第35章 ヴァルグレイド:地獄への到達
この戦乱の世に生まれ、抗えぬ運命の渦に飲まれた若者たち。
砦ヴァルガルドの戦いは、単なる領土を巡る争いではない。
それは心を、命を、そして希望さえも試す試練の場だ。
ダニエルは、重責の中で己と向き合い、仲間と心を繋いでゆく。
彼を支えるライラ、イザベル、エリアナ──それぞれの想いが交錯し、
熱き決意と静かな痛みが、剣より鋭く胸を突き刺す。
暗雲渦巻く戦場で、果たして彼らは何を守り、何を失うのか。
そして、その先に待つ“本当の敵”の姿を、まだ誰も知らない。
新しい朝が、澄み切った空の下で訪れた。
地平線から昇る太陽は、雲を金と橙に染め、この世がまだ束の間の平穏を与えうるかのように思わせた。
穏やかな朝の風が吹き、遠く migratory birds のさえずりが、偽りの平常を演出していた。
彼らは隊列を組み、八十九名の兵士を率いて戦線へと向かっていた。馬の蹄が硬い地面を叩き、その音が揃った旋律となり、揺るぎない決意を響かせる。陽光を受けて甲冑が煌めき、槍の穂先が騎行のたびに揺れていた。
先頭を行くのはダニエル。右手にエリアナ、慎重に進路を見据え、左手にイザベル、手綱を強く握りしめている。後方にはアルデンとライラが控え、互いに無言の視線を交わしつつ、常に周囲の異変に目を光らせていた。
だが、進むにつれ、朝の美しさは次第に漆黒の闇に呑まれていく。
遠くの空には、濃く立ち上る黒煙の柱。まるで生きた影が陽光を食らい尽くすかのようだった。焦げた匂いが鼻を突き、かすかな風に混じるのは血と焼けた土、そして死の臭い。
ヴァルグレイドは、今まさに攻撃を受けていた。
最初に届いたのは、風に運ばれた断末魔の叫び。爆発音、剣戟、助けを求める声。
そして城塞都市の間近で、その地獄は姿を現す。
街路は修羅場と化していた。
倒れ伏した兵士たち。息のある者、すでに息絶えた者。空を見つめたままの目。
血に染まった布と板きれの担架に運ばれる負傷者の呻き声が響き渡る。
石畳の上では、即席の手術が行われ、麻酔も隠しもない。鋭い刃が肉を裂き、骨が切り落とされ、断末魔が響く。骨の砕ける音、絶叫、そして癒しの呪文の詠唱が混じり合い、不気味な交響曲を奏でる。
治癒師たちは疲弊し、血に染まった手を震わせ、意識を失う者もいた。
兵士たちは這いずり、母を、神を、誰彼かまわず助けを求めて叫び、失った手足を握りしめ、現実を受け入れられぬまま、虚ろな目をしていた。
地面は血で染まり、かつての石畳は闇色の水たまりに覆われた。
空気は血、糞、膿、汗、そして死の匂いで満たされ、目を焼き、胃をねじった。
目の前で男の脚が切断される様を見たダニエルは、膝をつき、激しく嘔吐した。
口内に広がる苦味と、目の前の光景が、彼の精神を容赦なく削る。
「……こんなの、悪夢だ……」と、エリアナが微かに呟く。
イザベルは一歩後退し、涙を溜めながらも堪えていた。
鍛錬の日々を越え、幾多の敵を倒してきた彼女ですら、この地獄は初めてだった。
アルデンは無言でそれを見つめる。
石のように冷たい顔。既に、もっと酷い光景も幾度も見てきた男だ。
ライラも視線を逸らさない。
治癒師として、ここで崩れるわけにはいかないのだ。一秒でも、早く。
「これが……戦争の現実よ」と、低く、それでも確かな声でライラが告げた。
その瞬間、空を裂く鋭い音が響いた。
燃え上がるような音の矢が迫る。
「ファイアボールだ!伏せろ!」
