第三十六章 ― 開戦前
南方の荒れ地に夜が降りるとき、この地はただの戦場ではなくなる。傷ついた者たちの呻き、燃え残る炎の匂い、血と硫黄が混じる風――それらすべてが、死者の囁きを運ぶ。この夜、ダニエルは砦の上からその惨状を見下ろし、胸の内に渦巻く不安と覚悟を静かに噛み締めていた。彼が守ろうとするもの、それは王国のためでも栄光のためでもない。ただ、生き残った仲間と、まだ希望を捨てぬ民のため。女神に祈りを捧げた彼は、かつてない闇に挑む覚悟を決めるのだった。traduz
南の荒れ果てた大地に、ついに夜が訪れた。
空を覆う煤混じりの雲の隙間から、かろうじて月が姿を覗かせている。だがその光は弱々しく、血に染まった大地を照らすには程遠かった。
ヴァルガルド要塞の城壁の上から、ダニエル(ダニエル)は黙ってその景色を見下ろしていた。
遠くには、魔族の軍勢が張る野営地が、揺らめく光に包まれていた。燃え盛る松明と、宙に浮かぶ魔力のオーブが、その不気味な輝きを放っている。魔族の魔術師たちが生み出したものだ。それはまるで、歪んだ星々が逆さまの空に浮かんでいるかのように見えた――破壊の予兆を映し出す光だった。
そのかすかな明かりに照らされた戦場には、無慈悲な戦いの爪痕がくっきりと刻まれていた。かつては固く締まっていた大地も、今では爆発の跡で深くえぐられ、そこかしこに硫黄の蒸気が噴き出す裂け目が走っている。地面の一部はいまだに赤く焼け焦げ、腐臭が空気を満たしていた。
ダニエルは鼻を押さえ、顔をしかめた。
「……硫黄か」
思わず漏らしたその言葉には、地獄そのものが足元から息を吐いているような不快さがにじんでいた。
さらに前方では、エルドリア王国(エルドリア王国)の兵士たちが、戦場の残骸の中を慎重に歩いているのが見えた。彼らは即席の担架を抱え、日中に倒れた仲間たちの遺体を運んでいる。いくつかの遺体は、最期の瞬間まで互いの手を握り合っていた者たちだった。
一方で、敵である魔族の遺体は、無言かつ冷ややかに回収されていた。その処理方法を、ダニエルは知っていた。都市から遠く離れた南方の孤立した地――そこで、火葬に付されるのだ。
数時間前、セドリック卿(セドリック卿)と共にいた将軍サー・ギャリックの言葉を、彼は思い出していた。
――「我らの仲間は森に還す。木々に囲まれた墓所に眠らせ、風がその最期の歌を謳う場所だ。だが、魔族は……火へと還す。」
その言葉の重みが、今になってダニエルの胸を締め付けていた。
首都近郊で行われた前回の戦いとは、明らかに様子が違う。あの時は、まだどこか…制御された、清潔な戦いに思えた。だがここでは、戦争が持つ本当の恐怖が露わになっていた。自分がこれまで、どれだけ守られていたのかを思い知る。
これは正義と悪の単純な衝突ではない。
――これは、生き残るための闘争だ。
――これは、悲しみだ。
――これは……死だった。
ダニエルは無意識に手を壁に伸ばし、黒く冷たい石を撫でた。
ひとつひとつのひび割れ、継ぎ目の隙間を目で追いながら、慎重に観察する。防御魔法は今も稼働しているが、それでも壁が以前の戦いで深く傷ついていることは明白だった。
魔力障壁は、ほのかに明滅しながら揺れていた。まるで、今にも消えそうな蝋燭の炎のように――
ダニエルは眉をひそめた。
「……弱ってるな」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
城壁はもはや、かつての強さを保ってはいなかった。
もし敵があそこに攻撃を集中させれば――特に強力な魔法や大型の魔獣による突撃が加われば――壁は間違いなく崩れ落ちるだろう。
そしてそれが起これば、エルドリア王国(エルドリア王国)の軍勢は一気に無防備となり、戦場は混乱と死で満たされるに違いなかった。
ダニエル(ダニエル)は無言のまま、城壁を下りていった。
その足音は、磨り減った石段に乾いた音を響かせながら、要塞の基部へと届いた。
彼は、自分の部隊が宿舎として使っている建物へ戻ろうとした……が、途中でふと目を奪われた。
それは、今にも崩れ落ちそうな姿をしながらも、なおも厳かな気配を放っていた古い建物。――教会だった。
