【アップ】2025年3月9日主日公同礼拝/讃美歌とMy noteもあります
初めまして、天川裕司です。
ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。
また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。
どうぞよろしくお願い致します。
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬
【アメーバブログ】
https://blog.ameba.jp/ucs/top.do
【男山教会ホームページ】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【YouTube】(不思議のパルプンテ)
https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos
【ノート】
https://note.com/unique_panda3782
【カクヨム】
https://kakuyomu.jp/my/works
【YouTubeドラマにつきまして】
無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、
お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。
基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。
創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪
出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬
でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、
どうぞよろしくお願いします(^^♪
【本日のメッセージ】
https://www.youtube.com/live/d4QP89fcmC8
【ブログ】
https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12890189589.html
(ブログを見てくださると聖書を閲覧できます)
讃美歌~♬
(※讃美歌は3月2日の分を掲載してます)
讃美歌262番
https://www.youtube.com/watch?v=KHYE0f99u10
1) 十字架の下ぞ いと安けき
神の義と愛の あえるところ
嵐吹くときの 巌の陰
荒野の中なる 我が隠れ家
2) 十字架の上に 我は仰ぐ
我がため悩める 神の御子を
妙にも尊き 神の愛よ
底いも知られぬ 人の罪よ
3) 十字架の陰に 我は立ちて
御顔の光を 絶えず求めん
この世の物みな 消ゆるときも
奇しく輝く その光を
讃美歌268番
https://www.youtube.com/watch?v=v_DJSrsqh4w
1
まごころもて 仰まつらん、
世のため
のろいの木に つきたまいし
すくいのぬし、わが主よ。
2
わがつみとが けがれもみな
あらいて、
今よりのち きみのものと
なさせたまえ、わが主よ。
3
いとゆたけき めぐみをもて
ひえたる
わがこころに きよけき火を
もやしたまえ、わが主よ。
4
死のかわなみ うちよすとも、
やすけく
み手によりて あまつ岸に
着かせたまえ、わが主よ。
2025年3月9日 礼拝説教 聖書箇所
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
ローマの信徒への手紙10章8節
見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。
申命記30章15節
はじめに
2025・世界祈祷日礼拝の恵みを覚え、キリストの満たされた義の真の目的を学ぶ。
1
「モーセは、(その)律法による義について、『(それらの)掟を守る人は(それらの)掟によって生きる』と記しています。」当時のユダヤ人にとって、ある掟を守ることは、自分たちを義人とする理由。ある掟を守ることができることが大事。使徒パウロ自身、「律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3章6節)と言えた。しかし、「律法によってはだれも神の御前で義とされないこと」を「明らかに」する(ガラテヤ3章11節)。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」から(同3章11節)。実に、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現される」「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおり」(ローマ1章17節)。「キリストは律法の目標」であるとは、「信じる者すべてに義をもたらすため」(10章4節)。
2
