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名無しの権兵衛  作者: 蘇我栄一郎
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罠だろうが何だろうが知った事じゃない その四

 三葉の肩越しに名無しの権兵衛の顔を見た月夜は、安堵から気を緩めてしまった事で完全に気を失ってしまう。流石にダメージの限界だっただろう事は、誰の目にも明らかだった。そう、どんな馬鹿な人間が見ても容易く理解出来てしまうくらいには酷い有り様だったのだ。

 となれば当然、そんな月夜の顔を見て怒らない訳がない人物が二人居た。怒髪天を衝く勢いで怒りが沸点を瞬時に超えるのを感じ、二人共にそれぞれが手に持つ銃をパイソンへと同時に向ける。

 これは理屈ではなく、感情が身体を一瞬ではあっても確かに支配した証拠で、それが故に名無しの権兵衛とケンゴウの二人が銃をパイソンへと向けたのは意図したものではなかった。月夜の無惨な姿を見た事での怒りと嫌悪感、その二つの感情に一瞬ではあっても身体が完全に支配された結果である。


「悪いんだけっど、この屑の頭を石榴にするのは譲ってくんねぇか?」


「……承知した。それならば、私は彼女達の護衛を━━!?」


 譲れと言われれば否はないと、ケンゴウはパイソンに向けていた銃を下げた。しかしその瞬間、洞窟の奥から銃声が響き、反射的に銃声がする方へとケンゴウが撃ち返す。それは勿論名無しの権兵衛も同様であり、身を低くして二度、三度と連続して引き金を引いた。

 だがそれは、あくまでも威嚇の意味でしかなかった。その理由は単純で、暗闇の向こうに居る者達を目視で確認する事が出来ないでいるからだ。


「チッ。屑の始末どころじゃねぇぜ」


「胸糞悪くもあるが、今は逃げる事を優先するべきであろうな」


「ケンゴウには悪いが、月夜を抱えてその嬢ちゃんと一緒に出口に急いでくれっか?」


「貴様は?」


殿(しんがり)だ」


「分かった。気を付けろよ」


 三葉も体力的には限界に近い事を立ち振舞いから察した名無しの権兵衛は、ケンゴウに月夜と三葉の護衛を任せた。この状況での最適解を、激情に支配されていてさえも冷静に判断して名無しの権兵衛なりに導き出したつもりであった。

 だからこそケンゴウはその提案を素直に聞き入れ、気絶している月夜を背負うと、フラついている三葉にも肩を貸して急ぎ出口を求めて駆け出す。最早足音の発生を気にする必要が無くなった今のケンゴウは、それこそ気絶した人間を一人背負っているとは思えぬ速度であっという間に洞窟の闇へと姿を消した。

 それを確認しつつ威嚇の為の発砲を洞窟奥へと何度も繰り返す名無しの権兵衛は、拷問部屋の奥で無表情を貫いているパイソンの顔をチラリと横目で見る。その途端、再び名無しの権兵衛の感情は激情のみに支配された。

 テメェの面は覚えたからな、今度会った時には鉛弾をぶち込んでやる、絶対に俺が殺してやる、とそんな風に様々な言葉を視線に乗せて、名無しの権兵衛は少しずつ出口方面へと後退して行く。本当ならこの場で即座に殺したいのが本音であろうが、こうも洞窟の奥から乱射されていてはそれも叶わず、しかもパイソンが拷問器具を盾にして身を守っているので簡単に始末出来ないのだから尚更仕方がない。


「俺の顔を忘れんなよ! テメェは俺が殺す!」


 普段の名無しの権兵衛は、こうも感情を露にする事は無いと言っても過言ではない。掴みどころが無い様にわざとそう見せているのだが、その皮を破ってこんな風に素の自分を曝け出したという事は、それだけ本気で怒っている事の証左なのだ。

 洞窟奥の目に見えぬ者達へと威嚇射撃を繰り返しながら後退する名無しの権兵衛は、拷問部屋から距離が開けば開く程に冷静さを取り戻しているのを自分自身で感じ取る。そしてそこまで至れば、普段の自分へと完全に戻るのは容易かった。

