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Detectiveコンヌちゃん  作者: コンヌちゃん


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5/12

闇の集会

 夜霧ホールは、街の中心部から少し外れた場所にあった。外観は普通のイベントホールだが、どこか違和感がある。窓から漏れる光が、妙に冷たい。

「…嫌な感じ」コンヌが呟く。

「僕もそう思う」ときやは彼女の手を握った。「でも、大丈夫。一緒だから」

エントランスには、黒いスーツを着た受付の男女が立っていた。

「ようこそ。初めての方ですか?」

受付の女性が、表情のない笑顔で尋ねた。

「はい。山田はなと申します。こちらは友人の田中太郎です」

「どうぞ、中へ。素晴らしい出会いが待っていますよ」

 ホールの扉が開く。中からは、何かを唱える声が聞こえてきた。中を覗くと、数名の男女が輪になって立っていた。彼らは目を閉じ、どこの言語とも分からない言葉を唱え続けている。それは歌なのか、祈りなのか、聞いたこともない響きだった。コンヌは背筋に冷たいものが走るのを感じた。

「不気味だ。でも声をかけてみるか」

ときやは唱えている男性の一人に近づいた。

「あの、すみません」

反応はない。男性は虚ろな目で、ただ言葉を繰り返している。

「…まずいな。完全にトランス状態だ」ときやが小声で呟いた。

「別の人にも声をかけてみよう」

コンヌは輪から離れた場所にいた、普通に立っている男性に声をかけた。

「あの、すみません」

「はい。どうかされましたか?」

男性は穏やかに振り返った。まだ正常なようだ。

「美月という女性を知っていますか?実は今日、彼女からこの会に誘われたんですけど、知らない人ばかりで心細くて…」

「美月さん…?」男性は首を傾げた。「いえ、存じませんね。失礼します」

男性は足早に去っていった。

コンヌはときやに目配せをする。二人は人目につかない場所へ移動した。

「ねぇ、ときや君。古鷹さんが顔割れてるってことは、娘の美月さんも偽名を使ってる可能性が高くないかな」

「ああ、確かに。潜入捜査中なら本名は使わないはずだ」

「だとしたら、ここで名前を聞いて回っても無駄かもしれない。それに…」

コンヌはホールの奥を見た。

「もし捕らえられてるとしたら、倉庫や控え室のあるバックヤードにいる可能性が高くない?」

「ありえるな。ただ…」

ときやは視線をバックヤードの入口に向けた。黒服の見張りが一人、腕を組んで立っている。

「見張りがいる。どうやって突破する?」

「だったら、私が見張りの人を引きつけるよ」

コンヌの目に、いたずらっぽい光が宿った。

「会の偉い人に挨拶したいけど、誰か分からないって聞いてみる。適当に案内してもらって、途中でトイレって言ってその場を離れて、ときや君と合流する。どう?」

「…危険だけど、他に方法がないな。分かった。でも、何かあったらすぐに戻ってきて」

「うん。じゃあ、行くね」

コンヌは深呼吸すると、見張りの男に近づいた。上目遣いで、少し困ったような表情を作る。

「あのー、今日初めて来たんですけど、会の偉い人たちにご挨拶したくて…でも、お顔とお名前が分からなくて」

