背中を任せられる男 その一
昭和の東京というのは意外に思われるかもしれないが、酷く汚い街であった。昭和の終わりならまだしも、昭和の中頃までは街の至るところにゴミが放置されていたりするのは珍しくなかったのだ。
そんな昭和三十年の今、東京の新宿にポツンと佇む古武術道場で独り、激しい鍛練に時間を費やす男が居た。短く刈り上げた金髪頭をしており、この時代では非常に目立つ身長百八十を越える体躯の男が、裂帛の気合でもって流れる様なコンビネーションの徒手空拳技を繰り出し、ピタリと動きを止めると独特な呼吸法を用いて息を整えている。
もう何時間をこうして過ごしているのかと、そんな風に疑問に思ってしまう程には男の身体からは盛大に湯気が立ち上っており、道着の隙間から僅かに覗く筋肉質な胸板へと滝の様な汗が額から流れ落ちている。
この金髪と百八十センチを越える体躯が特徴的な男の名は、ケンゴウ=コンスタンティン。日系アメリカ人で、日本人である父親が会得していた武術の師に弟子入りする為、此処日本へと来た二十八歳の男。
幼少期から青年期まではアメリカの日本人強制収容所で父親から武術を学び、日本が終戦を迎えてから十年は日本に来日して武術修得の為に日夜研鑽を積んでいる。
しかしそう言いつつも、実のところ既に師からは免許皆伝の証を三年も前に貰っており、そんな彼が今も日本に残っている理由は更なる技の昇華の為であった。武術に関して一切の妥協が無い男であり、朝から晩までそれはもう四六時中を武術に費やす泥臭い男だと言えるだろう。
「フゥ………私に何か用でも? それとも、我が師に用があるのかな?」
武術独特の呼吸法で息を整えていたケンゴウは、自身の背後に向かって声を投げ掛けた。
するとその声に応えるかの様に、ケンゴウの姿しかなかった道場内へと扉の向こうから一人の男が感心したと言いたげな様子で口笛を吹きつつ入って来る。
道場内に入って来たのは、親しい者から名無しの権兵衛と呼ばれているコソ泥だった。
その名無しの権兵衛は口笛を吹きつつ拍手までしながら、ケンゴウを無駄に警戒させない様に絶妙な態度と間合いを保ちつつ口を開く。
「いやぁ、お前の師は去年に死んでるからな。となりゃ、俺の用は勿論お前さ」
ケンゴウとの距離を一定のところまで詰めた名無しの権兵衛は、ビシッと人差し指で背中を向けているケンゴウへと指差しながら満面の笑みで告げた。
それを耳にして尚、ケンゴウは未だに武術固有の構えで背を向けたまま会話を続ける。
「ふむ。私に用があるのなら、どうして直ぐに声を掛けなかったのかな? 四ヶ月以上も長々と監視していたようだが?」
驚愕という一言では物足りないと言った感じで、ケンゴウの言葉に目を見開く名無しの権兵衛。自身でも相当武術を齧ってきたつもりであったのに、そんな自分があっさりと監視していた事にバレていたとは思いもしなかった故の驚きであった。
しかしながら、冷静に考えればそれも当然だろうと思い直す。何せ、自分は二流の腕前だ。良くても一流に片足を踏み入れたぐらい。それに対して、ケンゴウは超一流の達人である。
そう考えれば監視していた事がバレていても不思議ではないなと、そう結論を出した名無しの権兵衛は、驚愕の表情から一変して笑みを浮かべた。
「ニシシシ。今日もそうだが、これまで監視していた四ヶ月は全力で気配を消してたつもりだったんだけっども、よくもまぁ気付けたもんだな」
ケンゴウは自身が修めた武術固有の構えを解いた後、背後で心底楽しげな様子で語る名無しの権兵衛へと顔を向けた。そして、綺麗に整った眉を寄せ、少し不愉快そうな表情を浮かべる。