 再びいつもと変わらぬ飄々とした人物の皮を被り、身も心も完全に覆い隠してしまうと大きく息を吐き出す。充分敵は足止め出来た筈だと、名無しの権兵衛はそう考え、もう随分と先に行ったであろうケンゴウ達を追って全力で駆け出した。

 そこまで広くない洞窟を右へ左へと縦横無尽に駆け続けるその姿は、やはりいつも通りの飄々としたもので、掴み所が無い動きで走り抜ける名無しの権兵衛を敵も容易には捉えられない。まるで敵の射撃の腕を馬鹿にしているかの如く、奇妙なステップを駆使して地底湖までの撤退を可能とした。

 だが、此処まで来て大きな問題が壁となって名無しの権兵衛の道を塞ぐ事になる。その理由は単純明快で、地底湖の先に行きたくてもボートが無いのだ。

 大胆に泳いで逃げるというのも悪くはないが、そうすると数分も経たずに低体温となり満足に動けなくなるだろう。そしてその後、死因が寒さによる凍死となるのか、はたまた低体温が原因で動けなくなったところを射殺されてしまうのか、或いは地底湖を泳いで踏破するというのがそもそも無理で溺死するという未来しか訪れはしないだろうと断言出来る。

 名無しの権兵衛は必死に周辺へと視線を向け、此処を突破するに際して役立ちそうな物を探す。オールが数本、何を目的に置いてあるのか不明な空っぽの樽が二つ、穴だらけになって沈んでいるボート、トンプソンを両手に事切れた遺体が十人分、どれもこれも名無しの権兵衛には役立ちそうも無い物ばかりだった。

 しかし名無しの権兵衛はニヤリと笑んだかと思えば、一つの遺体からトンプソンを素早く抜き取り、今度は全ての遺体からトンプソンの残りの弾薬を全て回収する。そして回収したばかりの弾薬でリロードを済ませれば、洞窟奥へと連射しつつ空樽を地底湖の直ぐ傍へと移動させ、それから何を思ったのか空樽二つを互いにロープで結んだのだった。


「準備はバッチリ……じゃねぇよ、オールを忘れてたぜ」


 威嚇の為の射撃を繰り返しつつ独り言ちて苦笑する名無しの権兵衛は、オールを新たに手にするとロープで結んだ空樽を地底湖へと浮かべた。そしてその空樽の上へと、名無しの権兵衛は飛び乗ったのである。

 大分不安定であるが、確かにボートの代わりにはなるだろうと思えた。しかし、後方へと威嚇射撃を繰り返しながらオールで漕ぎ続けるというのは、実のところ非常に難しい。ボートの上でならまだ違うのかもしれないが、ロープで結んだだけの空樽では常にグラグラしており、半端ではない集中力を必要としている。


「おっとっと、あらら、とっと。こりゃ、サーカスでも食っていけそうだ」


 銃砲が響く度に名無しの権兵衛の身体は右へ左へとバランスを崩すものの、それをオールでもって辛うじて体勢を整えるという難事の中で、奇妙にも空樽の上から決して落ちる事なく進む。

 そうして地底湖を渡り終えるなり、再び名無しの権兵衛は駆け出した。もう名無しの権兵衛を追う術など敵は有していない。何せボートが無いのだから当然である。

 これを意図した訳ではなかったのだが、名無しの権兵衛からしたら実に都合の良い状況だった。故に名無しの権兵衛の足取りは非常に軽く、道中転がる死体を飛び越えながら順調に出口まで辿り着く。

 だが、順調だったその足は唐突に止まってしまう。三葉の悲鳴が聞こえたからだ。

 何か良くない事が起きたのは明白で、その悲鳴を耳にして思わず足を止めた名無しの権兵衛は、かなり焦った様子で悲鳴の元へと全力疾走を始める。しかしそれも束の間の事で、ケンゴウ達の姿を見るなり焦りという感情は一瞬で消失してしまう。


「何を呑気に遊んでんのよ? 状況分かってやってる?」


 何がどうしてそうなっているのか判然としないが、何故かケンゴウはその身体の大半を雪に沈めていた。しかも上半身を下にして、頭から骨盤にかけて綺麗にすっぽりと沈めているのだ。