声のトーンも、いつもより少し高めに。

見張りの男は一瞬警戒した表情を見せたが、コンヌの無邪気な笑顔に緩んだ。

「それでしたら、こちらへどうぞ。ご案内します」

「ありがとうございますー!」

見張りの男はコンヌを連れて、バックヤードの入口から離れていった。

その様子を物陰から見ていたときやは、タイミングを計った。

今だ。足音を殺し、素早くバックヤードの扉をくぐる。廊下は薄暗く、左右に部屋が並んでいた。ざっと見たところ、部屋は五つ。

ときやは最も手前の部屋のドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。そっと開ける。

そこは物置のようだった。折りたたみ椅子、段ボール箱、様々な資材が無造作に積まれている。

「ここじゃないな…」

次の部屋へ移動しようとした、その時だった。

廊下の奥から、声が聞こえてきた。ときやは息を殺して聞き耳を立てる。どうやら男性二人の会話だった。

「儀式の準備が完了するまで、残り僅かだ。無知な信者たちを生贄に、御大に(まみ)えるのももうすぐ」

低く、重い声。威圧感がある。

「ええ。そうですね。今日も教祖様の演説で、贄が増えますね」

もう一人の声は、へつらうような響きだ。

「造作もないことだ」

こいつが、手記にあった教祖か。ときやは冷や汗が背中を伝うのを感じた。

「そういえば、どうしますか。ここに潜り込んできた鼠は」

ときやの心臓が跳ねた。まさか、バレた?

「捕らえて奥の部屋に閉じ込めてある」

違う。別の誰かだ。もしかして…美月さんか?

「放っておけばいい。あそこは洗脳部屋だ。例の音を流し続ければ、いずれこちらの操り人形よ」

「さすがですね」

 足音が近づいてくる。ときやは慌てて物置の影に身を隠した。扉の隙間から、二人の姿が見えた。一人は黒いローブを纏った男性。顔は影で見えない。もう一人は、スーツ姿の中年男性。二人は廊下を通り過ぎ、ホールの方へ向かっていった。盛大な拍手が始まった。教祖の演説が始まったようだ。急がないと、美月さんが危ない。ときやは焦る思いを抑え、そっと物置の扉を開けた。廊下に人影はない。奥の部屋へ急ぐ。五つ目の部屋のドアに手をかけた。人の気配はない。そっとドアを開ける。

「…誰もいない」

 部屋の中は、異様に殺風景だった。小さな椅子が一つ、天井にはスピーカーらしきものが設置されている。物も極端に少ない。妙だな。さっきの会話では「奥の部屋に閉じ込めてある」と言っていた。でも、ここには誰もいない。ときやは慎重に部屋の中を見回した。壁を叩いてみる。

コンコン…

ん、音が違う。ここだけ、空洞のような響きがする。

「隠し部屋か…?」

 壁を押してみると、わずかに動いた。これは…その時、背後で物音がした。ときやが振り返ろうとした瞬間、頭に硬い筒のようなものが当たった。

カチ。

「動くな」

 戦慄。低い男性の声が狭い部屋に響く。全身の血の気が引いているのが分かる。見つかってしまった。これは…銃か。俺はこのまま撃たれて死ぬのか。

「途中からあの女を見失ったからな。まさかと思って引き返したら案の定だ。鼠はこのまま死に――」

 その瞬間。突風が部屋を突き抜けたような気がした。音もなく近づいたその風は、気づかれる間もなく男のこめかみを正確に、豪快に捉えた。

ガッ!

