眠り姫
あれは、いつ聞いた話だっただろうか…。都市伝説?夢の中には魔物がいて、魔物に魅入られた者は、現実世界に戻れないのだそうだ。魔物の力が強大で、こんこんと眠り続ける人間が後を立たないのだと言う。でもその魔物と戦う者がいて、彼らは人の夢の中を渡り歩くらしい。
お兄ちゃんが持っていた、怪しげな本に書いてあった話だったか…。子供心に魔物が恐ろしく、眠る事を怖がっていたら、責任を感じたお兄ちゃんは、大丈夫だと頭を撫でて笑って言ってくれたっけ…。
淡い靄の中を歩く夢をよく見る。それは温かいミルクの様に仄かに甘い匂いが漂っていて、毛布の中にいる様な心地良さで、身体も羽根のように軽く、ずっとここに居たいと思う程。夢の中で私は、ここが夢だと知っていて、何もかも満たされたこの場所から離れなければならない事実に、いつも愕然とするのだ。
アラームの音と共に目を開ける時、引き裂かれる様な心地がするからだろうか…。私はいつも涙を流している。こんな日々が、最近ずっと続いていた。
私はいつも帰りたいと思う。身体の重さを感じる度に、心の重さを感じる度に…。何処かに行きたい…。ここではない何処かへ…。いつも心の奥で声がする。それは何処だろう?私は何処へ行きたいのかと考えても、やはりあの夢の中だと思ってしまうのだ。焦がれるような想いを抱いていつも眠りにつく。
このまま、目覚めなければ良いのに…。
「ああ。この子も犠牲者だ。」
声変わり仕立てのような、少年の声が聞こえた。
「夢に囚われた哀れな人間。」
低い男の声。
靄の中に男が二人立っていた。一人は背が高く、もう一人はそれに比べると小柄で細身の少年の様だ。
「誰?」
顔は靄でよく見えない。
「私達は夢を渡る者。夢魔に囚われた者を救う使命を背負っている。」
背の高い男はそう告げた。
「…夢魔に囚われてる?私は、私の意思でここに居る。囚われてなどいないわ。」
「皆、そう言う。夢魔は常世に疲れたものを誘い、夢を見せ、人の生気を喰らう魔物だ。」
少年は説明する。ふっと自分の警戒心が緩むのを感じた。何故だろう…。
「だけど、君は何も望んではいないらしい…稀な人間だな。普通は失った家族や、恋人や、権力、金を望む者が多いというのに…。ああ、最初から諦めているのか…。」
背の高い男の憐憫を滲ませた視線が、私に突き刺さる気がした。顔は見えないというのに…。
「私の望むものはここには無い、知っているの。何処にもないのは、痛い程。私がこの世から消えて無くなっても、誰も悲しむ人はいない。」
「だから、ここに居ると?望んだ夢を見るでもなく、ただこの場所に居る事だけが望みなのだな?」
「そう。だから、ほっておいて。」
「…両親と兄は事故で他界。親戚に引き取ることを拒まれ、孤児院で育つ。恋人もおらず、本当の天涯孤独の身の上か。特に優秀な訳でもなく、かと言って全くの役立たずという訳でもない、普通の人間。容姿も、器量も…。」
資料を読み上げる様な無機質な低い声。感情がないかの様な、淡々としたその声。だけど視線だけは、何故だか憐む様な雰囲気で、私は目を背けた。
「…そう、ビックリするぐらい、普通なの。飛び抜けた才能もないし、運もない。」
どうして似た様な生き物が、こんなに沢山居るんだろうって、いつも思う。だから、一人ぐらい欠けても誰も何とも思わない。だけど生き残ってしまったから…。家族の犠牲の上に、私の命は成り立っている。だからそれを自らやめることなど、出来なかった…。どんなに苦しくても…。
別の誰かの人生を歩む事が出来たら良いのにって、思ってた。だけど、私は私を生きるしかなくて…。
「可哀想に…。」
背の高い男がポツリと言った。言葉に出した訳でもないのに、伝わってしまった事に愕然とする。
「可哀想なんて陳腐な言葉で、私を定義付けしないで!」
憐む様な目で見ないで!不愉快だ!目障りだ!消えてくれ!