見張りの叫びとともに、炎の球が空を切る。焼けるような空気、震える大地。
紅蓮の光が一瞬、街を照らし、破滅の太陽となる。
ダニエルたちは即座に石壁の陰へ飛び込み、周囲の兵士も負傷者を守りつつ、散開。
火球は南側の区画に墜ち、轟音と共に爆発。地鳴り、舞い上がる瓦礫。
その後に響いたのは、人の悲鳴。
ダニエルは震える手でゆっくりと立ち上がり、なおも揺れる空を見上げた。
鼓動は早鐘のように鳴り響いていた。
— これが俺たちの現実だ…
アルデンは静かにダニエルに近づき、低く呟いた。
— そして、これはまだ始まりに過ぎない。
その時、銀色の甲冑を纏った大柄の男が混乱の中から姿を現した。
顔は埃と乾いた血で汚れ、片腕に兜を抱え、疲労と指揮官の覚悟を湛えた眼差しで一行を見据える。
— よく来てくれた。最悪の時に間に合ったな。
男は重々しい声でそう言い、一同の前に立ち止まった。
彼は手を差し出し、ダニエルはその手を力強く握り返す。
— 私は騎馬将軍ギャリックだ。
バルサス将軍は容赦なく攻撃を仕掛けてきている。こちらに息をつく隙さえ与えずにな。
この砦が崩れれば、ヴァルグレイドだけでなく、周辺の都市、そして王都までも危機に晒されることになる。
ダニエルは険しい表情で静かに頷いた。
その肩に、戦争という名の重圧が鎖のように絡みつくのを感じる。
周囲を見渡せば、傷つき、絶望に沈んだ兵たちの顔。
幾人かはまるでダニエルが救いそのものかのように視線を向ける。
胸が締めつけられた。
深く息を吸い、そして力強く答えた。
— 我々も戦う覚悟はできています、ギャリック将軍。次は、何をすべきでしょうか?
ギャリック将軍は若き顔ぶれを一人一人見渡し、
この中の幾人が明日という日を迎えられるか分からぬと知りながらも、静かに頷く。
— まずは食事と休息を取れ。次の襲撃に備えるんだ。
手を軽く振ると、一人の兵が彼らを半壊した建物へ案内した。
そこは兵たちの即席の食堂であり、避難所であり、まるで戦場の隠れ家のようだった。
空は灰に覆われ、朝の澄んだ青空など、もはやどこにもなかった。
そして、まだ始まったばかりの一日。
戦の序章が静かに、その音色を響かせる。
彼らは粗末なテーブルを囲み、簡易の大広間に腰を下ろす。
そこはもはや食堂というより、戦場の避難所だった。
木造の壁は兵の足音と怒号に震え、揺らめく松明の灯りが、壁に歪な影を落とす。
空気は乾いた血と汗、薬草の匂いに満ち、戦が間近に迫っていることを告げていた。
用意されたのは、硬い黒パン、干し肉、そして生ぬるい水だけ。
ダニエルは食事に目を落としたが、箸を伸ばす気にもなれない。
疲労に満ちていたが、心は休まることなく、視線は無意識に周囲を彷徨う。
負傷兵の治療、うめき声、そして蒸し暑い空気。
まるでその空気が肩に重くのしかかるかのようだった。
その時、胸の奥に静かな痛みが生まれる。
黒い煙のような苦味が心臓を蝕み、じわりと広がる。
怒り、憎しみ、説明できない感情が、暗い記憶の底から沸き上がってくる。
過去の屈辱。
蔑まれた日々。
無力さの記憶が波のように押し寄せ、今の戦と痛みと混じり合い、ダニエルの心を蝕んでいく。
抑えきれない力が胸の奥で蠢き、目の奥を熱くし、拳を握らせる。
— ダニエル?
軽やかだが、確かな声がその思考を断ち切った。
ニックスだ。
小さな精霊は緑の瞳を見開き、心配そうにダニエルを見上げていた。
— 大丈夫?