 ケンゴウの性格からして遊んでいるという訳ではないのだろうが、この状況は他にどう理解すれば良いのか困る光景である。


「ち、違うんです! あの、誤解で、そう、誤解でアタシが叩いたらこうなっちゃって!」


 要領を得ない三葉のその説明に、名無しの権兵衛は脳内に大きな疑問符を浮かべた。はっきり言って、三葉の説明でこの状況を理解出来る方が異常だと断言出来るだけに、名無しの権兵衛の反応も頷けるというものだ。

 しかし、それでも三葉は必死に弁明を続ける。


「ケンゴウさんがアタシを抱えようとしたんだけど、その時に手がアタシの……その……アソコに。それで反射的に手が出ちゃって、それでこうなったんです!」


「なるほど。要はむっつりの犯行のせいでって事ね」


 むっつりという名無しの権兵衛の言葉が耳に入ったのか、ケンゴウは異常な速度で上半身を雪から出して「断じて違う!」と叫んだ。しかし当の本人がそう言っても、三葉の証言があるのだから有罪は決まった様なものである。

 それ故に名無しの権兵衛は、それはもう淡々とケンゴウに対して応える。


「やった奴は全員そう言うんだよ。ケンゴウ、正直に吐いちまいなって」


「ば、馬鹿な事を言ってる場合か! 早く逃げんとどうなるか分からん貴様ではあるまい!」


「いや、それはもう大丈夫だ。ほら、山を見てみ」


 妙に自信満々で告げる名無しの権兵衛を見て、ケンゴウは胡散臭いと思いつつ山へと視線を向けた。視界に映る山は、相も変わらず真っ白な雪化粧で、今の様な切羽詰まった状況でなければ感動の一つもしている事だろう。

 しかしその山が何だと言うのか、そう思いつつケンゴウは山を見詰める。すると次の瞬間、山の頂上で大きな爆発が起きた。それこそ大爆発と言えるもので、その影響で雪崩が発生し、洞窟入り口を完全に埋めてしまう。


「な、何なんだ!?」


「これで俺達を追うどころじゃなくなった訳だ。どうだ?」


「どうだって、いつの間にこんな……!? あ、あの時か!」


 ケンゴウが思い出したのは、頂上から滑り降りる直前の事だった。名無しの権兵衛が何やら木箱を幾つか埋めていたが、あれが爆弾だったのだと今気が付いたのだ。

 そしてそれを思い出したケンゴウは、名無しの権兵衛の用意周到さに感心する。それこそ、大した奴だと手放しで称賛した程であった。

 だが少し冷静になって考えてみれば、もし時間がずれていれば自分達も雪崩に巻き込まれていたのだと気付き、思わず愕然とする。余りにも危険過ぎるだろうと、余りにも賭けに過ぎると、そう思わずには居られず、ケンゴウは山から視線を名無しの権兵衛に移すなり叫ぶ。


「何を考えているのだ! もし間に合わなければ、我々も生き埋めになっているところだぞ!」


 文句を言いつつ、ケンゴウの脳裏には洞窟内で時間を気にする名無しの権兵衛の姿が思い出されていた。そうか、だからあんなに時計を気にしていたのかと、そう気が付いたのだ。

 しかしそんなケンゴウの態度と言葉を前にしても、それをした張本人は決して悪びれた様子を見せず、それこそニヤリと笑みを浮かべて見せる。


「上手くいったんだから良いじゃねぇか。結果良ければ全て良しって言うだろ?」


「貴様、それは、しかし、いや、正気なのか!?」


 確かに上手くいったのは認めるが、それにしたって賭けに過ぎる行いだと、そう言いたいが上手く口に出来ずに正気を疑う言葉しかまともに口に出来なかったケンゴウは、もうどうして良いのか分からない様子で百面相をしていた。余りにもな所業に、ケンゴウの常識がショート寸前になっているらしい。

 それを見て察した名無しの権兵衛は、雪の上に横にされていた月夜をそっと優しく抱き上げると、屈託の無い笑みで応えるのだった。

名無しの権兵衛「ムッツリスケベ見っけ」

ケンゴウ「誰がムッツリか!それは貴様の事であろう!」

名無しの権兵衛「気を付けろ!ケンゴウの近くに居ると、それだけで妊娠するぞ!」

ケンゴウ「や、やめろ!不埒な事を叫ぶな!」

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