達人
雪が降り積もる寒さ厳しい真夜中にあって、名無しの権兵衛は独りポツンと敵拠点の間近で煙草を吸っていた。ほんの少し顔を覗かせる月や星々のお陰で、真夜中であっても意外な程に視界は明るい。名無しの権兵衛が山を爆破して埋まっていた洞窟の出入口は、今や完全に復旧された後で、星々に照らされその姿を露にしている程だ。
雪崩で完全に埋まっていた洞窟を、ほんの三日やそこらで復旧させたというのは敵ながら天晴れである。殆ど寝ずの作業だっただろう事は想像に難くない。
何時もの名無しの権兵衛なら、きっとそんな風に敵の努力を誉めていたのだろうが、復讐に燃える現在の彼はチッと舌打ち一つして顔を顰めた。埋まったまま死んでいれば良かったのだ、そうすれば楽に死ねただろうにと、そう口にはしないが名無しの権兵衛の表情がそう言っている様に見える。
フィルターまで火が回っている事にふと気付いた名無しの権兵衛は、顰めっ面のまま煙草を放り投げた。そして、投げ捨てられた煙草が放物線を描き、軈て降り積もる雪の上に着地する。
すると静寂が支配する山々の麓に、煙草の火が雪を溶かす音が響いた。たかだか煙草一本の火が、ほんの少し雪を溶かしたとしても山々の麓にその音が響くとは思えないのだが、確かに名無しの権兵衛の耳には雪が溶ける音が響いて聞こえたのだ。
その現象の原因は、異常とも言える程に高まった集中力である。名無しの権兵衛が今までの人生の中で、嘗て無い程に集中しているのだ。五感の全てが復讐を確実に遂行する為、研ぎ澄まされている証拠だと言えるだろう。
しかし当の本人は、今までに経験した事の無い感覚に思わず怪訝そうな表情を浮かべ、拳を握ったかと思えばその手を開き、異常な感覚に心底戸惑っていた。
これから襲撃すると言うのにこれはいったい何なんだと、そう言いたげな表情を浮かべる名無しの権兵衛。そんな彼の耳に、遠く離れた場所で雪を踏む音が聞こえ、反射的にその方向へと視線を移す。
するとそこには、相棒であるケンゴウの姿があった。名無しの権兵衛とケンゴウの距離は八百メートルもあるのだが、ケンゴウの足音がはっきり聞こえた様で、それによって殊更に驚き戸惑う。
軈て困惑する名無しの権兵衛の元に辿り着いたケンゴウが、真っ白い息を吐きつつ声を掛ける。
「貴様の言う通り、竜武会の人員に作戦変更を伝えて来たぞ。勝二郎は部下を連れて、逃げたコンテナ船を襲撃に行っていて居なかったが、私が伝言を伝えておるから暫くすれば来るだろう。
それより、何をそんなに不思議そうな……いや、困ったような顔をしているのだ。どうかしたのか?」
「いや、何て言えば良いのか分かんねぇんだが、妙に感覚が鋭いというか………」
「部分的にか?」
「そうじゃねぇんだよ。耳も目も肌もヤバいくらいに鋭敏になっててよ、ちょっち困ってんだ」
目だけ、或いは耳だけなどと言った感じで、感覚が鋭敏になる事は一流スポーツ選手なら幾度も経験する事だ。頻繁に聞く例を挙げるなら、ボールが止まって見えただとか、周囲の雑音が消えたなどやらが良く聞く現象だろう。
それらは一流のトップアスリートならではの現象であるが、それでも部分的な感覚が一時的にブーストされたに過ぎない。言ってしまえば、トップアスリートでなくても部分的になら経験する者も居るくらいで、それ程には珍しい現象では無いと言える。
だが、部分的にではなく感覚の全てが鋭敏になっているというのは、部分的にとは違って非常に珍しい現象と言っても過言ではなく、それ故にケンゴウは心底感心した様子で言葉を紡ぐ。
「武術の世界では、一流以上とそれ以下を隔てるのがその感覚を有しているのかいないのかになる。つまり、貴様は一流以上への階段を登り始めたと言っても良いだろう」
「この感覚がか?」
「うむ。私は自分でコントロールして、四六時中をその感覚のまま過ごす事も可能にしている。貴様もそうなれるように努力するべきだ」
「いや、そう言われてもよ……。どうやってこの感覚になっているのか分かんねぇのに、コントロールしろって言われても困っちまうぜ」
「問題無い。これからやる襲撃が終わった後、手取り足取りで教えてやる。完全に今の感覚を物に出来るまでな。
だから物に出来た時は、私の稽古相手になれよ」
「……………」
「何だその顔は?」
「いや、それは遠慮したいんだけっど」
「一流以上の武人になれるのだぞ? こんなに嬉しい事は無いだろう?」
