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名無しの権兵衛  作者: 蘇我栄一郎
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プロローグ 第二次世界大戦から十年後の東京

小難しい事は明日やろうぜ! 面倒な事も明日やろうぜ! 明日の自分にやらせれば全て丸く収まるってもんだ!


取り敢えず今は、ワッショイ!└(゜∀゜└) (┘゜∀゜)┘


そーれそれお祭りだぁ!!

(*ノ゜Д゜)八(*゜Д゜*)八(゜Д゜*)ノィェーィ!

 厚い雲に覆われた空の下、東京の薄暗い繁華街をトボトボと背中を丸めて歩く冴えない男が独り。

 その男はふと煙草屋の目の前で立ち止まると、懐から革細工の財布を取り出し、その中身を見て心底悲しそうな表情で大きく溜め息を吐いた。

 師走も直前ともなる季節になれば、吐いた息は当然の様に真っ白く、その肌に突き刺さる様な寒さを顕著に物語っている。しかし、男が悲しそうな表情で大きな溜め息を吐いた理由は決して寒さが原因ではなく、男が手に持つ財布の中身が季節以上に寒かったからに他ならない。

 埃しか残っていない財布の中身を確認した男は、口を尖らせながらそれを懐へと少し乱暴な仕草で戻すと、目の前を偶然通りがかった三十代後半に見える強面の男へと視線を移す。そして何を思ったのか、男は目の前の強面の男へとわざとらしくぶつかった。


「こりゃスイマンセン! 東京の風景に見とれてしまって!」


 わざとぶつかっておきながら、それを感じさせない程にへりくだった仕草で大仰に謝罪する男。何度も何度も米搗き飛蝗の様に謝罪する姿は、客観的に見れば本気で謝罪している様に見える。だが、下げた頭を下から覗けばペロッと舌を出しており、言葉や態度とは裏腹の表情を浮かべていた。

 ぶつかってきた男が、まさかそんな巫山戯た顔で謝罪の言葉を述べているとは露とも知れぬ強面の男は、チッと舌打ち一つするだけでそのまま通り過ぎ去った。そして男はその通り過ぎ去った強面の男の背を黙して眺めた後、先程懐へと仕舞った革細工の財布とは違う高級そうな黒光りする財布を何時の間にやら片手に持ちながら、煙草屋の受付である居眠り中としか思えない様子の老婆へと声を掛ける。


「お姉さん、ホープを三つ頂戴な」


 飄々とした軽い調子で煙草屋の店主へと注文した男であるが、注文された立場の店主である老婆は心底不愉快そうに渋面を浮かべ応える。


「人様の財布を往来で堂々と盗んでおきながら注文するとはね。罰が当たってもあたしゃ知らないよ」


「ニシシシ! 財布の方から俺の手に転がり込んで来るんだから仕方ないってもんだ。モテる男は辛いぜ」


「何がモテる男だ、何が。ふん。ほら、ホープ三つで百二十円だよ。さっさと金を出しな」


 強面の男から財布を抜き取ったのを知っておきながら、その財布に入っているお金を要求する煙草屋の店主も相当なものだが、全く悪びれた様子も無くその財布から煙草の代金を出して煙草を三つ懐へと仕舞う男も大概である。両者共に罰が当たってもおかしくはないと言えるだろう。

 店主の老婆は、男が煙草を懐へと仕舞うのを見届けた後、瞼が開いているのか閉じているのか判然とせぬそのままに、眉間に深い皺を寄せて不機嫌そうに口を開く。


「それで?」


「それでってのは何? 流石にモテる俺でも、お姉さんからの誘いには断らせてもらうぜ?」


「今あたしが若かりし頃の美女だったとしても、あんたみたいな三枚目を相手にする訳無いだろ! (とぼ)けたって無駄だよ!