ひび割れた外壁にもかかわらず、その正面にはかつての荘厳さがまだ残っていた。
砕け散ったステンドグラスから月の光が差し込み、教会内部には歪んだ影が踊っていた。
ダニエルが手をかけて押し開けた木製の扉は、ぎい、と長く軋みを上げる。
その先にあったのは、埃をかぶってはいたが、驚くほど無傷のまま残っている回廊だった。
彼は、まっすぐに祭壇へと向かった。
その神聖な空間の奥――
そこには、淡い石で彫られた巨大な像が立っていた。
繊細でありながら威厳を湛えた女性を象った像。
天使のような翼が背から天井へと伸びており、その衣は異世界の高級ドレスのように美しく体に沿っていた。
台座にはこう刻まれていた。
「フリッグ――守護と叡智の女神」
ダニエルは片眉を上げた。
「……あれ? この女神フリッグ(女神フリッグ)、前に俺の前に現れたときよりずいぶん…見目麗しいな」
彼は腕を組み、ぼそりと呟いた。
「像のほうはずいぶん盛ってるな、これは。いや、文句はないけどさ……その翼に、このウエスト……もうほとんど天界の詐欺広告じゃないか。」
一人でくすりと笑った。
夜の重苦しい空気の中で、その一瞬だけ、心が少し軽くなった気がした。
その後、ダニエルは静かに像の前に跪いた。
手を組み、目を閉じ、抑えた声で祈りを捧げる。
「女神フリッグ……俺は普段、あんまり祈らないし、逆に頼みすぎかもしれないけど……
明日、俺たちは…信じられないほどの敵と戦う。
勝利を願ってるわけじゃない。ただ、もう誰も死なないでほしいだけだ。
俺が、みんなを守る力を持てるように……
彼らは俺を信じてくれてる。だから俺は……絶対に裏切りたくないんだ。」
その言葉に、教会は静寂で応えた。
数秒が過ぎた――そのときだった。
石像が、ほのかに光を放ち始めた。
教会の内部が、柔らかく温かな光に包まれていく。
その光には、懐かしさと優しさがあった。
「……ダニエル、久しぶりですね。」
女性の声が、穏やかで澄んだ調べで、彼の心に直接響いた。
ダニエルは目を見開いた。
膝をついたまま、意識がどこか別の世界に引き込まれたような感覚に襲われた。
光が踊る、幻のような空間の中――
その中央に、女神フリッグ(女神フリッグ)の姿が現れた。
今こそ、真の女神がそこにいた。
その瞳は慈愛と力に輝き、微笑みの裏には隠しきれない憂いが滲んでいた。
「成長したわね、勇者よ」
女神フリッグ(女神フリッグ)は歩み寄りながらそう言った。
「明日の戦いは、あなたがこれまでに直面してきた中で最も過酷なものになるでしょう……そして、おそらく最後ではないわ。でも覚えておいて。あなたの強さは剣だけでも、魔法だけでもない。周囲の人々と、あなたが背負う希望にこそあるのよ」
ダニエル(ダニエル)は黙ってうなずき、喉を鳴らした。
「全力を尽くします。でも……導きが必要です」
女神フリッグは手を差し出した。すると、空中に四つの元素が映し出された――ダニエルが扱う〈火〉、〈風〉、〈光〉、〈水〉であった。
「この地域の気候は、バルサスによって完全に歪められています。彼がもたらした乾きによって、自然の水源は消え去ったわ。だから、この地では〈水〉の属性は呼び出せない……少なくとも、よほどの代償を払わなければ」
そう、彼女は静かに説明した。
「なるほど……水は、無理か」
ダニエルは考え込むように呟いた。
「でも、他の力――あなたの胸に燃える火、自由を求める風、そしてあなた自身が見出した光……それこそが、あなたの最大の武器となるのよ」
女神フリッグはさらに近づき、優しくダニエルの胸元に触れた。それは、彼の内に灯る炎を再び呼び起こそうとするかのようだった。
「自らの力を賢く使いなさい。あなたのそばには兵士だけでなく、友がいる。その友のためなら、最後の一瞬まで戦う価値があるわ」
やがて、彼女の姿は徐々に霧に包まれ、黄金の光と共に遠ざかっていった。
「ありがとう……」
ダニエルは声を震わせながら呟いた。
「全てに、感謝します」
「忘れないで、ダニエル……たとえどんなに闇が深くとも、光は必ず道を見つけ出すのよ」
