてる?私、もう地下アイドルじゃないの!メジャーなのよ!」
「ちょっと待って。さっきまで地下でライブをしていたンでしょ?」
マデラが言う。
「そうよ!」
「それで、今、契約したの?」
「そうよ!」
「……早すぎない?」
「チャンスって、そういうものよ!」
スピアは胸を張る。
すでに次の予定を考えている。
「ねえ、明日から忙しくなるわ。衣装も変えなきゃ。曲も作らなきゃ。あと、サインを考えないと!」
「サイン?」
「そうよ。ロックスターには必要でしょ?」
「……まだ1曲も出していないのに?」
マデラが思わず口を挟む。
「だから、今のうちに考えルンじゃない!」
スピアは得意げに笑う。
御屋敷のバックヤードに、笑い声が響く。
夢の入口を見つけたスピアを、メイドたちが取り囲み、心から喜んでいる。
ただ、誰も気づいていない。
誰かの夢が1つ叶うたびに、別の誰かの運命もまた、静かに動き始めるということを。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
秋葉原カルチャーセンターの遺伝学クラス。
「今日はショウジョウバエの遺伝子について調べます」
センターの遺伝子工学のセンセが、黒板に図を描きながら説明している。
「ある個体群の性質が、世代を経てどのように変化して行くのか。それを突き止めて、みんなでノーベル賞を取りましょう!」
教室に、まばらな笑いが起きる。
その最前列では、ミユリさんがノーベル賞どころか、夢の中で別の世界を探検中だ。
完全に寝ている。
僕は隣から、肘で彼女をつつく。
「ミユリさん」
「……はいっ!」
ミユリさんは、飛び起きる。
「いいえ、テリィ様。私、寝てません。髪の毛が顔に垂れているだけです」
「ヨダレがついてるよ」
「えっ?いやだ、信じられない!」
慌てて口元を拭く。
もちろん、ヨダレはついていなかった。
「ミユリ姉様にテリィたん。何か悩み事かね?」
センセが眼鏡の奥から、こちらを見ている。
センセ、名前を呼ぶ順番が逆だ。
「いいえ。問題ありません」
ミユリさんは、背筋を伸ばす。
「では、ちゃんと遺伝学の授業に集中するんだ」
「はい!」
センセが黒板に向き直る。
その数秒後、ミユリさんの頭が、ゆっくり僕の肩に倒れてくる。hallelujah。
「……ミユリさん?」
「すみません」
彼女は目を閉じたまま、僕の肩に額を押しつける。
「どうしたの?具合が悪い?」
「なんだか、頭がぼーっとして……体も、言うことを聞かないのです」
「初恋かな?」
「やめてください」
弱々しい声だ。
いつものミユリさんなら、ここで僕の脛を蹴るくらいの反撃はしてくる。
今日はそれすらない。
「マデラが、パークリーの面接のことをうるさく言うものですから」
「面接?」
「明後日なのです」
ミユリさんは、溜め息をつく。
「なのに私、何の準備もしていなくて。頑張らなきゃいけないのに、何も考えられないのです」
パークリー音楽院。
地下アイドルたちの間では、音楽学校の名門として知られている。もっとも、世間では「パクリで有名」という、いささか不名誉な評判も存在する。
「面接の準備なら、今からでも……」
「そろそろ授業を始めましょう」
センセの声が、僕の言葉を遮る。
「各自、フラスコを手に取ってください」
ミユリさんは、机の上の器具に手を伸ばす。
その手が、わずかに震えている。
「大丈夫?」
「はい……たぶん」
彼女はフラスコを持ち上げ、机の横に置かれた小さな鏡を見る。
ヨダレを確かめようとしたのだろう。
その瞬間。
ミユリさんの動きが止まる。
鏡に映っていたのは、見慣れた自分の顔ではない。
目がない。
鼻も、口もない。
顔のあるべき場所は、つるりとした肌だけだ。
のっぺらぼう。
ミユリさんは息を呑む。
鏡を持つ手が震える。
もう1度、目を凝らす。
次の瞬間、目も鼻も口も、何事もなかったかのように戻っている。
「……え?」
彼女は鏡から顔を離し、周囲を見回す。
誰も気づいていない。
センセはショウジョウバエの遺伝子について熱弁をふるう。
隣の受講生は、タブレットに何かを打ち込む。
僕だけが、ミユリさんの顔色が急に変わったことに気づいている。
「どうしたの?」
「いえ……何でもありません」
彼女は鏡を伏せる。
自分の顔を、もう一度確かめる勇気がない。
センセの声が遠くなる。
遺伝子。
個体の性質。
世代を超えて受け継がれるもの。
変化。或いは進化。
ミユリさんは、無意識に自分の手を握りしめる。
自分の中で何かが変わっている。
そんな気がする。
けれど、それが何なのかは、未だわからない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
外神田ER。診察室。
ミユリさんはストレッチャーの端に腰掛け、両足をぶらぶらさせている。
子どものような仕草だったが、顔色は晴れない。
トーゴ院長は検査結果を確認中だ。
「ミユリ姉様。白血球の数値は正常ね。細菌性の感染症ではなさそうよ。ウイルス性のものカモしれないわ」
「そうですか……」
「めまいはある?」
「いいえ」
「咳は?」
ミユリさんは首を振る。
「寒気は?」
「ありません」
トーゴ医師は、いくつか質問を続ける。
熱はないか。
吐き気はないか。
食欲はあるか。
いつから調子が悪いのか。
ミユリさんは1つずつ答える。
しかし、質問が続くうちに、医師の顔が妙に近く感じられるようになる。
視界が、ゆっくりと回り始める。
天井が動く。
壁が流れる。
医師の顔が、円を描くように遠ざかっては近づく。
ミユリさんは目をぱちぱちさせた。
「センセ……?」
「どうしたの?」
「センセのお顔が……」
言いかけて、口を閉じる。
今度は、何も起きていない。
トーゴ医師は普通の顔で、こちらを見ている。
「少し、疲れているのカモしれないわね」
そう言って、カルテに目を落とす。
そして、ふと思い出したように尋ねる。
「ミユリ姉様、セックスはしている?」
ミユリさんは、目を丸くする。
「いいえ!私は、そんなこと……」
「正直に話してくれないと、姉様の体を守ることはできないわ」
「守るって、何からですか?」
トーゴ医師は、声を少しだけ柔らかくした。
「メイドさんは、後先を考えずに御主人様と親密になるコトもあるでしょう?愛する御主人様から感染症をもらうコトだってあるのよ」
ミユリさんは答えない。
愛する御主人様。
その言葉が、胸の奥に沈む。
テリィ様の顔が浮かぶ。
額に触れた唇。
握られた手。
くるくる回されて、笑い転げたライブハウス。
あの夜、私は確かに幸せだったけど、その幸せを思い出すと、同時に胸が痛くなる。
テリィ様に推し変され、超能力を喪失。
そう信じている。
ならば今、体の中で起きていることは何?
頭がぼんやりする。
体が思うように動かない。
鏡の中から、顔が消える。
そして今、トーゴ医師の顔まで回り始める。
これは病気なのだろうか。
それとも。
ミユリさんは、ふと遠くを見る。
医師の声が、少しずつ遠ざかっていく。
「ミユリさん?」
呼びかけられても、すぐには返事が出来ない。
窓の外では、電気街がいつもどおりに動いている。
人が歩き、車が走り、ネオンが光る。
何も変わっていない。
変わっているのは、私だけなのかもしれない。
ミユリさんは、膝の上で両手を重ねる。
指先が、ほんのりと熱を帯びている。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
"末広町ガソリン&水素スタンド"のガレージ。
工具箱に腰を下ろしたミユリさんは、じっと自分の両手を見つめている。
「それで、その変な症状ってなんだ?」
カレルがレンチを回す手を止める。
「とにかく体がダルいの。何もスル気が起きないし、何をしても集中できない」
「僕なんか、集中できた試しがナイぞ」
「貴方の話をしてルンじゃないの」
「そうだった。ごめん」
カレルは、悪びれずに工具を置く。
ミユリさんは少し迷ってから、声を落とす。
「それに……幻覚も見るの」
「幻覚?」
カレルの顔から、いつものふざけた笑みがわずかに消える。
「昨日、学校の鏡を見たの。そしたら、私の顔がなかった」
「……顔が?」
「目も鼻も口も。まるで、のっぺらぼうみたいに」
ミユリさんは、自分の頬に触れる。
「ほんの一瞬よ。でも、確かに見たの。私、どうなっちゃったのかしら」
カレルは、答えない。
いつものカレルなら、妖怪の親戚でも紹介してやろうか、とでも言うトコロだ。けれど、目の前のミユリさんは笑い飛ばせる顔をしていない。
「でも、なんで僕に話すんだ?」
「それはホラ……元カレなら、私のコト、少しは知ってるカモしれないと思って」
「俺がか?もしかして、未だ俺に気があるのか?」
「いいえ。あのね、私がほかのスーパーヒロインと違うのは、テリィ様に癒やしていただいたことがあるってコトでしょ?あのときから、私の中で何かが変わった気がするの」
カレルは、腕を組む。
「そういえば、俺もそうだな」
「でしょ?」
「テリィたんのヒーリングパワーに癒やされた経験者だ。つまり、俺たちは同じ治療を受けた仲間ってわけだ」
「それで、何かわかるの?」
「わかる」
カレルは、自信たっぷりにうなずく。
「今、ミユリ姉様はものすごいストレスに襲われている」
「……それだけ?」
「それだけでも大変なんだぞ。俺なんか、ストレスがあるのかないのかもわからないまま、毎日こんな感じだ」
「貴方を基準にしないで」
「じゃあ、これを貸してあげよう」
カレルは、ガレージの隅から1冊の本を取り出す。
表紙には、ありがたい仏像の写真。
"仏陀、悟りへの導き"
「この本はいいぞ。定価1200円。だけど、今ならブックオフで110円だ」
「値段は聞いてないわ」
「大事なことだよ。悟りにもコストパフォーマンスが求められる時代だ」
カレルは、本を差し出す。
「僕はこれを読んで、3分で立ち直った」
「3分?」
「しかも、最初の2分半は値札を剥がしていた」
ミユリさんは、呆れたように本を受け取る。
それでも、表紙に目を落とす表情は少し真剣。
カレルの冗談に付き合う余裕すら、今の彼女にはないのカモしれない。
ミユリさんは、本をガレージの機械の上に置いた。
その瞬間。
バチッ。
耳障りな音がする。
機械の内部で青白い火花が走る。計器の針が激しく振れ、金属の筐体が低く唸る。
「なんだ、今の!」
カレルが飛び退く。
ミユリさんは、反射的に別の機械へ手を伸ばす。
バチバチッ!
今度はカーステレオがショートする。スピーカーから不気味なノイズが漏れ、青い火花が暗いガレージを切り裂く。
2人は凍りつく。
ミユリさんは、伸ばした手をゆっくり引っ込める。
「……私?」
カレルは、壊れた機械と元カノを交互に見る。
「今のは……姉様がやったのか?」
「わからないわ。ただ触っただけなのに」
ミユリさんは、自分の手を握りしめる。
「でも、これ……」
声が震える。
「"雷キネシス"なの?私、また超能力が戻ってきたのかしら」
カレルは、何も言わない。
いつもの調子なら、修理代を請求してやる、とか大騒ぎをしているハズだ。
けれど今、彼の目の前にいるのは、どんな敵にも立ち向かってきた無敵のスーパーヒロインではない。
自分の体の中で何が起きているのか、わからなくなった元カノだ。
「だめよ。まだテリィ様には話せないわ」
ミユリさんは、工具箱から立ち上がったものの、その場を離れようとはしない。
「でも、そもそもテリィたんが姉様にヒーリングパワーを加えたのが発端だろ?」
「わかってる。でも……怖いのよ」
カレルは、黙ってミユリさんを見る。
「テリィ様には、何でも話しているわ。あの方が私を救ってくださったから。それで私たちは恋に落ちたの」
「そ、そうか」
カレルは、視線を落とす。
「それで俺をフッたわけだ」
「ちょっと。今その話をする?」
「今だからするンだよ」
カレルは、笑おうとする。だが、笑顔はうまく形にならない。
「俺だって怖いンだ。冗談でも言ってないと、ブチ切れそうになる」
ミユリさんは、彼を見る。
「……貴方も?」
「そりゃそうさ。俺だって、自分が何者なのかよくわからない。人を笑わせてれば、少なくともその間は、誰も俺に何も期待しないだろ?」
初めて聞く声だ。
いつもの、あの腹立たしいまでの軽薄さの奥に、長いこと隠してきたものがある。
「だから、仏教の本を?」
「いや、あれは110円だったから」
「もう……」
ミユリさんは、思わず笑う。
ほんの一瞬だったが、さっきまでの張り詰めた表情が少しだけ緩む。
カレルも笑う。
その笑いは、いつものように自分を大きく見せるためのものではない。昔、大好きだった眼差し。
「何なら、俺からテリィたんに話そうか」
「絶対にやめて」
「即答かよ」
「でも……ありがとう」
カレルは、肩をすくめる。
「ただ、黙ってるのはマズいと思うよ。姉様の体に何が起きてるのか、僕にはわからない。でも、わからないことを1人で抱え込んだら、余計に怖くなるだろ」
ミユリさんは、答えない。
テリィ様に話してしまえば、何かが変わってしまうカモしれない。
話さなければ、もっと取り返しのつかないことになるカモしれない。
どちらを選んでも、以前の自分には戻れない気がする。
「……そうね。少し考えてみる」
ミユリさんは、出口へ向かう。
「じゃあ、行くわ。ありがとう、カレル」
「いや、良いンだ。姉様」
彼女がガレージを出かけたとき、背後からカレルの声が呼び止める。
「姉様」
振り返るミユリさん。
カレルは、いつものふざけた顔をしていない。
「姉様は1人じゃない。何かあったら、いつでも電話してくれ」
ミユリさんはしばらく彼を見つめ、それから小さくうなずく。
「ありがと」
彼女は、歩き出す。
ガレージには、ショートした機械、壊れたカーステレオ、焦げた匂いが残っている。
「……110円じゃ、元には戻らないよな」
カレルは、腕組みして溜め息をつく。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
神田リバー沿い。
西陽が差すマリレのアパート。
玄関のドアが開く。
両手いっぱいの買い物袋を抱えたマリレが、よろめきながら入ってくる。袋には、大量のジャンクフードとアメリカンパイ。ぎっしり詰まっている。スーパー"blood LINE"のロゴが、安っぽい勝利宣言のように揺れている。
ソファに座っていたスピアが立ち上がる。
「スピア、来てたの?昨日はごめんなさい。バイトでライブに行けなくて」
「良いのよ。食べていくためには、いろいろ働かないとね」
マリレは、買い物袋を床に置く。
「ねえ、話があるの」
スピアがぴょんぴょん飛び跳ねる。
「ちょっと待って。まず冷凍食品を何とかしないと」
「みじめな生活ね」
「そうね。貴女の華やかな生活とは違ってね」
「そうじゃなくて!」
スピアは、マリレの腕をつかむ。
「レコード会社の人が、私の歌を聴いて仮契約してくれたの!」
マリレは、冷凍食品を仕分けながら顔を上げる。
「だから?」
「費用は全部向こう持ちで、テスト盤を作ってくれルンだって。ねえ、信じられる?」
「いいえ」
「そこは信じなさいよ!」
「だって、貴女の話だもの」
「ヒドい!ぷんぷん」
スピアは、頬を膨らませる。
「こんなコト、私には絶対に起こらないと思ってた。もう夢みたいな話なのよ!」
興奮したスピアが抱きつこうとすると、マリレは素早く買い物袋をかばう。
「触らないで。ポテトサラダが潰れるでしょ?」
「私とポテサラとどっちが大事なの?」
「今日のトコロはポテサラ」
「最低!」
スピアは抗議したが、すぐに真顔になる。
「ねえ、バカみたいだけど……その話を聞いたとき、私、真っ先に思ったのよ。マリレに早く伝えたいって」
マリレの手が止まる。
「それが、バカみたいなコトなの?」
「ち、違うわよ。言葉のアヤ。とにかく、真っ先に貴女に伝えたかったの、私は」
スピアは、少しだけ視線を落とす。
「表で2時間も待ったンだから」
「2時間?」
「そうよ。連絡したら仕事中だって言うし、帰って来るまで待っていたの」
マリレは、買い物袋の山を見る。
「……その間、ずっと?」
「そうよ」
「私が帰ってきたら、冷凍食品の仕分けを手伝うつもりで?」
「そんなワケないでしょ!」
「じゃあ、何のために待ってたのよ」
スピアは、答えに詰まる。
やがて、観念したように笑顔をコボす。
「……貴女に、1番に聞いて欲しかったから」
マリレは、小さく息を吐く。
「ソレは良かったわね。おめでとう」
その1言で、スピアの顔がぱっと輝く。
「マリレ!」
飛びつくスピア。
今度はマリレも、ポテトサラダを守らない。
「やったわ!MTVに出演よ。これでいよいよメジャーデビュー!」
「スゴいじゃない」
「もっと言って!」
「おめでとー」
「もう1回!」
「おめでとう、スピア」
スピアは、マリレの頬にキスをする。
1度。2度。3度目で、マリレが顔を背ける。
「ちょっと、調子に乗らないで」
「嫌だった?」
「そーゆー問題じゃないわ」
「じゃあ、どーゆー問題?」
マリレは、答えない。
代わりにスピアの腰を引き寄せる。
今度はマリレからキスをする。
2人は、冷凍食品の袋をハデに蹴散らしながらソファに倒れ込む。
床では、大量のアメリカンパイの箱がひっくり返っている。
「ねえ、スピア」
「なあに?」
「これって、復縁じゃないからね」
「もちろんよ!」
スピアは即答する。
「私たちは、ただの友だちだもの」
「そうよ。ただの友だち」
マリレもうなずく。
そして、もう1度キスをする。
冷凍食品の完全解凍まで、あと30分。
2人の友情には、もう少し時間が必要だ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
御屋敷のバックヤード。
衣装ラックの前で、スピアが思い切りド派手なメイド服を胸に当てている。
その隣で、ミユリさんは深い溜め息をつく。
「姉様!ヨリが戻ったっていうワケじゃないのよ」
「それ、2人の共通の見解かしら?」
「もちろん。元に戻る気がないのは、マリレだってわかってるハズだわ。私たちは、もうただの友だちなの」
「それは……スゴい友情ね」
ミユリさんは、衣装ラックから黒のパンツスーツを引き抜く。
「これにしたら?」
「そんな、ヲバさん臭くてだめよ」
「貴女の言うメジャーデビューって、衣装審査もあるンじゃないの?」
「だからこそよ。ねえ、こーゆーのはどうかな?」
スピアが取り出したのは、セクシーな黒のタンクトップだ。
それを自分の体に当て、鏡の前でくるりと回る。
「これならステージ映えするでしょ。MTVのカメラだって、私を見逃さないわ」
ミユリさんは、何か言いかける。
しかし、その言葉が喉の奥で止まる。
ふと、身体の奥に奇妙な感覚を覚える。
胸の内側を、見えない電流がなぞっていく。
ミユリさんは、顔を上げる。
スピアの姿を、まじまじと見つめる。
「……姉様?」
スピアが首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや……」
ミユリさんは、自分の手を見る。
何も起きていない。
けれど、確かに何かが変だ。
「ねえ、スピア。実は話があるの」
「でもね、姉様。これって、きっと偶然じゃないって思うのよ」
「……何が?」
「マリレと別れてから、私の未来が開けたの!」
スピアはタンクトップを胸に当てたまま、熱弁を始めた。
「考えてみてよ。時空漂流者問題から解放されるや否や、メジャーのレコード会社から声がかかって、MTV出演まで決まった。年末の黒白歌合戦も夢じゃないわ。もう最高!」
「そうね……」
ミユリさんは、小さくうなずく。
「マリレは、やっぱりさげチンだったのよ」
「貴女ねえ……」
「違う?」
スピアは真顔だ。
「私、急に自分の人生を取り戻したって感じがするの。ずっと何かに振り回され続けて来たのに、今は違う。私は、生き返った。自分の人生を取り戻したのよ、なう」
ミユリさんは、黙って彼女を見る。
実は、そうなのカモしれない。
「ねえ、ミユリ姉様。聞いてる?」
「聞いてるわよ」
「じゃあ、どう思う?」
ミユリさんは、黒のタンクトップとスピアの顔を交互に見る。
「……そのブーツを合わせたら?」
「でしょでしょ?私もそう思ってたの!」
スピアは、満面の笑みで衣装ラックを漁り始める。
ミユリさんは、最後のチャンスに賭ける。
「ねえ、スピア……」
「ミユリ姉様!こっちのブーツはどう?」
「……(どーでも)良いカモ」
ミユリさんは、言葉を飲み込む。
スピアは、構わず鏡の前でポーズを決めている。
「メジャーデビューしたら、衣装代も経費で落ちるのかな?」
「契約内容に拠るンじゃない?」
「じゃあ、マリレに聞いてみようかしら」
「貴女、さっき別れたって言ったばかりでしょ」
「別れたわよ。だから、友達として相談するの」
「便利な言葉ね。ただの友だちって」
スピアは、聞こえないフリ……
いや。実際、何も聞こえていないのだ。
ミユリさんは、溜め息をつき窓の外に目を向ける。
夕陽が、神田リバーの川面を黄金色に染める。
誰かの人生が動き出す一方で、自分の中でも得体のしれない力が動き始めている。
そのことを、未だ誰にも話せずにいる。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
麻布十番にある"スタジオ二十番"。
内装に使われている木材は、秋葉原のメイド喫茶とは値段からして違う。天井は高く、壁には高級な吸音材。調整卓には、マリレのアパートなら家賃何年分になるのか見当もつかない機材が並ぶ。
その中央で、スピアが生ギター1本抱えて歌う。
彼女の勝負バラード"貴女は引力"。
"天使みたいなあなたの微笑み
でも、微笑むと悪魔になる
私をリアルへと引き戻す"
目を閉じ、リズムを取る女プロデューサーのドミニ。調整卓のエンジニアは、身を乗り出している。
"私たちは半分うまくいって
後の半分はギクシャク
そんな悪夢の日々
まるで白昼夢
優しいあなたを愛して
冷たいあなたをもっと愛して
おおお おおお
だから、私はダメなのね
昨日は待っててくれたのに
今日は帰れと貴方は言うのね
そんな波瀾万丈の恋
私をまた引き戻すのね
重力の井戸の底に
貴方は引力"
最後のコードが、スタジオの静寂に溶ける。
ドミニは目を閉じたまま、しばらく動かない。
エンジニアが調整卓のつまみを戻す。
「……良いな」
その1言で、スピアの顔が弾ける。
「ホントですか?」
「ガチ。今のテイク、残しておいて」
エンジニアは頷き、ヘッドフォンを外すと、興奮を隠しきれずに調整卓を離れて煙草を吸いに行く。
ドミニが椅子を回し、スピアと向き合う。
「スピア。ひとつ聞いてもOK?」
「はい!」
「貴女、アル中?」
「まさか!」
「ドラッグは?」
「いいえ!」
「そう。私は全然構わないんだけど、上の連中が貴女に聞けって言うの」
「なんでですか?」
「才能のある子は、いろいろ面倒だから」
ドミニは書類をめくる。
「貴女には全国の腐女子のお手本になってもらわなきゃいけないの。トシはいくつ?」
「永遠の17才です」
ドミニの手が止まる。
「……あと3年、それで通して」
「3年後は?」
「そのとき考えるわ」
スピアが笑う。
そのとき、スタジオのドアが勢いよく開く。
「スピア!」
メイド服姿のマリレが飛び込んで来る。
「マリレ?」
2人は駆け寄り、まずキスをする。
1度。2度。3度目で、ドミニが咳払い。
2人はようやく離れる。
「ごめんなさい。順調かどうか気になって、つい来ちゃった。日比谷線で」
マリレは、ドミニに向き直る。
「あ、私はマリレです」
「ドミニ・クレサよ」
ドミニは顔も向けず、差し出された手を握る。
握手は1秒で終わる。
少しだけ手を宙に残すマリレ。
「マリレは私の、なんていうか……」
スピアが言いよどむ。
マリレは、期待するように顔を上げる。
「ヲタ友です」
「ヲタ友?」
ドミニが初めて顔を上げた。
「はい。私の歌をずっと応援してくれてルンです」
マリレの笑顔が、ほんの少し固まる。
「……そう。私たちは、ヲタ友ね」
「ねえ、マリレ。今、大事な話をしてルンだけど」
「うん。わかってる」
マリレは、スタジオを見回す。
「良いスタジオね」
天井を見上げ、調整卓を眺め、壁に貼られた音響機材のメーカー名を読む。
自分のアパートにある壊れかけのラジカセと同じ音楽を鳴らす機械とは思えない。
「そうね」
ドミニは、あっさり話を戻す。
「で、スピア。いつ出発出来る?」
「出発?」
スピアの目が丸くなる。
「どこへ行くんですか?」
「もちろん、五反田よ」
一瞬、時が止まる。
「……ホントに?」
スピアが身を乗り出す。
「東京のブロードウェイだわ!」
「まだ決まったわけじゃないわ。今日の音源をプロデューサーが気に入れば、向こうでデモを録音してテスト盤を取る」
「いつまで五反田にいるンですか?」
「最高にうまくいけば、永遠ね」
ドミニは平然と答える。
「次に秋葉原へ帰ってくるのは、何かの式典にゲストで呼ばれるときかしら」
「式典……!」
スピアは、胸の前で両手を握りしめる。
五反田。
メジャーデビュー。
式典のゲスト。
言葉のひとつひとつが、彼女を別の世界へと運ぶ。
その隣で、マリレがポカンと口を開く。
「……ホントに五反田に行けるの?」
誰に向けた質問なのか、自分でもわかってない。
「どうしたの?」
ドミニが鋭い目で振り向く。
「何か問題でも?」
「とんでもない!」
マリレは、慌てて手を振る。
「問題なんかあるワケないじゃない!」
「そうよね」
ドミニは、うなずく。
スピアも、うなずく。
マリレも、つられてうなずく。
3人の頭が、同じタイミングで上下する。
ただし、うなずく理由は3人とも違う。
ドミニは、契約の可能性に。
スピアは、未来の栄光に。
マリレは、何が決まったのカモよくわからないまま、2人が喜んでいるから。
「じゃあ、話を進めましょう」
ドミニは、書類に目を落とす。
「スピア、今後のスケジュールは私から説明するわ。レッスン、撮影、プロモーション。忙しくなるわよ」
「はい!」
「連絡先はマネージャー経由。勝手に予定を入れないこと。外で騒ぎを起こさないこと。それから、恋愛関係は」
ドミニはそこで初めて、マリレを見る。
「仕事に支障が出ないように」
「もちろんです!」
スピアが元気よく答える。
マリレは微笑む。
「……良かったね、スピア」
「ありがとう、マリレ!」
スピアは、再び抱きつこうとしたが、ドミニが書類を差し出す。
「まず、これを確認して」
スピアはマリレから離れ、書類を受け取る。
2人の間に、紙が1枚挟まる。
その紙には、未だ何も決まっていない未来が、びっしりと印刷されている。
マリレはスタジオの隅に置かれたギターを見る。
自分が知っているスピアは、狭い部屋で歌い、バイトの愚痴を言い、冷めたジャンクフードを食べる腐女子だ。
そのスピアが今、見たこともない機材に囲まれ、知らない大人たちに未来を決めてもらっている。そして今、自分を「ヲタ友」と紹介する。
もちろん、恋人ではない。
本人たちがそう言っているのだから、間違いない。
マリレはメイド服の裾を直す。
「ねえ、スピア。私、そろそろ帰るわ」
「え?もう?」
スピアが振り返る。
「うん。お仕事の邪魔をしたくないから」
「そんなコトないわよ!」
スピアはそう言いながらドミニの書類を覗き込む。
「このスケジュール、すごい……!」
マリレは微笑む。
「頑張ってね」
「うん!絶対に成功するから!」
「うん」
マリレは、もう1度うなずく。スタジオのドアを閉める直前、スピアの声が聞こえる。
「ドミニさん、五反田って、秋葉原から近いんですか?」
ドアが閉まる。
マリレは、廊下に立ち尽くす。
「……ヲタ友か」
マリレは、つぶやく。
そして、メイド服のポケットからスマホを取り出してスピアに「おめでとう」とメッセージを送ろうとして、やめる。
さっき、もう言ったから。
画面を閉じ、歩き出す。
麻布十番の夕暮れは、秋葉原より何もかも少しだけ高級に思える。
なぜ?マリレはその理由を考えながら、帰りの電車賃を確認する。
夢には翼がある。
ただし、帰りの電車賃まではついていない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ランジェリーフットボールの地下スタジアム。
観客席に1人、ミユリさんが座っている。
グラウンドではチアリーダーたちがフラッグの練習をしている。色鮮やかな旗が宙を舞い、揃いのミニスカがくるくる回る。
そこへ僕が歩み寄る。
「あ、テリィ様。何か?」
「いや、別に」
ミユリさんは、僕を見上げた。
「チアガールの中に元カノでもいるのですか?」
「いないよ!」
即答する。
「じゃどうして?」
「いや、その……練習熱心だなと思って」
「フラッグの?」
「もちろん!」
僕は、鞄から一冊の本を取り出す。
「それより、面接の準備だ。これを読んで、一緒に練習しておくと良いと思って」
"面接準備の手引き"
ミユリさんに本を渡す時、ふと彼女は別の本を読んでいたコトに気づく。何だ?"仏陀"?
「ありがとうございます」
「さあ、練習だ。パクリ音楽院の志望動機は?」
「はい。14才のとき、ハルト教授の記事を読みました。アンダルシア進行を教えている有名な教授ですが、それを読んでスパニッシュコードについての考え方が変わりました。音楽って、こんなに面白いんだなって」
ミユリさんは夢見るように語る。
横顔が、キラキラ輝いている。
僕は見惚れる。美しい。
聡明で、才能があり、夢に向かって努力している。
しかも、僕のことをテリィ様と呼んでくれる。キスも上手だ。できれば、このまま永遠に志望動機を語っていて欲しい……
「……テリィ様?」
「えっ?」
「聞いていますか?」
「いますとも!」
僕は、咳払いする。
「では、自分の長所を3つ挙げてください」
「テリィ様。どうして手伝ってくださるの?」
「どうしてって……」
「パクリ音楽院に合格したら、私、五反田へ行ってしまうのですよ?」
僕は一瞬、言葉に詰まる。
そうだ。
合格すれば、ミユリさんは僕の手の届かない五反田へ行ってしまうのかもしれない。
それでも。
「わかってる。でも、それがミユリさんの夢なんだろう?」
ミユリさんは、黙って僕を見つめる。
「じゃ、じゃあ、今までで1番後悔したコトは?」
「……え?」
「あれ?まだ気分が悪いの?」
ミユリさんは額に手を当てる。
「ええ、ちょっとだけ。でも、面接のことで緊張しているせいかと」
「そうか。緊張はよくない。深呼吸して」
「ねえ、テリィ様。私、もう帰ります。もうすぐ御屋敷のナイトシフトだし。今日はどうもありがとうございました」
「ミユリさん、待って」
立ち上がろうとしたミユリさんの身体が、ふらりと傾き、僕の胸元に倒れ込んで来る!
おおおおお!
キター!
ついにキター!
ミユリさんが僕の胸に!
hallelujah!
できれば眼帯とか包帯とかしてくれていれば、もっとこう、厨二的に完璧ナンだが!
いや、待て。
何を考えているんだ、僕は。
「大丈夫?」
「ええ……大丈夫です。なんでもありません」
しかし、ミユリさんは僕の胸元から頭を離そうとしない。ますますBlabo!
「やっぱり、インフルエンザみたいです。今日は帰って寝ることにします」
「そ、そうだね。無理は良くない」
ミユリさんは、僕に寄りかかったまま、よたよたと床に手をつく。
その瞬間。
ボッ!
足元に落とした面接準備の本が、突然、自然発火して、青い焔を上げる。
「うわあああっ!」
僕は、飛び退く。
火柱だ。リアル炎上。
紙が萌え、表紙がめくれ、焔が噴き上がる。
「なんだこれ!なんだこれ!」
僕は、慌てて上着で叩き、どうにか火を消す。
焦げ臭い煙が漂う。
ミユリさんは青ざめた顔で、自分の手を見つめ、その視線を僕に向ける。
「……テリィ様」
「まさか……」
僕は、焼け焦げた本を見下ろす。
「まさか、僕の愛の焔が物理的に発火したのか?」
「違います」
即答だ。
「実は、私の超能力が戻ってきたのです」
僕は、凍りつく。
「そ、そーなのかな?」
「でも……」
「腐女子の超能力への覚醒って、確か処女と同じで喪失は1度きり……」
「テリィ様!」
「いや、理論上はそういうことになってルンだが!」
「いいえ。テリィ様も目にしたでしょう?」
ミユリさんは、真剣な眼差しで僕を見つめる。
「テリィ様に癒やされる度、私は、超能力が戻るみたいです」
僕は、黙る。
さっきまで浮かれていた自分が、急速に現実へ引き戻されて逝く。彼女から妊娠を告げられた気分だ。責任、拘束、生活。ヲタクの3大NGワードが、まるで走馬灯のように…
ミユリさんの身体に、何が起きているのか。
僕には、わからない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
万貫森。
僕とマリレは、スコップを振るっている。
後ろにはケッテンクラートが停車している。
「ねえ、テリィたん。いくらマデラがうるさいからって、何もこんなところに"スーパーヒロイン取扱マニュアル"を埋めることないでしょう?」
「うるさいなあ。黙って掘れよ」
「トマト銀行の貸金庫に隠せばよかったのに」
「銀行じゃダメなんだよ」
僕は、スコップを地面に突き立てる。
「ミユリさんの身体の変化について、マニュアルに何か描いてあるカモしれないんだ」
「もう何回も読んだでしょ?」
「念のためさ。見落としがあるかもしれないからね」
「何も描いてなかったら?」
「知ってる人を探すまでだ」
マリレは、スコップを止める。
「テリィたん。ミユリ姉様のことだからって必死になるのはわかるけど、少しは落ち着いて。そうしないと姉様を助けるコトにならないカモ」
「落ち着いてなんかいられるか!」
僕は、声を荒らげる。
「とにかく、騒ぎを起こさないこと。わかった?」
「危険を冒したって、今度は良いンだ」
「……何ですって?」
「今度は、絶対に助けルンだ」
僕は、スコップを握り直す。
「ミユリさんが苦しんでいるのに、その治療法がわからない。もしダメだったら?もっと悪化したら、ミユリさんはどうなる?」
マリレは、黙って聞いている。
「僕は、いつも失敗を重ねてきた。でも、今度は……ミユリさんの問題だけは許されない。絶対に、なんとしても助ける」
僕は、大きく息を吸う。
「僕は彼女を助けルンだ。もう良い。僕1人でやるから」
スコップを地面に突き立てる。
ザクッ。
もう1度。
ザクッ。
さらにもう1度。
ザクッ。
マリレは呆れたように僕を見ていたが、やがて小さく溜め息をつく。
「まったく……」
彼女は、スコップを置く。
そしてケッテンクラートへ戻って逝く。
勝手にしろ。
遠くでカラスが鳴く。
カア。
カア。
カア。
僕は1人、穴を掘り続ける。
そうだ。これは僕自身の戦いだ。
誰にも頼らない。
誰にも迷惑をかけない。
僕がミユリさんを救う。
そのためなら、どんなことだって。
「テリィたん」
振り返ると、マリレがもう1本のスコップを持って立っている。
「そっち、土が固いから。少し右を掘って」
「……マリレ?」
「何よ」
「戻ってきたのか?」
「ほかに誰がいるのよ」
マリレは、僕の隣に立って、スコップを地面に突き立てる。
ザクッ。
「姉様を助けたいんでしょ?」
「……うん」
「だったら、掘るわよ。口ばっかり動かしてないで」
僕は、マリレを見つめる。
ありがたい。
ホントに、ありがたい。
けれど、ここで感謝の言葉を述べると、また何か余計なことを言ってしまいそうだ。
だから僕は、黙ってスコップを動かす。
ザクッ。
マリレも掘る。
ザクッ。
2人のスコップが、同じリズムで土を掘り返す。
やがてマリレが、ぽつりと言う。
「ねえ、テリィたん」
「なんだ?」
「これ、マニュアルが見つかったら、ちゃんと元に戻すんでしょうね?」
僕は、手を止める。
「……もちろん」
「ホントに?」
「……たぶん」
マリレは、僕を睨む。
「たぶんじゃダメでしょ!」
森に、僕の悲鳴が響く。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
秋葉原カルチャーセンター。
パークリー音楽院から出張してきた面接官は、きちんと背広を着こなし、穏やかな笑顔を浮かべている。
向かいの席にはミユリさん。
今日のために準備した志望動機も、想定問答も、脳内整理は完璧だ。
「では、ミユリさん。志望動機を聞かせてください」
「はい。14才のとき、ローラ・ホルト教授の記事を読みました。ぜひ、教授から直接学びたいと思ったのが契機です」
「ローラは素晴らしい教授ですよ。貴女なら、きっと多くのことを学べるでしょう。ところで、音楽院を卒業したあとは……」
その瞬間だ。
すうっ、と音が遠のく。
面接官の声が、水の底から聞こえるようにボケる。
ミユリさんは、目を見開く。
「……?」
頭をブルブルと振る。
聞こえない。
面接官はまだ何か話している。口元は動いている。穏やかな笑顔も変わらない。
なのに、声だけがない。
「どうしましたか?」
突然、声が戻る。
「す、すみません。聞き落としてしまいました。もう1度お願い出来ますか?」
「もちろんですよ」
面接官は嫌な顔ひとつせず、ゆっくりと言い直す。
「音楽院を卒業したあと、どのような進路を考えていますか?」
唇の動きを追う。音楽院。卒業。進路。言葉はわかる。質問の意味もわかる。
だが、音が聞こえない。
ミユリさんの笑顔が、少しずつ固まっていく。
「……大丈夫ですか?」
「はい!もちろん、大丈夫です!」
大丈夫ではない。
「質問を、もう1度お願いします」
面接官は一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻す。
「ええ。卒業後は、秋葉原に残って活動される予定ですか?それとも……」
秋葉原。
その言葉を最後に、景色が遠ざかり始める。面接官の顔が小さくなる。デスクが遠くなる。
窓も、壁も、天井も、まるで誰かが部屋全体をゆっくりと後退させているかのようだ。
「…………」
ミユリさんは口を半開きにしたまま、面接官を見つめている。
「ミユリさん?」
はっ、と我に返る。
「あ、はい。ええと……それについては、未だわかりません」
「そうですか」
面接官は怪訝そうに眉を動かしたものの、穏やかにうなずく。
「進路は、入学してからゆっくり考えても良いですからね。それでは、当音楽院では実技と理論の両面から……」
ぐるん。
目の前が回る。
ぐるん、ぐるん。
面接官の顔が回転木馬のように回り始める。
いや、違う。
回っているのは面接官ではない。
部屋だ。
机も、椅子も、壁も、全部がぐるぐる回っている。
声は完全に消えている。
ミユリさんは、両手を前に突き出す。
「……っ!」
何かを拒むように、激しく手を振る。
「ミユリさん?どうされました?」
聞こえない。聞こえない、聞こえない。
「いやっ、いやあああっ!」
ミユリさんは、勢いよく立ち上がる。
椅子がガタンと後ろにずれる。
そのまま椅子の背後に回り込み、身を隠す。
「ひゃああああっ!」
面接官は凍りつく。
目の前には、椅子の背から半分だけ顔を出し、怯えたように両手を振っている受験生。
ついさっきまで、ローラ・ホルト教授について立派に語っていた秋葉原のメイドである。
面接官は、ゆっくりと眼鏡を押し上げる。
「……あの。ミユリさん?」
ミユリさんは、椅子の陰から恐る恐る顔を出す。
部屋の回転が止まっている。
音も戻っている。
面接官は、心配そうに立ち上がる。
「どうしたんですか?気分が悪いんですか?」
「す、すみません。ホントに失礼しました」
ミユリさんは椅子から離れ、何事もなかったかのように背筋を伸ばそうとする。
しかし、顔は引きつり、足元もおぼつかない。
「これ……どうも……」
言葉の続きを探すが、適切なものが見つからない。
体調不良です。
緊張してしまいました。
少し、頭がおかしくなったようです。
どれも違う気がしたし、どれも正しい気がする。
「申し訳ありません」
ミユリさんは、椅子を元の位置に戻す。
きちんと、まっすぐに。
こんなときでも、椅子だけは正しく戻さなければならない気がしたから。
そして面接官に向かって、深々と頭を下げる。
「ホントに、申し訳ありませんでした」
大きく息を吸う。
もう1度、吸う。
3度目は、少しだけ震える。
「……失礼します」
ミユリさんは、出口へ向かう。
背中はまっすぐだ。ドアが閉まる。
静寂。
第3章 夢にはプロデューサーがついてくる
御屋敷。
ホールにスピアが御帰宅すると、カウンター席で食事中だったラギィが冷やかす。
「どうしたの? おしゃれして。デート?」
「違うわよ。レコード会社のドミニが歓迎会をしてくれるんだって」
「ああ、そうなの」
ラギィは、再び皿に向き直る。
フォークを動かす手が、ほんの少しだけ止まる。
「私、みんなにお礼を言わなくちゃ。ライブで歌わせてくれたおかげだもの」
「お礼なんていらないわよ。あなたがうまかった。それだけ」
「ラギィもね。でも、ありがとう」
「どういたしまして。自分でも、良いステージだったと思ってるわ」
ラギィは、ようやく笑う。
ただし、口元だけだ。
スピアは、小さく溜め息をつく。
「私、大事な何かを奪っちゃった気がするの」
「何も奪ってないわよ」
ラギィは、フォークを置く。
「こんなチャンス、これから何度あると思う?ちゃんと両手でつかみなさい。私だったらそうする」
「……そうね」
「それに、メジャーの世界って厳しいんでしょう?今のうちに歓迎会くらい楽しんでおきなさい。いつか売れたら、歓迎会が送別会になって、送別会が解散ライブになるんだから」
「縁起でもないこと言わないでよ」
「芸能界の先輩からのありがたい助言よ」
「ラギィ、まだメジャーに行ってないでしょう?」
「だからこそ、夢と現実の両方を語れるの」
ラギィは、立ち上がる。
「それじゃ、音合わせに行ってくるわ」
「バンドのみんなによろしく伝えて。頑張ってね」
「ありがとう」
ラギィは手を振り、出口へ向かった。
その背中は、いつもより少し小さく見える。
ラギィには、音合わせがある。
スピアには、レコード会社の歓迎会がある。
同じ音楽を愛しているはずなのに、いつの間にか、集合場所が違っている。
スピアは、そのことに気づきかけている。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
御屋敷のキッチン。
スピアが顔を出すと、マリレは鍋の前で料理をしている。視線が合う。
「何か用?」
「呼び出してごめん」
「私、時間がないの。話なら1分で済ませて」
「うん。実は、ジェシが来るの」
「……どういうこと?」
「契約の相談に乗ってもらおうと思って。レコード会社との契約書、法律に詳しい人に見てもらった方が良いと思って」
マリレは笑顔だ。
「なんで、そんなことを?」
「五反田へ引っ越してから、何かあったんじゃ手遅れだから。騙されたりしないように。スピアのことが心配なの」
「ちょっと待って」
スピアは、マリレを見る。
マリレは、スピアを見て、鍋を見る。
それから、またスピアを見る。
「私が心配?」
「うん」
「契約書を?」
「そう。ああいう人たちは、条件の小さい文字に大事なことを描いてたりするから。ジェシに確認してもらえば安心でしょ?」
「……ああ、そう」
マリレは、お玉で鍋をかき回す。
ぐるぐる。
具材が回る。
スピアの頭の中も、だいたい同じだ。
マリレは、気づかずに続ける。
「だから、ジェシが来るまで少し待っていて」
「待って」
振り返るマリレ。
「貴女、私たちがどーゆー関係になったのか、覚えてる?」
マリレの表情が曇る。
「……覚えてるわよ」
「私たちは別れたの。もう私の面倒を見なくて良いの。だって、私たちは、もう終わったんだから」
「でも、貴女のコトが心配なの」
「だから、それよ!」
スピアは、思わず声を上げる。
「どうして、終わった相手の面倒をいつまでも見ようとするのよ!」
マリレは1度、唇を噛む。
そして、聞きたくなかった言葉を口にする。
「……じゃあ、この間のことは?」
「この間?」
「私たち、寝たでしょう」
スピアは、目を伏せる。
「あれは……」
「何の意味もないセックスだったの?」
「そんなことないわ!」
スピアは、慌てて顔を上げる。
「最高だったわ。貴女と一緒にいられて、ホントにうれしかった。意味がないなんて思ってない」
「じゃあ、何なのよ」
「その……あのときは、自然な流れだったというか。お互いの気持ちが、そうなったというか……」
「つまり?」
「つまり……」
スピアは、困ったように笑う。
「私、ちょっと舞い上がってたのかもしれない」
マリレの顔から、表情が消える。
「……舞い上がってたから、私と寝たの?」
「マリレ、そういう意味じゃ」
「もう良いわ」
マリレは、首を振る。
「私の勘違いだった。忘れて。気にしないで」
鍋の中で、何かが煮立つ。
ぼこっ。
まるで、鍋の神様が会話に相づちを打ったようだ。
スピアは、1歩近づく。
「ねえ、マリレ」
「何?」
「応援してくれる?」
マリレは、答えない。
代わりに、お玉を持ち上げる。
「……料理中なの。見ればわかるでしょ」
「うん」
「焦げるから、もう行って」
「わかった」
スピアは、少しだけ笑う。
「ありがとう」
「まだ何も言ってないでしょ」
「でも、聞いてくれたから」
マリレは、鍋に向き直る。
「……ばか」
スピアは、キッチンを出て逝く。
その足音が遠ざかる。
マリレは、お玉を握ったまま動かない。
やがて、そっと戸口を振り返る。
誰もいない。
「……応援くらい、するわよ」
声は、鍋の中に消える。
マリレは、息を呑む。
言えなかった言葉。
応援している。
売れてほしい。
夢をかなえてほしい。
でも、出来ることなら
私の知らない世界へ、行かないで。
鍋の中では、料理が煮え続けている。
夢は、誰かを遠くへと連れて逝く。
残された者は、その背中を見送りながら、いつもと同じ食事を作り続ける。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
御屋敷のバックヤード。
「突然呼び出してごめんなさい。お仕事があルンでしょう?」
ミユリさんは、申し訳なさそうに言う。
カレルは、椅子を引き寄せる。
「いいよ。力になれるなら喜んで」
「ほかに相談出来る人がいなくて……」
「スピアがいるだろう?」
「でも、まだ話してないの。レコード会社との契約やら、夢がかなうやらで大変なのよ。きっと今度のチャンスに賭けていルンだわ」
カレルは隣に座り、そっと彼女の肩に手を置く。
「それで、君の方は?」
「今のところ、特に症状は出ていないけど……」
ミユリさんは、少し迷ってから続ける。
「でも、カレルがテリィ様に癒やされたのは、私の1年後でしょう?だから何か起きるとしても、1年後なんじゃないかって」
「そうそう。つまり、俺には1年の猶予があるわけだ」
カレルは、笑う。
「その間に、保険に入っておこうかな。超能力特約付きの生命保険ってないのかな?」
「ふふっ。そんな保険、あるわけないでしょう」
「だよね。あったら俺が真っ先に加入するよ。保険会社が潰れる前に」
2人は笑う。
久しぶりに、ミユリさんの表情が和らぐ。
そのとき。
コン、コン。
窓を叩く音。
2人が振り返ると、窓の外に僕がいる。
「……テリィたん?」
僕は窓を開けて、天体望遠鏡をよけながら部屋に入ろうとして……望遠鏡の三脚に足を引っかける。
ガタン!
「うわっ!」
「何やってるんだよ、テリィたん」
「いや、窓から入った方が気分だと思って」
「玄関から入れよ。ヲーナーだろ?」
「それはそうなんだけど」
僕は、望遠鏡を立て直したら……何をしに来たのか、もう忘れている。
「……ミユリさん、見せてやれよ」
カレルが促すと、ミユリさんは、もこもこのセーターの袖口から手を出す。
その瞬間、僕の顔から笑いが消える。
両腕に沿って、血管のような筋を走る電光。
ビシッ。
ビシビシッ。
青白い光が、皮膚の下で脈打っている。
「……痛むのか?」
「ええ。まあ、時々」
僕は、彼女の隣に腰を下ろす。
光を見つめる。治まる気配はない。
「ミユリさん……」
彼女は、怯えた目で僕を見上げる。
「私、死ぬのでしょうか?」
息が止まる。
今度ばかりは言葉が出て来ない。
カレルも唇を噛む。
ミユリさんは、僕の顔から視線をそらす。
窓の外で、天体望遠鏡が静かに夜空を向く。
誰も、その先に答えを見つけられない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
麻布十番。"スタジオ二十番"。
「OK?今から、あの伝説のプロデューサー、アダメが来るわよ!」
ドミニは、鏡の前でグロスをセッセと塗り直す。
塗る。
唇を合わせる。
鏡を見る。
もう1度塗る。
本日の主役はスピアのはずだが、ドミニのメイクだけはすでに全国ツアーの初日級だ。
「もし気に入ってもらえれば、貴女の成功は間違いなし。レコード退賞だって夢じゃないわ!」
「レコード退賞……」
スピアは、思わずつぶやき、夢見心地だ。
「ちょっと、何してるの?」
ドミニが彼女の手元を見て目が三角になる。
「それ、何?」
「ユーカリのオイル。リラックスしようと思って」
「すぐしまって!」
「えっ?」
「変な匂いがするの。アダメは香りに敏感なのよ」
「ユーカリって、そんなに変な匂いかしら」
「そういう問題じゃないの!今日は音楽業界の歴史が動く日なのよ!」
ドミニは鏡に向かって、最後のひと塗りを施す……と同時に、まるで測ったように扉が開く。
「やあ、大衆!」
アダメが入って来る。
片手を軽く掲げ、誰も求めていないのに、勝手にポーズを決める。
ドミニの顔がぱっと輝く。
「アダメ!」
さっきまでの業務用ボイスとは、明らかに違う。
高い。
甘い。
ほとんど黄色い。
「ドミニ!」
2人は抱き合う。
アダメはドミニの腰に手を回し,当然のようにお尻をプルプルと撫でる。
スピアは目をそらす。
これは歓迎なのか、業界の伝統芸能なのか。
判断がつかない。
しかし、ドミニは大喜びしている。
「もう、アダメって最高!超ホットだわ!」
「貴女だって!」
「さあ、アダメ。この子がスピアよ!」
ドミニは、まるで高級ブランドの新作バッグを紹介するようにスピアを差し出す。
「おはよーございます」
「おはよー」
アダメはスピアをひと目見て、鷹揚にうなずく。
「それで?」
「それで、って?」
「曲は?」
「もちろん、用意してあります!」
ドミニは、急に仕事の顔に戻る。
ただし、口元にはまだ恋する乙女の余韻が残る。
アダメは胸の谷間から細長い棒のようなものを取り出し、前歯と前歯の間に差し込む。
歯と歯の間をクシュクシュと掃除して歯垢を取る。
「じゃあ、聞かせて」
「ええ!」
スピアはデモ音源を準備する。
「"STOP"という曲です。元カレとの別れを歌っています」
「元カレ?」
アダメは、歯垢を取りながら言う。歯垢は大漁だ。
「良いじゃない。別れは売れるわ」
「そうなの?」
「恋愛は永遠。でも、別れはもっと永遠なのよ」
ドミニが感激する。
「さすがアダメ!ヤバいわ!」
「あら、今のは適当に言っただけ」
「そこが天才なのよ!」
気を良くしたアダメは、スピアのスマホを受け取ると、コンソールにつなぎ片目をつぶる。
「実は、ちょっとアレンジして来たの」
「もう?神アレンジ、キター」
「天才は時を待たない」
アダメは再生ボタンを押す。
ドン!
バキバキバキッ!