 ほら、先月と先々月の家賃をさっさと出しな」


「いやいや、それはちょっと待ってくれても良いんじゃない?」


「ついさっき手に入れた財布がその片手にあるじゃないか。名無しの権兵衛、さっさと観念して中身を差し出しな」


 店主の老婆から名無しの権兵衛と呼ばれた男は、実に情けない表情で黒光りする財布からお札を取り出し老婆へと渡す。しかし老婆は、その渡されたお札を数えるなり不機嫌そうな表情を浮かべると、首を大きく左右に振るう。


「千円足りないね」


「良い女ってのは、そう手厳しい事を言うもんじゃないぜ。それにもう財布は空なんだから、こればっかりは仕方ないってもんだ」


 スリ取ったばかりの財布を逆さにして老婆に告げる名無しの権兵衛だが、老婆は名無しの権兵衛の言葉を殆ど無視して会話を続ける。


「足りないものは足りないんだから、それをそのまま言ったまでさ。それと、あんたみたいな男が女を語るもんじゃないよ。良い女の条件も知らない尻の青いガキのクセに、分かった様な事を言うのはおやめ」


「まぁたそう言う。こう見えても二十五の立派な男だっちゅうの」


「ふん。良い女を抱いた事の無い男っていうのは、いくつになろうともガキのままさ。つまり、あんたは未だにガキのままだって事だね」


「まるで俺が抱いた女を知ってるかの様に言うね、お姉さん」


「本当に良い女を抱いてたら、あんたみたいに刹那的な生き方はしてないよ。朝から晩までちゃんと働いて、もっと稼いでるもんさ」


「やっぱりお姉さんは手厳しいねぇ」


 何を言っても厳しい言葉を豪速球で投げ返してくる店主の老婆に苦笑しつつ、買ったばかりの煙草の封を切って一本口に咥えると、然り気無くマッチを渡してくれた店主に礼を言ってそのマッチで火を点ける。

 そうして煙草の煙を肺一杯に取り込んだ名無しの権兵衛は、ニヤリと口角を吊り上げた。


「俺って男は、自由を心から愛するもんでね。齷齪(あくせく)働くのは性に合わないんだよ」


「ふん。あんたの場合の働くってのは、泥棒って意味じゃないか。自由を愛するとは言っても、その生業は何時か身を滅ぼすよ」


「良いさ。それで身を滅ぼすなら上々の人生ってもんさ」


「さっきも言ったがね、ガキが分かった様な事を言うもんじゃないよ」


「ンフフフ。ま、残りの家賃は後日って事にしといてくんな。

 丁度大仕事の前に小さな仕事をしなきゃならないんでね、その後に残りの家賃も渡すさ」


「精々恨みつらみを買わない様にやりな。命は一つしかないんだからね」


 店主の老婆からの然り気無い忠告に、名無しの権兵衛は「アイアイ」と軽い口調で返答する。忠告を受けて本気で返答している様には見えないが、それでも一応返答だけはしておこうという感じだ。

 店主の老婆は、そんな適当にも思える返事に小さな溜め息を吐きつつ、男が軽い足取りで繁華街を過ぎ去って行くのを細い目で見送った。


 男の名は、通称名無しの権兵衛。年齢は、自称二十五歳。出身は、不明。

 何も分からないと言っても過言ではないこの男は、泥棒として生計を成り立てている子悪党である。そして、それ以上でもなくそれ以下でもない。よく世間にいる毒にも薬にもならない様なコソ泥を思い浮かべて貰えれば、おおよそそれで間違いないと言える人物だ。

 ただし、それはこれまでのこの男なら、という注釈が付く。つまりこの男、実はこれから大きな事を成そうと計画を実行中なのだ。

 その計画に必要不可欠である物騒な品物、同じく物騒な協力者等々を、今から手に入れようと動き始めたのである。


「さぁて、これまでの長い準備期間は終了だ。これから俺は、世界を股にかける大泥棒として成り上がってみせるぜ。

 ニシシシ。ワクワクが止まらねぇ!」


 リズミカルな歩調で繁華街を進む男は、ニヤリと笑んだそのままに独り言ち、咥えていた煙草を道の端に放り捨て走り始める。もう待てない、これ以上は辛抱出来ないと、そんな風に見える様相で繁華街の闇へと消え去ったのだった。

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