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名無しの権兵衛  作者: 蘇我栄一郎
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武術を極めんとする男の本性?

「月夜ちゃ〜ん。こっちは異常無いかなぁ?」


 勝二郎と手を結んだ後、慌ただしく拠点へと帰還した名無しの権兵衛は月夜の姿を探して防人の拠点内を彷徨いていた。勿論、そんな名無しの権兵衛に呆れるケンゴウは別行動だ。恐らくケンゴウは、食事を摂るか眠るかしているのだろうと察せられる。

 名無しの権兵衛もケンゴウを見習って少しは身体を休めれば良いものを、女の尻を追う事に時間を費やす姿には確かにケンゴウの様に呆れてしまうと言わざるを得ない。それに何より、鼻の下を伸ばして彷徨くその姿は情けないの一言で、誰が見ても溜め息しか出ないだろう。


「お、明智君ではあ〜りませんか。小難しい顔してどったの?」


 拠点内部の居住スペースより少し先に進むと、鍛練場や会議場がある。その内の一つである会議場で、名無しの権兵衛は明智氏郷の姿を目にして声を掛けた。

 だが声を掛けられた明智氏郷は普段とは異なる雰囲気で、どこか困惑している様に見える。事実、明智氏郷の顔色はどこか暗く見えるし、困惑と同時に少し焦っている様にも見えたのだ。


「ぅん? あぁ、貴殿か」


「何か暗くねぇ? どったの?」


「貴殿の案を採用して、貴殿の盗んで来た金細工などを散撒く事で敵の巣の最寄り町に見張り要員を配置したのだ。それは当初こそ上手くいった。それこそ幾つかの情報を得られたぐらいにはな。

 しかし、その見張り要員と突然連絡がつかなくなった。それで確認の為に月夜が向かったのだが、肝心のその月夜とも連絡がつかなくなったのがついさっきの事だ」


「遊びに夢中になってて、パパに連絡を忘れてるだけってのは……あり得ねぇよな」


 明智氏郷と変わらぬ程に顔色を暗くさせた名無しの権兵衛は、物思いに耽るかの様に沈黙した。悪い予感がすると言った感じの不確かなものではなく、名無しの権兵衛は死神が背後に立っているかの様な感覚を確かに実感したのだ。

 何か分からないが危険だ、今は動くべきではない、そう自分の勘が訴え掛けて来るのを強く感じる名無しの権兵衛。今まで培ってきた経験が、身に迫る危険を精一杯に報せているのだ。

 だがその状況で、名無しの権兵衛は敢えてニヤリと笑んだのである。誰が見ても明らかな程に、口の端を盛大に吊り上げて笑みを浮かべて見せたのだ。


「ここで動かねぇのが一番賢い選択なんだろうがよ、俺がそれを選択しちまったら俺じゃなくなっちまう。俺が俺である為に、受けて立ってやる。何が待ち受けてんのか知らねぇけどよ、全部食い破ってやるぜ」


 どう考えても罠だ。見張り要員は捕まっているのだろうし、その見張り要員を餌として張られた罠に月夜も嵌まったのだと考えるのが最も高い可能性の一つだろう。

 そんな状況で動くのは愚の骨頂というやつで、罠を仕掛けた側が動くのを待つのが一番危険の少ない対処法であるのは間違いない。罠を張り動かぬ狩人を、焦らして巣から誘い出す。それが正しい選択の筈である。

 しかし名無しの権兵衛は、その定石を完全に無視して突撃する気満々の様子を見せた。己の理性が危険を訴え掛けているのを無理矢理気付かぬ振りをして、愚かにも前に進む事を決めたのだ。