目を開けると、彼は再び静まり返った教会にいた。像は冷たく、まるで何もなかったかのように佇んでいたが――
胸の内には、女神フリッグの言葉が確かに生きていた。
ダニエルはゆっくりと立ち上がった。思考が渦巻きながらも、心は穏やかで、決意に満ちていた。
明日、戦いは来る。だが今宵――彼は思い出したのだ。
自分が、何のために戦うのかを。
教会を後にしたダニエルの足取りは重かった。
あのひとときの安らぎは、まるで煙のように消えてしまったかのようだった。
胸を締めつけられる想いを抱きながら、彼はサー・ギャリック(サー・ギャリック)将軍を探すことを決めた。
瓦礫に埋もれたヴァルグレイドの街を歩きながら、彼は一度立ち止まった。
壊れた家々、戦火に焼かれた壁、瓦礫で塞がれた路地。
だが、それでもなお――その中に、命はあった。
廃墟の中で、子供たちが走り回っていた。
笑いながら、木の枝を剣に見立て、無邪気に振り回していた。
水桶を運ぶ男たちと女たち、食料の袋を担ぐ者たち。その光景を目にしながら、ダニエル(ダニエル)は胸が締め付けられるのを感じた。――希望は、まだここに生きていたのだ。
「みんなの努力のおかげだな……兵士たちも、民衆も……もしかしたら、俺も少しは役に立てたのかもしれない」そう思いながら、彼は年老いた女性が二人の子供にパンを分け与える姿を見つめた。
目を閉じ、深く息を吸うと、彼はギャリック卿が待つ建物へと足を進めた。
そこは、かつて街の行政本部だった古びた広間。中に入ると、ダニエルは懐かしい仲間たちの姿を目にした。将軍ギャリック卿、そしてアルデン(アルデン)、いつも通り真剣な表情のイザベル(イザベル)、心配そうな眼差しの癒し手ライラ(ライラ)、そして毅然とした面持ちの王女エリアナ(エリアナ)がそこにいた。その周囲には、複数の部隊長や小隊長たちが集まり、地図と報告書の広げられた机を囲んでいた。
無駄な間を取ることなく、ギャリック卿は重々しい声で口を開く。
「偵察隊が戻った。バルサス将軍の軍勢は、今や二千五百を超える魔族を擁している」
広間に重苦しい沈黙が落ちた。ランプの炎の揺れる音さえ止まったように感じられるほど、その数はあまりに現実離れしていた。
最初に動いたのはアルデンだった。机に拳を叩きつけ、怒りをあらわにする。
「ふざけるな! 俺たちが王都を発ったとき、派遣された兵はたった百人だったんだぞ! ここへ来る道中でも、多くの仲間を失った。ヴァルグレイド砦だって、守備兵は八百しかいない。これじゃ話にならない!」
ギャリック卿は無言で頷いた。長年の戦いが刻まれた険しい顔。
「その通りだ。数日前までは、あちらの兵力もそこまでではなかった。だが、急速に増強されている。特に、二日前に大きな変動があった」
その言葉に、ダニエルは目を細め、思案に沈む。
「……二日前か。俺たちが街道で待ち伏せを受けた日だな。もしかすると、あの時こちらの存在を察知して、軍の進軍を早めたのかもしれない。俺たちが防衛線を固める前に、一気に叩き潰すつもりだ」
広間の空気がさらに重くなる。互いに目配せをし、不安が色濃く漂う。特にダニエルの肩には、重い責任がのしかかっていた。
ギャリック卿は静かに続ける。
「元々、この前線には三千を超える兵がいた。しかし、戦況の悪化と王都近郊の村々への襲撃が相次ぎ、援軍は途絶えた。今は、ここにいる兵で戦うしかない」
その時、比較的前向きな様子の一人の隊長がダニエルを見て口を開いた。
「だが、我々には英雄がいる。ザルナック将軍を討った者だ。我々はあなたを信じている。この戦争、必ず勝ってみせましょう」
ダニエル(ダニエル)は胸の鼓動が早まるのを感じた。称賛の言葉は、むしろ重荷となって肩にのしかかった。静かに手が震え、彼は視線を落とす。その言葉は励ましではなく、圧倒的な期待の重さとして響いたのだ。彼には、失敗など許されなかった。
その時、エリアナ(エリアナ)がそっと近づき、彼の手をしっかりと握った。その手は暖かく、揺るぎない決意に満ちていた。ダニエルが彼女を見上げると、エリアナは優しく、そして自信に満ちた微笑みを浮かべていた。顔が熱くなるのを感じたが、不思議と胸の不安は少しだけ和らいだ。
