闇の集会
夜霧ホールは、街の中心部から少し外れた場所にあった。外観は普通のイベントホールだが、どこか違和感がある。窓から漏れる光が、妙に冷たい。
「…嫌な感じ」コンヌが呟く。
「僕もそう思う」ときやは彼女の手を握った。「でも、大丈夫。一緒だから」
エントランスには、黒いスーツを着た受付の男女が立っていた。
「ようこそ。初めての方ですか?」
受付の女性が、表情のない笑顔で尋ねた。
「はい。山田はなと申します。こちらは友人の田中太郎です」
「どうぞ、中へ。素晴らしい出会いが待っていますよ」
ホールの扉が開く。中からは、何かを唱える声が聞こえてきた。中を覗くと、数名の男女が輪になって立っていた。彼らは目を閉じ、どこの言語とも分からない言葉を唱え続けている。それは歌なのか、祈りなのか、聞いたこともない響きだった。コンヌは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「不気味だ。でも声をかけてみるか」
ときやは唱えている男性の一人に近づいた。
「あの、すみません」
反応はない。男性は虚ろな目で、ただ言葉を繰り返している。
「…まずいな。完全にトランス状態だ」ときやが小声で呟いた。
「別の人にも声をかけてみよう」
コンヌは輪から離れた場所にいた、普通に立っている男性に声をかけた。
「あの、すみません」
「はい。どうかされましたか?」
男性は穏やかに振り返った。まだ正常なようだ。
「美月という女性を知っていますか?実は今日、彼女からこの会に誘われたんですけど、知らない人ばかりで心細くて…」
「美月さん…?」男性は首を傾げた。「いえ、存じませんね。失礼します」
男性は足早に去っていった。
コンヌはときやに目配せをする。二人は人目につかない場所へ移動した。
「ねぇ、ときや君。古鷹さんが顔割れてるってことは、娘の美月さんも偽名を使ってる可能性が高くないかな」
「ああ、確かに。潜入捜査中なら本名は使わないはずだ」
「だとしたら、ここで名前を聞いて回っても無駄かもしれない。それに…」
コンヌはホールの奥を見た。
「もし捕らえられてるとしたら、倉庫や控え室のあるバックヤードにいる可能性が高くない?」
「ありえるな。ただ…」
ときやは視線をバックヤードの入口に向けた。黒服の見張りが一人、腕を組んで立っている。
「見張りがいる。どうやって突破する?」
「だったら、私が見張りの人を引きつけるよ」
コンヌの目に、いたずらっぽい光が宿った。
「会の偉い人に挨拶したいけど、誰か分からないって聞いてみる。適当に案内してもらって、途中でトイレって言ってその場を離れて、ときや君と合流する。どう?」
「…危険だけど、他に方法がないな。分かった。でも、何かあったらすぐに戻ってきて」
「うん。じゃあ、行くね」
コンヌは深呼吸すると、見張りの男に近づいた。上目遣いで、少し困ったような表情を作る。
「あのー、今日初めて来たんですけど、会の偉い人たちにご挨拶したくて…でも、お顔とお名前が分からなくて」
声のトーンも、いつもより少し高めに。
見張りの男は一瞬警戒した表情を見せたが、コンヌの無邪気な笑顔に緩んだ。
「それでしたら、こちらへどうぞ。ご案内します」
「ありがとうございますー!」
見張りの男はコンヌを連れて、バックヤードの入口から離れていった。
その様子を物陰から見ていたときやは、タイミングを計った。
今だ。足音を殺し、素早くバックヤードの扉をくぐる。廊下は薄暗く、左右に部屋が並んでいた。ざっと見たところ、部屋は五つ。
ときやは最も手前の部屋のドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。そっと開ける。
そこは物置のようだった。折りたたみ椅子、段ボール箱、様々な資材が無造作に積まれている。
「ここじゃないな…」
次の部屋へ移動しようとした、その時だった。
廊下の奥から、声が聞こえてきた。ときやは息を殺して聞き耳を立てる。どうやら男性二人の会話だった。
「儀式の準備が完了するまで、残り僅かだ。無知な信者たちを生贄に、御大に見えるのももうすぐ」
低く、重い声。威圧感がある。
「ええ。そうですね。今日も教祖様の演説で、贄が増えますね」
もう一人の声は、へつらうような響きだ。
「造作もないことだ」
こいつが、手記にあった教祖か。ときやは冷や汗が背中を伝うのを感じた。
「そういえば、どうしますか。ここに潜り込んできた鼠は」
ときやの心臓が跳ねた。まさか、バレた?
「捕らえて奥の部屋に閉じ込めてある」
違う。別の誰かだ。もしかして…美月さんか?
「放っておけばいい。あそこは洗脳部屋だ。例の音を流し続ければ、いずれこちらの操り人形よ」
「さすがですね」
足音が近づいてくる。ときやは慌てて物置の影に身を隠した。扉の隙間から、二人の姿が見えた。一人は黒いローブを纏った男性。顔は影で見えない。もう一人は、スーツ姿の中年男性。二人は廊下を通り過ぎ、ホールの方へ向かっていった。盛大な拍手が始まった。教祖の演説が始まったようだ。急がないと、美月さんが危ない。ときやは焦る思いを抑え、そっと物置の扉を開けた。廊下に人影はない。奥の部屋へ急ぐ。五つ目の部屋のドアに手をかけた。人の気配はない。そっとドアを開ける。
「…誰もいない」
部屋の中は、異様に殺風景だった。小さな椅子が一つ、天井にはスピーカーらしきものが設置されている。物も極端に少ない。妙だな。さっきの会話では「奥の部屋に閉じ込めてある」と言っていた。でも、ここには誰もいない。ときやは慎重に部屋の中を見回した。壁を叩いてみる。
コンコン…
ん、音が違う。ここだけ、空洞のような響きがする。
「隠し部屋か…?」
壁を押してみると、わずかに動いた。これは…その時、背後で物音がした。ときやが振り返ろうとした瞬間、頭に硬い筒のようなものが当たった。
カチ。
「動くな」
戦慄。低い男性の声が狭い部屋に響く。全身の血の気が引いているのが分かる。見つかってしまった。これは…銃か。俺はこのまま撃たれて死ぬのか。
「途中からあの女を見失ったからな。まさかと思って引き返したら案の定だ。鼠はこのまま死に――」
その瞬間。突風が部屋を突き抜けたような気がした。音もなく近づいたその風は、気づかれる間もなく男のこめかみを正確に、豪快に捉えた。
ガッ!
不意の上段回し蹴りを受けた男は、膝から崩れ落ち、冷たい床に沈んだ。口から泡を吹き、失禁している。しばらくは起きそうにない。
「てめぇ、私の大事な人に何さらしてんだ。ぶち殺されてぇのか、あぁ?」
小声だが、凄みのある声でコンヌが唸っている。いつもの可愛らしいコンヌではない。目が、本気で怒っている。どうやらコンヌが助けに来てくれたらしい。
「ありがとう、コンヌちゃん。もうダメかと思ったよ」
お礼を言うと、コンヌは一転して泣きそうな顔になった。
「私が上手く時間を稼げなかったから、ときや君を危ない目に遭わせちゃって…ごめんねぇぇ」
目に涙が浮かんでいる。
「全然大丈夫だよ。コンヌちゃんのおかげで怪我もないし」
ときやは彼女の頭を優しく撫でた。
「それより、隠し部屋を見つけたんだ。この壁の向こうに美月さんがいるみたいだ。早く助けに行こう」
「うん!」
元気よくコンヌは頷いた。さっきまでの涙はどこへやら。コンヌはふと倒れた見張りの男を見た。落とした拳銃がある。
「これ…」
コンヌは拳銃を手に取った。本物だ。警察の制式拳銃。
「ニューナンブM60。たぶん美月さんの銃だ」
コンヌは拳銃を確認した。
「捕まった時に奪われたんだ…」
コンヌは拳銃を丁寧に拭いて、安全装置を確認した。
「後で美月さんに渡そう」
二人は壁を押した。
ギィ…
重い音を立てて、隠し扉が開く。中は妖しい光に照らされていた。天井のスピーカーから、不協和音が流れ続けている。人間の耳には不快なはずの音なのに、なぜか心地よく感じてしまう。危険な音だ。部屋の中央に、椅子に座った女性がいた。黒髪のロング、左耳のピアス。古鷹美月だ。
「美月さん!」
コンヌが駆け寄ろうとしたが、ときやが腕を掴んで止めた。
「待って」
ときやは美月に近づき、医師の目で彼女を観察し始めた。
まず、瞳孔を見た。異常に開ききっている。通常、光が当たれば瞳孔は縮むが、天井の光に反応していない。
「瞳孔散大…」
ときやが呟いた。そして、美月の脈を計る。
「脈拍:120以上。呼吸:浅く、速い」
ときやは額に手を当てた。
「体温も高い。38度以上はある」
美月は、蕩けるような笑みを浮かべていた。
「ああ…聞こえる…星々の声が…」
彼女の唇から、夢見るような囁きが漏れる。
「美月さん、目を追ってください」
ときやはペンライトを取り出し、美月の目の前で動かした。だが、彼女の視線は動かない。対光反射もない。ペンライトを追わず、虚空を見つめたままだ。
「視覚への反応…完全に鈍化している」
「どういうことなの。ときやくん」
コンヌが尋ねた。
「あの音響装置」
ときやはスピーカーを指した。
「不協和音の周波数が、脳の視覚野に直接影響を与えている。彼女は目を開いていても、本来の『見る』という機能を失っている」
「どうして…」
「脳が混乱している可能性がある。音が視覚を支配しているんだ」
ときやは美月の側に座った。
「美月さん、私の声が聞こえますか」
「あなたも…聞こえるでしょ…この美しい旋律が…」
美月は恍惚とした表情で空中に手を伸ばす。
「何かを掴もうとするような…」
ときやはその手を見た。爪には血が滲んでいる。
「抵抗した痕だ…」
ときやの表情が厳しくなった。彼は美月の耳に指を近づけた。
パチンッ。
指を鳴らした音。普通なら、驚いて反応するはずだ。
だが、美月は反応しない。いや、反応できない。
「聴覚も、音響装置に完全に支配されている」
ときやは立ち上がった。その顔は、深刻だった。
「これは…まずい。聴覚、視覚、そして精神全てが侵食されている」
「ど…どういうことなの。」コンヌは不安そうに聞く。
「洗脳の三段階だ」
ときやは医学的に説明した。
「第三段階が聴覚と視覚から送られた信号が、脳の判断力を奪うんだ」
ときやは美月を見た。
「彼女は今、外部からの刺激に『喜んで』応答する状態になっている。つまり…」
「洗脳されかけているということなのね」コンヌは頷く。
「ああ。このまま放置すれば、24時間以内に完全に自我を失う」
ときやはスピーカーを見上げた。
「あの音を止めなければ。聴覚への干渉を遮断しない限り、精神を取り戻せない」
コンヌは椅子を掴むと、勢いよくスピーカーに投げつけた。
バリン!
スピーカーが砕け、不協和音が止まった。再び椅子を拾い上げ、今度は照明に投げつけた。
バキ!
静寂。美月の表情が、僅かに変化した。
「あ…れ…? 声が…消えた…?」
恍惚とした表情に、困惑が混じる。
「美月さん、僕たちは古鷹勲武さんに頼まれて来ました。あなたを助けに来たんです」
ときやが優しく語りかける。
「パパ…?」
美月の瞳に、一瞬だけ正気の光が宿った。朦朧としてときやを父親と間違えているようだった。
「パパ…私…何を…」
だが次の瞬間、彼女の目が見開かれた。
「だめ…逃げて…教祖が…来る…!」
「あなたを必ず助け出します!」
コンヌとときやの声が重なった。 ときやが美月を担ぎ、コンヌが先導してバックヤードを駆け抜ける。
出入口を抜けた瞬間――
「――!」
ホールには、教祖と信者たちが待ち構えていた。黒いローブを纏った教祖が、ゆっくりと手を上げる。
「止まりなさい。その女を置いていきなさい。そうすれば、あなたがた二人は逃がしてあげましょう」
低く、威圧的な声。
「お断り」「断る」
コンヌとときやの声が、再び重なった。
教祖の隣にいた中年の男が、スピーカーで合図した。
その瞬間、信者たちが一斉に襲いかかってきた。
「コンヌちゃん、止まるな!出口まで突き進め!」
「了解!」
コンヌの動きが加速する。前蹴り、回し蹴り、肘打ち。武術で鍛えた技が次々と信者たちを薙ぎ倒していく。ときやは美月を担ぎながら、コンヌの後を追う。柔術の受け身の技術で、信者たちの攻撃を受け流していく。
「もう少しで出口!」
出口まであと十数メートル。道は開けている。その時――
「有象無象では歯が立たないな。しかたがない向かうか」
教祖の低い声が響いた。次の瞬間。教祖の姿が消えた。
「!?」
コンヌの目の前、出口の前に教祖が立っていた。まるで最初からそこにいたかのように。
「え…!」コンヌは戸惑う。
「逃がすと思ったか」
教祖の拳が、コンヌへ向かって放たれた。速い。視認できない速度。コンヌは咄嗟に腕でガード――
ドゴォン!