 それを察したのか、焦った様子を見せる明智氏郷はその場を後にしようと背を向けた名無しの権兵衛の腕を咄嗟に掴む。


「まさか、貴殿は行く気なのか!?」


「おう。それが俺で、そうじゃなければ俺じゃねぇからな」


「罠に決まっておる! 此方は動かず包囲網を少しずつ狭める事に注意を払うべきだ!」


「あんたらはそれで良い。少しずつ包囲網を狭めて、敵を炙り出してくれっと助かるよ。

 それに対して俺とケンゴウの二人は、囮として盛大に暴れ回る。そんで敵を惹き付けつつ、目につく敵は全て潰していくって寸法だ」


「そんな無茶苦茶な策があるものか! いや、それでは策とも言えん!」


 明智氏郷のこれまでの人生は、不老という事もあって普通人とは大きく異なり非常に長い。となれば当然、その人生において危険の一つや二つは何度も経験している。しかし、罠と分かっていてそこに突っ込んで行くなどという危険を冒した事は一度として無い。余りにも愚かで、選択肢の一つにすらならないからだ。

 それ故に名無しの権兵衛の行動を必死に否定する明智氏郷だったのだが、暖簾に腕押しという感じで名無しの権兵衛には全く聞き入れて貰えず、結局は挑戦的な笑みを浮かべてそのまま会議場から出て行く名無しの権兵衛を見送るしかなかった。


「愚かな事を……。敵が待ち受けている状況で攻勢に出るなど愚の骨頂ではないか。以前に潜入した時とは違うと言うに」


 明智氏郷からしたら、どう考えても危険極まりない行動で死にに行く様なものとしか思えず、険しい表情を浮かべてしまう。

 しかしその内心では、自身も派手に動いて助けに行きたかったのが本音。永い時を防人の一族として伴に管理し、秘密を守り続けていた大切な仲間なのだから当然である。

 だが一族の長としての立場が、他の部下達の命を与る立場が、明智氏郷の本音のままに行動する事を良しとは認めない。捕まった部下二人の為に、多くの犠牲を出す訳にはいかないのだ。

 だからだろうか、名無しの権兵衛の背中を見送るその目の奥には、僅かな羨望の色が見て取れた。

 実のところ、名無しの権兵衛も明智氏郷の気持ちは理解していたのだろう。それでなくば何人か人手を出してくれと、そう言っていても不思議ではないからだ。

 そんな名無しの権兵衛が足を踏み入れたのは、居住スペースとなっている場所。そう、相棒へと話を伝える為に来たのだ。

 だが、何やら両目を手で押さえて黙り込むケンゴウを目にして、敵地へと攻め入る気持ちが一気に萎み、思わず首を傾げて呆けてしまう。何をしているのか、さっぱり理解出来なかったのである。

 武術の訓練なのか、精神修行なのか、それとも目を塞いだ状態で五感の訓練でもしているのか、はたまたそのどれでもない何かのか、名無しの権兵衛には何が何やら理解に苦しむ状態だった。


「お前、何してんの?」


「その声は名無しか!? 丁度良いところに来た! 彼女をどうにかしてくれ!」


「はぁ? ヒロポンでも射ったのか?」


 ヒロポンというのは、第二次世界大戦後に日本軍の保有していた薬品が市場に流れてしまい広まった禁止薬物の事である。流出当初、日本政府が機能不全へと陥っていた事もあって重要視されていなかったのだが、中毒者が多く発生する様になると1949年には一般人による製造を法律によって禁止するなど厳しい処置を取る事に決定。しかしながら一度広まってしまった結果、金になると悟った者達がそうそう簡単に製造販売をやめる訳も無く、密造品などが闇市で広まり続ける一方で製造の禁止をしても悲しい程に効果が無く、結局は1951年に覚醒剤取締法が制定されるまでに五十万人近い中毒者を生む事になった極悪な薬物なのである。一説によるとヒロポンの常用者は三百万人にも及ぶと言われており、この時代では子供でも容易く手に入る薬物だった。

 ともあれ、そんな幻覚作用のある薬物を使用したのではと、そう思ってしまう程にはケンゴウの今の状態は常軌を逸していた。実際、ケンゴウの言う女性とやらは居ないし、その状況下で必死に叫ぶケンゴウは客観的に見ていて気狂いの類いにしか見えない。

 名無しの権兵衛もそれは同様だったらしく、心底不気味そうにケンゴウを見つめる。その間にも、ケンゴウは自分の目を塞いだ状態で居もしない彼女とやらを必死に止めろを喚いていた。