何をした訳でもないのに、 彼の周りだけ靄が濃く深くなる。
「…これは失礼した。」
少年が背の高い男に手を添える。靄を払う様な仕草をすると、元の淡い色に戻った。
「彼女の夢の中では、彼女こそが正義です。だから不用意な発言は謹んでください。」
少年が、最悪消されますよ?と背の高い彼を嗜める。二人の間に、上下関係は無いらしい。
さっき靄が濃くなったのは、私がした事なのだろうか…。少し自分が怖くなり、私は自分の手を見詰めた。
誰にも頼ってはいけない。私を愛してくれる人などいない。そう言い聞かせて生きてきた。独りだと、自分の足で立って生きなければならないと。私なりに頑張って生きてきたのだ。精一杯、ピンと糸を張り詰めて…。
だけど…もう疲れたの。寄るべのないこの人生が…。
「ねぇ、逃げる事が、そんなにいけない事なの?自ら命を絶った訳でもない。ただ眠っているだけよ?」
「このまま目覚めなければ、君は死ぬよ?」
夢魔に囚われた人間は、通常より早く衰弱してしまうと、少年は私に言った。
「誰も悲しむ人はいないって言ったでしょ?」
「…本当に?」
「……。」
チクリと胸に言葉が刺さる。ふっと思い浮かんだ顔は、どれも笑顔を私に向けていた。首を振って頭からそれらを追い出す。私が一方的に好きでいるだけ。彼らは私の事なんて…。
「じゃあ、この音は何?耳を済ませてご覧?」
「…音?」
救急車のサイレンが近付いている。この声は、誰?
『…さん!三上さん!』
揺すられた身体が、握られた手が熱い。
「これでも、君は目覚めたくないのかな?」
「……あ。」
ふわりと視界が揺らぐ。
「大丈夫、君は愛されてる。美和。」
頭を撫でられた様な感触と共に、目が覚めた。温かな涙が、頬を伝う。懐かしい感情だ…これは…何?
涙で滲んだ視界に、白い天井と心配そうな顔の宮川先輩が居た。そして同僚の古谷君。
「ああ、目を覚まさないから、どうしようかと思った!最近元気がないとは思っていたのに、声を掛けられなかったから…!体調が悪かったの?お医者さんは原因不明だって言うし!」
いつも化粧をバッチリして整っている彼女の髪が、少し乱れている。
「土曜日にデートをすっぽかされたから、もう駄目だと思ってたけど、らしくなく月曜日に無断欠勤なんてするから、何かあったのかと心配で宮川先輩と家に行ってみたんだ。…行って良かったよ。」
ホッとした顔で、古谷君は笑う。…手、握られたままだなぁなんて思ったけど、嫌ではなかった。むしろ嬉しいと言うか…。恥ずかしいけど彼が離すまで、このままでいたいと思う。
身体が衰弱している以外は、何処も問題なく眠っているだけだったと彼は言う。金曜の夜から月曜日の夜の今まで、私は眠っていたらしい。点滴が腕に繋がれていた。
「頭を撫でてくれたのは、古谷君?」
「え、違う…。あ、ゴメン!」
慌てて手を離して彼は立ち上がる。少し寂しさを感じてしまい、思わず彼のスーツの端を掴んだ。あ、つい。
それに気付いた古谷君は、また椅子に座り直す。照れた顔をした彼を、宮川先輩はニヤニヤと見遣る。
「あれは誰だった?声変わり仕立ての少年の様な声で…。大丈夫って…。」
懐かしい声がした気がした。夢を渡る者と名乗っていたけれど…。
二人は不思議そうに私を見詰める。
「夢でも見てたの?」
「夢…?」
あ、お兄ちゃんだ…。ストンと府に落ちる。どうしてもっと早く気付かなかったのか!靄の中で姿が朧げにしか見えなかったとしても、私には気付けただろうに!何度会いたいと思ったか分からない。それこそ、夢で会えるだけで良かったのに…!
ねぇ、心配してくれたの?
急に泣き出した私を、二人は心配そうな顔で見詰める。
「お兄ちゃんの夢を見た…。私を助けてくれたんだ…。」
独り言の様な呟きに二人は、耳を傾けてくれた。涙が枯れて、また私が眠ってしまうまで、ずっと。
「名乗っても良かったんだぞ?」
背の高い男が、少年に話しかける。
「いえ、そうすれば、戻れなかっただろうから…。美和は大丈夫でしょうか?」
心配そうな声音で、少年は男に問いかける。
「自力で戻ったから、大丈夫だろう。もし、また囚われても、お前が助けるんだろう?」
「もちろん!大切な妹ですから…。だけど、もう大丈夫だと思います。眠り姫は、王子が起こしてくれたみたいだから…。」
病室の窓を見下ろしながら、話す二人の影を見た気がした。
それは、優しい夢の中での出来事。
さきちです。最後までお読み頂き、ありがとうございます。
何故か思いつくまま、一気に書き上げてしまいました。最近、こんな感じで書くことが増えてます。
感想を頂けると嬉しいです!
ではまた☆どこかでお会いしましょう♪