激しい破裂音がスタジオを襲う。
続いて、猛烈なテクノポップが炸裂。
電子音が走り、低音が床を揺らし、元カレへの未練が工事現場の重機みたいな音に変換されて逝く。
スピアは固まる。
「……これ、私の曲?」
「キてるでしょ?」
キ過ぎてる。
「ボーカルをリミックスして、バックにいくつか音をかぶせてみたの。まだ少しパワーに欠けるけど、エッジは効いてるハズ」
カタカナを並べ立てる。
「そうかな……」
スピアは、首を傾げる。
元の曲は、失恋した腐女子が静かに元カレとの別れを決意する歌だ。
今、スピーカーから流れているのは、失恋した女性が巨大ロボットに乗り込み、元カレのアジトを破壊しに行くような音楽だ。
しかし、ドミニはすでに別の世界に浮遊。
「素晴らしいわ!大ヒット間違いなし!」
「そうね。絶対よ」
アダメは、鷹揚にうなずく。
ドミニは、スマホを抜く。
「もしもし、私よ!アダメがすっかり乗り気なの!GOよ!全部GOでお願い!」
スマホを切る。
すぐに次の番号へ。
「ええ、そうなの!この子はきっと売れるわ!」
さらに次へ。
「プロモーションは前倒しで!そう、今すぐ!」
スピアは、いつの間にか自分のデビューが決まっていくのを聞いている。
自分の知らないところで。
自分の意見を聞かれることもなく。
自分の曲が、自分の曲ではなくなっていく。
「……あの」
スピアが口を開く。
ドミニはスマホしながら、親指を立てる。
「やったわ!最高よ!」
「でも、これ、ラブソングなのに」
「そうよ!」
ドミニは、スマホを切り、満面の笑みを向ける。
「このアレンジなら、みんな盆踊りで踊れるわ!」
スピアは、ゆっくりと目を閉じる。
元カレとの別れが、盆踊りになっている。
しかも、まだ別れていない人まで踊り出しそうだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
"二十番スタジオ"。その後。
アダメは、仁丹を口に放り込む。
「じゃあ、あとはよろしく」
「ありがとう、アダメ。マジありがとう!」
ドミニは、両手を握りしめる。
アダメは軽く手を振り、颯爽とスタジオを去る。
扉が閉まる。
ドミニはピアノに寄りかかり、満足げに息を吐く。
「……さて」
スピアを振り返る。
「貴女は、何が気に入らなかったの?」
「いえ、そんな。別にそういうワケじゃ……」
「正直に言って良いのよ」
スピアは、迷う。
「私が期待していたのは、もっと大人の歌詞というか……これじゃ、まるで地下アイドルの歌う盆踊りソングみたいで」
「その通り!」
ドミニは、即座に答える。
「えっ?」
「アニソンの次は盆踊りが来る。これが、わが社のマーケティング部門の結論よ。貴女、ウチのマーケを何で知ってるの?個人情報と一緒に漏洩したのかしら……」
ドミニは、誇らしげに胸を張る。
「アニメで若者をつかみ、盆踊りで地域社会をつかむ。つまり、秋葉原から町内会まで、全世代を一網打尽にする経営戦略なの!」
絶句するスピア。
町内会。
その言葉だけが、なぜか耳に残る。
「でも、私は……」
「スピア」
ドミニは、声の調子を変える。
「貴女は、自分自身のことを曲に書いた。そうでしょう?」
「はい」
「それが素晴らしいの。加えて、貴女にはルックスがある。上を目指すガッツもある。才能だって少しだけ感じるわ」
「だったら……」
「でもね、音楽性に関してはプロに任せるべきよ」
ドミニは、言い切る。
スピアは、口を閉じる。
「私の仕事は、売れるアーティストを探すこと。可能性のある才能を見つけて、世の中に送り出すことなの。貴女は、その可能性を持って世に生まれた」
ドミニは、指を1本立てる。
「そして、ウチの会社は貴女に大金を投資する。宣伝費、制作費、プロモーション費。貴女が知らないトコロで、たくさんのお金が動くのよ」
「……つまり?」
「投資する側の意見も聞いてほしい、ということ。口も出すわ。それが世の中の仕組みなの」
「じゃあ、私は……ただのマーケティングに乗った商品なんですか?」
「違うわ!」
ドミニは、力強く言う。
「貴女の才能を信じているからこそ、貴女を商品にするのよ!」
同じだわとスピアは思う。
ドミニは、少しだけ考える。
「……あら。今の言い方、ちょいマズ?」
「かなりマズ」
「そうね。広報には気をつけるように言うわ」
ドミニは、咳払い。
気を取り直し、take 2。
「良い?貴女が自分の音楽を大事にしていることはわかる。でも、夢をかなえるには、時には妥協も必要なの」
「……」
「納得できないなら、もう1度良く考えて。せっかくのチャンスよ。逃しても良いの?」
スピアは、答えない。
目の前には、デビューへの道が開けている。
レコード会社。
大物プロデューサー。
レーザーが飛ぶステージ。
大勢の観客、踊りの輪。
そして、いつか自分の名前が大きく掲げられる日。
そのすべてが、もう手の届くところにある。
ただし、そこへ行くには、自分の歌を少しずつ手放さなければならない。
「本気で、このチャンスに賭けてみる?」
ドミニは、静かに言う。
スピアは、ゆっくりとうなずく。
「……考えます」
「ええ。それが良いわ」
ドミニは、微笑む。
「大丈夫。貴女なら生き残れる」
その言葉は、励ましのようにも聞こえ
契約条件のようにも聞こえる。
スピアは、もう1度うなずく。
スタジオのスピーカーから、さっきの曲が小さく流れている。
ドン、バキッ、ドドドドッ。
別れの歌は、まだ誰とも別れていない彼女を、知らない場所へ連れ去ろうとしている。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
夜のパーツ通り。
街灯の下に、スピアが立っている。
そこへ、マリレがやってくる。
キッチンから抜け出してきたらしく、キッチンメイドのコスプレのママだ。頭にはフリル付きのカチューシャ。手には、なぜかお玉が一本。
「何よ。こんな時間に呼び出して」
「ごめんね」
「今度はSF映画にでもスカウトされたの? "宇宙からのマッサージ"とか?」
「何それ」
「知らないわよ。ちょっと古かったかしら」
スピアは笑わない。
マリレは、お玉を持ったまま眉を上げる。
「……何があったの?」
「あなたが心配していた通りだった」
「何が?」
「レコード会社よ。私をティーン向けの盆踊りアイドルに仕立て上げるつもりなの」
「盆踊り?ウケる」
即答だ。
「ちょっと、笑い事じゃないのよ」
「だって、メジャーデビューよ?良かったじゃない。夏祭りで全国の町内会を制覇するのが、貴女の夢だったンでしょ?」
「そんな夢、1度も語ったコトないわ!」
「じゃあ、なんでそんな契約を?」
「まだ契約はしてない!」
「おお。そこは偉い」
マリレは、お玉を軽く振る。
「で、私に何の用?」
スピアは、街灯を見上げる。
「私のラブソングを盆踊りに作り替えられたの。ショックだったのょ!」
「でしょうね」
「大きなチャンスを逃すかもしれない」
「そうね」
「誰かに話を聞いて欲しかったの」
マリレは、しばらくスピアを見つめる。
それから、溜め息をつく。
「つまり、こーゆーコト?」
「何?」
「夢のために私を捨てたくせに、今度はその夢まで捨てようとしている。だから、私に相談に乗ってほしい、と」
「……何も、そんな言い方しなくても」
「じゃあ、どう言えば良いのよ。"お帰りなさいませ、夢迷子のお嬢様"って?」
「マリレ」
「ごめんなさいね。キッチンメイドなもので。御給仕の台詞しか思い浮かばないの」
マリレは、頭のカチューシャを直す。
フリルが街灯の下で揺れる。
「OK?私は貴女を秋葉原に引き留めたい。正直に言えば、五反田なんか行かないでほしい」
スピアが顔を上げる。
「だったら」
「でも、私がそう言って、貴女が夢を諦めたら?」
マリレの声が少しだけ低くなる。
「いつか貴女は、私のせいで夢を諦めたって思うでしょ?私は、貴女の夢を潰した人間にはなりたくない」
「そんなこと……」
「ないって言える?そりゃ今は言えるでしょうね」
マリレは、お玉を脇に抱える。
「だから、もう帰ってくれる?」
スピアは、黙る。
「私、ほかに相談出来る人がいないの」
「ヲタ友なら他にいるでしょ?」
「誰よ」
「……そこは自分で考えなさいよ」
「ミユリ姉様は、全然電話に出ないし」
マリレの表情が変わる。
「え?」
「何?」
「姉様、電話に出ないの?」
「何度かけてもね。忙しいのかと思ってた」
マリレは、1歩近づく。
「……それじゃ、何も知らないの?」
「何のこと?」
マリレは、唇を結ぶ。
ほんの一瞬、迷う。
「姉様、死ぬカモしれないのよ」
スピアの顔から、血の気が引く。
「……え?」
街灯が、ジジッと音を立てる。
スピアの手から、バッグが滑り落ちる。
今度はマリレも、冗談を言わない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
裏アキバに広がる万貫森。その夜。
森の上を、黒い雲が流れて逝く。
地面にはミユリさんが横たわっている。
そのお腹に、僕は両手を当てている。
ブラとボトムの間の"ボディ絶対領域"。皮膚の下を青白い光が走り、ビリビリと電気が弾けている。
「"スーパーヒロイン取扱マニュアル"によれば……」
僕は、傍らに広げた古いメタル製の本を確認する。
「この石は、いわば超振動のコンデンサーで、エネルギーを蓄え増幅するコトが出来る」
「それで?」
カレルが尋ねる。
「つまり、僕にあるのかないのか、いまだに判然としない"ヒーリングパワー"を増幅すれば、ミユリさんの異常を消せるカモしれない」
カレルは、僕を見る。
「……それ、ホントか?そうマニュアルに描いてあるのか?」
「いや。マニュアルの説明と僕の能力の類推を組み合わせた、僕なりの解釈だ」
「それを世間では、思いつきって言うンだよ」
「今は、科学と勇気が必要なんだ!」
「科学はどこにあるの?」
「このマニュアルだ!」
カレルは、メタルのページをめくる。
「おい、ブックオフの値札が貼ってあるけど」
「110円の20%ヲフだった!」
「安いね!」
「安くても、知識は知識だ!」
僕は、顔を上げる。
「……たぶん」
ミユリさんの四方に、電極メカを配置する。ケッテンクラートのヘッドライトが、森を照らし出す。
「では、俺は何をすれば良い?」
カレルが尋ねる。
「下がっていてくれ」
「手伝わなくて良いのか?」
「とても危険だからな」
「何が危険なの?」
「僕にもわからない!」
「それ、いちばん危険な奴だな」
僕は、聞こえないフリをする。
いや、精神を集中させる。
ミユリさんのお腹に手を当てる。
電極が明滅を始める。
ピカッ。
ピカピカッ。
バチッ!
「……よし。反応している」
「姉様、大丈夫?」
カレルが身を乗り出す。
「下がっていてくれ!」
「でも、苦しそうだよ!」
「効いている証拠だ!」
言ってから、僕は一瞬だけ不安になる。
ホントにそうなのだろうか。
しかし、今さら不安を口にするワケにはいかない。
僕は、ミユリさんのTOだ。
いつだって、何とかする。
否、何とかしたコトになっている。
その違いを考えるのは、治療が終わってからだ。
ミユリさんのお腹から、強い光が漏れる。
「うっ……!」
彼女の身体が、地面から浮かび上がる。
「おおっ!」
僕は、思わず声を上げる。
1番驚いている。
「成功か?」
カレルが叫ぶ。
「いや、未だわからない!」
「じゃあ、喜ぶな!」
「全くだ」
ミユリさんの身体が宙に浮いたまま、震え始める。
「痛い……」
その声に、僕は彼女の顔を見る。
「大丈夫だ。すぐに終わるから」
「……だめ」
「もう少しだ」
「テリィ様、もうやめて」
僕は、手を離せない。
「頑張るんだ。効いているから」
「ダメです……もう、ギブアップ」
カレルが駆け寄ろうとする。
僕は、片手で制する。
「来るな!」
「テリィたん!」
「僕を信じてくれ、ミユリさん。あと少しなんだ!」
ミユリさんの顔が歪む。
「……もう、ヤメて!」
次の瞬間。
バチバチバチバチッ!