 こうなっては必然的に、本当にヒロポンでも射ったのではと疑うくらいしか名無しの権兵衛には何も出来ない。


「もう服を着せたのか?!」


「……いや、マジでどうしたよ、お前」


「おい、服を着せたのかどうなんだ?!」


 最早狂ったとしか思えないケンゴウを目の前にして、名無しの権兵衛は暫し思案した。そしてふと視線をケンゴウの足下に向け、漸く何が起きているのかに気が付く。

 見事な程に丸い金属が、ケンゴウの直ぐ目の前に円を描く様に設置してあり、それに名無しの権兵衛は見覚えがあった。それ故に合点がいったのであろう。

 何が起きているのかを理解するなり、名無しの権兵衛はニヤニヤとした笑みを浮かべてケンゴウの間近まで接近する。


「よぉ。もう目を開けても大丈夫だぜ」


「はぁぁぁ……。すまん、助かった」


 目を塞いでいた手を退けたケンゴウは、礼を述べつつこの場に居る筈の人物を探してキョロキョロと視線を忙しなく周囲へと向け始めた。しかし勿論、この場に居るのはケンゴウと名無しの権兵衛の二人だけだ。それ以外には誰も存在しない。ケンゴウが言う彼女とやらもだ。

 目を真ん丸にして不思議そうにキョロキョロするケンゴウを見て、名無しの権兵衛はニヤニヤした笑みを見せつける様にして大袈裟に腕を組む。


「素っ裸の美人だったろ?」


「美人かどうかは兎も角、指輪をしていなかったようだから恐らく独り身の女性だと思うのだが、驚く程に不埒な女性が居たのだ」


「つまり、素っ裸の美人だったんだろ?」


「美人かどうかは兎も角、確かに服は着ていなかった。何故か靴下だけは履いていたが」


「ほぉほぉ、なるほど。つまり、それがお前の性癖って事だな」


「はぁ? 貴様は何を訳の分からん事を言っておるのだ。それに美人美人と何度も貴様は言っているが、それは人によって異なる価値観だろ。全く、貴様という奴は俗物過ぎるぞ」


 最初は少しからかってやろうと思っていたくらいだったのだろうが、ケンゴウの発言を耳にしてその言い分に片頬を引き攣らせる名無しの権兵衛。流石に、清廉潔白そうな発言で文句を言われるのには苛立った様子だ。

 だが、これから事実を告げる時を想像すれば再び名無しの権兵衛の口元がニヤつき始める。ケンゴウに対して初めてと言って良い程に、完全完璧にマウントが取れるのだからその思いも頷ける。

 どんな顔をするのだろうかと、そんな風に想像を膨らませる名無しの権兵衛は、それはもう悪魔の様な笑みを携えケンゴウの足下に存在する丸い金属の塊へと指を差す。


「その丸い金属が何か知ってたりするか?」


「貴様、何なんだその気味の悪い笑みは?」


「今この笑みは放っとけ。ンッフフフ、イヒヒヒヒ……そ、それより、質問に答えてくれっと話がスムーズに進むんだけど?」


「……この金属が何かは知らん。これで良いか?」


 もう今にも吹き出し腹一杯に笑い出しそうな名無しの権兵衛は、それこそ心底愉快そうに顔を歪める。


「それはよ、あの不老不死の力を得られる不思議な装置があった金属の塊の中で見付かった物の一つだ。それでその丸い金属の効果はっちゅうと、これがスゲェ摩訶不思議な物なんだよ」


「……その気味の悪い笑みは貴様の言う通り今は放っておくが、その勿体ぶった口調はやめろ。何故か妙に腹が立つ」


「ニョホホホ! ニョホニョホニョホホホ! それはよぉ、近くに居る者の見たい物を見せてくれるっつう不思議な力を持つんだよ!