 不意の上段回し蹴りを受けた男は、膝から崩れ落ち、冷たい床に沈んだ。口から泡を吹き、失禁している。しばらくは起きそうにない。

「てめぇ、私の大事な人に何さらしてんだ。ぶち殺されてぇのか、あぁ?」

 小声だが、凄みのある声でコンヌが唸っている。いつもの可愛らしいコンヌではない。目が、本気で怒っている。どうやらコンヌが助けに来てくれたらしい。

「ありがとう、コンヌちゃん。もうダメかと思ったよ」

お礼を言うと、コンヌは一転して泣きそうな顔になった。

「私が上手く時間を稼げなかったから、ときや君を危ない目に遭わせちゃって…ごめんねぇぇ」

目に涙が浮かんでいる。

「全然大丈夫だよ。コンヌちゃんのおかげで怪我もないし」

ときやは彼女の頭を優しく撫でた。

「それより、隠し部屋を見つけたんだ。この壁の向こうに美月さんがいるみたいだ。早く助けに行こう」

「うん!」

 元気よくコンヌは頷いた。さっきまでの涙はどこへやら。コンヌはふと倒れた見張りの男を見た。落とした拳銃がある。

「これ…」

コンヌは拳銃を手に取った。本物だ。警察の制式拳銃。

「ニューナンブM60。たぶん美月さんの銃だ」

コンヌは拳銃を確認した。

「捕まった時に奪われたんだ…」

コンヌは拳銃を丁寧に拭いて、安全装置を確認した。

「後で美月さんに渡そう」

二人は壁を押した。

ギィ…

 重い音を立てて、隠し扉が開く。中は妖しい光に照らされていた。天井のスピーカーから、不協和音が流れ続けている。人間の耳には不快なはずの音なのに、なぜか心地よく感じてしまう。危険な音だ。部屋の中央に、椅子に座った女性がいた。黒髪のロング、左耳のピアス。古鷹美月だ。

「美月さん!」

コンヌが駆け寄ろうとしたが、ときやが腕を掴んで止めた。

「待って」

ときやは美月に近づき、医師の目で彼女を観察し始めた。

まず、瞳孔を見た。異常に開ききっている。通常、光が当たれば瞳孔は縮むが、天井の光に反応していない。

「瞳孔散大…」

ときやが呟いた。そして、美月の脈を計る。

「脈拍:120以上。呼吸:浅く、速い」

ときやは額に手を当てた。

「体温も高い。38度以上はある」

美月は、蕩けるような笑みを浮かべていた。

「ああ…聞こえる…星々の声が…」

彼女の唇から、夢見るような囁きが漏れる。

「美月さん、目を追ってください」

ときやはペンライトを取り出し、美月の目の前で動かした。だが、彼女の視線は動かない。対光反射もない。ペンライトを追わず、虚空を見つめたままだ。

「視覚への反応…完全に鈍化している」

「どういうことなの。ときやくん」

コンヌが尋ねた。

「あの音響装置」

ときやはスピーカーを指した。

「不協和音の周波数が、脳の視覚野に直接影響を与えている。彼女は目を開いていても、本来の『見る』という機能を失っている」

「どうして…」

「脳が混乱している可能性がある。音が視覚を支配しているんだ」

ときやは美月の側に座った。

「美月さん、私の声が聞こえますか」

「あなたも…聞こえるでしょ…この美しい旋律が…」

美月は恍惚とした表情で空中に手を伸ばす。

「何かを掴もうとするような…」

ときやはその手を見た。爪には血が滲んでいる。

「抵抗した痕だ…」

ときやの表情が厳しくなった。彼は美月の耳に指を近づけた。

パチンッ。

指を鳴らした音。普通なら、驚いて反応するはずだ。

だが、美月は反応しない。いや、反応できない。

「聴覚も、音響装置に完全に支配されている」

ときやは立ち上がった。その顔は、深刻だった。

「これは…まずい。聴覚、視覚、そして精神全てが侵食されている」

「ど…どういうことなの。」コンヌは不安そうに聞く。

「洗脳の三段階だ」

ときやは医学的に説明した。

「第三段階が聴覚と視覚から送られた信号が、脳の判断力を奪うんだ」

ときやは美月を見た。

「彼女は今、外部からの刺激に『喜んで』応答する状態になっている。つまり…」

「洗脳されかけているということなのね」コンヌは頷く。

「ああ。このまま放置すれば、24時間以内に完全に自我を失う」

ときやはスピーカーを見上げた。

「あの音を止めなければ。聴覚への干渉を遮断しない限り、精神を取り戻せない」

コンヌは椅子を掴むと、勢いよくスピーカーに投げつけた。

バリン!

 スピーカーが砕け、不協和音が止まった。再び椅子を拾い上げ、今度は照明に投げつけた。

バキ!

