08 青い絶望
薄暗い物置部屋の中。
絵野静菜は、ただ内開きの扉を見て呆然と立ち尽くしていた。
「(……鼻歌?)」
閉まったままの扉の向こうから漏れてきた旋律には聞き覚えがあった。『ソラ』――ラクニルで無類の人気を誇る正体不明の歌手『バインド』が動画サイトで公開している曲だ。
「(有り得ない。一体、誰が……?)」
この古いビルは組織が管理しているアジトの一つ。界力活性剤の在庫の一部を管理している場所でもあるため、関係者以外が簡単に出入りできるとは考えられない。
革靴で踏み付けたままの石瀧圭一に視線を落とした。生意気な後輩は不敵な笑みを浮かべて、反抗的な眼差しでこちらを見ている。その確信的な態度が、胸の奥に押し込めた不安を無性に掻き立てた。
勢い良く両目を見開いた自称探偵は、ギラついた眼光をこちらに向けて興奮気味に叫ぶ。
「青い絶望がやって来るぜ――彼女は空を穢す者を決して赦さねぇからなあっ!!」
室内で不快に反響する声が鼓膜を引っ掻いて苛立った。口を閉じさせるために界力術を発動しようとした——その時。
がちゃり、と。
ドアノブが回る。
ゆっくりと開いていく扉。廊下の暗闇から浮かび上がってきたのは、華奢な人影だった。
磨かれた刃ような鋭い雰囲気に、わずかでも向けられれば凍り付きそうになる冷たい眼差し。ただそこに立っているだけなのに、空間の全てを掌握されたと錯覚してしまいそうになる。小柄な体格にも関わらず目を離せなくなる圧倒的な存在感は、絵柄が全然違うのに無理やり一枚のイラストに切り貼りしたみたいな異質さを感じさせた。
最も異彩を放つのは、蒼い燐光を放つ瞳。
青金剛石と呼ぶべき芸術品が湛えるのは、蒼穹よりも広大で、大海原よりも深い、青色。心までも見通しそうな光が、室内に蟠った夜闇を一直線に穿っている。
「境目、空……?」
そう直感したのに、何故か確信が持てない。
顔のラインを隠す程度の黒髪ショートカットに、幼さを残した品のある顔立ち。違いと言えば縁なしの眼鏡を掛けていないくらいか。視線が鋭くなったせいで中性的な印象が増してはいるが、容姿も服装も数時間前と全く同じ。それなのに、脳は同一人物だと認識してくれない。
おそらく、原因はその空気感。
雪降る深夜よりも静寂で、新月の夜空よりも昏い。ただ対峙しているだけでも、深い海の底にいるみたいな息苦しさと重圧によって精神がみるみる摩耗していく。同じ人間ではなくて、御伽噺に出てくる化け物と向き合っていると言われた方がまだ納得できる状況だった。
少女は暗闇から歩み出すと、顎先を少し上げて蔑みの眼差しを向けた。
「よお」
チェロやコントラバスといった弦楽器を想起させる低い声。少女らしい可憐さも内包したその響きには、聞く者を震え上がらせる静かな圧が満ちていた。
「オマエが、ここのリーダーって事でいいのか?」
「貴女、誰なの……?」
「質問に質問で返すなよ、会話が進まないだろ? ま、オマエが何であろうがオレには関係ないんだけどさ」
ふわり、と。
見えない翼で羽ばたいたように、蒼茫とした輝きが暗闇を遠ざける。一瞬にして、この世界の全てが、月明かりの差し込む水底に沈んだと錯覚する程に幻想的な光景。それが少女から溢れ出した界力光によって引き起こされていると気付くまでに少し時間が必要だった。
「(青色の界力光……それって、つまり)」
界力下垂体の能力によって、界術師が放つ界力光は色を変える性質を持つ。青色は七色の実力の中でも最低ランク。足下で倒れている無能な探偵と変わらない。一色差くらいであれば機転や相性で埋められるが、四色も離れてしまえば同じ土俵に上がる事すら不可能だ。
「(……雰囲気に騙される所だった)」
冷や汗が頬を伝う。
「(実力が青なんて話にならない雑魚じゃない。どうやって男共から逃げ出してここまで来たのかは知らないけど、これなら問題ないわ。私が直接黙らせてあげる!)」
凄絶な笑みを浮かべて歩き出した蒼い少女に対し、一歩も引かずに立ち向かう。
