小説のまくら
この「小説家になろう」では、日々、多くのエッセイが投稿されている。多少の差はあるが、みんな力の入ったエッセイで、パワーと勢いを感じさせる。
その力の入りっぷりに
「もしかして、この人はこのまま次の選挙にでるんじゃなかろうか?」
なんて思ってしまったりする。
とてもじゃないが、私にここまでのパワーは無い。読み返してみると、私のエッセイはほとんど日常風景、食べ物がらみ、ちょいとあそこに行ってきたなど旅行先の与太話。中にはちょいと書いていて力が入ってしまったのもあるが。
でも、行き当たりばったりでエッセイを書いているようで、何か自分なりの基準があるはずだとも思う。無意識のうちに自分に課したルールのようなものが。
心当たりがある。割と有名なので聞いたことがあるかも知れない。
『他人の自慢話、特にモテ自慢は聞いていて不愉快になる』
『自分がフラれた話はみんな聞いてくれる』
自慢話というのは、自分は相手よりも上という自負があるからするものだ。そういえば、ハウツー本を書く時に気をつけることは「読者は馬鹿だと思え。しかし馬鹿にしてはいけない」と聞いたことがある。
先に記したように、私のエッセイは基本的に毒にも薬にもならないものばかり。とすると、私が書きたいのは毒にも薬にもならないエッセイなのではなかろうか。
しかし、それではあまりにも寂しすぎる。
……と、思っていた。
しかし、上記のような力の入りすぎるエッセイというのは、自分の書いたものが無知なる人達の薬となり、馬鹿を滅する毒にしたいが為の産物ではなかろうか。
自分は、そんな他人に対して影響力のあるものを書ける器か? お前は先頭に立って人々の心を引っ張れるほどの人間か? 前行く人の背中を指さして、その人の行いを鼻で笑えるほどの人間か?
毒にも薬にもならない。読み終わって「あはは」と閉じる。そんなエッセイでも別に良いじゃないか。
ここまで書いて、あれ、これはどっかで聞いたことがあるようなと思い、自分の想いをほじくり返してみると、思い当たるものがあった。
落語のまくらだ。
本題に入る前、本題にちょっと関係した小咄を語ったり、世間の出来事をおしゃべりするあれだ。ある程度話芸が達者になると、噺よりもまくらの方が面白かったりする。もっとも、そのまくらの面白さで定評のある柳家小三治師匠は「まくらに凝るなんて、自分に諦めた人間がやるもの」なんて言ってたりする。噺自体、これ以上良くするのは難しいほどのレベルになってから、まくらに凝りはじめるべきだと私は解釈している。
なろう作家に例えれば「馬鹿野郎。エッセイなんてのは、まずは本題の小説をきちんと仕上げてから書くもんだ。スランプの時の逃げ場じゃねえぞ」である。
うっ……書いていて胸が苦しい。まぁ、エッセイもれっきとした1つのジャンルであるし、ここまで卑下することはないのだが。
けれど、考えれば考えるほど、つくづく私の書きたいエッセイとは「落語のまくら」なんだなぁと思う。そんなに難しくなく、かといって薄っぺらすぎてもいない。何かを持ち上げたり、何かを馬鹿にしたりもしない。
自慢話になっちゃいけない。
卑下しすぎても行けない。
誰かを馬鹿にしちゃいけない。特に「誰か」がみんなから嫌われているものの場合は気をつける。へたをすると、馬鹿にすること自体が目的になってしまう。むかつく奴の悪口を書いて、周囲から「その通り、あいつはクズだ」と共感を得られた時の気持ちよさは麻薬みたいなものだ。気持ちは良いが、やり続けると心が腐っていく。
故・桂歌丸師匠は鍋草履という噺のまくらで、当時はまだ前座だった林家木久扇師匠と一緒に歌舞伎「忠臣蔵」を見に行ったときの事を話している。
討ち入りの場面で、木久扇師匠が
「大石内蔵助という人は間違っている。みんな必死で戦っているのに、自分1人だけ表で太鼓叩いて遊んでいる」
と大真面目に言ったのに対し、歌丸師匠は彼のことを馬鹿とは言わず「不思議な見方をする人だ」と語っている。確かに絵面だけみれば木久扇師匠は間違っていない。
まぁ、落語のまくらだから本当かどうか怪しいものだが。要はどんなに馬鹿馬鹿しいことを目の当たりにしても、それをしている人を馬鹿にしてはいけないのだ。
いや、ひとつだけ馬鹿にしていいものがあった。自分である。
小三治師匠はまくらについて、自分の失敗談というか、情けないところ、まぬけなところをひとつ入れた方が良いと語っている。はっきり失敗というものでなくても、思わず「馬鹿なことしちゃったね、あはは」と小声で突っ込みたくなるようなものでいい。
ツッコミ。
大事なのは読者が作品、作者にツッコめるゆとりを持った作品ではなかろうか。
そうだ。面白い小説というのは、読者がツッコめる作品なのだ。設定に、キャラクターに、展開にツッコむのが楽しい作品なのだ。もちろん、度が過ぎてもいけないが。
完璧でなくてよい。素晴らしくなくてよい。気軽にツッコめる適度に隙のあるエッセイ。
素晴らしいA級よりも、気軽なB級。
私はそういうエッセイを、作品を書いてみたい。
一流は世界を輝かせ、二流は世界を支え、三流は世界の未来を作る種となる。
どれかひとつでも無くなったら、その世界は滅びる。
そう私は信じている。