 静寂。美月の表情が、僅かに変化した。

「あ…れ…? 声が…消えた…?」

恍惚とした表情に、困惑が混じる。

「美月さん、僕たちは古鷹勲武さんに頼まれて来ました。あなたを助けに来たんです」

ときやが優しく語りかける。

「パパ…?」

 美月の瞳に、一瞬だけ正気の光が宿った。朦朧としてときやを父親と間違えているようだった。

「パパ…私…何を…」

だが次の瞬間、彼女の目が見開かれた。

「だめ…逃げて…教祖が…来る…!」

「あなたを必ず助け出します!」

コンヌとときやの声が重なった。 ときやが美月を担ぎ、コンヌが先導してバックヤードを駆け抜ける。

出入口を抜けた瞬間――

「――!」

 ホールには、教祖と信者たちが待ち構えていた。黒いローブを纏った教祖が、ゆっくりと手を上げる。

「止まりなさい。その女を置いていきなさい。そうすれば、あなたがた二人は逃がしてあげましょう」

低く、威圧的な声。

「お断り」「断る」

コンヌとときやの声が、再び重なった。

 

 教祖の隣にいた中年の男が、スピーカーで合図した。

その瞬間、信者たちが一斉に襲いかかってきた。

「コンヌちゃん、止まるな!出口まで突き進め!」

「了解!」

 コンヌの動きが加速する。前蹴り、回し蹴り、肘打ち。武術で鍛えた技が次々と信者たちを薙ぎ倒していく。ときやは美月を担ぎながら、コンヌの後を追う。柔術の受け身の技術で、信者たちの攻撃を受け流していく。

「もう少しで出口!」

 出口まであと十数メートル。道は開けている。その時――

「有象無象では歯が立たないな。しかたがない向かうか」

教祖の低い声が響いた。次の瞬間。教祖の姿が消えた。

「!?」

 コンヌの目の前、出口の前に教祖が立っていた。まるで最初からそこにいたかのように。

「え…!」コンヌは戸惑う。

「逃がすと思ったか」

 教祖の拳が、コンヌへ向かって放たれた。速い。視認できない速度。コンヌは咄嗟に腕でガード――

ドゴォン!

「がっ…!」

 衝撃が全身を貫いた。腕でガードしたはずなのに、まるで車に轢かれたような衝撃。コンヌの身体が五メートル以上吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。

「コンヌちゃん!」

 ときやが叫ぶ。コンヌは何とか立ち上がろうとするが、腕が動かない。骨にヒビが入ったかもしれない。

「化け物…」

コンヌは歯を食いしばった。父の手記に書かれていた記述が、脳裏をよぎる。

『教祖は化け物だった。人間離れした速度、膂力』

本当だった。これが、父が戦った相手。

「次はそこの男だ」

教祖の姿が、再び消えた。

「ときや君、危ない!」

 教祖はときやの背後に出現していた。美月を担いでいるときやは、身動きが取れない。拳が振り下ろされる――コンヌが立ち上がり、再び教祖へ向かって走った。

「邪魔だ」

 教祖が手を振る。その腕が、空間を裂くように動いた。バックハンドブロー。

「速っ…」

 コンヌは回避しようとした。だが、間に合わない。その瞬間――

「させるか!」

 美月を床に下ろし、ときやがコンヌの前に割って入った。身体全体で攻撃を受け止める。

ドスッ!