ライラ(ライラ)はその様子を見て、唇を噛みしめた。イザベル(イザベル)は気まずそうに目を逸らし、腕を組む。だが二人とも理解していた。あの小さな仕草こそが、ダニエルへのささやかな支えであり、力を与えるためのものだと。
やがて、ライラがためらいがちな優しい声で呟く。
「……ダニエル、私たち、あなたの側にいるわ。この戦い、きっと勝てる」
ダニエルは深く息を吸い、気持ちを整えようとする。
「……ありがとう、みんな」
アルデン(アルデン)が戦略の話に戻り、問いかける。
「今、我々の兵力と配置はどうなっている?」
ギャリック卿は巻物を手に取り、冷静に答えた。
「現在、戦闘可能な兵は八百十三名。内訳は、剣士五百四十、槍兵九十七、弓兵九十九、魔導士三十、そして前線に出る治癒士が二十。残り二十七名は、砦内で負傷兵の治療に専念させる」
アルデンは頷き、すぐさま計算する。
「なら、戦場に出せるのは七百八十六名か。砦の中で防衛するのは無理だ。魔法障壁も崩壊寸前。全員、外へ移動させるしかない」
ダニエルが不安げに口を開く。
「だが……外の戦場は壊滅している。穴だらけで地面は不安定。硫黄と腐敗の臭いが充満し、まるで毒の沼地だ」
それに対し、アルデンはわずかに口元を緩めて答える。
「なら、それを利用するまでだ」
その言葉を聞き、ダニエルはかつての異世界で読んだ兵法書『孫子の兵法』を思い出した。静かに目を閉じ、思考を巡らせたのち、きっぱりと告げる。
「悪地は、力で奪うべきではない。こちらから攻めれば、必ず隙を晒すことになる。敵に先に動かせ、主導権はこちらが握るべきだ。砦の右手に、比較的状態の良い地帯がある。敵を、穴と泥の中で消耗させ、最後にその場所へ誘導すれば、こちらに有利な戦いができる」
「中央では長期戦を避けるべきだ。あそこでの消耗戦は、こちらの命と物資を削るだけになる」
アルデンは真剣に耳を傾け、やがて満足げに微笑んだ。
「良い考えだ。それでいこう。今夜は最終配置を練る。夜明けとともに、全軍へ作戦を伝える」
そう言い、彼は隊長たちに向き直り、命じた。
「中央には罠と障害物を用意しろ。戦いの舞台は、我らの選んだ場所で行う」
ギャリック卿も続けて声を上げる。
「……よし、全員、休め。明日、この戦争で最も暗い一日を迎えるだろう」
アルデンは三人の女性たちに目を向け、静かに言った。
「エリアナ、イザベル、ライラ……今夜はしっかり休め。明日、お前たちの力が必要になる」
三人はそれぞれ頷き、エリアナはダニエルの方を振り返った。その瞳が、言葉にできぬ想いをすべて語っていた。ライラは黙ってその場を後にし、イザベルは最後にちらりとダニエルを見たあと、静かに小さく頷いた。――「信じてるわ」と、そう言うように。
そして、夜がヴァルグレイドの地に落ちた。嵐の前の静けさ。張り詰めた空気の中、雲に覆われた空は、まるで世界が息を潜め、明日訪れる運命の時を待っているかのようだった。
この物語の中で、ダニエルの戦いは決して単純なものではなく、彼の成長と闘争の過程そのものである。彼が直面するのは、ただの戦争や魔族との対立だけではなく、自身の内面との戦いでもあった。女神フリッグの言葉が示すように、彼の真の強さは、剣や魔法の力だけではなく、彼を支える仲間たちとその信頼、そして彼自身が背負う希望にある。この戦いを通じて、ダニエルはその強さに気づき、最終的に何のために戦うべきかを見出すことができた。
戦場は常に厳しく、恐ろしいものだが、その中でも希望は確かに存在する。それは人々の努力や支え合い、そして何よりも生きる力だ。この物語の中で、ダニエルはその希望を見失わず、仲間と共に戦い続ける。
この作品が伝えるメッセージは、戦争の悲惨さだけではなく、人間の強さと絆の力にも焦点を当てています。どんなに過酷な状況でも、人々の心がひとつになれば、光を見出すことができるという希望を、この物語が読者に届けられたなら幸いです。
今後の戦いがどのように展開するのか、そしてダニエルがどのように成長していくのか、これからの彼の物語にご期待ください。