 それはつまり! 普段は偉そうに清廉潔白を謳っていても、やはり男はどこまで行っても男っつう事の決定的な証拠だ! しかも靴下だけを残して、他は素っ裸になった女が性癖とはな! ニョホホホ、実に面白い!!」


 馬鹿笑いしながら告げた名無しの権兵衛の言葉を耳にして、ケンゴウは激しく動揺した素振りを見せた。瞼は大きく開き、そんな筈は無いと言いたげに大きく頭を左右に振る仕草から察するに、それこそ自分自身に言い聞かせている様に見える。

 だが現実は何事も自分の思い描く様にはいかないものであり、その事実を示すかの様に名無しの権兵衛が事実を突き付ける。


「俺の時はギターで局部を隠す美女だったんだけっども、お前の場合は靴下だけ履いた美女か。何で靴下だけを履いてんのか気になって仕方ねぇなぁ。ケンゴウが変な性癖を持ってるのは何でなのかなぁ?」


「グッ……き、貴様の話は信じられん! 仮にその話が真実だとしても………そ、そうか! この金属の装置は貴様に反応してしまったのだ!」


「ニョホホホ! 愚か者め。俺が来た時には既にお前は幻影を見た後だった筈。つまり、俺に反応した訳ではなく、お前の性欲に反応したという証に他ならないではないか!」


「ば、馬鹿な! 武術を極める為に全ての欲を捨て去った筈の私が、あれ程に低俗な幻影を見たというのか?!」


「ケンゴウよ、耳をかっぽじって聞け! 男というのは、どこまで行こうとも男という事よ!

 ニョホ、ニョホ、ニョホホホホホホホホ!!!」


 哲学っぽく言っているが、結局は性欲に抗うのは不可能だと言いたいだけなのだろう。それは自分がそうだからこそ他の人も同じだろうと考える短絡的な思考でしかないが、生物としての重要な欲求の一つなのだからある意味では間違っていない。

 ともあれ、まるで出来の悪いコントの様な遣り取りはもう暫く続くのだが、それは完全にケンゴウが撃沈した事で長かった様で短かった様な喜劇が終幕を迎える。そしてその後には満足感に満ち溢れた様子の名無しの権兵衛が、事ここに至って漸く真面目な雰囲気で話を切り替えるのだった。

 見張り要員との連絡が途絶えた事、それだけではなくその見張り要員の様子を確認しに向かった月夜さえも連絡が取れなくなった事、そしてどう考えても見張り要員や月夜は敵に囚われ罠の一部となっているだろう事。そういう諸々の説明を一から十まで事細かく名無しの権兵衛からケンゴウへと告げられ、かなり切迫した事態だという事実が完全に伝えられる。

 そうすると当然、先程まで喜劇やコントとしか言えない遣り取りを強制されていたケンゴウが黙っている訳がなかった。それはもう心底呆れた様子で「貴様はふざける時には、時と場合を選ばんのか?」と、不思議そうでいてどこか怒っている様な口調で言葉を投げ掛けたのだ。

 それに対して名無しの権兵衛はと言うと、両肩を竦め口を開く。


「いや、それをお前が言うか? 俺はお前に説明したら直ぐに行動しようと考えてたんだけっど、その時に目に入ったお前が━━」


「えぇい! 皆まで言うな! その事は早く脳から消し去ってくれ!」


「へいへい。ま、多分それは無理だろうけどよ」


 ニヤッと笑みを浮かべながら言うその姿からするに、きっと長い間忘れるつもりは無いのだと察せられる。少なくとも、十年くらいは言い続けるつもりなのだろう。

 しかしそんな表情と雰囲気は束の間の事で、再び真剣さを感じさせる表情へと一変させる名無しの権兵衛が更に言葉を紡ぐ。


「それはそうと、俺は敵の罠を食い破りに行くけどよ、お前はどうすんだ?」


「………チッ。ふざけるのか真面目に話すのか、どっちかにして欲しいものだ。しかし今のその表情と雰囲気は実に好ましい。故に、私も貴様の案に乗って動くのも吝かではない」


 名無しの権兵衛の真剣さにつられたのか、ケンゴウは酷く剣呑な雰囲気を隠しもせずに言い放った。それはまるで、肉食獣が獲物へと襲い掛かる瞬間の表情にも見えた。

名無しの権兵衛「うむ。どんな聖人君子だろうと、男は男だという事が証明されてしまったな」


ケンゴウ「何故靴下だけ……?私にそんな性癖など……無い、筈だ。そう、無い筈なのだ!それ故に、これは夢だな!夢に違いない!そうに違いないのだ!」

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