ダニエルは瞬きをし、軽く身を震わせながら現実へと戻る。
深く息を吐き、必死に胸の奥の黒い感情を追い払う。
— ああ…平気だ。
無理に笑顔を浮かべて答える。
ニックスは何も言わず、そっとそばに留まる。
ライラは、近くの松明の炎を見つめ続けていた。
その瞳に映る炎の光は、どこか翳りを帯び、言葉なく、彼女の不安を物語っていた。
そして静かに手を伸ばし、ダニエルの腕に触れる。
その柔らかな感触に、ダニエルは再び意識を現実へと引き戻された。
— ダニエル…
その声はかすかで、周囲の混沌を乱すのを恐れるかのような囁きだった。
— 大丈夫?…みんな大変だけど、あなたは隊を導く立場で… きっと、計り知れない重さよね。
ダニエルはしばらく彼女の瞳を見つめ、その穏やかな眼差しに心を預けた。
深く息を吐き、ほんの一瞬だけ弱さを許した。
— 簡単じゃないさ、ライラ。
時々、世界が俺に『すでに完成された存在であれ』って求めてる気がする。間違えちゃいけないって。だけど、進まなきゃならない。みんなのために、俺たちのために。
声は強かったが、疲労の影は隠せなかった。
ライラはそっと彼の腕を握り、優しい微笑みを浮かべた。
— 私たちはあなたの側にいるよ、ダニエル。私は…ずっと、あなたの側に。
ダニエルは言葉を返さず、だが胸の奥で静かに心が波打った。
彼女の存在は、この張り詰めた空気の中で唯一の安らぎだった。
その様子を、テーブルの向こう側からイザベルがじっと見つめていた。
ライラの手がダニエルの腕に触れる光景に、イザベルの胸は鈍く締めつけられる。
あの日、告白に失敗して以来、ずっとその想いを押し殺し、戦いに集中しようとしていた。
だが今、その感情は抑えきれず、苦い熱が胸の内で渦巻く。
彼女は視線を逸らし、空になりかけた皿の上で固いパンを弄んだ。
けれども、ダニエルとライラの姿は脳裏から消えなかった。
— イザベル?
アルデンが声をかけ、彼女の隣に腰を下ろす。
負傷兵たちの姿を目にし、彼はイザベルが心乱れていることを察した。
理由までは分からないが、戦場の風景だけの問題ではないと感じていた。
— ダニエルもだいぶ自信が出てきたな、そう思わないか?
イザベルはしばし黙り、やがてわずかに頷いた。
— うん…そうね。
声は思ったより弱々しかった。
— こういう時期は、誰だって心を乱されるもんだ。
アルデンは静かに励ます。
— だけど、お前はそれを乗り越えられる強さを持ってる。俺は、知ってるからさ。
イザベルは無言で頷く。
言葉ではどうにもならない感情を抱え、それでも肩を上げて平然を装う。
今は、誰もが自分の限界を超えねばならない。戦は甘えを許さないのだから。
一方、広間の一角で、前線から戻ったばかりの市兵たちがダニエルに駆け寄る。
その中の一人、疲弊しきった瞳をした若者が深々と頭を下げ、報告する。
— ご報告します… 敵の進軍速度は想像を超えています。前線には“魔将”が…奴は魔物を完全に操り、まるで自分の手足のように指揮を取っているのです。
— 近づこうとした者は、誰も戻ってこなかった…
別の兵士が声を詰まらせながら続ける。
— 奴はこちらの動きを先読みしているかのようで、側面からの奇襲も全滅しました。
ダニエルは顔を曇らせ、その言葉の重みを静かに受け止めた。
己の内に、さらに増す重圧を感じながらも声を揺らさずに応える。
— よく知らせてくれた。これより対策を練る。
兵士たちが去ると、エリアナが厳しい面持ちで近づいてくる。
彼女も道中、街の兵士たちから Eldoria の戦況の噂を耳にしていた。
誰もが口を揃えて言った。“あそこは地獄よりも酷い”と。
エリアナは広間に響くような声で言った。
— よく聞け。怖いのは、誰も同じだ。だが、ここは私たちの家だ。家族も仲間も、この場所で生きている。守る理由はそれで十分だ。義務じゃない。自分の誇りのために戦え。
その言葉に、場の空気が静まる。
兵たちは黙って頭を下げ、失いかけた決意を取り戻す。
遠くから、その様子を見つめていたダニエルは、エリアナの言葉の力を改めて実感した。
