彼女が心霊スポット行きたがるワケ
大学の騒々しい講義室へ入ってから僕が真っ先にやることは、ワイヤレスイヤホンの突き出た部分を長押しして、ノイズキャンセリング機能をオンにする。
太陽の光が差し込む窓際とは全く逆方向の席へ腰かけると、教授が来るまで本を読む。
まだ周囲の音は気になるけど、物語の世界へ浸っていれば、そのうち気にならなくなる。
誰も僕という石ころには見向きもしないだろうし、僕もこの人たちと関わるつもりはない、はずだった。
「おはよう僕くん」
見覚えのある女子生徒の顔が、視界に入ってきた。本から僕を遮るように。
ため息をひとつ。海へダイブしたはずが、すぐ首根っこを掴まれて無理やり陸へ引き戻されたような気分だ。となりで立っている問題の彼女を睨みつける。
「あのさ、〝僕〟は名前じゃないんだけど」
「知ってる。だって大学生にもなって自分のこと僕って言う人めずらしんだもん」
「でも論破王とかメンタリストのウィッシュじゃない方とか、一人称〝僕〟だけど」
「あれは使い分けてるだけでしょ。ウィッシュじゃない方は俺って言うことあるよ」
「あぁそう」
「だいたい、きみだってわたしの名前呼んでくれないじゃん。もう出会って一週間だよ?」
「まだ一週間しか経ってない。そもそも、君の名前知らないし」
「えぇ!? ひどーい。名前言ったじゃん」
彼女は眉間にしわを寄せた。
「そうだっけ」
「そう!」
記憶を探る。
彼女との最初の出会いもこんな感じだった。
入学して二日目の講義のこと。
ひとり本を読んでいると、彼女とその女子グループが近くに座ってきた。たまたまとなりになった彼女が僕に話しかけてきた。何を読んでいるのか、と。
そのときに、名前を言っていたような気がする。
しかし思い出せない。とても輝いている印象だった。
「明類明李! こんなおもしろい名前忘れちゃうなんて君、よっぽど私に興味ないんだね」
というか、そもそも他人に興味がない。
「おもしろい名前って、認めるんだ」
「うん、だってクレヨンしんちゃんに出てきそうじゃない?」
「あぁ、確かに」
唐突に、彼女はプっ、と噴き出した。
「ヤバい。自分で言ってツモっちゃった」
口元を抑えて、こらえるようにムフフっと声を出している。
周りを見渡す。案の定、明類明李の女子グループを含めた何人かが、こちらに視線を送っていた。不思議なものでも見るような目をしている人もいれば、ニヤけている人もいて、何か喋っている。
とにかく、めんどうなことは避けたい。
「あのさ、要件がないなら友達のところに戻った方がいんじゃない?」
「用件ならあるよ」
あるんだ。
彼女の役に立ちそうな情報を僕が持っているとは思えないけど。
高確率で知らない、分からない、と答えるとだろうけど一応、「何」と訊いてみせた。
「わたしと一緒に心霊スポットに行ってほしいの」
「いや、行かないでしょ」
訊きたいことでもあるのかと思ったらまさか、心霊スポットだなんて。
目的は人数合わせとかそんなところなのだろうけど、僕を誘うのは間違っているし、どう考えても場違いだ。多分、彼女は僕がひとりでいることに同情して声をかけているのだと思うし、この誘いもその一環なのだろう。じゃなきゃ僕に声をかける理由の説明がつかない。
正直、いい迷惑だし、余計なお世話だ。
「えぇ行こうよぉ。こんな美女と二人きりでドライブだよ? 最高じゃん」
彼女は手のひらを自分のほほに添えると、その顔をこちらに近づけてきた。
思わず顔ごと視線をそらした。
確かに、整った顔立ちをしているけど。
「それ自分で言うんだ。というか、二人きりってどういうこと?」
「二人で行くんだよ。心霊スポットに」
「何で僕なのさ。友達と行けばいいじゃん」
「君なら、そういうの大丈夫だと思ってさ。それにみんな怖がるだろうし」
「僕以外にも大丈夫な人はいるでしょ」
「ううん、いない」
彼女は首を左右に振った。
そのタイミングで教授が「始めまぁす」と言って、講義室に入ってきた。
「とにかく、僕は行かないから他を当たって」
「分かった。また誘うね」
明類明李はこちらに軽く手を振ってから、友人の元へ戻っていった。
全然分かっていない。
僕はまた、ため息をついた。
それからも、明類明李は事あるごとに絡んできては心霊スポットに行こうと言ってきた。
僕は次第に、彼女を避けるようになった。
彼女と同じ講義にはギリギリの時間に行って、遠い席に座る。
校内で見かけたらすぐに背を向けて別の道を使う。
かなりめんどうだけど、時間が経てばあきらめるだろうし、声をかけてくることもなくなるだろう。
近くの公園で昼食を済ませた僕は、その足で図書館へ赴いた。
次の講義までここで過ごす予定だ。こんなところに彼女は来ないだろうから安心できる……はずだった。
「あっ……」
つい、声が出てしまった。
なぜなら、館内に明類明李その人がいたのだ。
本を何冊か抱えて歩いている彼女と、バッタリ鉢合わせてしまった。
しかも、目が合ってしまった。驚きで見開かれた、彼女の目と。
僕は即座に踵を返し、背を向けた。
いや、そもそも明類明李はそこにいなかった。僕は何も見なかった。
早歩きで出口へ向かおうとしたそのとき、後ろから「あっ、ちょっ……あっ」という慌ただしい声と同時に、バラバラと物が落ちる音が聞こえてきた。
振り返ると、明類明李の抱えていた数冊の本が床に散らばっていた。
「あぁもうっ」
困った顔で、少しイラついた様子の彼女は、しゃがみこんでそれらに手を伸ばした。
僕はまた、ため息をついた。
自分が性格いい方でないことは自覚している。
でも、これを知らない顔して逃げることができるほど薄情ではない。
彼女へ歩み寄り、僕もしゃがみこんだ。
「なんで逃げるし」
「逃げてない」
「逃げたじゃん。というか、最近わたしのこと避けてるよね?」
「だって、しつこいから」
ほんの少しの沈黙の後に、彼女は弱々しく「ごめん……」と口にした。
ハードカバーで厚みのある本を手に取ると、表紙には『行動経済学』と書かれていた。
散らばった他の本にも目を向ける。
ゲノム編集、人類史、アート思考、メタバース、進化心理学、統計学などの単語が書かれていた。どれも難しそうな本ばかりだ。しかも、ジャンルがかなり広い。
読むにはそれなりに知識がいるだろうし、読書量が多くなければ、こんなに手を出そうとは思わない。
「ありがと。ごめんね」
「あっ、いや……」
拾った本を彼女に手渡すと、二人同時に腰を上げた。
「それ全部、君が読むの?」
「うん。そうだよ。もうとっくにAIの時代が始まってるからね。生き残るためにいろんなこと勉強しないと」
意外だ。
彼女の口からそんな言葉が出てくるなんて。
「借りてくるね」
彼女がこちらに背を向けたとき、艶のある黒くて長い髪が、ふわりと揺れた。
少しずつ小さくなっていくその背中を数秒の間見ていた。
そして、空気を思いっきり吸い込んだ。いつの間にか、呼吸するのを忘れていたことに、今気づいた。
いてもたってもいられず、その背中を追いかけた。
もしかしたら僕は、明類明李という人間を誤解していたのかもしれない。
だから、それを確かめたかった。
隣に並んで、彼女の横顔に話しかけた。
「あのさ、行動経済学って何? 経済学と何が違うの?」
明類明李が、わずかに開いた口と、驚きの色をにじませた目を、こちらに向けてきた。
互いの視線が絡み合う中、彼女は我に返ったように一度、瞬きをした。
「えっと、行動経済学っていうのはね」
彼女はぎこちなくしゃべり始めた。でもそれは最初だけで、以降はスラスラと言葉が出てきた。
「経済学における、心理学のことを言うの。経済心理学って言った方が分かりやすいかな」
「なるほど」
彼女は抱えていた本を「お願いします」と言って、カウンターの司書に渡した。
あれやこれやの手続きをしながら、話を続ける。
「経済学のモデルってさ、人間が合理的であることが前提になっているよね。その経済は人間が動かしている」
「うん、確かに」
「でもさ、人間て合理的かって言われたら、そんなことないんだよね。
例えば、浮気しまくりで、ものすごくお金がかかるダメ彼と付き合ってる彼女とかいるでしょ?
誰がどう見ても、絶対別れた方がいいって言うよ。
でも、だいたい別れないでしょ?
それどころか、さらに貢いじゃう。
経済学のモデルだと、『別れる』しか選択肢はない。そうしない理由は? て言われても、経済学じゃ説明ができない。でも、」
「行動経済学なら、説明ができる」
「そういうこと」
不敵に笑う彼女は、僕の目を見ながら人差し指を斜め上に向けた。
「『今まで彼にこれだけ尽くしてきたし』とか、
『もう少しで結婚できるかもしれない』とか考えて、別れようとしないんだよね。
人間てさ、それに対して労力とかお金とかをかければかけるほど、
そこから手を引くことに強い抵抗を感じるようになるんだよね。
自分が思い描いている通りであってほしいから、
『自分は絶対に間違っていない』って、強く思いこむ。
これを『サンクコストバイアス』って言うの」
「へぇ」
心の底から、感嘆の声が出た。
そんな学問があったなんて知らなかった。
経済を動かす人間の心理を追う。よく考えてみれば、誰かしらがそんなことをしていてもおかしくない。けど、それについて考えたことはなかった。
時間なり労力なりを多く投資した分を取り戻そうとして、さらに多くの投資をしてしまう。そこまで大それたことではないにしろ、僕にも似たような経験はあるし、きっと誰にでもあるんだと思う。
「伝わったかな」
「うん、とても。すごく分かりやすかった」
「おっ、僕くんにしては珍しく高評価だね」
「まぁ、ほんとのことだから」
そう思えるのは多分、彼女が誰でも聞いたことがありそうな話で例えてくれたからだ。
「そっか、嬉しいな。わたしと心霊スポット行く気になった?」
「なるわけないでしょ」
僕の感心を返してほしい。
「えぇ~、ダメかぁ。今の流れでいけると思ったんだけどなぁ」
「逆に、いけると思った理由をこっちが聞きたいよ」
通りかかったベンチに、彼女はどさりと腰を下ろした。
気がつけば、もう学校の敷地内にいて、校舎はすぐそこまで迫っていた。
もう講義室へ向かってもいい時間帯だ。
彼女と共に入室する気はないので、じゃあここで、とか一言告げて立ち去ろうとしたとき。
「はい、あーん」
「ちょっ……」
突如、彼女が僕の口元に何かを近づけてきた。というより、押し付けてきた。
口の中にゴツゴツとした物が食い込んでくる。舌が触れた。ほんのりと甘い。
彼女の手が離れたとき、僕の唇は、スイーツであろうそれをしっかりと持ち上げていた。
手に取ってみると、それはチョコチップクッキーだった。
「何するの」
「手作り」
「答えになってないんだけど」
無邪気に微笑えむ彼を睨みつける。
しかし、当の本人は自分のクッキーを味わうのに忙しそうだ。
「やっぱわたし天才かも。きみも食べなよ。おいしいよ」
手に持ったそれに目を向ける。
強引な手段だったとはいえ、口どころか舌までつけてしまったわけだし、この状態で返すわけにはいかない。捨てるのも人としてどうかと思う。
僕はおもむろに、それを口へ運んだ。
かじりついた瞬間、ほんのりとしたクッキーの甘味が口の中へ広がった。
サクサクと歯ごたえがあって、噛んでいる中でチョコの甘味とビターの苦さが加わる。
自然に「うまい」と、口から出ていた。
手作りという情報を事前に知らなければきっと、かなりいい店で作られたものではないかと勘違いしていただろう。
「食べたね」
見ると、彼女はニヤリと笑っていた。よからぬことを企んでいるのは明らかだ。
「何」
「フフフ。そのクッキーを食べたら最後、わたしと心霊スポットに行く契約が結ばれるのです」
「いや、そんな義務は……」
「ああぁ~、作るの大変だったなぁ」
ない、と言おうとしたはずが、彼女はより大きな声で、わざとらしい言い方で僕の言葉を遮った。悪魔のような笑みを浮かべながら、じっと僕を見つめている。その目は、絶対に離さない、と語っているようだった。
僕はまた、ため息をついた。
「……分かったよ。一回だけ付き合うよ」
「ほんと!? やったああああ!」
彼女は今にも飛び跳ねそうな勢いで両手を上げた。子供のようにはしゃいでいる。
「君って意外と狡猾だよね」
「そんな人聞きの悪いこと言わないでよ」
「実際に人聞きの悪いことをやってるんだよ」
「フフフ」
こうして、僕は明類明李と心霊スポットに行くことになってしまった。
連絡先を交換して日程を調整して、今週の金曜日の夜ということで決まった。
廃墟やトンネルの画像を見せながら、どこにするかと訊いてきたけど、僕にとってはどこでも同じなので全て彼女に任せることにした。
時間の経過は思ったよりも早いもので、その日はすぐにやってきた。
今日、明類明李は親から借りた車で、夜七時に僕の自宅まで迎えに来るとのことだが、時間になっても来ない。
集合時間の一〇分が過ぎたところで黒い乗用車が現れた。
運転席には彼女が乗っていた。向こうも僕の存在に気付いたらしく、こちらへ手を振っている。
目の前で車が止まる。僕がドアを開けてすぐ、彼女が第一声を放った。
「ごめんね。待った?」
「うん、まぁ、一〇分ぐらい」
「そこは、僕も今来たところだよ、言ってよ」
「来るも何も家だし」
「そりゃそうか」
ドアを閉めてからシートベルトをするという一連の動作を終えると、車がゆっくりと走り出した。
慣れた手つきでハンドル操作をする彼女の姿は、免許を持っていない僕からしてみると自分よりもひとつ大人に見える。
「ねえ、ご飯まだだよね? しゃぶしゃぶでいい?」
「えっ……ああ、うん」
「あ! 今まさか嫌とか思った? それはさすがに悲しいよ」
「いや、そうじゃない。本当に」
「ほんとぉ?」
彼女は疑いの目でこちらを見ていた。
だが、嘘はついていない。むしろ本心だ。
突然の誘いに少し戸惑ってしまっただけで、決して拒絶しようとしたわけではない。
「うん、本当に思ってない。だから行こう」
「ふぅん、ならいんだけどさ」
そう彼女は言ったが、まだ僕への疑いは晴れていない様子だ。
それでもこんな気恥ずかしいことを伝えることはない。墓場まで持っていくつもりだ。
「あ、そうだ。この前彩がね」
二人で囲むしゃぶしゃぶ鍋へ、彼女が野菜をふんだんに投入しているときに突然、僕の知らない人の名前を口にした。
彼女と会話をしていると、何の紹介も無しに急に新たな登場人物が出てくることがよくある。そのたびに毎回、僕が「誰」と訊くのがお決まりのパターンで、今回もその例に漏れない。
「同じ大学の友達。きみともいくつか講義かぶってるよ」
「あ、そう」
「興味なさそう」
「うん、まぁね。で、その人がどうかしたの?」
「興味なくても聞いてくれるんだ。少しはわたしに優しくなったね」
「その言い方だと、今まで優しくなかったみたいじゃないか」
「うん、全然優しくなかった。それで彩がね、最近彼氏と別れたんだって」
あまりの文脈のなさにはあえて触れず、僕は「うん」と返事をした。
「それでわたし、彩に占いに誘われたんだよね。でも占いなんて当てにならいじゃん?
そう言ったら彩がさ、でも彼氏と付き合う前に行ったときには、
『あなた今、悩んでることがあるわね』とか、
『言葉に気をつけた方がいいわよ』とか言われてめっちゃ当たってた、って言ってたんだよね」
彼女は占い師のセリフをそれっぽく真似して、身振り手振りで話を続ける。
僕は彼女の言葉に「うん」「それで?」と言いながら頷く。
「誰でも悩みのひとつやふたつぐらいあるし言葉に気を付けた方がいいのは同じでしょ?
これ騙される人の典型例じゃん、て思って、もう笑っちゃったよ」
「確かに」
彼女はアハハと声を出して笑った。楽しそうに喋る姿を見て、僕も自然と口角が上がった。
「何回彩に言っても、
『でもピッタリあたしに合ってたから』て言って聞かないんだよね。
『だから、みんなに当てはまりそうなことを言ってるんだよ』、って言ってるのに。ほんとおもしろいよね」
「うん、確かにそうだね」
笑いが鎮まると、二人の間に沈黙が流れた。ノイズキャンセリングを解除したみたいに、周囲の音が耳に入ってくるようになる。
彼女の話が終わったという確信を持った僕は、この静寂を自分から破ることにした。
「君はさ、そういうときに気を使って友達に合わせたりしないんだ」
「しないよ。そんな上辺だけの関係なら続けたくないし、続かないと思う。だからハッキリ言う」
「それで関係が壊れるとしても?」
「うん。そんなことで壊れるなら、その程度の関係だったことだからね。むしろ分かってよかった、って感じ」
「そっか」
友達が多い彼女のことだから、てっきり合わせてばかりいるのかと思いこんでいた。
やっぱり、僕は明類明李という人間を誤解していたのかもしれない。
「そろそろ行こっか。着く頃にはちょうどいい時間になってるしね」
「うん」
店を出た僕らは、彼女の運転で再び現地へ向かった。
移動している間も、彼女の話題は尽きなかった。それだけのものがいったいどこから出て来るのかと思えるくらいに。
「僕くんはさ、幽霊とか死後の世界とか信じる?」
「信じない」
「だと思った。じゃあ、人間は死んだらどうなると思ってる?」
「多分、意識ごとなくなるんだと思う」
「そう。きみらしい答えだね」
逆に、彼女はどう思っているのだろうか。
以前の自分だったら信じているだろうと予測していただろうけど、僕が思っている以上に彼女は合理的だ。多分、僕と同じ考えか、あるいは――
「君はどう思うの? 死後の世界とか」
「ある、って信じたい」
暗がりの中、優しい口調で彼女は答えた。
ライトに薄く照らされたその微笑みは、どこか寂し気だった。
その言葉の意味を聞こうと口を開いたとき、ナビが目的地の到着を知らせた。
「着いたね」
車を停車させると、ライトが消えて一気に暗くなった。
彼女に合わせて僕も外へ出ると、向こう数メートル先に、どんよりとした雰囲気のトンネルがあった。明かりはほとんどなく、コケまみれで何年も使われていないのだということがすぐに分かる。
お化けとか、そういったたぐいの物は信じていないけど、あの暗闇から何かが出てきそうだと感じずにはいられない。よくある怪談話とかで〝あれは人じゃなかった〟なんて表現が使われるけれど、それが人だったとしても怖いと思う。
僕らを待ち構えるように立つそのトンネルに、急に光が差した。
「はい、僕くん持って」
懐中電灯を差し出してきたので受け取る。
スマホ操作をする彼女の手元から撮影準備完了を知らせる音が小さく鳴った。
「行こうか」
頷いて、二人同時に足を進めた。
こくこくと、不気味なそれに近づいていく。
それと連動するように、僕の心拍も少しずつ上昇していく。
この恐怖から少しでも逃れる手段はないかと思考を巡らせてから、僕は口を開いた。
「撮影するんだ」
「うん、これも大事だからね」
「そっか」
「……」
珍しく、ものの数秒で会話が途切れた。
いつもだったらこんなことにはならないし、そもそも彼女から話を振ってくるはず。
なのに、ここに着いてから彼女は押し黙ったまま、僕の一歩後ろをただ歩く。
暗闇に包まれた空間へ足を踏み入れると、ヒュウっと風が吹いた。
「うわっ」
彼女の高い声が反響した。同時に、僕の二の腕を掴んできた。
心臓の高鳴りを感じなら、僕は反射的に彼女の方へ振り向いた。
「ご、ごめん。ただの風だったね」
彼女の手が二の腕から離れた。
暗闇のせいで表情は分からないけど、その口調から彼女のメンタルがとても差し迫った状態にあるのだということは分かる。
「あの、大丈夫?」
「うん。大丈夫。ありがとう」
「なら、いんだけど」
こういうとき、女性慣れしている人だったら、とても気の利いたことができるのだろうけど、あいにく僕はそんなスキルを持ち合わせていないので、ありきたりな言葉しか出てこなかった。
少しでも彼女が安心できるような行動ができないか思案するけど、どうにも思いつかない。余計なことをしてむしろ不快にさせてしまうリスクもある。
結局、会話は一切なく、二人の足音と気まずい空気がこの場を支配していた。
しばらく歩いていると、前方から光が差し込んだ。
「あれ、出口じゃない?」
「そうだね」
ほんの少しだけ、固い感じがなくなったような気がするけど、口数は変わらない。
出口へ近づいていくにつれて、お互いの歩くペースが徐々に早まっていった。
どちらが先にスピードを上げたのかは分からない。彼女かもしれないし、僕かもしれない。
ただ、一時的な安心をお互いに強く求めての行動なのは間違いない。
外は整備が不十分な道が続いていた。明かりがついているのでトンネルの中よりはいくらかマシだけれど、絶対に一人では歩きたくない。
そして後方には自分たちが出てきたトンネルがそこにある。
強い圧力を感じる。それは多分気のせいなんだろうけれど、近づくのを躊躇せざるを得ない。
僕は後ろにいる彼女へ振り向いた。
「戻る?」
スマホを片手に、彼女は無言で頷いた。
立ち止まったまま、少しだけ待ってみたけど、向こうからは歩き出そうとはしない。
こちらのタイミングで歩き出していいものかと戸惑いながら、僕は一歩を踏みしめた。
彼女もついてきていることを目の端と足音で確認して、前へ進んでいく。
中へ入ると、二人の足音が再び反響し始めた。やはり彼女が喋りかけてくる気配はない。
正直、どう声をかけたらいいか分からない。いや、そもそもどんな話をするべきかが思いつかない。自分のコミュニケーション能力を呪いながら、何を話すか、ただひたすら考えるしかない。過去に彼女が話していたことから話題を作るのはどうだろう。パッと思いつくのは、今日話していた、友達が占いに誘ってきたことと、死後の世界について訊いてきたことだ。しかし、肝心の話題が作り出せない。他には無いかと、記憶を探ってみるけど、なぜか思い出せない。これは、現在の特殊な環境から何かしら心理的影響を受けているせいなのか、それともただ単純に僕に発想力がないからなのかは分からない。心の中で、ただ焦りが募っていく。
「ねえ、僕くん……」
か細い声が反響して耳に届いた。とっさに振り返ると、彼女と僕との間に距離ができていた。すぐさま足を止める。
「ごめん。ちょっと速いかも」
「いや、僕こそごめん。気づかなくて」
彼女がこちらに向かってくると同時に、僕も近づいた。今度は置いてかないよう隣り合わせになってから、また出口へ向かい始めた。
二人肩を並べていると、互いの腕がときどき触れ合う。
もしも、彼女が僕の腕を持てば、さっきのような事態は防げる。歩くペースを合わせやすくなる。
でも腕を差し出したとして、彼女はどう思うだろうか。こういうことは多分、恋人同士かそれに近い関係性の人たちでやるものだろうし、女性側からしても相手が美青年であれば嬉しいだろうけど、残念なことに、僕はいわゆるフツメン男子というやつだ。
実行したところで、いい、と断られるのがオチだ。
だったらお互いのために余計な気は遣わない方がいいはずだし、いつもの僕だったら、それを選択しているに違いない。
違いないはずなんだけど、このまま何もしないというのもまた違う気がしてならない。
僕が今彼女にできることは、歩くペースを合わせることと、この腕を差し出すこと。
そうすることで僕が何か得をするわけではないし、むしろ自分が傷つくだけで終わってしまう可能性すらある。
けど今は、メリットがどうとかリスクがどうとか関係なしに、なぜかそうしたがっている自分がいる。理由は分からない。彼女が少しでも安心できるかもしれないのであれば、とは思うけど、それが根本的な理由ではない。そもそも、それを考える必要なんてない気がする。
ただ、そうするべきだという謎の使命感が、ずっと心にしがみついているんだ。
よかったら、とすぐに行動に移せればいんだけど、困ったことに、抵抗も感じている。
じゃあそれなら、と思えるような理由を言えればいいんだけど、人間関係で圧倒的に場数の少ない僕が思いつくわけもない。
さっきまで考えていたことを何度も反芻しているうちに、ただ時が過ぎていく。
それに伴い、心に纏わりついた使命感が強くなっていく。
すると突然、パソコンの画面からページを削除したみたいに、今までの思考が一瞬で消え去って、もうどうにでもなれ、という考えが頭の中に思い浮かんだ。
「明類さん」
僕は片腕をそっと彼女側に近づけると、続けた。
「また離れるといけないから、よかったら」
胸の奥から、かあっと熱いものがこみ上げてきた。
同時に強い後悔と不安が襲ってきた。
やっぱり余計なことをするべきではなはなかったのでは、と心が嘆いている。
「ありがとう」
ところが、彼女は何のためらいもなく、僕の二の腕を握りしめた。
今までの考えはいったい何だったのか。タチの悪い幻想から解放された気分だった。
こうなることを望んでいたはず。でも予想外の出来事で、戸惑った。
今僕はどんな顔をしているのだろう。少なくとも人に見せられるような状態ではないだろうから、この暗闇がとてもありがたい。
「きみ、初めて名前呼んでくれたよね。今まで一度も呼んでくれなかったから悲しかったよ」
声の調子が、いつもの彼女に戻った。
よかった、と心の中でつぶやいた。自分の行動に、少しは意味があったのかもしれない。
「君だって僕の名前を呼んだことないでしょ」
「あるある! あるよ! 僕くんが覚えてないだけだよ。ほら、最初の講義でわたしが話しかけたとき」
彼女が話しかけてきたことはしっかりと頭に焼き付いている。
しかし、名前を言われた記憶はないし、僕が自分の名前を名乗ったことすら危うい。
「そもそも僕の名前知ってるの?」
「うん、わたし訊いたよ」
「……覚えてないな」
僕の記憶力は人間関係となると、途端に皆無となるのであまり信用できない。
増してや、ここまで自信満々に言われれば、自分が間違っている気がしてならない。
「覚えてないんだ。きみは本当におもしろいね」
アハハ、と笑ってから、彼女は言った。
喋っている途中で声の反響がなくなった。気づけば、出口まで来ていた。
「はい、出ました。ということで退散したいと思いまーす」
どこかのYouTuberみたいなセリフを述べてから、カメラ機能をオフにすると、こちらへ振り返った。
「行こっか。コンビニで動画観よ」
頷いてから、僕らはそそくさと車に乗り込んで、逃げるようにこの場を去った。
車を走らせている最中、謎の威圧感があったとか、誰かに見られている感じがしたとか、あのトンネルへの感想を話し合った。しばらくするとコンビニが見えてきたので、すかさず駐車場に入り込んだ。停車してすぐ、彼女がポケットからスマホを取り出した。
「よし、観よう」
どこか緊張した様子で、彼女が画面を見せてきた。
互いの肩が触れた。かなり距離が近い。今にも、僕の頬が彼女の長い髪に接触しそうだ。
ほのかに、いい香りがした。香水のような甘ったるくしつこいものではなく、花の優しい香りが鼻へすうっと入ってきた。
つい、画面よりも彼女の横顔へ目が向いてしまう。
早く視線を外さなければとは思う。なぜなら、彼女がこちらの視線を感じ取って、僕が見ていたと知れば多分、気まずくなるからだ。最初に、なぜ見ていたのかという理由を求められるはず。自分がどのような言い訳をするのか想像できないけど、その先は考えたくない。
今はただ、ギリギリまで彼女の横顔を見ていたいと思った。
『行こうか』と、スマホから彼女の声が聞こえてきて、自然と視界がそちらに切り替わった。
彼女に気づかれなかったことに安堵しながら、動画の視聴を続けていると、画面の中の明類さんが『うわっ』と声を上げた。
それが自分で面白かったのか、隣にいる彼女がクスりと笑った。
「わたし何もないのに驚いてるね」
「うん。僕は君に驚いたよ」
「だよね」
こうして笑っている間も、画面の中の二人は会話もせずに進んでいく。
僕らも無言になって集中する。今のところ、変なものは映っていない。
ただ、そろそろ問題のシーンが近づきつつある。トンネルを折り返してから、後ろ姿の僕が徐々に離れていく。僕が歩くペースを速めたのか、彼女のペースが落ちたのかは判別がつかなかった。
動画の明類さんが、前にいる僕に声をかけると、僕が近づいてきて、画面から姿を消した。彼女の隣に並んだのだ。無言の時間が続いている間、自分の顔が熱くなっていくのを感じる。
とうとう、僕が彼女の名前を呼ぶ声が、動画から聞こえてきた。
『また離れるといけないから、よかったら』
今すぐ停止してほしいと願った。いっそのこと彼女からスマホを取り上げて、僕がそれを実行してしまいたいくらいだ。相手の記憶を消せる装置があるのならば、今すぐ使いたい。
『ありがとう』
動画の中の彼女が言った。悪い気はしなかった。
「なんか、恥ずかしいね」
はにかんだ様子で、隣にいる彼女が言った。
自分と全く同じことを考えていた彼女の言葉に強く共感した僕は、「そうだね」と答えた。
僕らがいつもの調子に戻ってすぐ、トンネルを出た。彼女が最後の言葉で締めくくって、動画は終了した。
「何か見えた?」
「いや、特に何も」
「そっか。結局何もなかったね」
彼女は残念そうに、背もたれに体重を預けた。
期待外れ、とでも言いたげなその様子に、どこかひっかかりを覚えた僕は、「あのさ」と切り出した。椅子に寄りかかったまま、彼女は顔をこちらに向けた。
「意外と怖がりなんだね」
「あ、バレた?」
「バレない方がどうかしてるよ」
「だよね。実はホラー系とかすっごい苦手なんだ」
「じゃあ、どうして心霊スポットに行こうと思ったの?」
彼女は僕から視線を外すと、まっすぐに前を向いた。どこか遠くを見るように。
「知りたいの」
呟くように口にしてから、少し間を開けて、彼女は続けた。
「科学では説明できない霊的な力が本当にあるのか。
それこそ、生きている人間じゃどうにもできない、物理法則を無視した力があるのか、わたしは知りたいの」
これを言ったのが明類明李かそれ以上の人間でなければ僕は、『そんなのはない』と言って、切り捨てていただろう。
だからこそ、今の状況でそんなことをしてしまうのは、あまりにももったいない。
僕は知りたい。彼女がなぜその考えに至ったのかを。
「君はここに来るとき、死後の世界を信じたいと言ってた。それも、何か関係があるの?」
頷いてから、彼女は再び口を開いた。
「人間には魂があって、死んだらあの世に行って、天国か地獄に行くこともあるけど、また生まれ変わって、新しい人生を生きて、そうやって命は永遠に存在し続ける。
どの宗教にも、そんな世界観があるでしょ?
無宗教の人でも、都合よくそこだけは信じている。
特に日本人は多いと思う。そしてわたしもその一人。でも、きみは違うよね」
こちらへ一瞥する彼女へ「そうだね」と言って頷く。
「どっちが正しいかなんて議論はしないよ。したところでわたしが論破されるのがオチだからね」
「どうかな」
正直、彼女を論破できる自信はない。
多分、彼女の中では『信じたい』と主張する自分を論破するための材料が揃っていて、その構想も完璧に出来上がっているのだろう。
「できるよ。だって科学はきみの味方をしているから。
人間は自分たちを特別な存在だって勝手に思っちゃってるけど、ダーウィンが言っているように、人間も動物の一種に過ぎないんだよ。当たり前なんだけどね。
それに、魂なんかは人間が作り出した虚構に過ぎなくて、実際にはそんなものは存在しない。
人間はアルゴリズムの集合体なんだって、脳科学も、生命科学も、行動科学もそれを証明している。
調べれば調べるほど、わたしの中でもその確信が強まっていくんだよね……それで、悲しくなる」
「悲しい?」
「うん」と、首をゆっくりと縦に振ってから、彼女は言った。
「二年前に、お母さんが亡くなったんだけどね、」
サラリと放たれた衝撃的な言葉を聞いて、思わず彼女の方へ振り向いた。
僕の反応をよそに、話を続ける。
「わたし、毎日泣いてた。涙が止まらなかった。もう大人なのにさ、声を上げてずっと泣いてた。
時間が経って、もう慣れたと思ったんだけど、今でも突然思い出して、泣きそうになることがあるんだ」
押し込むように、彼女は自分の胸に手を当てた。
その様はまるで、自分の心をその手で掴もうとしているようにも見える。
「こんなに痛いのに……それさえも全部、アルゴリズム。
大切な人が亡くなって涙を流すとか、他の人が喜んでいて、自分は関係ないのに一緒に笑顔になるとか、今日君が腕を貸してくれて嬉しかったこととかも全部、外的要因から影響を受けた、アルゴリズムの計算結果に過ぎない」
彼女の『嬉しかった』という言葉を聞いて、僕も胸の底から心地よいものが溢れてくるのを感じた。同時に、心を刺すような空虚さが、どこかにあった。
彼女の言うことが全て正しいのであれば、今僕が感じたことも全て、アルゴリズムの計算結果の産物に過ぎないのだ。
今までの話に、驚きはなかった。そうなのではないのかと、無意識に心のどこかでは分かっていたはずだ。僕だけではなく、他の多くの人たちもきっと、意識しないだけで理解しているはずなんだ。なのに、いざそれを突きつけられると、すんなりとは受け入れがたい。なぜだか抵抗を感じる。
「例えばさ、人間という外部の存在が、コーヒーメーカーのボタンを押せば、決められた手順に従って計算をして、その結果としてコーヒーが出来上がる。僕たちはそれと変わらないってこと?」
「そうなるね」
あっさりと、認めた。
何もかも全て受け入れているかのようなその振る舞いに対して、出てくる言葉が無くて、僕はその場で固まるしかなかった。
「でもまだそう確定したわけじゃない。魂がないって、完全に証明されたわけじゃないの。ないものを証明するのは何よりも難しいし、いつでも覆るのが科学だからね」
まだ希望はあると、彼女はそう言っているのだと思う。全て受け入れたような口調のまま。
「だから、わたしは信じたい。
人間に限らず、生命というものがそんな機械的なものじゃなくて、もっとこう、特別な何かであってほしいって。生命には魂があって、死んでもまだ先があるって、信じたい。
もしそうだったら、死後の世界でまたお母さんに会えるかもしれないから。
心霊現象がそれらが存在する一つの証明になると思ったの。
複数人で同じものを見て、映像に収められればそれは、幻覚やカメラのエラーって可能性はかなり少ない。
決定的ではなくても、もしかしたら……、なんて思えるかもしれないから。
バカバカしいかもしれないけど、今のところはこれしか思いつかなかった」
だから、彼女は心霊スポットに行きたがっていた。
最初はおふざけかと思ったけど、そうじゃなかった。
明類明李という人間を知っていく中で、彼女が合理的な人間だと思うようになった。でもそれは違った。彼女も例に漏れず不合理で、愚かで、非効率で、そしてとても人間らしい人間なんだ。彼女にはきっと、僕を含めた他の人たちが見ているものよりも、もっと先のものが見えているんだ。それは僕らや彼女自身も、簡単には理解できるものではなくて、彼女はそれを必死に追い求めている。
僕も、同じものが見たい。彼女に何が見えているのか、知りたい。
「あのさ」
気づけば、口が動いていた。
衝動的に言葉を発してみたものの、何を言うべきか、実はまだまとまっていない。
「何?」
自分から喋りかけておいて、沈黙する。こうしている間も、彼女は僕が喋り出すのを待っている。
「えっと、他にも方法はありそうな気がする。例えば、そうだな……スピリチュアル系の本とか、あえて読んでみるのはどうかな。科学的な視点で、変な儀式を試してみるとか」
意外、とでも言っているかのように、彼女はポッカリと口を開けて聞いていた。こちらが言い終えると、彼女の口角が徐々に上がっていき、目が輝き出した。
「それいいね! 面白そう。きみ冴えてるよ」
思いつきで提案してみたけど、意外にも好評のようだ。
その好奇心の高さといい、彼女には感心させられてばかりだ。
「提案してくれたってことは、きみも付き合ってくれるってことだよね?」
不意を突いたように言う彼女は、いたずらに笑ってみせた。
恐らく僕が、しまった、という顔をすると予測しているのだろうけれど、間もなくその期待は裏切られる。
「うん、もちろん」
「おお? きみにしては素直だね。どういう風の吹き回し?」
間を置いてから、僕は口を開いた。
「僕も、知りたいと思った。君が追い求めているものを。だから、とことん付き合う。君のやりたいことや興味を持っていることとか、読んだ本とか教えてほしい」
最初は彼女と関わることを避けていた。絡んでくるたびに、うっとうしいとさえ思っていた。でも今は、彼女に近づくことを望んでいる自分がいることに気がついた。関わるための口実を懸命に探している自分がいることも。
「嬉しいこと言ってくれるね。あ、もしかしてプロポーズ?」
「はっ、はあ?」
震えた声がつい、口から出た。
「ヤバい。自分で言っといてなんか恥ずかしくなってきちゃった。やっぱ今のなし! 帰ろう」
ごまかすように車の操作をする彼女の顔は、真っ赤だった。白かったはずの頬は絵の具がしみ込んだみたいに、一瞬にして赤く染まった。
無しって言われても、当然すぐに忘れることなんかできるはずがない。
先ほどの彼女の発言が、脳内で何度も再生される。このままずっと頭の中に居座る気なのではないかと思えてならない。窓の外を見ながら、僕はかゆくもない左頬をかいた。
「ええっとぉ、読んでおもしろかった本だけど、たくさんあるんだよね。何か興味のあるジャンルとかある?」
たどたどしく言う彼女の声は、やたら大きかった。
僕に何かを忘れさせようと必死になっているのが分かる。それが何なのかは追及するつもりはない。
「行動経済学の本とか、読んでみたい」
「おっ、いいねぇ。
行動経済学って言ったらやっぱり、ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』だね。
オーディオブックも合わせたら十回ぐらい読んだかな。
この人と、キャス・サンスティーン共著の『NOISE』もおもしろかったよ。
もっと難易度の低い本だったら、ダン・アリエリーの『予想通りに不合理』とか、
リチャード・セイラーの『行動経済学入門』とか、
ロルフ・ドベリの『think・right』とかいいかも。
最後の本は行動経済学と経済学と心理学で起こりがちな人間の特性を一個一個短く分かりやすくシンプルに解説した本だから、最初に読むならそれがいいかな」
「へぇ」
一つのテーマでそれだけの本が出てくるなんて、やっぱり彼女はすごい。
てっきり難しい本を紹介されるのかと思って覚悟していたのだけど、こちらの難易度に合わせてくれるのはとてもありがたい。それも彼女の能力の高さなのだろう。
「最初に難易度の高い本を読むと、内容が理解できなくて挫折しちゃうからね。読書をする上では基礎知識が大事って佐藤優先生も言ってたしね」
「なるほど」
読書の方法についても、とりあえず彼女に訊いておけば問題なさそうだ。
「ちなみに、君は幅広く本を読んでいるけど、心霊系の本とかは読んだりするの?」
「心霊系かぁ、それは読まないな。ねえ、書店か図書館に行って一緒に探そうよ」
「いいね。そうしよう」
「来週の月曜日とかどう? 講義終わった後」
「いいよ。開けとく」
「ありがとう。じゃあ決まりだね。楽しみだなぁ、早く月曜にならないかな」
遊園地を目前に控えた子供のように、彼女は無邪気に笑っていた。
そしてそれは、僕も同じだ。僕は今、胸の高鳴りを感じている。彼女と新たに約束と取り付けることができて、喜んでいる。
それどころか、もっと彼女を知りたい。もっと同じ時間を共にしたいとさえ思っている。
僕はどうかしてしまったのだろうか。過去にも似たような経験はある。しかし、今回は強さの程度が違う。今にも気持ちが溢れてきそうで、どう抑えればいいのかが分からない。
まるで何かに突き動かされるように、僕は言った。
「あの、他にやりたいことかあったりする?」
「たくさんあるよ。実弾撃ってみたいし、乗馬とかもやってみたい。あと、本物の西洋の剣と日本刀を持って比べてみたいな」
「うん」
今の女子大生がどういうものを好むのかはよく分からないけど、それとはズレていることは分かる。何と言うか、彼女らしい選択だ。
「それと富士急行きたい! ユニバも行きたいし、ディズニーも! もちろんランドとシー両方ね? あとアメ横とかスイパラも行きたいし、夏になったらお祭りも行きたいな。冬祭りなんかもいいかもね」
顔を輝かせて語る姿を見るに、彼女はズレているという僕の推測はどうやら外れていたようだ。
「あ、そういうのは違った?」
さきほどの表情とは打って変わって、彼女は残念そうな笑みをこちらに向けた。
まるで訊く前から答えが分かっているような、そんな顔だった。
「いや、違くない。僕も、楽しみにしてる」
僕はいい意味で彼女を裏切る発言をした。
しかし、反応がない。押し黙る彼女を見てみると、こちらに顔を向けたまま、面食らった様子で口を半開きにしていた。
そのとき、視界に赤い光が差し込んできて、僕は背筋が凍り付くのを感じた。
「赤赤! 前見て!」
「えっ!?」
とっさに声を張り上げると、彼女は急ブレーキをかけた。車内が大きく揺れたことで、肩から胸元にかけてシートベルトに圧迫される。車は車体の半分が横断歩道に突き出た状態で停車した。
「ごめん、ついぼーっとしてた。ほんとごめん」
「大丈夫。気にしないで」
申し訳なさそうに言う彼女の声は、震えていた。
下手をすれば大惨事に繋がることだけど、反省している彼女を責める気にはなれない。
根拠があるわけではないけど、そうしたところで何かが変わるとは思えないし、むしろ悪影響が出そうな予感がしてならない。
「ちょっと意外だったから驚いちゃった。きみ、そういうの興味ないと思ってたから」
「まあ、間違ってはいないけど、とことん付き合うって言ったし、そういうことを経験してみるのも、悪くないかなって思った」
「そっか、ありがとね」
「ただ、絶叫系は苦手だから、それに関しては君が楽しんでいるところを観賞することにするよ」
「ええ、なにそれ! わたしひとりで乗れってこと!?」
「そうなるね」
「ふたりで行ってひとりだけが乗るって、それもはや拷問だよ。絶対にきみも乗せるからね」
「謹んで遠慮するよ」
「ぷふっ」
彼女は突然笑い声を漏らした。
「どうかした?」
「ううん。まさかきみが大声を出すとは思わなかったから。なんか、思い出したら笑えてきちゃって。ふふふ」
「あの状況じゃ誰だって大声出すって」
「うん、そう。そうなんだけど……ふふふっ」
堪えきれないといった様子で、水が溢れたみたいにアハハと爆笑した。
「笑いすぎだよ」
「ごめんごめん、一緒にジェットコースター乗ってあげるから許して」
「それお詫びになってないんだけど」
「あ、バレた?」
「バレない方がどうかしてるよ」
「デジャブだね」
他愛のない会話をしていれば時間はあっという間に過ぎ去っていくもので、見覚えのある街並みが目に映ってきた。ナビの所要時間は数分を切っていて、また一つ数字が減った。
話も落ち着いてきたので最後に、僕はずっと疑問に思っていたことを彼女にぶつけてみることにした。
「ところでさ、今日の心霊スポットだけど、どうして僕を選んだの」
彼女にとって、心霊スポット行くということはとても大事なことだ。
その同行者に、なぜ僕が適任だと判断したのだろうか。数多くの友人の中から、なぜ僕が選ばれたのだろうか。
彼女は確か、『みんな怖がるだろうし』と言っていた。その口ぶりから察するに、僕以外は誘っていないようにも感じ取ることができる。仮に誘っていたとしても、断られたのだろうということは明らかだ。しかし、それは僕も同じだ。何度も声をかけられたけど、容赦なく全て突っぱねた。にも関わらず、彼女は僕に声をかけ続けた。しつこいくらいに。いや、実際しつこかった。
そこまでして僕を連れて行こうとしたのは、何か理由があるのだろうか。
「僕が君の知識に興味を持ったから?」
言ってはみたものの、多分これは違う。
図書館での出来事が起こる前から声をかけてきていたからだ。
けど、他に理由が思いつかない。
「んん~、それもあるけど……」
考える素振りを見せてから、彼女は言った。
「なんとなく、君と仲良くしたいと思ったから。特に理由はないよ」
「そっか」
やっぱり、彼女は不合理だと思った。
ちょうどと言うべきタイミングで、ナビが到着を知らせた。車が停車して、すぐ横に自宅アパートがあった。
「今日楽しかった。ありがとね」
「僕も楽しかった。こちらこそ、ありがとう」
少し寂しさを感じながら、シートベルトを外して、車外へ出る。
「じゃあ月曜ね。後でLINEする」
「わかった。じゃあ、また」
頷きながら、ドアに力を込めたとき。
「またね、――くん」
バタン、と音を立ててそれが閉まる直前、彼女は僕の名前を言った。
すぐに車が発進して、何も言い返せないまま、彼女が離れていく。
当の本人はこちらに手を振りながら、満足そうな笑顔を見せていた。
どうやら、正しかったのは彼女のようだ。
「まったく」
口元を緩ませて一人呟いてから、僕は自室へ続く階段を上った。
早く月曜にならないかと心を躍らせながら。
ゴリゴリの人類史を甘酸っぱい青春小説にしてみました。
・参考文献
ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来 https://amzn.asia/d/d89mpmw
ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来 https://amzn.asia/d/cFn09Ge