糸口
ホテル三階に部屋を取った名無しの権兵衛とケンゴウの二人は、桃太郎という名の酒場が見下ろせる窓の前に椅子を置き、そこに腰掛けジッと酒場を出入りする人々を見張っていた。
もうこの部屋で見張り続けるのも五時間になる程の長丁場であり、後十分もすれば酒場も閉まってしまう時間になるのだが、ニヤニヤとした笑みを終始浮かべ続ける名無しの権兵衛は、一切集中を切らさず見張り続けている。
だがその一方で、何の説明も無く計画を変更させられ、挙げ句の果てにはホテルでの監視を強制されたケンゴウは、何をニヤニヤしているのだと言わんばかりに不機嫌そうな雰囲気を隠しもせず名無しの権兵衛を睨んでいた。
片方はご機嫌に酒場を見つめ、もう片方は不機嫌に相方を睨むという不可思議な空間の出来上がりである。
こんな風に両者が正反対の反応を見せているのだが、これが部屋に入って直ぐに計画変更の理由を告げるならまだしも、見てたら分かるの一言で監視させられる羽目になれば誰でも不機嫌になろうと言えるだけに、ケンゴウの苛立ちは非常に頷けるものだ。しかも五時間もの長丁場での監視であるのだから、我慢して監視し続けるケンゴウの我慢強さは中々のものであると言えるだろう。
しかし流石に我慢の限界に達したのか、ケンゴウは眉間に深い皺を寄せ、気味の悪い笑みを浮かべながら監視をし続ける名無しの権兵衛へと、とうとう不満をぶつけ始める。
「おい、見ていても何も分からんぞ。いい加減に説明したらどうだ?」
「まぁまぁ、落ち着きなって。見てたら分かるさ」
「最初はホテルにチェックインしたら説明すると言っていただろう。それなのに、既にチェックインしてから五時間だぞ」
名無しの権兵衛は終始ご機嫌そうであるからして、この五時間は特に不満を抱く事の無い時間だったと察せられる。しかしそれに対して、全く監視の意味合いに理解出来ない方のケンゴウからしたら、この五時間は苦行にも近い時間だったに違い無い筈。
それ故の不機嫌そうな表情でのケンゴウの言葉だったが、名無しの権兵衛には全くその気持ちが伝わっていないらしい。それどころか、名無しの権兵衛は未だにニヤニヤした笑みを崩さずに返答する始末だ。
「ニシシシ。後数分もすれば分かるって」
「CIAが既に情報を入手し終わっていたとしたら、突然予想外の動きを見せる可能性もあるんだぞ。のんびりしているのは得策とは思えんが?」
「CIA? あぁ、あいつらは今のところ放っておいても良いんじゃね?」
「はぁ? ちょっ、貴様!? それはどういう意味だ!」
当初の予定では、人海戦術で情報収集を行っているCIA諜報員を突き止め、そのCIA諜報員から情報を盗む筈だった。それ故に小樽の街中でそれらしい人物を特定し、尚且つ尾行までして活動拠点を割り出したのである。なのに、どうでも良いと言い切った名無しの権兵衛に、流石のケンゴウも動揺して声を荒げてしまう。
そんなケンゴウの反応が面白かったのか、或いは予想通りだったのかは分からないが、名無しの権兵衛は至極満面の笑みでもって応える。
「あの酒場に行くまでは、確かに当初の予定通りで事を進めるつもりだったんだぜ? だがよぉ、それ以上の確率でほぼ確実に情報を入手する手段を見付けたとしたら、お前ならどうする?」
「意味が分からん! 貴様は酒場の店主と会話していただけだろう!」
「そう、その通りだ。あの時の俺とマスターの会話、覚えてるか?」
ケンゴウの指摘にビシッと人差し指を向けて素直に認めた名無しの権兵衛は、元々浮かべていた笑みを更に濃いものへと変えて質問を付け加えた。
するとケンゴウは、自然とそんな名無しの権兵衛の雰囲気に呑まれた様子で、不思議と素直にその質問の答えを逡巡した後に応え始める。
「あの時の会話の内容………? 確か、祖父母がしつこく人魚伝説を言い聞かせて来たとか、そんな感じの話だったと記憶しているが」
「ヌフフフ。惜しい! もう少し前だ、もう少しだけ前」
「もう少し? ………あぁ、もしかしてあれか、仙人とかってやつか?」
「正解正解、大正解!」
両腕全体を使用して大きな丸を描いた名無しの権兵衛は、その大袈裟な仕草のまま身振り手振りでもって言葉を紡ぐ。
「古今東西、世界各国に不老不死の伝説ってやつは数多く存在する。ドラゴンの血を浴びるとか、黒魔術で悪魔を召喚してとか、吸血鬼になるとか、こんな感じで不老不死ってやつの伝説には色々と噂に事欠かないもんなんだよ。
そして此処小樽に伝わる伝説は、人魚に纏わる不老不死伝説になる。なのに俺が最初にマスターへ尋ねた時、何故仙人という言葉がマスターから出て来たと思う?」
「……そもそも、その仙人が不老不死とどう繋がっているのかが私には分からん」
