第69話:リディルの思い出
母は、弱い人だった。
今ならわかる。
とても、弱い人だったのだ。
周囲に流されてしまうほどに。娘を、守れないほどに。
頭では理解していた。
だが、感情として、リディルは許せなかった。
才能。
それは確かに存在している。
リディルには、体の効率の良い使い方がわかるのだ。
ただ母のようになりたくて、母の真似をして――。
幼馴染の友人が、リディルの才能をとても喜んでいたのを覚えている。
あの子は、他人の幸せを、自分のことのように喜べる子だった。
だから、あの子は――カルベローナは、リディルの才能が嬉しくて、皆に語ったのだ。
その強さを、素晴らしさを、自分のことのように喜んで、ただただ善意の塊として。
リディルの生活は、変わった。
[盾]が既に形骸化しつつあったことも関係している。
理想主義者の女王に予算を削減させられていた[盾]は、リディルの才能に目をつけた。
肩書だけではない本物の剣聖を、リディルで作り上げようとしたのだ。
千年前には間違いなく最強の戦闘部隊だった[暁の盾]という組織。
幼いリディルに全ての技術を無理やり叩き込む悪、私利私欲、即ちただ組織を存続させるためという理由を、国家のためという衣で覆い隠し、その行為を善へと塗り替えたのだ。
だから、あの時リディルは母に捨てられたと感じたのだ。
あるいは、売られた、か。
だが今ならわかる。
母は周囲の声に、負けただけなのだ。
他人の子を、自らの生活とわが子のために戦闘の化身に仕立て上げようとする善意の怪物に対して、抗うことができなかった弱い人なのだ。
人として、決して超えてはいけない壁の内側から、無理やり押し出されてしまっただけの人なのだ。
だがそれは、メリアドールとメスタに救われ、ようやく自分の中の感情を理性で抑え込むことができた今だからこそ理解できたのだ。
ザカールの[言葉]は、リディルの中の最も弱い部分をえぐる[言葉]だ。
リディルが震える膝で辛うじて立ち上がると、ザカールはあざ笑うかのように〝雷槍〟を同時に三発撃ち放つ。
全てを回避するリディルであったが、三発目に重ねて放たれた四発目の発見に遅れた。ついにザカールの〝雷槍〟が鎧の装甲を砕き、リディルの左肩を貫く。
同時に、空が爆発する。
ザカールが叫ぶ。
『〝オル・ディグラース〟!』
叫びは雷鳴となって世界を震わせ、ザカールの筋肉が更に膨れ上がった。
ザカールの体から力場が溢れ、衝撃波となって一帯を襲った。
そのままザカールは左腕の義手をリディルに向ける。
『[バスターハンド]は、こう使う!』
ザカールの義手が開くと、小型魔導砲が姿を現した。
咄嗟に回避しようとするも、同時に上空から降り注いだ赤黒い光の槍がリディルの行く手を阻む。
ザカールの左腕部[バスターハンド]に圧倒的な魔力と光が集中すると、耳をつんざくような鈴の音に似た何かが一帯に響き渡った。
教科書で読んだことがある。
魔力が一点に集まりすぎると起こる[精霊の悲鳴]と呼ばれている現象だ。
それでも、リディルは諦めなかった。
きっと、メリアドールとメスタは悲しむから。そんな思いは、させたくなかったから。
脚部の推進装置を吹かせ、赤黒い槍の雨の中を無理やりリディルは跳躍した。
[バスターハンド]の魔導砲がリディル目掛けて放たれる。
それはまばゆい輝きを持つ死の光だ。
空を覆い尽くさんがほどの莫大な魔力の粒子の本流を、リディルは[貪る剣]を盾にし、いなすようにして構える。
同時に剣に魔力の盾をかぶせ、辛うじてリディルはバスターハンドの輝きから弾かれるようにして空へと逃れた。
そして――。
背後に現れたザカールが、リディルの首元目掛けて剣を突き立てる。
リディルが反応するも、既に遅い。
『――勝った』
極限にまで集中し、圧縮される感覚の中、ザカールは確かにそう言った。
リディルの首に剣が吸い込まれようとした時、それは現れた。
バスターハンドの余波を無理やり掻い潜り、甲冑を朽ち果てさせながら――。
※
それで良い、とドリオは思っていた。
最後の最後で、俺は国よりもたった一人の誰かを選んでしまう人間なのだと。
そこが、境界線なのだと。
――俺は、何者にもなれない、ただの、人でしかなかった。
それに気づけて、良かったと。
ザカールが驚愕して叫ぶ。
『ドリオ・ミュールか――!』
ザカールとドリオが同時に〝雷槍〟を撃ち放つ。
ザカールの〝雷槍〟はドリオの右腕を剣ごと消し飛ばし、ドリオの〝雷槍〟は今まさにリディルの首に突き立てられようとしていた剣を貫き飛ばした。
ザカールがバスターハンドに魔力を宿し、光の剣としてドリオの胸に突き立てた。
ドリオは叫んだ。
「やれ、剣聖!」
※
そういうふうに、リディルは育てられた。
それが、自身への言い訳なのだと彼女は思っていた。
だが、戦いのさなかにおいて、リディルは隙を見せた相手に対して、反射的に最善の攻撃をしてしまうよう、何度も、何度も、血反吐を吐くほど教育され、育ってしまったのだ。
だから、至近距離から[古の鎧]の腹部に装備された主砲をばらまくようにしてザカール目掛け撃ってから、気づく。
――あたしなら、助けられたかもしれない。
攻撃では無く、救おうとしていれば、この人を――。
リディルは、アンジェリーナの父親を嫌いでは無かった。
自身と同じく、大人たちに歪められた者として同情し、あれがメリアドールと出会わなかった自分の未来かもしれないと考え、同時にその歪みを増長させた側の者として罪悪感もあった。
だけど、こうなってしまった。
リディルの放った砲撃が、ザカールの身体にベタベタと張り付き、侵食していく。
今まさにボロボロと朽ち果てて行くザカールが叫ぶ。
「〝ドリオ・ミュール・ロブ・ディ――〟」
それは、リディルの知らない[言葉]だった。
この土壇場で使う、相手の名を必要とする、[言葉]。
その判断に一手遅れ、しかし――。
上空から、まるで巨大な隕石のように落下してきた[古き翼の王]がザカールの身体を噛み砕いた。