武術馬鹿のお前と一緒にするなと、そう言わんばかりに顔を強張らせる名無しの権兵衛。その気持ちは充分に分かるし、善意の提案であっても恐ろしい未来しか想像出来ないのだから、遠慮したくなるのも無理からぬ事だと言える。
だからだろうか、名無しの権兵衛は話を誤魔化すかの様に視線を洞窟へと移す。そしてそれだけだと当然追撃が来ると考え、それっぽく「何か聞こえねぇか?」などと呟いてみせた。
すると先程まで感覚が鋭敏になっていた事を話していただけに、ケンゴウは素直に耳を傾ける。自分が騙されているとは露とも知れず、しかしケンゴウはじっと耳を傾け続けた。
だが当たり前であるが、幾ら耳を傾けていても何も聞こえず、少し怪訝そうな表情を浮かべて首を傾げた。
「……何も聞こえんぞ?」
「そ、そうか? 何か聞こえたような気がしたんだけっども、まだこの感覚に慣れてねぇせいかもな」
「ふむ。まぁ私も最初は………いや、確かに何か聞こえるぞ」
嘘から出た実と言った感じで、何やら本当に何かしらの音を察知したらしいケンゴウが、眉間に皺を寄せつつ集中して音の発生源が何なのかを探り始めた。
するとケンゴウが言う通りに、名無しの権兵衛の耳にも洞窟から異音がしているのが聞こえた。何かを引き摺る様な、ズルッズルッと重い物を地面に擦りながら運んでいる音だ。
「……マジでこの感覚は便利だな。でもよ、これって反動があったりしねぇか?」
「何でそう思う?」
「いや、何でって……。こんなに便利だから? いや、便利過ぎるから?」
「どうやら勘のようだな。だが、その勘は当たりだ。慣れない内の感覚の鋭敏化使用は、強烈な頭痛を催すぞ」
何事にも作用反作用が生じるのが当たり前であるが、感覚の鋭敏化にも反作用があると知って心底嫌そうに顔を歪める名無しの権兵衛。なまじ自分でコントロール出来ないのだから、反作用を恐れて感覚の鋭敏化を止める手立てが無い彼からしたら、そのしっぺ返しが怖くなって当然である。
それは兎も角、そうやって話をしている間も洞窟から聞こえる異音が止む事は無く、暫くすると洞窟から何かを引き摺る男が姿を露にした。
それを見て咄嗟に身を屈めた二人が見詰める中、男は毛布に包まれた何かを引き摺りながら雪が積もった地面の上を進み始める。
すると、毛布に包まれた何かが雪の上に赤い線を引いて行く。
「ありゃあ死体だな。こんなに離れてるのに血の匂いもするし、間違いねぇだろうよ」
「うむ。私の鼻も、嫌になるほどの鉄臭さを感じているから貴様の言う通りだろう」
「どうするよ? 取り敢えず、始末しとくか?」
「そうだな。敵を一人でも少なく出来るのなら、それが一番好ましい。
だが、あの男はやめておいた方が無難だぞ」
「何でよ? もしかして、俺には分かんねぇくらいに実力を偽装した達人とかか?」
「いや、そうではない。あの男は防人の一族が放った草だからだ」
「アイツが? 何でお前に分かるんだっつうのよ?」
「明智から事前に聞いていたからだ。右耳が無い男の名が八助で、もしも八助に遭遇したら任務は終了だと伝えてくれと、そう頼まれていたのだ」
少し面倒臭そうな表情でそう告げたケンゴウに、名無しの権兵衛は訝しげな様子で小首を傾げた。どうして自分には伝えなかったのだろうかと、きっとそんな風に疑問を抱いたのだと思われる。
だがしかし、これにはちゃんとした理由というものがあって、月夜の事で四六時中を殺気に満ち溢れさせていた名無しの権兵衛が近寄りがたかったからに他ならない。要は名無しの権兵衛のせいであると言える。
「それは兎も角、折角だから私は八助とやらに伝言を伝えて来る。貴様は周囲の警戒をしていてくれ」
「はぁぁ、分かったよ。何か出鼻が挫かれたような気がすっけど、仕方ねぇな」
生きるか死ぬかの殺し合いだと、そう意気込んで集中していただけに名無しの権兵衛の落胆は非常に大きい様で、ガックリと項垂れた。出鼻を挫かれた様な、そんな感じなのだろう。
しかし八助という男も歴とした防人の一族であるだけに、放っておくというのも不味い。それ故に、渋々とは言えども名無しの権兵衛は否定しなかった。
名無し「鍛えてくれんのは有り難いけど、それって要は練習台になれって事じゃん。絶対嫌だぜ、俺は」
ケンゴウ「馬鹿な!? 強くなれる道があるのに、それを歩まぬと言うのか!?」
名無し「いや、何でそこまでビックリすんのよ?痛い思いをしたくないってのは誰もが共通する考えじゃん?」
ケンゴウ「愚かな……。巨万の富を放棄するようなものだぞ!」
名無し「いやいやいやいや、巨万の富なら放棄しねぇっつうの。お前の価値観がよう分からんわ」




