敵勢力の規模 その三
月光という名のホテルにチェックインを済ませた名無しの権兵衛とケンゴウの二人は、完璧な洋式仕様の内装に少し驚いた様子で三階の部屋へと入る。個室の部屋も和式から完全に離れたものであり、別の国に来たかの様な居心地を感じてしまうくらいだった。
豪華な調度品というのは一つも存在しないものの、どれもこれもが手の込んだ物であるのは容易に見て取れる。大戦後に再起を誓って建設されたホテルなのだろう事が、明確な程に理解出来る様相だ。
「こりゃ随分と気合い入れたんだろうな。この御時世に大したもんだぜ」
「うむ。派手さが無く、心地好い雰囲気に好感が持てるホテルだ」
部屋を一頻り見ての感想を感心しつつ呟いた二人は、片方はブランデーの瓶とグラスを二つ手に、もう片方は港全体を見渡せる窓にテーブルと椅子を二脚設置し、二人共がその椅子に座る。ブランデーとグラスを用意したのは当然名無しの権兵衛であり、テーブルと椅子を用意したのはケンゴウになるのだが、そうしてブランデーを互いに口に含みながら港の監視が始まった。
張り込みというのは、人によっては動かず眺め続けていれば良いのだから簡単な作業と言えるだろう。その反面、監視目標が何時動くのか分からない中でジッと眺め続けるというのが非常に苦痛だ、という者も居る筈だ。
名無しの権兵衛は暇な時を嫌う性分であるからして、客観的に見れば後者に値すると思われるかもしれない。しかし実は、目的の為の暇な時間というのには我慢していられたりする。それに何より、名無しの権兵衛にとっての張り込みとは、色々な事を想像しつつ色々な所に目を通し続けなければならず、とても暇な時間とは程遠いものであり、かなり精神的に疲労する作業であった。
そんな名無しの権兵衛の一方で、張り込みを提案した張本人は酒の量が増えていた。明らかに暇な時間というのに苛ついているのが見て取れるし、酒の力で苛立ちを誤魔化そうとしているのが容易に分かる。
だが自分から張り込みを提案しておいて、しかも名無しの権兵衛に対して一発ぶち込んだ事もあり、今さら撤回する事など出来よう筈もなく、それが一番の原因で酒の量が増えているのだ。
席を隣にして座っている名無しの権兵衛が当然それに気付かない訳もなく、コンテナ船からチラチラと見える船員の顔を数えつつ苦笑を浮かべる。
「もうちっと落ち着いたらどうよ?」
「ふん。私はこれ以上無いくらいに落ち着いているつもりだ」
「よっく言うぜ。少しでもそう思わせたいのなら、飲む量を減らさねぇと格好つかねぇよ」
名無しの権兵衛の鋭い指摘に、グラスを持つ手に思わず視線を向けるケンゴウ。そしてそれを誤魔化す様にして視線を船へと向けると、咳払い一つして口を開く。
「そんな事より、どうなのだ?」
「どうって何がよ?」
「監視していて何か分かったのかと、そう聞いているに決まっているだろ」
同じ様に監視しているのだから見ていたら分かるだろうと、そう言いたい欲求に支配されるものの再び強烈な一発を貰いたくない名無しの権兵衛は、それはもう盛大に溜め息を吐きつつケンゴウの問いに素直に答える。
「五時間の監視でっていう注釈付きで言うと、今んところ分かったのは船員の合計人数が二十八人で全員が白人だという事。そんで船員の全員が船から一切降りず、定期的に船上のコンテナを目視で確認しているってだけだな」
二十八人という数字は、あくまでも見えた顔から判別して出した数字にしか過ぎず、船上に姿を出さない人員はその数に入っていない。勿論、二十八人で全員かもしれないが、そうではない可能性も想定しておかねばならないという意味での、五時間での監視で、という注釈である。
それを聞いて数度小さく頷きながらも、一つ引っ掛かる部分があり、思わず反射的にケンゴウが尋ねた。
「定期的に?」
「あぁ。何がコンテナに入っているのかは分かんねぇんだが、よっぽど重要な物が入ってるんだろうよ。一時間に一度はコンテナの扉を目視で確認しているからな」
「開けられた形跡がないかを確認している、という訳か。……中身が何なのか予想出来るか?」
ケンゴウが懸念しているのは、防人の一族に対して使用するつもりの兵器なのかという事なのだが、それに対して名無しの権兵衛は肩を竦める事で分からないと言外に答えるに留めた。実際、コンテナの中を見なければ何とも言えないのだから仕方ない。
だが一つ分かる事があるとすれば、余程にコンテナの中身が大切なのだろうという事。そうでなければ、わざわざ一時間に一回の頻度でコンテナが何者かに開けられた形跡がないかなどと調べたりはしないだろう。
「実際に見て確かめるのが早いんだけどよ、一時間に一回のペースで確認してるくらいだからなぁ。恐らく、船内でも同じような感じでパトロールしてんじゃねぇかと思う訳よ。どうする?」
「ふむ。確かに気にはなるが、やはり今はCIAが本気で乗り込んで来ているのかを調べる方が大事なのではないか?」
「お、おう。そ、そうだな」
「そのリアクションはやめろ! 私とてそこそこ考える脳はあるのだ!」
デジャヴに思えるリアクションを名無しの権兵衛が見せた瞬間、ケンゴウは額に青筋を浮かべながら声を荒げて文句を言い募った。もしかしたら今日二度目の強烈な一発を名無しの権兵衛は食らっていたかもしれないのだから、少々文句を言われた程度で終わって良かったのだと思わなければ贅沢というのものだ。
もっとも、名無しの権兵衛はわざと挑発する様に、ケンゴウの意見に驚いた素振りをしただけなのだろう事は明らかであるが。何せ、背後からリバーブローを受けた際、リベンジを誓っているのだから、まず間違いなく挑発の類いだと断言出来る。
ともあれ、名無しの権兵衛は真剣な表情へと一変させると、自身の意見を口にし始めた。
「取り敢えず、店でも開くっきゃねぇな」
巫山戯たかと思えば突如真剣な表情で意味の分からない事を言う名無しの権兵衛を前にして、ケンゴウは怪訝な表情を隠しもせずに沈黙した。それこそ真意が分からず、どう答えれば良いのか分からないのだから仕方がない。
何故店を出す必要があるのか分からない、何故店を出す事に繋がるのだと、そんな風に疑問を抱くケンゴウを置き去りにして、名無しの権兵衛は自身の意見を膨らませる様に語り続ける。
「飯屋にすっか? ん〜、いや、やっぱり酒を売る方が食い付きが良いだろうし、ついでに煙草とか売りゃ最高の組み合わせだろ。うんうん、酒と煙草の店を出す方向で問題ねぇだろうな。
となれば、まずは商品を仕入れなきゃ始まんねぇ。此処から一番近くの隣町まで四十キロだったし、そこで仕入れて来れば問題ねぇとして……。おいケンゴウ、どう思うよ?」
「………………………………」
「遠慮してねぇで、お前もどんどん意見を出せって」
何もケンゴウは別に好きで黙している訳ではない。突然店を出すと言い始めた名無しの権兵衛の真意が分からないからこそ、こんな風に黙っているのだ。しかも、隠す事すら忘れてしまう程に怪訝な表情を浮かべての沈黙である。
それを理解していない名無しの権兵衛は………いや、自身の考えに集中してしまっていると表現した方が正しいだろうその名無しの権兵衛は、ジェスチャーすら交えて遠慮せず意見を出せとヒートアップして言い募り始めてしまう。まさかケンゴウが話についてこれていないとは思っていないからこその反応であって、別にケンゴウを煽っている意図は決して無い。
だが、話についていけず殆ど一方的な程にどんどん話の内容が進んで行くと、これには流石にケンゴウの抱く困惑度が増していき限界を突破してしまう。そしてその結果、ケンゴウはこの日一番の怪訝そうな表情を浮かべて、まるで犬がする様な仕草で首をコテンッと傾げたのである。
そうしてそれで終わってしまえば良いのだが、勿論それで終わるという訳ではない。その証拠に、怪訝な表情で首を傾げるケンゴウが一言も発する事なく、握り込んだ拳を名無しの権兵衛の顔面へと容赦なくめり込ませたのだ。
「………痛いんですけど?」
鼻っ面にケンゴウの拳をめり込ませたまま、名無しの権兵衛は感じた痛みを素直な感想で伝えた。簡潔にして一切の無駄が無い感想である。
それに対して拳をめり込ませた方であるケンゴウはと言えば、何故か未だに困惑した表情のまま拳を自身の目の前まで移動させて、再び犬の様な仕草で首を傾げた。
「すまん。今のは意図して殴った訳じゃなく、本当に不可抗力だ」
「意図せず無意識で人を殴るとか、それって無空拳とかって奥義じゃなかったか?」
「よく知っているな。だが、確かにこれは無空拳の可能性があるかもしれん」
「おぉ、こりゃお祝いしねぇといけねぇじゃねぇか!」
「いや、そこまでしてもらわなくとも良いぞ」
「いやいや、こんな御目出度い時に遠慮すんなよ。って言ってる場合じゃねぇっつうの!
ちょ、おま、何なの?! その犬っころみてぇに傾げた首とその困惑の表情で、いったい全体何で俺を殴るという行為に至る訳?! 情緒不安定かっつうの! ぶっちゃけ、お前が怖いわ!」
名無しの権兵衛からしたら、表情や仕草をチグハグにしたケンゴウから突然殴られたという感じなのだろうが、ケンゴウにはケンゴウで言い分があった。
それ故にケンゴウは、名無しの権兵衛を殴った時の表情そのままに理由を語り始める。
「手を出すつもりは本当に無かったのだが、私を置き去りに意味の分からない事を次々に喋るからだ。何故突然店を出す話になるのか、そこから説明を求む」
「なら最初にそう口で言えっつうの! お前は時々、表情や仕草とは全く異なる行為をする事があるのを認識しろ! はっきり言って不気味だぞ、それ!
……はぁぁ、全く。あのよ、普通の人間ってのはよ、怒りに表情を歪めて初めて人を殴るもんだろ。なのにお前は、心底困惑した表情で無慈悲なまでの強烈な攻撃をしてくる。俺からしたら恐怖しか感じねぇよ。何でそんな風に困惑した表情で人を殴れるんだっつうの。寧ろ殴られた側の俺がする表情だろ」
「貴様が一人でどんどん先走るからだろう。私としてはただ困惑の中で一旦止めようとした結果、思わず手が出ただけの認識だ」
「ちょ、おま、その言い方だと俺が全面的に悪いっちゅう感じになってるじゃんよ!」
絶対に自分は悪くないと言うケンゴウに、今度は名無しの権兵衛が困惑の表情を浮かべた。事実、名無しの権兵衛からしたら踏んだり蹴ったりの出来事であるからして、文句の一つや二つは言いたくなるのも頷けるというものだ。
それは兎も角、そうやって暫しの時間を言い合った後、漸く名無しの権兵衛が店を出すと言い始めたその真意を溜め息混じりに語り始める。
「もういいよ。これ以上言い争ってると、本当に俺が悪かったような気がしてきそうで怖いわ。
はぁぁぁ。……で、店を出すっつうその目的は、船員に直接話し掛ける口実が欲しかったからだ。煙草とか酒を商品に話し掛けりゃあ上手くいきそうだと思うだろ?」
説明して貰って漸く店を出す事の意味を理解し、ケンゴウは感心したと言いたげな表情で大きく頷いた。しかし、わざわざ店を出す程までしなくてもと、そう言いたげな表情へと変化させる。
船員であるCIA諜報員と思わしき者達が、そうそう簡単に情報を口にしたりはしないだろうと、そう思うからこそのケンゴウのリアクションであるが、実際店を出したとしても徒労に終わる未來の方が確率的に高いとは言えるだろう。
だが、それでも名無しの権兵衛からしたらやる価値があると考えているらしく、ケンゴウの表情から何を言いたいのかを察した名無しの権兵衛は、手を左右に振ってその考えを訂正させる為に言葉を発する。
「いやいや、お前の言いたい事も考えてる事も分かるっちゃ分かるんだが、他に調べる方法って思い付くか? ま、確かに無駄に終わる可能性の方が高いかもだけどよ、やらないよりはマシだと思わねぇ?」
「……船員を拉致したりすれば直ぐにバレるだろうし、拉致したとて簡単な尋問で自白するとも思えん。そう考えると、可能性としては悪くないと言えば悪くないかもしれん。
だが、怪しまれたらどうするつもりだ? 相手は船なのだから、何処にでも簡単に雲隠れ出来るのだぞ?」
「そうならないように上手くやるしかねぇよ。まぁ、悲観的に考えるより、前向きに行くしかねぇって事だ」
「ふむ。……他に選択肢は無い、という事か」
「お前は留守番頼むわ。酒場の地下室でやり合った時に顔バレしてっからよ」
「ちょっと待て。それは貴様も同じだろう」
「いやいや、俺は普通の日本人顔だろ? でもお前は目立つし、敵の中に白人の凄腕が居るから気を付けろって感じで忠告されてる可能性が高いじゃん?」
軽い口調で言う名無しの権兵衛だったが、確かに一理ある話だ。白色人種の遺伝子を色濃く受け継いでいるケンゴウでは、この日本だと目立って仕方がない。それに日本人と白人のコンビに気を付けろと言われている可能性もあるのだし、警戒しておいて損にはならないだろう。
そういう諸々の事情を考慮した名無しの権兵衛の指摘を耳にしたケンゴウは、渋々ではあるが確かに頷いて了承する。そして一言、「何かあれば直ぐに逃げろ」と真剣な表情で忠告した。