「しかし、信仰による義について、こう述べられています。」「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。まだ、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。」パウロは、申命記(30章12節)の言葉を、キリストにおいて説き明かす。心の中で人が抱く問いは、いずれも、キリストの御業においては、むなしいもの。なぜなら、そのいずれも、すでに、キリストが果たされたことであるから。イエス・キリストは、ただ一度、十字架の死において、墓に葬られた。そして、「陰府に下られた」。そして、三日目に復活し、天に挙げられた。「それ(陰府にくだり)は、わたしが最も激しい試みの時にも次のように確信するためです。すなわち、わたしたちの主キリストは、十字架上とそこに至るまで、御自身もまたその魂において忍ばれてきた言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みからわたしを解放してくださったのだ、と」「「(天にのぼり」とは、)キリストが弟子たちの目の前で地上から天に上げられ、生きている者と死んだ者とを裁くために再び来られる時まで、わたしたちのためにそこにいてくださる、ということです。」「「キリストの『よみがえり』の益とは)第一に、この方はそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によってわたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる、ということ。第二に、その御力によってわたしたちも今や新しい命に呼びさまされている、とうこと。第三に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです。(ハイデルベルク信仰問答問44,46,45)。キリストの御業は、罪人を死の淵から贖い、天の栄光と祝福の中に招き入れる。
3
「では、何と言われているのだろうか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これが、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」使徒パウロは、すでに、モーセによって、福音の義が示されたことを明らかにする。律法の義は、心を平安にせず、かえって、自他の評価と要求に早い。しかし、福音の義は、ただ、キリストの義を信じることだけを求め、それ以外のものを求めない。「モーセでさえ、わたしたちの至福を、神の恩恵の無償の約束以外に何ものにも置いていなかったのだ」(カルヴァン)。福音に仕えることにおいて、使徒パウロは、モーセを、律法の終結=キリストにおいて宣べ伝える。
おわりに
自分の利益と幸福のために神を愛するのか、それとも、神を喜ぶために、神を愛するのか、後者こそ、ただキリストによって贖われた者たちの目的、ただ神の栄光のために。
(My note)
二〇二五年三月九日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『スコットランド教会新カテキズム』
「どうして、イエス・キリストは、人間になられたのと同じ人格に於いて、神でなければ成らなかったですか。」
「死に打ち勝ち、私達の為に、救いに値する者と成るためです。」
イエス様は罪人の為に十字架に付けられ、陰府に下り、三日目に死人の内より甦り、天に上り、全能の父なる神の右に座し給えり。イエス様は「人として生まれながら死から復活され(死に打ち勝ち)、罪の内に死ぬしか無かった全ての罪人も共に、信仰に依り、神様の救いと愛に依り、死の内から甦る事が確約された事」を先駆けて証明された。イエス様は私達罪人の身代わりになり、死に打ち勝たれたのである。
(公同礼拝)
『ローマ人への手紙』(第一〇章一〜九節)
『申命記』(第三〇章一五〜二〇節)
この両箇所では、クリスチャンにこそ強く問われる信仰の「義」に就いて教える。
この信仰の義は、人により曲解され易く、その曲解した「人間が取り決めた義(正義)」を以て他人に伝えられ、その伝えられた教義(正義)が人の間で習慣化して堅く信じられ易い。
このイエス様の当時も、多くの信仰厚い人達が人が取り決めた義(律法の義)を唯一の正義に定め、他を許さず、その義を正義として世の人に知らしめた。
当時、イエス様は「大罪人」として捕えられた。捕えたのは信仰に厚いとされた人々である。ピラトはイエス様に対し「この人には何の罪も見出せない」としたに拘らず、パリサイ派の人々や、信仰を教えて居た教師・指導者達は声を上げて「イエスを十字架に付けよ!!」と罵声混じりに訴え、遂にピラトを動かし、実際にイエス様を十字架に付けて葬った。更にイエス様が復活した時、それまでイエス様の遺体が安置されて居た墓の前に門番を立て、他の弟子達がイエス様の遺体を持ち出さない様にと釘まで刺した。そしてその復活を信じなかった。
パウロは当時の人々が、間違った信仰に傾いて居る事を指摘した。それが「人の義により行動し教え信じる事」で、その「人の義」により行動する信徒達がイエス様を否定し、飽くまでモーセの律法に従う事のみを真実とし、神様が新たにイエス様を通して人に与えた新約の義を蔑ろにし、信じなかった。
そして人の義に従う信徒達は「あの人は律法に従うから天国行きだ」「この人はそうでないから地獄行きだ」と神様の座に立つ迄に成り、他人を己の思いで裁く様にまで成ってしまった。彼等は律法・人の義の内に様々な決まり事を作り上げ、それを守る・守らないにより人を裁く。この全てが根本から違う事を、パウロはイエス様の存在を通して改めて教えた。
当時はこの様に、イエス様は大罪人として捕えられ、極刑に処された。現代に置き換えても、そのイエス様を「本当の救い主」として認める人は少ないのではないか?