「がっ…!」
衝撃が全身を貫いた。腕でガードしたはずなのに、まるで車に轢かれたような衝撃。コンヌの身体が五メートル以上吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
「コンヌちゃん!」
ときやが叫ぶ。コンヌは何とか立ち上がろうとするが、腕が動かない。骨にヒビが入ったかもしれない。
「化け物…」
コンヌは歯を食いしばった。父の手記に書かれていた記述が、脳裏をよぎる。
『教祖は化け物だった。人間離れした速度、膂力』
本当だった。これが、父が戦った相手。
「次はそこの男だ」
教祖の姿が、再び消えた。
「ときや君、危ない!」
教祖はときやの背後に出現していた。美月を担いでいるときやは、身動きが取れない。拳が振り下ろされる――コンヌが立ち上がり、再び教祖へ向かって走った。
「邪魔だ」
教祖が手を振る。その腕が、空間を裂くように動いた。バックハンドブロー。
「速っ…」
コンヌは回避しようとした。だが、間に合わない。その瞬間――
「させるか!」
美月を床に下ろし、ときやがコンヌの前に割って入った。身体全体で攻撃を受け止める。
ドスッ!
「がぁっ…!」
ときやが吹き飛ばされ、床を転がった。口から血が流れる。
「ときや君!」
「まだだ…」
ときやは立ち上がった。ふらつきながらも、コンヌの前に立ちはだかる。
「君を…守る…」ときやはそう振り絞った。
「感動的だな」
教祖が嗤った。
「だが、無駄だ」
教祖の姿が、また消えた。今度はコンヌの真横。至近距離。拳が放たれる。
「コンヌちゃん!」
コンヌは反射的に受け流しの技を使った。ボクシングで習った、相手の力を逸らす技。だが――
「なっ…」
拳は逸れない。まるで、空間ごと歪んでいるかのように、コンヌの技術を無視して直進してくる。父の手記の一節。『相棒が斬りかかった刃が、空間ごと歪んで逸れる』
これか。技術では対応できない。コンヌは身体を捻って、辛うじて急所を外した。だが、脇腹に拳が直撃する。
「ぐぅっ…!」
鋭い痛み。肋骨が折れた。呼吸ができない。コンヌが膝をつく。
「コンヌちゃん!」
ときやが駆け寄ろうとする。だが、教祖は冷徹な目で二人を見下ろしていた。
「終わりだ」
教祖が再び消える。今度は倒れているコンヌの真上。
空中から、渾身の一撃が振り下ろされる。これを受けたら死。
「コンヌちゃん!」
ときやが叫んだ。だが、間に合わない。コンヌは目を閉じた。
その瞬間――
パァン!
銃声が響いた。
「!?」
教祖の動きが、一瞬止まった。見ると、床に倒れていたはずの美月が、自分の拳銃を構えていた。先ほど、コンヌが返してくれた銃。奪われていた、自分の相棒。警察官としての訓練。意識朦朧としながらも、彼女は引き金を引いていた。
「コンヌさん…守らせて…もらうわ…」
美月の声は掠れていたが、その目には強い意志があった。
「貴様…!」
教祖が美月へ向き直る。その隙。わずか数秒。
「今だ!」
コンヌは駆け出し、ときやは美月を担いだ。
「出口へ!」
二人が全力で走る。美月は、ときやに担がれながらも、後方へ向けて威嚇射撃を続けた。
パン!パン!
「くそ…弾が…」
教祖が追いかけてくる。ドドドドド!
その足音は、人間のものではなかった。地面が揺れる。
距離が縮まる。
「間に合わない…」
出口まであと五メートル。教祖はあと二メートル。
「美月さん、もう弾は!?」
「あと…一発…」
美月が最後の一発を撃つ。
パン!