「がぁっ…!」

ときやが吹き飛ばされ、床を転がった。口から血が流れる。

「ときや君!」

「まだだ…」

 ときやは立ち上がった。ふらつきながらも、コンヌの前に立ちはだかる。

「君を…守る…」ときやはそう振り絞った。

「感動的だな」

教祖が嗤った。

「だが、無駄だ」

教祖の姿が、また消えた。今度はコンヌの真横。至近距離。拳が放たれる。

「コンヌちゃん!」

コンヌは反射的に受け流しの技を使った。ボクシングで習った、相手の力を逸らす技。だが――

「なっ…」

 拳は逸れない。まるで、空間ごと歪んでいるかのように、コンヌの技術を無視して直進してくる。父の手記の一節。『相棒が斬りかかった刃が、空間ごと歪んで逸れる』

これか。技術では対応できない。コンヌは身体を捻って、辛うじて急所を外した。だが、脇腹に拳が直撃する。

「ぐぅっ…!」

 鋭い痛み。肋骨が折れた。呼吸ができない。コンヌが膝をつく。

「コンヌちゃん!」

 ときやが駆け寄ろうとする。だが、教祖は冷徹な目で二人を見下ろしていた。

「終わりだ」

 教祖が再び消える。今度は倒れているコンヌの真上。

空中から、渾身の一撃が振り下ろされる。これを受けたら死。

「コンヌちゃん!」

ときやが叫んだ。だが、間に合わない。コンヌは目を閉じた。

その瞬間――

パァン!

銃声が響いた。

「!?」

 教祖の動きが、一瞬止まった。見ると、床に倒れていたはずの美月が、自分の拳銃を構えていた。先ほど、コンヌが返してくれた銃。奪われていた、自分の相棒。警察官としての訓練。意識朦朧としながらも、彼女は引き金を引いていた。

「コンヌさん…守らせて…もらうわ…」

美月の声は掠れていたが、その目には強い意志があった。

「貴様…!」

教祖が美月へ向き直る。その隙。わずか数秒。

「今だ!」

コンヌは駆け出し、ときやは美月を担いだ。

「出口へ!」

 二人が全力で走る。美月は、ときやに担がれながらも、後方へ向けて威嚇射撃を続けた。

パン!パン!

「くそ…弾が…」

教祖が追いかけてくる。ドドドドド!

その足音は、人間のものではなかった。地面が揺れる。

距離が縮まる。

「間に合わない…」

 出口まであと五メートル。教祖はあと二メートル。

「美月さん、もう弾は!?」

「あと…一発…」

美月が最後の一発を撃つ。

パン!

 だが、教祖は弾丸を避けた。いや、避けたというより――弾丸が、教祖の周りで空間ごと歪んで逸れた。

「嘘…」美月は驚愕する。

「無駄だ!」

教祖の手が、ときやの背中に届きかける。

「コンヌちゃん!例のやつを!」

「う、うん!」

 コンヌは痛む身体を無理やり動かし、懐からモデルガンを取り出した。だが、教祖の手が、ときやの背中に届きかける。

「させない!」

 コンヌの拳が教祖の手を弾き飛ばす。その一瞬で――コンヌ達は出口を突破した。

「追え!絶対に逃がすな!」

 教祖が命令する。信者たちが一斉に追いかけてくる。その姿は、もはや人間には見えなかった。黒いオーラのようなものが、身体から溢れている。そして、その目は――狂気に満ちていた。

「逃がさん…許さん…絶対に…」

低い、重い声が、夜の闇に響いた。

 