彼等の理屈で言うと、十戒を守らなければ地獄行きと言う事になる。しかしイエス様を通して教えられた真実の救いは逆であり、十戒を守れないからその罪を悔い改め、その悔い改めにより救われるのが信仰に在る。そもそも誰も十戒を一つも守れない罪人に在る。
この時、ノンクリスチャン(異邦人)の方が真実の信仰に近かった。信仰厚い信徒達は「自分は完璧に神様の教え(十戒を始め御言葉)を全て守って居る」「他の異邦人より我々の方が遥かに偉く尊い」と信じる迄になって居り、悔い改めも遜りも、真実の信仰を教えるイエス様を受け入れられなかった。人の罪人である故の自尊が信仰への道を邪魔したのである。人は罪人である為、誰も自力で信仰に依る救いを得る事は無い。神様の憐れみを受け、聖霊の働きに依り初めて救われる。新約聖書はこの当時にまだ無かった。だからイエス様に依る信仰が「新しい新興宗教」の様に思えたのか?イエス様を通して得られる真実の信仰を見抜けなかった。
律法の前では、誰も神様の前で義とされない(義は正義に置き換えても良い)。信仰生活を送る内、罪人である人間はとかくその信仰の歩み方を間違え易い。その間違えは、とかく真実の信仰を離れ、神様の下を去り、人に寄り付いた時に起こり易い。この事を、ノンクリスチャンは固より、クリスチャンこそ常に憶えねば成らない真実である。詰り、全ての人にこの事が問われるのである。
この世は評価社会である。この「評価」が何処から来て居るか?これを問う。神様から来て居なければ、聖書に在る義(正義)から来て居なければ、罪人の評価のみに終始して、この当時と同じ過ちが繰り返される。だからクリスチャンの価値と世の価値が衝突するのは当然で、その時こそ信仰に依り、クリスチャンとして強められなければ成らない。カトリックとプロテスタントが分かれたのもこの人の義による。神様が「カトリックとプロテスタントとに分けよ」と聖書に記して在ればそれが正義だが、その箇所は無かったと記憶する。
「誰が天国行き、誰が地獄行き」等と罪人である人が決めては成らない。それはイエス様の存在と、神様に依り与えられたその働きを否定するものに成り、神様に真っ向から反する者の言動に成る。そもそも知らない事を断言するのは嘘であり、他人に就いて偽証する事に他ならなくなる(十戒)。また逆に絶望し、自分で自分の事を「地獄行きだ」等と裁く事もしては成らない。それもナンセンスであり、裁くのは神様である。全ての人は罪人である自分を自覚した上、信仰に縋り付きしがみ付く様に救いを求め、聖霊の働きに依り悔い改め、その心を保つ努力に努め、隣人を愛する事を忘れず、その人と自分の為に祈り、救われる事のみを求めるべきであろう。イエス様を信じ、悔い改める事で、許されない罪は無い。この事を信じる上で、ただ真実の信仰に依り救いを求める事が、罪人本来の姿に在ろう。
「即ち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスを甦らせたと信じるなら、あなたは救われる。」(『ローマ人への手紙』第一〇章九節)
「聖書は、『すべて彼(イエス様)を信じる者は、失望に終る事が無い』と言って居る」(『ローマ人への手紙』第一〇章一一節)
【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/
Table Caffe〜
榎本保郎牧師 ミニ説教5 「山があり 谷があろうとも」
https://www.youtube.com/watch?v=CpUW1JZZU4Y
「鷲の翼に載せて」THE DAILY with Arthur Hollands 2025/03/14
https://www.youtube.com/watch?v=wRw9GCynniU
イエス・キリストの生涯をたどる旅 II (1)
https://www.youtube.com/watch?v=vPB9SBXalPA
ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin
不思議のパルプンテ
https://www.youtube.com/@不思議のパルプンテ/videos
(お暇な時にぜひどうぞ)
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬




