ガーネットの秘密
石と誰かの物語です。
今日も残業。
おかげで肌荒れするし、便秘するし、足はむくむしいいことはない。
就職が嫌なら専業主婦にって一体どこの国の話よ。
そうなりたいっていう女性が多いのは、あまりに過酷な労働をさせられてるからでしょ。若い人が多いのはそういう母親を見てきたからよ。
私の母だって生命保険の外交員をしているけど、親戚から知り合いまで頭を下げてない人はいないくらい働いている。要領も悪かったとは思うけど、それだけ忙しくしているのに売り上げは伸びない。おかげで休日の参観日や学校行事は滅多に来てもらえなかった。
たまに来てくれたら、母が後ろにいるだけで嬉しくて舞い上がってしまったわ。
いいところを見せたいのに、その日に限って忘れ物したり注意されたりで散々だった。
「圭ちゃん、もっと落ち着いて勉強しないと、ママ恥ずかしいわ」
「わかってるって。いつもはちゃんとしてるの」
とまあ、いつも喧嘩になってしまうのだ。
そんな母が仕事に着ていたのはいつもベージュのスーツ。カタログで新しいものを買ってもやはりベージュだった。
「ママ、他の色のも買えば?」
「紺だと学生や新入社員みたいだし、明るい色は仕事場に行くと目立ち過ぎだしね。これが一番」
「なんだかつまらないわね」
「いいのよ。これで」
値段も安かった。
父は私が小学生になると、他に好きな人ができたとかで離婚。相手は父と同じ職場の人だった。プライドの高い母は父にさっさと見切りをつけて家を出て行ってもらったそうだ。祖母はときどき私にその頃の話を教えてくれた。
「圭ちゃんのママはね、男らしい女だよ」
「どうして?」
「ごちゃごちゃ言わずにもういいって、すぐにあきらめるんだから。もっと甘えればよかったのにね。慰謝料も相手の言い値でね。百万円だけだもの。それだって、パパの親が孫の生活の足しにって出してくれたものだよ」
「ふーん、だったらパパはその人と結婚したの?」
「どうかね、離婚してから一切パパの話はしないから。はっきりしてるよ」
父の写真は残っているが、あまり抱っこされたり遊んでもらった記憶はない。ただいつも煙草を吸っていた。その匂いが嫌で父のそばに行かなかった気がする。子どもがいてもそんなことは気にしない人だったのか。親権で争うこともなかったようだ。
祖母は祖父の遺族年金で暮らしている。祖父が公務員だったから我が家より豊かに見える。私が働きだしてからもときどき小遣いをくれる。
「もういいよ」
「まあ、そう言わずにもらっときなさい」
そう言って私に握らせる。だから、ありがたくいただくことにしている。
もう誰もいなくなった会社。ケータイが鳴った。
「もしもし、圭ちゃん?」
「ママ、どうしたの」
「今日は忙しくて夕食もできてないの。まだかかりそうだから一人で何か食べて」
「いいわよ、そんなこと。私もまだ残業してるし」
「そう、じゃね」
電話が切れた。
こんなことはよくあることだが、今日は母の声が上ずっているようだった。誰かと一緒かな。それより、あと少しで終わるから、早く仕上げて帰ろう。
それでも軽く一時間たち九時を過ぎてしまった。月曜日からこれではぐったり疲れる一週間になるわ。デスクを片づけていると、またケータイが鳴った。母ではない、祖母からだった。
「どうしたの?」
「圭ちゃん、大変。すぐに来て」
「何よ、どうしたの」
「ママが倒れたって」
「うそ、さっき電話あったよ」
「だって、病院からだもの、会社から運ばれたって」
慌てる祖母に落ち着くように言いながら、私の心臓は止まりそうだった。母の会社の人が言うには、久しぶりの大型契約が取れて母は張り切って報告していたという。大手の会社社長が娘婿にも入らせようと紹介してもらい決まったそうだ。
昔から得意ではない勧誘という仕事。それでもどれほど嬉しかったか、母が喜ぶ姿が目に浮かんでくる。でも、倒れるってどうしたのよ。
病院に着くと母は手術室にいることが分かった。
「おばあちゃん」
「あ、圭ちゃん。どうしよう」
震える祖母を抱きしめながら、付き添ってくれた母の同僚の佐々木さんが近寄って来た。
「こんばんは。お母さんが急に会社で倒れて、本当にびっくりしたわ。頭が割れそうだって言って」
「くも膜下出血ですって」
祖母が隣から話す。時間が遅いので佐々木さんにはお礼を言って帰っていただいた。
祖母は普段は太っているから大きく見えるのに、娘が倒れたことで心配のあまりとても不安げで小さく見えた。
「おばあちゃん、大丈夫よ。ママは若いんだから。健康だけが取り柄っていつも言ってるじゃない」
「そうだねえ、でも、働きづめだから」
同じように働きながら、いつも私の食事まで当たり前に作ってもらっていた。洗濯も掃除もだ。私がするのは休日のわずかな時間だけ。
やがて手術室から出てきた母は頭に白い包帯が巻かれ顔が青白かった。
先生は手術は無事に終わったからというが、このまま目を覚まさないのではと思うほど母の顔は血の気がなかった。この様子では祖母が倒れてしまうと思い、タクシーで帰ってもらった。私は上司に電話をして休暇の願いと事情を話した。夜更けの電話に驚いたようだったが、いつもは冷たく感じる上司がしっかり見てあげなさいと言ってくれたのは嬉しかった。
病室は母の寝息しか聞こえない。
いつの間にか眠っていたのだ。
母がじっと私を見つめていることに気が付いた。
「ママ、わかる?」
じっと私を見ながら頷く母。
涙が零れ落ちていく。
あれから一週間。
母がこう言いだした。
「圭ちゃん、鏡台の引き出しにある箱を持ってきて」
「何が入ってるの」
「あなたにプレゼント」
「誕生日でもないよ」
「うん、まあいいから持ってきて」
どんなものがあるのかわからないけど、とりあえず家に帰ってみた。
母の鏡台は使わなくなった私の口紅も入っていた。私は次々と新しいものを買うが、母は私の使い古しをもったいないと言って使っていた。その大きな引き出しの隣の小さな引き出しを開けると小さな包みが入っていた。
少しわくわくしながらその包みを母に届けるとそのまま開けてごらんと言った。
中には赤い石の付いたイヤリング。
「きれいね」
「これはガーネットよ。昔離婚した時にはガーネットのネックレスを買ったの。生活を換えてモリモリ頑張ろうって。それで頑張れたとは思わないけど、この頃のあなたを見てるといいかなって思ったの」
「へえ、そんな効き目あるの?」
「ええ、怒りを制御したり、勇気をもたらしたりって。これを付けると不思議と気持ちが落ち着いたりしてね。そこで、あなたにもいいかなって」
「わあ、嬉しい。最近やたらと腹を立てるし、ちょっとそんな力を貸してほしかったわ」
母にもらった赤いガーネット。
今まで何も考えずに暮らしてきたけど、こうやって普通に暮らすことの大切さを今回は知ることができた。なんでもない母や祖母との会話が心休まるものだったんだと。そして私のことを気遣ってくれていたんだと知った。
看護休暇を取った後、初めて母のくれたイヤリングを付けて出勤。
「お、久しぶり。きれいになったじゃないか」
そう声を掛けてきた同期の矢崎くん。最近ちょっと気になる人。
「母の看護で私もリフレッシュできたの」
「耳飾りも付けてるのか」
「イヤリングって言うのよ」
「ふーん」
「ガーネットって言うのよ。この石はね……」
母からもらった知識を自分で調べたかのように教えてやった。
矢崎くんはなぜかメモしていた。