だが、教祖は弾丸を避けた。いや、避けたというより――弾丸が、教祖の周りで空間ごと歪んで逸れた。
「嘘…」美月は驚愕する。
「無駄だ!」
教祖の手が、ときやの背中に届きかける。
「コンヌちゃん!例のやつを!」
「う、うん!」
コンヌは痛む身体を無理やり動かし、懐からモデルガンを取り出した。だが、教祖の手が、ときやの背中に届きかける。
「させない!」
コンヌの拳が教祖の手を弾き飛ばす。その一瞬で――コンヌ達は出口を突破した。
「追え!絶対に逃がすな!」
教祖が命令する。信者たちが一斉に追いかけてくる。その姿は、もはや人間には見えなかった。黒いオーラのようなものが、身体から溢れている。そして、その目は――狂気に満ちていた。
「逃がさん…許さん…絶対に…」
低い、重い声が、夜の闇に響いた。
「はぁ…はぁ…」
ホールから少し離れた路地裏に停めたAQUAに乗り込みときやはエンジンをかけて出発した。コンヌは腕を押さえている。血が滲んでいた。
「コンヌちゃん、怪我!」
「平気…擦り傷」
「平気じゃないよ!すぐ手当てを…」
「それより、美月さんは?」
ときやが振り返ると、美月はシートにもたれ、荒い息をしていた。だが、瞳には正気が戻りつつあった。
「あなたたち…私を、助けて…くれたの?」
「ええ。お父さんの依頼で」
美月の目に、涙が浮かんだ。
「父が…」
だが、安堵する間もなく、遠くから、エンジン音が聞こえてきた。
「追っ手だ…!」美月が蒼白な顔で呟いた。
「警察に連絡を…」
「できない」美月は首を振った。「無線機は教団に取り上げられた。それに…」
彼女の表情が曇る。
「警察内部に、教団の内通者が複数いる。下手に連絡すれば、逆に追い詰められる」
「なんだって…」
「信じられるのは、父と直接繋がっている上層部だけ。でも今は連絡手段がない」
ときやが素早く判断した。
「なら、自力で撒くしかない」
「来た!」
ときやが更にアクセルを踏み込む。AQUAが急加速した。バックミラーに、追っ手の車が映る。距離が縮まっていく。
「このままじゃ追いつかれる…!」
「左!左の路地へ!」美月が叫んだ。
「あそこは…行き止まりじゃ?」
「その先に抜け道がある!父が教えてくれた、警察の巡回ルート!一般には知られていない道!」
ときやは迷わず左へハンドルを切った。狭い路地をAQUAが駆け抜ける。後方から教団の車が追ってくる。ギリギリで壁を擦りながら、何とか通り抜けた。
「次の角を右!そこから山道に出られる!」
美月の指示通り、ときやは右折した。山道は暗く、カーブが続く。対向車が来れば一巻の終わりだ。
「教団の車、まだついてきてます!」コンヌが後ろを確認した。
「美月さん、次は?」
「あと500メートル先、鋭角カーブがある。そこでライトを消して!」
「分かった!」
ヘッドライトカーブを曲がる。その瞬間、ときやはライトを消した。AQUAは闇に紛れ、道路脇の木陰に滑り込む。数秒後。追っ手の車が、轟音を立てて通り過ぎていった。気づいていない。静寂。三人は息を殺して待った。一分、二分…
「…撒けた、みたい」
コンヌが小さく呟いた。ときやが安堵の息を吐く。
「美月さん、助かりました。道を知っていなかったら…」
「潜入前に、父が万が一の逃走ルートを教えてくれたの」
美月は涙声で続けた。
「父は…私のことを、ずっと心配してくれていたんだ」
コンヌが美月の手を握った。
「古鷹さんは、あなたのことをずっと待っていました。今から、お父さんのところへ帰りましょう」
美月は頷いた。山道で追っ手を撒いた後。AQUAは、古鷹の屋敷へ向かって走っていた。ときやが運転席、コンヌと美月は後部座席で、まだ荒い息をしていた。
「大丈夫ですか?」
ときやが後ろを振り返った。
「はい…少しずつ、意識がはっきりしてきてる…」
美月は額に手を当てた。
「頭が…重い。さっきまでの記憶が、曖昧で…」
「洗脳部屋の音響装置の影響だろう」
ときやが分析した。
「今夜ゆっくり休めば、回復するはずです」
「そう…ですね」
美月は窓の外を見た。夜の山道。街灯もない暗い道。数分の沈黙。突然、美月が小さく呟いた。
「あ…」
「どうしました?」コンヌが聞く。
「教団の幹部が…言ってた…」
美月の眉がひそまった。洗脳の薄れ行く意識の中から、何かを思い出そうとしている。
「何をですか?」コンヌが慎重にうかがう。
「教祖は…身体を…」
美月は言葉を途切れさせた。
「身体を、何です?」
ときやは身を乗り出した。医師として、この言葉の続きが気になった。
「…分かりません」
美月は首を振った。
「意識が…ぼやけて…でも…怖い…その言葉…」
ときやは美月の瞳を見た。焦点が定まっていない。記憶を引き出そうとして、逆に混濁している状態だ。
「今は無理に思い出さなくていい」
ときやは努めて冷静に言った。
「洗脳の影響で、記憶が断片化しているんだと思います。休めば戻ります」
そう答えながら、ときやの頭の片隅に小さな引っかかりが残った。身体を、何だ?移す、だろうか。換える、だろうか。だが——今は美月を休ませることが先決だ。続きは後で聞けばいい。ときやはその引っかかりを、意識の端に追いやった。
「…そうですね」
美月は目を閉じた。後部座席で、静かに眠りについていった。