「あ〜、そこから説明しなきゃならんか。日本の歴史を学んだと言っても、日本で生まれ育った訳じゃねぇんだもんな。そりゃ知ってる方がおかしいか」
「ふん。そもそもそんな幼稚な事を信じる方が笑止な話だし、知らんでも困らん」
日本人でありアメリカで教師として活動していた父から日本の歴史を学んだケンゴウからしたら、知らなかった事で馬鹿にされた気分だったのだろう。それが故に、少し不機嫌そうに返答するケンゴウ。
しかしそれは被害妄想であり、名無しの権兵衛には馬鹿にしたつもりなど微塵も無い。それどころか、日本で生まれ育った訳じゃないのだから仕方ないとフォローしているくらいなのだ。
ともあれ、そんなケンゴウの反応を受けて、名無しの権兵衛は苦笑しつつ誤魔化す様に口を開く。
「え〜とな、仙人っつうのはそもそも中国で考えられてる概念の話になるんだけっども、簡単に言えば普通の人間が辛い精神修行を積んで上位の種に到達するという考えになる。まぁ、この仙人になるのにも様々な方法が伝わっていて、今ではどれが元々の仙人に至る為の必要不可欠な手段であり段階なのかは不明だがな。
兎も角、仙人っつうのは辛く長い修行の上でなれる存在で、仙人になると不老不死の力を得られるって感じだと思えば間違いない」
「ふむ、それで?」
「それでって何よ?」
「貴様が言ったんだろうが! マスターが最初にどうたらと!」
名無しの権兵衛が博識なのはケンゴウ自身も認めるところなのだろうが、こうも抜けた部分を見せられたら流石に堪らず語気を荒げて突っ込んでしまう。
しかし突っ込まれた当の本人は、あぁそうだったと言わんばかりの少し抜けた雰囲気でマスターへと抱いた疑問を口にし始める。
「あ〜つまりこれはさっきも言った事だが、不老不死の伝説は世界各地に沢山存在するんだ。そして此処小樽に伝わる不老不死の伝説って言ったら、まず最初に思い浮かぶのは聞き慣れた人魚伝説になるのが地元の人間ってもんじゃねぇのかと俺は思うんだが、お前はどう思う?」
「………そうだな。確かに貴様の話には筋が通っている」
「だろ? それなのにあのマスターは、最初に仙人という言葉を口にした。どう考えても変だろ?」
「ふむ。しかしそれは、貴様のように幼稚な伝説が好き過ぎたが故に、仙人という概念を知っていて思わず口に出たという可能性もあるのでは?」
仙人という概念を知らなかったのを馬鹿にされたと思っているケンゴウは、少し言葉に刺を含ませて感想を口にした。客観的に言えば、いじけた子供の様な言い草である。
これには流石の名無しの権兵衛も頬をひくつかせるが、それでも反論はせずに説明を続けようとするだけあって、少しだけ名無しの権兵衛が精神的に大人なのかもしれない。
「こんにゃろう………。まぁ良い。確かにお前の言う通り、仙人という概念を知っていて思わず口から出たって可能性もあるからな。
だが、もしそうじゃなかったとしたら?」
「どういう意味だ?」
「元々の仙人という上位存在になる為の必要不可欠な手段や段階は今となっては不明だと説明したが、伝説上では色々と今でも伝わっている。その内の幾つかでは、特殊な桃が鍵だと伝説では言われていて、その特殊な桃を食べる事で不老不死になるらしい。
そしてこの桃っつうのは、中国だけじゃなく此処日本でも古来から神聖な食べ物として色々な伝説があるんだ。最も古いもので言えば、古事記に桃の実を使用する事で死者から身を守ったという話がある。他にも、桃に纏わる逸話には枚挙に暇が無い。
そんな桃の話で、今俺達の最も身近な物が何か分かるか?」
「…………」
「ニシシシ。別に難しく考える必要は無いぜ。
ほら、例えばこの窓から見える目の前の酒場の名は?」
「………桃太郎」
「そう、その通り。実はこの桃太郎っつうのは、桃を武器にして戦ったという逸話が残っている。現在子供に寝耳物語として語られる話とは大きく違う古来の逸話になるが、桃太郎は鬼との戦いで桃を使用していたらしい」
名無しの権兵衛が語る古事記やら桃太郎の物語やらに関しての真偽は、真実である。これは古事記を少し調べれば直ぐに分かる事であるし、桃太郎についても同様だ。
しかし、だからと言って何か因果関係があるのかと問われれば、ケンゴウからしたら謎であるとしか言えない。しかもマスターが最初に仙人という言葉を口にした理由についても、ケンゴウからしたらさっぱりだった。
名無しの権兵衛が何を言いたいのか分からないケンゴウは、無駄な言葉を発さず、ただ黙して得意気に語る名無しの権兵衛の話の続きに耳を傾ける。
「人魚伝説が色濃く残る此処小樽で、何故マスターはまず真っ先に仙人という言葉を口にしたのか? そしてそんなマスターが営む酒場の名が、仙人に至る為に必要な………いや、不老不死へと至る人魚伝説とは別の手段となる桃に関係する桃太郎という名なのも偶然なのか?
