とびきり甘い、希望のチョコレート
「ん」
特に何の前触れもなく、クレハが丁寧に包装されたハート型の箱を寄越してきた。
「これは?」
「見て分からないのか、今日はバレンタインだ」
「それは知っているけれど」
「どうせヤヨイのことだから、こんなプレゼントは日本でしか通用しないとか、女性から女性に贈るものではないとか、いろいろ文句を言うだろうが。たまには黙って受け取っておけ」
「……分かったわ」
まさにそんなことを、私はクレハに言おうとしていた。私の考えることは何でもお見通しというわけか。
私が絶望を抱えてしまったあの日から、私はクレハやシノちゃん親子、それからノノカちゃんと一緒に旅をしている。絶望捜査官に支配された街を解放するため。絶望を抱えても、そこから希望を見つけようとあがきさえすればいい。そのことを、身をもって教えるために。もちろん、絶望捜査官から逃げるという目的もある。そして今は、とある事情から別行動をしている。私はクレハとともに、ある街に来ていた。
「というか、あなたがこんなもの買えるのね」
「ここは比較的、絶望捜査官による支配の恐怖が浸透していないからな。百貨店に行って、レジに並んでも特に問題はない。……一応言っておくが、脅してはいないからな」
「その一言、結構大事ね」
チョコレートなんてもらったのは、いつ以来だろうか。記憶の限りでは、中等学校時代にいくつかもらったきりだ。でもあれは私がバレンタインデーにクラスメイトに配ったお返しに、ホワイトデーにもらっただけのこと。純粋に渡されたのは、これが初めてだ。
「それに、糖分補給も必要だ。絶望捜査官との戦いは頭を使うからな」
「今のところ、そんな感じはしないけれど」
「それはここのように、それほど精神統制法が厳しく適用されていない街ばかり、巡ってきたからだな。絶望捜査官もそれほど強い奴は来ない。しかし例えば、ヤヨイがいたような神戸はじめ、元政令指定都市は、何十人何百人と絶望を抱えた人間を殺してきた猛者がうろついている。いずれそういうのにも出くわすだろうし、今ここでそんな捜査官に出会わないとも限らない」
絶望捜査官が相手にするのは、絶望を抱えた人間、そして何とか追っ手から逃げて生きようとする人間。そんなギリギリの状態で生きる人間は、ひどく知能指数が高くなる。死に際に自分が飛べることを理解するどこかの虫と同じだ、とクレハはとんでもないたとえをした。
「なかなか上等なチョコだ。新鮮な牛乳の手に入る牧場が近くにあるらしいからな」
「そうなの?」
食べろ食べろと促してくるので、私は包装を開け、詰め合わせの中の一つを頬張る。久しく口にしていなかった幸せな甘みが、口いっぱいに広がる。
「アタシは少し苦い方が好みだが。ヤヨイはとびきり甘い方がいいだろうと思ってな。その笑顔が見られて、アタシも嬉しいよ」
「笑顔……?」
クレハにそう指摘されて初めて、私は自分が笑顔になっていることに気づいた。触った感じが、完全に笑った時のそれだった。久しぶりに笑った。思えば、物心ついた時から、笑うより泣く回数の方が多かった気がする。
「お前は私と出会ってから、笑うようになったが。今のは特に、いい笑顔だった」
「……人の笑顔を褒めても、何も出ないわ」
「お前ならそう言うだろうと思った。だが、自分が笑っていると確かめるのは、お前が思う以上に大切なことだ。少なくとも自分は、笑うだけの余裕があると、知ることができるからな」
そう言うクレハの表情も穏やかだった。そうだ。これはれっきとした、希望の証。今はまだ、私の持つ力は小さいかもしれない。けれどいつかは、世界を変えられる。それができるだけの希望を、私は持っている。
私はしはらくチョコを楽しんでから、残り半分をそっと荷物の中に入れる。
「もういいのか?」
「ええ。……残りは、終わった後に」
「そうだな。ここでも、生き残れるといいが」
今いる街は、精神統制法が適用され、絶望捜査官が常駐する、『特別管理区』に指定されたばかり。配置される絶望捜査官も新米が比較的多い。すなわち捜査官たちを追い返し、管理下に置かれないもとの状態に戻すのが比較的簡単だと言える。
「縁起でもないことを言うのね」
「絶望捜査官がいる限り、死の危険は常につきまとうからな」
「でも、あまり心配はしていなさそう」
「当たり前だ。神戸をほぼ無傷で脱出できたアタシが、こんなところで死ぬはずはない。死ぬわけにもいかない。まして今は、ヤヨイがついている」
「……そうね」
まずはまだ息をしているはずの軍隊と交渉する。絶望捜査官に対抗できる勢力と一刻も早く手を結ぶのが肝心だ。
「行こうか」
「ええ」
私たちは歩き始める。新しい希望を手にして、絶望に苛まれたどこかの誰かを救うために。