腹立たしいと言った感じではなく、悔しいと表現するのが妥当なその表情からは、まだ名無しの権兵衛に対して敵対心までは抱いていない様に見えた。
「気配の消し方は見事だった。直ぐに気付けなかった事に少し悔しい思いはあるが、それは正直に認めよう。
だが、煙草の匂いを消さなかったのは悪手だったな」
「なぁるほどっ! 煙草の匂いとは、正直言って盲点だった。こりゃ参りましたわ」
監視がバレた理由を知って、その理由に感心しつつも両手を上げて本気で降参のポーズを取った名無しの権兵衛。まさか煙草の匂いが原因でバレるなどとは露とも考えていなかった彼からしたら、これは非常に良い経験を得たと言った感じなのだろう。
だが、そんな名無しの権兵衛の態度が気に障ったのか、ケンゴウは苛立った様子で顔を顰めた。
「茶番は要らん! 死合いを御所望なら受けて立つ!」
名無しの権兵衛の仕草を見て馬鹿にされたと思ったのか、ケンゴウは尋常ではない殺気を放ちつつ言い放った。世間一般の普通人なら腰を抜かしそうな程の殺気であり、まるでケンゴウの周囲数メートル以内の空間が歪んで見えるかの様で、それはまさに異空間にでもなった様な様相である。
超が付く一流の達人だからこその現象を目の前にして、しかしそんな一触即発の場面でさえ、名無しの権兵衛はおどけた仕草を決してやめず、それどころかより一層おどけた仕草を色濃くして盛大に笑ってみせた。
「ンフフフ、ハァーハッハッハッ!」
肌を突き刺す様な鋭い殺気は、様々な死の瞬間を連想させ、流石は超一流の達人であるケンゴウだと認めざるを得ない。生半可な修練では辿り着けぬ極致であり、それ故に笑う名無しの権兵衛の身体は武者震いを起こす程であった。
しかし、渾身の殺気を放った側のケンゴウからしたら、その殺気を受けて余裕そうに笑う名無しの権兵衛を見て苛立たない訳がなく、同然怒りに顔を歪める。
「何が可笑しい!」
「いやいや、その殺気を目の前にして改めて悟ったのさ。俺の相棒はお前しか居ねぇってな」
相棒。ニヤリと笑みながらそう告げた名無しの権兵衛に怪訝な表情を浮かべたケンゴウは、その言葉の意味不明さに意図せず殺気を引っ込めた。
四ヶ月前から今日に至るまで、何故か自身を監視し続けていた男である名無しの権兵衛の意味不明な突然の言葉には、常在戦場を旨とする達人のケンゴウさえも呆然とさせる不可思議な力があるらしい。
ある意味では、どんな状況でも適切な武を振るえるケンゴウを呆気に取らせた手腕は中々のものであると言えるが、それを成し得た名無しの権兵衛はニヤニヤと笑みを浮かべたままだった。
「俺は今、仲間を探してるのさ。とある大仕事の為には、どうしても独りでやるには手が足りなくってよ」
「何の仕事か知らんが、断る。立ち合いならば兎も角、金儲けなどには興味が無い」
名無しの権兵衛の態度が軽いのが原因なのか、取り付く島も無い。初対面の時に態度が真面目であれば違ったかもしれないが、おどけた仕草を中心にしていてはこれも仕方がないと言えるだろう。
せめて敬語でも使用していれば違っただろうが、しかし名無しの権兵衛はそんなケンゴウの態度を一切気にする様子を見せず、それどこかケンゴウが仲間になる事を確信すらしているかの様に自信満々の笑みを浮かべて見せた。そしてその笑みを浮かべたまま、滔々と語り始める。
「ケンゴウ=コンスタンティン。………アメリカに渡った日本人である父親の桐生作治と、アメリカのミシシッピー州に暮らしていたアメリ=コンスタンティンとの間に誕生。生後から十二年をミシシッピー州で両親と共に仲良く過ごすものの、日本とアメリカの間で戦争が始まると生活は一変する事になる。
アメリカ政府が作った日本人強制収容所へと強制的に身柄を移され、母独りをミシシッピーの自宅に残した状態で強制収容所での父親との二人暮らしが新たに始まる。そして終戦から少し時を経て、ケンゴウ=コンスタンティンは父親から学んだ武術を更に磨く為に日本へと来日。
……ここまでで間違っている部分はあるか?」
水が流れる様に言葉を途切れさせる事なく話続けていた名無しの権兵衛は、ふと意図的に話を中断して問い掛けた。
その問い掛けはしかし、あくまでも形だけのものに過ぎず、決して情報が間違っていない事は明白である。何故なら、名無しの権兵衛本人が全力で調べた情報であり、だからこそ間違っていない事には自信を持っていたからであった。
それを証明するかの様に、ケンゴウは一切否定する事なく拍手をして見せる。
「……よく調べた様だな。何故私の素性を調べたのか気になる部分もあるが━━」
「待て待て、そう先走んなさんな」
情報は間違っていないが、皮肉の一つでも言ってやろうと考えたケンゴウの言葉は名無しの権兵衛に遮られ、それ故に少し不愉快そうにケンゴウが口を噤む。
すると無言になったケンゴウを見て、ニヤリと笑む名無しの権兵衛が更に言葉を続ける。
「沈黙は了解と受け取らせて貰うぜ? ニシシシ。
……来日してからのお前は、師の教えに従順に従い研鑽の日々を過ごし、今から三年前の昭和二十七年に免許皆伝へと至る。そしてその後は故郷のアメリカに戻る事もなく、ひたすら修得した技の昇華を目指し再び修練の日々。
よっくもまぁ色気の無い生活を続けられるもんだよ。俺にゃ無理だね」
「ふん。それで、何が言いたい? 他人の素性を調べる手腕を自慢でもしたいのか?」
話の主導権を握られまいと、一言の皮肉を呟くケンゴウ。表面では然程の変化は見せないものの、実のところ内心では情報入手の手腕に驚いていた。
しかしそうは言っても、日本から遠く離れた場所の情報を、一体全体どうやって入手したのか驚かない方が変だと言えるからして、その驚きを表に出さなかっただけでも素晴らしいと言えるだろう。
きっと普通の者なら驚きに声を上げるだろうし、それとは反対に皮肉を言い主導権を奪おうと画策したケンゴウは相当の切れ者だと断言しても大袈裟ではない。
だが、そんなケンゴウの抵抗も無駄に終わってしまう。武術では超が付く一流の達人であるが、話術においては名無しの権兵衛に軍配が上がる様で、飄々とした感じの口調であっさりと否定されたのだ。
「いやいや、そんな暇人な訳がねぇだろ。俺には超一流の腕っぷしが強い仲間が必要だからこそ、こうやって事前に苦労して調べた事をお前に証明してみせたんだよ。ただ近くにそこそこの人物を見掛けたから声を掛けた訳じゃねぇんだぜ、って示す為の証明にな。
で、ここからは俺もお前も得をする話になる訳だ。とびっきりの話だぜ?」
「何度も言わせるな。私は金儲けなどには興味が無い」
話の主導権は握れなくとも、それでも拒否する事は出来る。謎大き名無しの権兵衛に対しての、ケンゴウの取れる最後の手段であった。
しかしこの態度も、ニヤリと笑む名無しの権兵衛の言葉によってあやふやなものへと変わらざるを得なくなる。
「いやいやいや、確かに仕事とは言ったぜ? だが、金儲けの話とは一言も言った覚えがねぇがな」
「何………?」
「ニシシシ。少し興味が湧いたか?」
姿を現してからここまで終始おどけた様子を崩さなかった名無しの権兵衛に、とうとう心動かされてしまった様子のケンゴウは、その事に苛立ち舌打ちをした。別に興味を抱くのは構わないが、それを簡単に悟られたのが悔しかったのだ。武人だからこそ、常日頃から感情を第三者に悟らせない様に努めていたいのだろうと察せられる。
しかしその反面、取り付く島も無かったケンゴウに興味を惹かせる段階まで話を上手く運んだ名無しの権兵衛の手腕は大したものだと言えるだろう。あくまでもコソ泥であって詐欺師ではない筈なのだが、これなら詐欺師としても食っていけそうなぐらいには口が達者な様だ。
「貴様の話は回りくどい。さっさと先を話せ」
安易に心の動きを悟られた自分に腹が立ち、それを誤魔化す為に皮肉を一言呟くケンゴウ。
するとそれを知ってか知らずか、名無しの権兵衛は軽い調子で返答する。
「アイアイ。カルシウムが足りないんじゃねぇかと言いたいとこだけっども、ここからはマジな話だし、茶化さずに続けさせて貰うぜ。と、言いたいとこなんだが、先ずは確認しとこうかね。
……お前は第二次世界大戦が始まった契機を理解してるか?」
これまで終始おどけた様子を崩さなかった名無しの権兵衛が、突如真剣な表情でケンゴウへと質問した。ここからは一切のおふざけは無し、という事なのだろう。
その変化を肌で正確に察したケンゴウだったが、質問そのものに怪訝な様子を見せた。何せ、いきなり大戦の話をし始めたのだから、その脈絡の無さに不思議に思って当然だからだ。
しかしケンゴウは、質問に何らかの意図があるのだろうと考え直し、脳内で戦争の契機を思い出し始めた。そして、少し間を開けた後に質問の答えを淡々と口にする。
「色々言うと複雑になるから簡潔に答えるが、ドイツがポーランドへと侵攻した事が発端だろう」
「ぅん〜、まぁ正解で良いか。お前の言う通り、どの時点で戦争が始まったのかを明確にしようとしたら複雑だしな。
そんじゃあ次の質問だ。日本が同盟を結んでいた国があるが、それが何処か知ってるか?」
「最初の質問は我慢して答えてやったが、何なんだこの脈絡も無い質問は? 貴様の仕事と関係するとでも?」
「まぁまぁ、落ち着きなって。説明するのにも順序ってものがあるんだよ。そうじゃなけりゃ、こんな回りくどい質問はしないさ」
名無しの権兵衛個人の仕事に、戦争という大規模な事柄が関係するとは全く考えられないのだから、ケンゴウが苛つくのも無理がない。なまじ突然謎の仕事仲間になってくれと、そう言われているのだから尚更である。
その苛立ち故なのか、再び殺気を溢れ出させたケンゴウは剣呑な雰囲気と口調で言い放つ。
「……いいだろう。もし気に入らぬ話だったのなら、その時は貴様の命で償って貰うだけだ」
「おっそろしい事を淡々と言うね、キミ。ま、お前は絶対最後には食い付いて来るんだし、別に構わないっちゃ構わないんだが。
……で、質問への答えを聞かせてくれっかな?」
二度目の殺気にも平然としている名無しの権兵衛に内心舌打ちしつつ、それを表には出さないままにケンゴウは問いに対する答えを口にし始める。
「日本が同盟を結んでいたのは、ドイツ、イタリアの二か国だ」
「正解正解、大正解! そう、ドイツによるヨーロッパ大陸の大部分の支配、イタリアによる地中海の支配、日本による東アジアと太平洋の支配をそれぞれに認め合っての三か国同盟。日本からしたら西洋列国との同盟なんて本当は心底嫌だったんだろうが、生き残る為には仕方なかったって感じだな!
しかしこの同盟、実のところ別の思惑があって同盟を結んだ国があったんだ。目的は支配でもなく、生き残る為でもなく、全く別の思惑がな」
「何……!? それは日本の思惑か?!」
「いやいや、日本は純粋に生き残る前提の同盟だったのは間違い無いぜ」
「それではいったい……何処の国が?」
ケンゴウが驚きにより今日一番の表情の変化を見せた直後、名無しの権兵衛はニヤリと口角を持ち上げた。