これらの疑問はつまり、マスターが不老不死に至る為に必要な人魚の入手方法の手段を知っているからではないか、或いは不老不死に必要な人魚の血肉ではなく、それ以外の物で不老不死へと至る方法を知っているからではないのかと推測が出来る訳だ。
だからこそ今となっては、CIAを無視しても問題じゃねぇと俺は思う訳よ」
そう語り終えた名無しの権兵衛の話を聞き終えた瞬間、ケンゴウは名無しの権兵衛が酒場の看板を見て興味深そうにしていたのを思い出した。そしてそれと同時にケンゴウの脳裏に浮かんだのは、あの時から酒場のマスターを疑っていたのかという疑問だった。
もしもそうだとすれば、名無しの権兵衛という者の知能は恐ろしく高いものであるという証拠に他ならない。その時その時の小さな物事の一つ一つを、名無しの権兵衛はあらゆる可能性を考慮して行動している事になるからだ。
ケンゴウはそう理解し、空恐ろしい男だと名無しの権兵衛を見ながら思わざるを得なかった。
「なるほど、どうやら貴様を認めなければならんようだ。少ない情報からよくぞそこまで考えたものだ。
しかし、少し暴論ではないか? 確かに貴様の話には一考の余地があるというのは認めるが、まだ決定的な証拠など無い。その状況でCIAの動きを完全に無視するのは危険だろう。奴らに先を越される可能性が高いぞ?」
「ニシシシ。確かに決定的な証拠っつうのは無いな。だが、もし俺の推理が正しければ、あのマスターが言っていた人魚伝説の言い伝えの謎も解けるんだぜ?」
「マスターの言っていた人魚伝説の言い伝えと言えば………『南から流れ来た者は、一度に複数の災いを招く。決して先祖の地に招くなかれ、決して先祖の地に入れるなかれ、決して先祖の地に侵入される事なかれ』というやつの事か?」
ケンゴウが口にしたのは、マスターが祖父母から耳にタコが出来るくらいには聞かされたという人魚伝説の言い伝えである。人魚が暖かい海域で数多く目撃されている事から鑑みて、南から来る者というのが人魚であると考えれば人魚伝説と小樽に伝わる言い伝えが綺麗に合致すると言えるだろう。
しかしその言い伝えに対して、名無しの権兵衛は一石を投じる。
「おう、それそれ。その言い伝えってよぉ、何か妙だと思わねぇ?」
「ふむ。そう、だな………強いて言えば、まるで訓示のような印象を受けるところが変と言えば変か?」
「俺もそう思った。そしてそう思ったからこそ気付いたのが………っと、一旦話はここまでだな」
「どうした?」
何故話の途中でやめるのかと疑問げなケンゴウが一際怪訝そうな表情で尋ねると、名無しの権兵衛からの答えは直ぐに帰って来た。親指を窓の方へと指し示して、言外に話を中断した理由を教えて来たのだ。
それに従ってケンゴウが窓の外へと視線を向けると、そこには酒場から出て来た茶髪の大男とその大男の仲間と思わしき合計六人の外国人が視界に映る。大男以外の全員がニット帽を始めとした帽子を被っており、しかも厚着のせいで男女の区別はつかない。しかしながら、まだ確信を得られた訳ではないが、小樽の町で多くの外国人を駆使して人海戦術を行っている上の立場のCIA諜報員だと思われる連中なのは間違いないだろう。
ともあれ、酒場から出て来たのは諜報員と思わしき者達だけではなく、ただの客と思われる日本人男性達も沢山居た。少なくとも、監視していた時に入って行った客達の全員が、一斉に出て来たのは間違いない。
「閉店の時間って訳だ。答え合わせは、直接マスターとやろうぜ」
獲物を目の前にしたかの様な、そんな肉食獣を連想させるギラギラと怪しく輝く目をした名無しの権兵衛は、ケンゴウを促して部屋を退出する。そして、チラチラと雪が降る空の下を、桃太郎という酒場を目指し歩みだした。