彼女はただの弓の名手ではない。仲間の心を導く天性の指導者だ。
痛みと疲労に沈んだ空間の中で、確かな希望の灯火が静かに灯る。
食事の後、ギャリック卿がダニエルたちを集め、現状の説明を始める。
— 南方の地がこれほど熱くなるなど、かつてなかった。
ギャリックは粗末な石の卓上に地図を広げながら言う。
— バルサス将軍は“怒り”を司る魔将だ。奴は地の底のマグマを操り、大地そのものを怒りの炎で包み込む。山を揺らし、地を裂き、戦場を溶岩の迷宮に変える。奴の歩みの先では、大地が呻き、爆ぜ、焼き尽くすのだ。
彼は砦の外郭を指差しながら続ける。
— 幸い、ヴァルガルドの城壁は未だ直接の被害を受けていない。この地を護るのは、二百年前に張られた古代の結界だ。だが、連日の猛攻でその結界も限界に近い。いつ消えてもおかしくない。
ダニエルは真剣な表情で耳を傾け、頭の中でこの状況をどう突破するかを模索し始めた。
隣でエリアナも鋭い眼差しで地図を睨み、敵の進軍パターンを読み解こうとしていた。
その頃、ライラはじっとダニエルを見つめていた。
彼が背負う静かな重圧に、胸が締めつけられる思いだった。
一方、イザベルも任務に集中しようとするものの、心の内側では抑えきれない感情が渦を巻いていた。
すると、アルデンが地図の上に手を伸ばし、指し示しながら口を開く。
— バルサス軍はすでにすぐ近くまで迫っている。今、補給路を断とうとし、砦と街の弱点を探っている状態だ。まだ突破は許していないが、時間の問題だ。必ず奴らは戻ってくる。そして、今度は本気で。
その言葉に、ダニエルの中で何かが揺らいだ。
街で見た虚ろな目の兵士たち。あの食堂で、希望を失いかけた仲間の顔。
その記憶が鮮やかに蘇り、彼の手がかすかに震えた。
迫りくる戦、背負う命の重さ。胸の奥が押し潰されそうになる。
その瞬間、まるで彼の苦しさに気付いたかのように、エリアナ、ライラ、イザベルがそっと彼の側に寄り添い、そっとその手に触れた。
— あなたは一人じゃない。
エリアナが静かで、だが力強く囁く。
— 暗闇にあっても、あなたの光は私たちを導いてくれる。
ライラが優しく微笑みながら続けた。
— 私は… あなたを信じてる、ダニエル。誰よりも…
イザベルは目を伏せ、頬を赤らめながら呟く。
三人の言葉が、それぞれの想いを込めてダニエルに届く。
その温もりが、胸の内に残る不安と震えを静かに鎮めていった。
再び、彼の心に灯る闘志の炎。
アルデンが口を開き、石造りの広間にその低く響く声が重なる。
— 砦ヴァルガルドを離れて戦うのは無謀だ。この周囲は互いに有利な地形もない。どこで戦っても同じなら、俺たちには士気と守りの利を持つ、ここが唯一の拠点だ。
彼はまっすぐダニエルを見据え、厳しくも誠実な眼差しを向ける。
— 残念だが…犠牲は避けられない。それでも、家族のために戦う者の命を無駄にするわけにはいかない。ダニエル…お前も、覚悟はいいか?
ダニエルは静かに息を吸い込み、頷いた。
責任の重さは変わらない。だが今、その重みを分け合える仲間たちがここにいる。
その想いが、彼の瞳に揺るぎない決意を宿した。
— 戦には代償が伴う。だが、俺は必ず皆を連れて帰る。この砦を守り、生きて家族のもとへ… 笑顔で帰らせる。俺たちは勝つ。この戦を。
戦いの足音は、もうすぐそこに迫っていた。
そして、それぞれの胸に秘めた想いもまた、敵軍の足元で煮えたぎるマグマのように、激しさを増していくのだった。
砦を包む炎と血の匂い。だが、それ以上に熱いのは人の想いだ。
戦場の片隅で交わされる小さな言葉と触れ合いが、どんな武器よりも力になる。
ダニエルの震えを止めたのは、仲間たちの静かな声と信頼だった。
戦いに挑む者にとって、一番の武器は剣でも魔法でもない。
それは隣に立つ者の存在、背中を預けられる絆だと、この章は教えてくれる。
バルサスの猛威、そして仲間たちの秘めた想い──物語はさらに熱を帯びる。
次の瞬間、誰が笑い、誰が涙を流すのか。戦火の中で答えが待つ。
さあ、まだ終わらぬ戦の続きを、その目で確かめてほしい。