電極が一斉に火花を散らす。
閃光。
轟音。
そして……
ストン。
ミユリさんの身体が地面に落ちる。
僕は、反動で後ろにひっくり返る。
「うわああっ!」
背中を打つ。痛い。
だが、そんなことを言っている場合ではない。
ミユリさんは床に四つん這いになり、わんわんポーズで荒い息を繰り返す。
僕は、起き上がろうとする。
「ミユリさん……」
「もう、私を傷つけるのはヤメて」
その声に、身体が止まる。
恐らく心臓も止まったに違いない。
「……え?」
ミユリさんは、顔を上げる。
「貴方は、いつもそうよ」
「ミユリさん、今のは治療で」
「貴方は、私を傷つける」
僕は、言葉を失う。
彼女の腕には、まだ青白い電流が走っている。
だが、その目に浮かび、訴えているのは、身体の痛みだけではない。
「……なぜ、ティルと寝たの?」
森から音が消える。
僕は、見えない壁にぶつかったように固まる。
「ミユリさん……」
「どうして寝たの?」
「それは……」
「貴方から子供の話を聞かされる度に、私は思い出すのよ」
ミユリさんの声が震える。
「貴方に、どんな仕打ちをされたのか。どれだけ傷ついたのか」
「違うんだ。あれは」
「何が違うの?」
彼女は僕を睨む。
「貴方は私を裏切っておいて、どうして平気でいられるの?」
「平気なんかじゃない!」
僕は、叫ぶ。
「僕だって、ずっと……」
言葉が続かない。
ずっと、何だ?
後悔していたか?
苦しんでいたか?
彼女を愛していたか?
どれもリアルだ。
だが、どれも彼女の傷を消す言葉にはならない。
「ミユリさん、頼む。そんなふうに言わないでくれ」
「もう、私に近寄らないで」
彼女は、後ずさる。
「私に触らないで」
僕は、手を伸ばす。その手を見て、ミユリさんは怯えたように身を引く。
「やめて!」
僕の手が止まる。
「貴方は、私を傷つけるわ」
「違うよ。わかってくれ。僕は、君を助けたくて……」
「助ける?」
ミユリさんは、首を振る。
「貴方は、いつも自分が助ける側だと思っているのね」
僕は、息を呑む。
目の前にいるのは、ホントにミユリさんなのか?
「私が何を感じているか、何を怖がっているか、聞こうともしないで。いつも貴方は貴方が正しいと思ったコトを、私に無理強いする」
「……」
「私が嫌だと言っても、いつも、もう少しだって。僕を信じてくれって」
ミユリさんの頬に、手が触れる。
涙だったのか、汗だったのか。
彼女自身にも、わからなかったのかもしれない。
その瞬間、腕から激しい電光が走る。
バチンッ!
「テリィたん!もうやめるんだ!」
カレルが僕に飛びかかる。
僕は、地面に押し倒される。
「やめろ!彼女を殺す気か!」
「違う!僕は……!」
「じゃあ、何なんだよ!」
カレルの声が森に響く。
僕は、答えられない。
ミユリさんは、荒い息をつきながら僕を見ている。
その目は、責めている。怒っている。
そして、ひどく悲しそうだ。
僕は、彼女の視線に、少しずつ切り刻まれて逝く。
いつものように冗談を言うことも出来ない。
理屈を並べることも出来ない。
窓から逃げ出すコトさえ、出来ない。
ミユリさんが、震える声で言う。
「……もう、貴方を信じられない」
僕は、地面に手をついたまま動けなくなる。
森の上を、黒い雲が流れて逝く。
僕が増幅させたのは、彼女を癒やす力だったのか。
彼女がずっと心に抱えていた痛みだったのか。
"スーパーヒロイン取扱マニュアル"には、どちらだとも描かれていない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
末広町の水素スタンドから借りてきたクレーン車が、御屋敷の前に停車する。
運転席から降りてきたカレルは、助手席のミユリさんに声をかける。
「バックヤードまでついて行こうか?」
「いいえ。1人で大丈夫よ」
ミユリさんはシートベルトを外す。
「私……テリィ様を責めてしまったわ」
カレルは静かにうなずく。
「そうだね」
「抑えられなかったの。ずっと我慢してきたのに、全部吐露してしまった」
「ぶちまけてたね。途中から、僕もどこに立っていれば安全なのかわからなかったよ」
「カレル……」
「いや、冗談。半分くらいは」
ミユリさんは小さく笑いかけ、すぐにうつむく。
「私、どうしたら良いと思う?」
「テリィたんだって、きっとわかってくれるよ。あんな極限状態だったンだ。ほとんど譫言みたいなモノさ」
「でも、あれはホントの気持ちだったの」
「……そうか」
「ずっと隠していたのに。もう、取り消せないわ」
ミユリさんは、自分の手を見つめる。
袖口の下には、まだ微かな光が残っている。
「私、あの人に知られたくなかった。あんなことを思っていたなんて」
カレルは少し考えてから言う。
「でも、ずっと隠したままでも、いつか苦しくなったンじゃないかな」
「そうかもしれないわ」
「だったら、今は自分を責めないこと。テリィたんのことは心配しなくて良い。今は自分のことだけ考えルンだ。わかったね?」
ミユリさんは、うなずく。
「ありがとう、カレル」
「どういたしまして。僕もたまには、役に立つんだよ」
「たまには、ね」
「そこは否定しないで欲しかったなあ」
カレルは、苦笑する。
「さあ、帰ってゆっくり寝るんだ。今夜は超能力も残業禁止」
ミユリさんは、車を降りる。
「おやすみなさい」
「おやすみ。何かあったら呼んで」
クレーン車がゆっくり走り去っていく。
ミユリさんが御屋敷の入口に目を向けると、そこに1人のメイドが立っている。
スピアだ。
「……スピア?」
スピアは駆け寄ってくる。
「何も知らなかったの。ごめんね」
ミユリさんは、驚いた顔をする。
それから、ゆっくり首を振る。
「貴女が謝るコトじゃないわ」
「でも……」
「少し、話しても?」
スピアは、うなずく。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
パーツ通りのベンチ。
人通りは途絶え、電気街のネオンだけが眠らない街を演じている。
メイド服の2人が並んで座っている。
傍らには、ハートを1本の矢が貫くネオン管。
恋愛成就を祈るには、少々物騒な意匠だ。
「ホントにごめんね」
スピアが言う。
ミユリさんは首を振る。
「謝るコトなんかないのよ」
「ミユリ姉様が苦しんでいたのに、私、何も知らなかった」
「だから、スピアまで苦しめたくなかったの」
「2度とやめて」
ミユリさんが顔を上げる。
「え?」
「そういうの。私たちは親友でしょう?気を遣わないで。隠し事もなし。わかった?」
「……わかったわ」
「よろしい」
スピアは、満足げにうなずく。
「これで親友契約は更新ね。違約金は、今度の食事1回でいいわ」
「ずいぶん安いのね」
「パーツ通り価格だから」
2人は笑う。
だが、スピアはすぐに表情を引き締める。
「でも、スピア。デビューのチャンスは逃しちゃだめよ」
「姉様……」
「貴女なら売れる。私はそう思ってる」
スピアは、ネオン管のハートを見上げる。
「ただ、どうしても納得出来ないの」
「どうして? 少しくらい妥協すれば良いじゃない。大人になれば、誰だって多少は我慢するものよ」
「ポリシーがあるの。安売りはしないわ」
「じゃあ、コスキャバで働きながら、同僚にそう自慢すれば良いわ」
「姉様、結構きついコトを言うのね」
「親友だからね。御主人様には言わないわ」
スピアは、吹き出す。
ミユリさんも笑う。
やがてミユリさんは、スピアの顔をまっすぐ見る。
「スピア。貴女は秋葉原のどんな地下アイドルよりも、ずっと才能があるわ」
「……誰よりも?」
「YES。誰よりも」
ミユリさんは、きっぱりとうなずく。
「だからこそ、考えて欲しいの。いちばん大事なポリシーだけ守って。ほかは全部妥協するのよ」
「それって、結局妥協するってコトじゃない?」
「そうよ。人生は妥協の連続なの。私たちなんか、メイド服を着ている時点で妥協よ」
「ちょっと、それは違うでしょう!」
「違うかしら?」
「違うわよ!」
スピアは、笑いながら首を振る。
「……でも、もしここで諦めたら、一生後悔すると思う」
ミユリさんの声が、少しだけ真剣になる。
「貴女は歌うべきよ。貴女の歌を聴きたい人が、きっといるから」
スピアはうつむく。
「姉様を置いて、五反田へ行くコトになるのよ?」
「私は大丈夫」
「でも……」
「ホントよ」
ミユリさんは、スピアの手を握る。
「私の人生まで、貴女が背負わなくて良いの。貴女が私を心配してくれるのはうれしい。でも、貴女が夢を諦めたら、今度は私が貴女を傷つけるコトになる」
スピアは、唇を噛む。
「……わかった」
長い沈黙のあと、彼女は顔を上げる。
「明日、ドミニに言ってくるわ」
「何て?」
「どうぞ私を食い物にしてください、って」
「ちょっち!」
ミユリさんが思わず声を上げる。
「もう少し言い方がアルでしょ?」
「だって、そういうコトなんでしょ?売れるために、売れる形に変わる。だったら、せめて自分が何を差し出すのかくらい、わかっていたいの」
ミユリさんは、何も言わずにスピアを見つめる。
「……それに」
スピアは空を見上げる。
「なんで人生って、こんなに複雑なのかしら。魔法が使えたら良いのに。どこか別の、素敵な場所に行けたら……」
「パリのカフェとか?」
「うーん……」
スピアは、目を閉じる。
「やっぱりジャマイカよ。真っ青な海。熱い砂がつま先に触れて、遠くからレゲエが聞こえてくるの。誰も私に契約書を持って来ないのよ」
「いいわね、それ」
ミユリさんも目を閉じる。
「私はそこで、何もしないで1日中寝ていたいわ」
「姉様、超能力で海を沸騰させないでね」
「貴女こそ、歌声で島を吹き飛ばさないでよ」
2人は妄想で、ジャマイカの浜辺に並んで座る。
契約書も、病気も、超能力も、裏切りもない。
ただ、青い海があって、熱い砂があって、風が吹いている。
「……少し、気が晴れたわ」
ミユリさんが言う。
「私も」
スピアは笑う。
2人は同時に顔を向ける。
ゴツン!