「はぁ…はぁ…」

 ホールから少し離れた路地裏に停めたAQUAに乗り込みときやはエンジンをかけて出発した。コンヌは腕を押さえている。血が滲んでいた。

「コンヌちゃん、怪我!」

「平気…擦り傷」

「平気じゃないよ!すぐ手当てを…」

「それより、美月さんは?」

 ときやが振り返ると、美月はシートにもたれ、荒い息をしていた。だが、瞳には正気が戻りつつあった。

「あなたたち…私を、助けて…くれたの?」

「ええ。お父さんの依頼で」

美月の目に、涙が浮かんだ。

「父が…」

 だが、安堵する間もなく、遠くから、エンジン音が聞こえてきた。

「追っ手だ…!」美月が蒼白な顔で呟いた。

「警察に連絡を…」

「できない」美月は首を振った。「無線機は教団に取り上げられた。それに…」

彼女の表情が曇る。

「警察内部に、教団の内通者が複数いる。下手に連絡すれば、逆に追い詰められる」

「なんだって…」

「信じられるのは、父と直接繋がっている上層部だけ。でも今は連絡手段がない」

ときやが素早く判断した。

「なら、自力で撒くしかない」

「来た!」

 ときやが更にアクセルを踏み込む。AQUAが急加速した。バックミラーに、追っ手の車が映る。距離が縮まっていく。

「このままじゃ追いつかれる…!」

「左!左の路地へ!」美月が叫んだ。

「あそこは…行き止まりじゃ?」

「その先に抜け道がある!父が教えてくれた、警察の巡回ルート!一般には知られていない道!」

 ときやは迷わず左へハンドルを切った。狭い路地をAQUAが駆け抜ける。後方から教団の車が追ってくる。ギリギリで壁を擦りながら、何とか通り抜けた。

「次の角を右!そこから山道に出られる!」

 美月の指示通り、ときやは右折した。山道は暗く、カーブが続く。対向車が来れば一巻の終わりだ。

「教団の車、まだついてきてます!」コンヌが後ろを確認した。

「美月さん、次は?」

「あと500メートル先、鋭角カーブがある。そこでライトを消して!」

「分かった!」

 ヘッドライトカーブを曲がる。その瞬間、ときやはライトを消した。AQUAは闇に紛れ、道路脇の木陰に滑り込む。数秒後。追っ手の車が、轟音を立てて通り過ぎていった。気づいていない。静寂。三人は息を殺して待った。一分、二分…

「…撒けた、みたい」

コンヌが小さく呟いた。ときやが安堵の息を吐く。

「美月さん、助かりました。道を知っていなかったら…」

「潜入前に、父が万が一の逃走ルートを教えてくれたの」

美月は涙声で続けた。

「父は…私のことを、ずっと心配してくれていたんだ」

コンヌが美月の手を握った。

「古鷹さんは、あなたのことをずっと待っていました。今から、お父さんのところへ帰りましょう」

 美月は頷いた。山道で追っ手を撒いた後。AQUAは、古鷹の屋敷へ向かって走っていた。ときやが運転席、コンヌと美月は後部座席で、まだ荒い息をしていた。

「大丈夫ですか?」

ときやが後ろを振り返った。

「はい…少しずつ、意識がはっきりしてきてる…」

美月は額に手を当てた。

「頭が…重い。さっきまでの記憶が、曖昧で…」

「洗脳部屋の音響装置の影響だろう」

ときやが分析した。

「今夜ゆっくり休めば、回復するはずです」

「そう…ですね」

 美月は窓の外を見た。夜の山道。街灯もない暗い道。数分の沈黙。突然、美月が小さく呟いた。

「あ…」

「どうしました?」コンヌが聞く。

「教団の幹部が…言ってた…」

 美月の眉がひそまった。洗脳の薄れ行く意識の中から、何かを思い出そうとしている。

「何をですか?」コンヌが慎重にうかがう。

「教祖は…身体を…」

美月は言葉を途切れさせた。

「身体を、何です?」

ときやは身を乗り出した。医師として、この言葉の続きが気になった。

「…分かりません」

美月は首を振った。

「意識が…ぼやけて…でも…怖い…その言葉…」

ときやは美月の瞳を見た。焦点が定まっていない。記憶を引き出そうとして、逆に混濁している状態だ。

「今は無理に思い出さなくていい」

ときやは努めて冷静に言った。

「洗脳の影響で、記憶が断片化しているんだと思います。休めば戻ります」

 そう答えながら、ときやの頭の片隅に小さな引っかかりが残った。身体を、何だ?移す、だろうか。換える、だろうか。だが——今は美月を休ませることが先決だ。続きは後で聞けばいい。ときやはその引っかかりを、意識の端に追いやった。

「…そうですね」

 美月は目を閉じた。後部座席で、静かに眠りについていった。

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