額と額がぶつかる。
「痛っ!」
「ちょっと、何するのよ!」
「そっちこそ!」
2人は額を押さえたまま、笑い出す。
笑い声が、夜のパーツ通りに響く。
ネオンのハートは、相変わらず矢に貫かれている。
その下でメイド2人は、もう1度親友に戻る。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
御屋敷のバックヤード。
窓の外にある、身をひとつ動かすのも窮屈なベランダ。僕はそこで、ミユリさんの帰りを待っている。
仲直りの作戦は、脳内にある。謝る。話を聞く。2度と傷つけないと約束する。順番まで考えてある。
ドアの音がする。
ミユリさんが帰って来る。
意外にも、晴れ晴れとした顔だ。少し前までの苦しみが嘘のように、何かを吹っ切った人の顔。
だが、僕を見つけた瞬間、その表情が凍りつく。
「テリィ様……。何してるの?」
声に戸惑いが混じる。
「困ります」
まるで、自宅の窓の外にストーカーが立っていたのを発見した被害者のような目だ。110番寸前。
僕は、どんな顔をしていたろう。
「電話したのに」
「スピアと話してました」
「何かあったのかと思って」
「大丈夫です。じきにマデラが上がってくる頃だから……」
その瞬間だ。
ミユリさんの体が大きく跳ねる。
見えない電流が全身を駆け抜けたように、肩が震え、指が硬直する。彼女は窓枠にすがり、苦しげに喘ぐ。
「ミユリさん!」
僕は、窓に駆け寄る。
彼女は僕を見ていない。視線は遠く、僕のいる場所よりも、もっと遠い何かを見つめている。
それでも、言葉を絞り出す。
「だから……お願いです。もう帰って」
「でも、心配なんだ」
「大丈夫です。2日で元気になります」
2日。その言葉に、すがりつきそうになる僕。
2日待てば良い。2日経てば元に戻る。だが、彼女が言っているのは、体の不調が治るまでの時間であって、僕を許すまでの時間ではない。
「ミユリさん、お願いだ」
僕は、手を差し伸べる。
彼女は、怯えた目をして身を引く。
その目を見た瞬間、息が止まる。
悲しそうだ。僕を憎んでいるというより、僕に近づかれることを恐れている。僕の手が、彼女を救う手ではなく、もう1度傷つける手に見えている。
僕は、窓ガラスに顔を近づける。
「この前、君に言われたコトが、ずっと気にかかっているんだ。ちゃんと話し合おう。僕は……」
言葉を探す。
何を言えば良いのだろう。
君の気持ちを聞きたい。
君を傷つけたくない。
君を失いたくない。
どれも嘘ではない。
けれど、どれも結局は、僕が望む結末へ彼女を連れ戻すための言葉ではないのか。
考えれば考えるほど、僕の口は余計なコトを言い始めてしまう。
「僕を閉め出さないでくれ」
ミユリさんの手が、窓の取っ手にかかる。
「いつまでも君の心の中にいたい」
自分でも、何を言っているのか分からない。
いつまでも心の中にいたい?何だソレ?
それは愛の告白のつもりだったのか。だが、彼女が僕の心の中から出ていこうとしている時に、僕は自分だけは彼女の心に居座らせてくれと頼んでいる。
なんという身勝手なお願いだ。
僕の目に涙が浮かぶ。
「僕たちは……どうなるんだ?」
ミユリさんは、しばらく僕を見つめている。
やがて、小さく答える。
「もう1度、考えてみます」
一瞬、希望が戻る。
けれど、次の言葉が、その希望を静かに打ち消す。
「私1人で」
ミユリさんの頬を涙が伝う。
彼女は、窓を閉める。
音は、驚くほど小さい。
僕と彼女の間に、ガラス1枚の境界が出来る。
僕は、窓の外に立ち尽くしたママ涙をこぼす。
ガラスの向こうでも、ミユリさんが泣いている。
目が合う。
彼女の顔には、取り返しのつかないコトをしてしまった人の表情がある。僕を傷つけたくなかったのカモしれない。窓を閉めたコトを、もう後悔しているのカモしれない。
それでも、彼女は窓を開けない。
僕は、ようやく理解しかけている。
彼女が僕を嫌いになったから、窓を閉めたのではない。
僕を好きだった時間まで、なかったことにしたくないからこそ、今は僕を入れられないのだ。
そう思うコトさえ、僕にとって都合の良い解釈なのカモしれないが。
僕は、ベランダの非常はしごに足をかける。
1段。また1段。
パーツ通りのネオンが近づいてくる。地上では、いつものアキバが何事もなかったように光っている。誰かが笑い、誰かが客を呼び、どこかの店から電子音が漏れている。
世界は、失恋ひとつで営業停止などしない。
地面に降り立って振り返ると、窓の向こうにミユリさんがいる。
口を少し開け、冷めた目で僕を見下ろしている。
もう泣いてはいない。
その目には、何かを決めた人の静けさがある。
僕は、彼女の視界の中を、ゆっくりと歩き出す。
第4章 暗闇の向こうへ
御屋敷。1階のホール。
帳簿と格闘しているマデラの前に、2階のバックヤードからミユリさんが降りて来る。
いつもの彼女なら、何かひとこと冗談を言うところだ。けれど、今日は違う。足取りは静かで、目には迷いの後に残る決意がある。
「マデラ」
顔を上げるマデラ。
「ミユリ姉様。どうかしたの?」
「私、決めたわ。全寮制の学院型メイドカフェだけど、行ってみようと思うの」
マデラは、手にしていたペンを置く。
「そうなの。決心したのね?」
ミユリさんは、小さくうなずく。
マデラは立ち上がり、彼女の肩を抱き寄せる。そして、そっと額にキスをする。
「大丈夫。姉様なら、どこへ行っても姉様よ」
その言葉に、ミユリさんは一瞬だけ目を閉じる。大丈夫。そう言ってくれる人がいるコトと、ホントに大丈夫であるコトは、少し違う。
それでも今は、その言葉を信じてみたい。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
御屋敷のバックヤード。
開いたスーツケースの中に、ミユリさんは衣服や小物を詰めている。いつも使っていたモノをひとつ手に取っては、しばらく眺め、また荷物に戻す。
何を持っていけば良いのだろう。
何を置いていけば良いのだろう。
荷造りというのは、未来に必要なモノを選ぶ作業に見えて、実は過去をどこまで持っていくかを決める作業なのカモしれない。
最後に部屋を振り返る。
ここには、笑った日も、泣いた日も、超能力が暴走した日もある。テリィと過ごした時間も、もちろん。
忘れたいわけではない。
ただ、ここにいるママでは、自分の気持ちさえ自分のモノに出来なくなりそうだ。
ミユリさんは、スーツケースを閉じる。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
グランド末広町ステーション。
上海行き地底超特急の出発ホームには、地上の秋葉原とは別の時間が流れている。
発車案内には、最初の停車駅"最新大阪"。
上海へ向かう地底超特急は、先ず大阪に停まる。
この世界では、それを不思議に思う乗客は誰もいない。地下鉄の路線図が宇宙の地図より複雑になって久しい。
座席に腰を下ろしたミユリさんは、便箋を広げる。
しばらくペンを持ったママ何も描けない。
やがて、ゆっくりと描き始める。
"テリィ様。
覚えていらっしゃいますか?
普通じゃなくて良いって、私たち、
話しましたね。
あの言葉に、私はずいぶん救われました。
普通でなくても良い。誰かと違っていて良い。
貴方が、そう私を認めてくださった日から、
私は私でいられるようになりました"
ペン先が止まる。
"でも、今は少し違います。
今の私は、自由が欲しくなりました。
そして、普通であるコトも必要になったのです。
超能力も、使命も、誰かを救うことも、
いったん脇に置いて。何を食べたいのか、
どこへ行きたいのか、誰と会いたいのか。
そんな当たり前のことを
自分で決められるようになりたいのです"
リニアの低い振動が、足元から伝わってくる。
"アキバから離れて、テリィ様からも離れて、
自分の人生を見つめ直したいのデス・スター。
こんな言い方をしたら、また変なことを言う
そう思われるカモしれませんね。
でも、私をわかって欲しい。
そして、どうか私を嫌いにならないでください"
最後の1文を描いて、ミユリさんはペンを置く。
本当は、嫌いにならないで欲しいのではない。
出来るコトなら、好きなママでいて欲しい。
けれど、それを願うコトと
そばに居続けるコトは、等価ではない。
彼女は便箋を折り、封筒に入れる。
そのとき、発車ベルが鳴る。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
翌朝。御屋敷のホール。
僕は1通の手紙を手に、呆然と立ち尽くしている。
間違いなく、ミユリさんの字だ。
何度も読み返す。読み返すたびに、描かれていない言葉ばかりが目に入る。
どうして、もっと早く気づかなかったのだろう。
どうして、彼女が何を望んでいるのか、聞こうとしなかったのだろう。
僕は、彼女を救いたい。
けれど、救うコトと、彼女の人生を僕の手の届くところに置いておくコトを、いつの間にか混同していたのカモしれない。
手紙の最後に、短い1文がある。
"今でもテリィ様を、心からお慕いしています。
ミユリより"
僕は、その1文から目を離せない。
好きなのに、離れて逝く。
そんなコトが、ホントにあるのだろうか。
いや、あるのだ。
僕は初めて、彼女の選択を、彼女自身のモノとして受け止めなければならないのだと思う。
手紙を折り直す。
窓の外では、朝焼けがアキバの朝を染めて逝く。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
地底超特急。
列車はリニアの力で、漆黒の地下線路を突き進む。
窓の外には何も見えない。
トンネルの壁さえ見えず、光も、景色も、過去へ戻るための目印も見えない。
ミユリさんは、窓ガラスに額をつけている。
どこへ向かっているのだろう。
大阪に着いたら、何が待っているのだろう。
新しい学院。知らない人たち。初めての寮生活。
そこでもまた、超能力が暴走するカモしれない。誰かを傷つけてしまうカモしれない。自分が何者なのか、わからなくなる日が来るカモしれない。
不安は、いくらでも思いつく。
秋葉原にいれば、少なくとも何が起きるかは知っている。
いつもの御屋敷。
いつもの仲間。
いつもの街。
傷つくコトさえ見慣れた風景の一部になっている。
それを手放す。
ミユリさんは、座席の前縁を両手でつかむ。
地底超特急は、速度を落とさない。
暗闇は続く。
けれど、ふと気づく。
窓の外が真っ暗なのは、何も見えないからだ。
まだ何も見ていないからではないか。
彼女は、少しずつ顔を上げた。
前の座席を抱くようにして、進行方向を向く。
「さよなら、秋葉原」
小さな声だ。
誰に聞かせるでもなく、誰かを責めるでもなく。
「さよなら、テリィ様」
今度は、ほんの少しだけ胸が痛む。
涙がにじむ。
それでも、彼女は前を向く。
いつしかリニアの振動が心地よいリズムに変わる。
ミユリさんの頬に、久しぶりの微笑みが戻る。
超能力が戻ったわけではない。
誰かに許されたわけでもない。
ただ、自分で決めたのだ。
次にどこへ行くのかを。
おしまい
今回は、海外ドラマによく登場する"ホームタウンとの別れ"をテーマに、SF作家である主人公とヒロインの別れを描いてみました。いつものコミカルな恋の駆け引きは鳴りを潜め、別人になって描いてみました。
海外ドラマでよく舞台となるニューヨークの街並みを、すっかり秋葉原をレジャー先と捉える老若男女インバウンドのファミリータウンと化した秋葉原に当てはめて展開してみました。
秋葉原を訪れる全ての人類が幸せになりますように。