得体の知れない恐怖はあるが、境目に何かできるとは思えなかった。
すでに室内は儀式術式『ランデクスの裁判』の術式範囲に入っている。所定の条件を満たさないまま一歩でも踏み入れば、無知な後輩と同じく界力術に餌食になるだけだ。
相手が戦闘に慣れた界術師なら話も変わってきただろう。身体強化を始めとして、界力術を使えば様々な手段で術式の効力を減衰させられる。学校の授業では教わらないが、界術師同士の戦闘では当たり前のように使われる基本技術である。仮に境目が何らかの技術や界力術を使ったとしても、それで四色上の自分の術式が無力化されるとは考えられない。
「(――勝った!)」
無様に床に倒れた乱入者の姿を想像して、思わず頬が持ち上がった。
だが。
「鬱陶しいな、これ」
境目は吐き捨てるように言って、軽く右手を横に振る。そのまま自宅に帰って来たみたいな気軽さで室内に踏み入った。
「どう、して……?」
発動しない。
ただ右手を振られただけなのに、『ランデクスの裁判』が効果を発揮しない。
「(意味が分からない……さっきまでは問題なく発動してたはずでしょっ!)」
落ち着いた足取りで近づいてくる蒼い少女の口許に刻まれるのは、血も凍る冷徹な笑み。こつん、と足音が反響する度に、タコ糸で心臓が引き絞られる気分になった。
舌打ちしながらも、咄嗟に後退って距離を取る。石瀧圭一が部屋の端まで逃げていくが構っている余裕はない。赤い輝きを纏った右の人差し指を振り上げて、銃口でも突き付けるように境目に向け——
「だから、意味がないんだって」
頭上にある蜘蛛の巣でも払うみたいな気軽さで、蒼い少女が右手を振り上げる。見えない糸でも切る動作。たったそれだけで、精密に組み上げたはずの術式が全く反応しなくなってしまう。
「なんで……どうして術式が発動しない! 貴女、一体何なのよっ!!」
「オレに名前はないよ。正体を定義できるだけの情報は残っていないからな。今は『ソラ』って名前を借りてるけど、オマエ達にはもう一つの名前の方が伝わりやすいんじゃないか?」
「もう一つの、名前……?」
「青い絶望」
言葉遣いは乱暴なのに、何故か気品を感じさせる声で告げた。
「オレはさ、変なクスリとかオマエの事には興味がないんだ。どうなろうが知ったこっちゃないね。ただ、許せないんだよ――オレの空に羽虫が飛んでる事がさあ!」
壮大な天穹を結晶化させた双眸から、蒼い燐光が炎のように迸る。
「だから、オレが翼を絶つ。飛び方を知らない愚か者に、空の高さを教えてやるよ」
「ふざ、けないでっ!!」
奥歯を強く噛んで、ぎゅっと拳を握る。
「青い絶望だか何だか知らないけど、私はこんな所で意味も分からず負ける訳にはいかないのよ! 都市伝説でも抑止力でもひるんだりしない!! 実力が青の分際で私に喧嘩を売った事を後悔させてあげるっ!!」
ランデクスの裁判の礎になっているのは、とある伝承。
神であるランデクスの不興を買った人々が、彼の目の前で己の罪を懺悔して許しを乞う事になった。だが、罪を受け入れる人はほんのわずか。保身の為に言い訳をして、他人の悪口を言って、貢ぎ物で買収しようとする。最終的に少しでも嘘をついた人間は天罰を与えられ、真摯に罪を告発して祈りを捧げた者だけが許された。正直者は得をして、嘘吐きは痛い目を見るという教訓話だ。
界力下垂体に意識を集中させて、精神内に存在する『界力演算領域』にアクセス。『保管領域』から別の術式を引っ張り出し、『構築領域』でランデクスの裁判を再構築する。
何歩か後退しながらも、室内に作り出した『儀式場』の構成を確認した。
「(ベースとなる神話は『トゥーリス』、対象の神は『ランデクス』。主方位は北東、壁面には緑色で貨幣……対偶方位の南西には緑色で盾の文字。初歩的な『方位式直線型』で文字代用の儀式場だけど、あと一つくらい術式を組み込む余裕はあるはず)」
儀式術式とは、手順や条件を満たす事で、記憶次元に保管された世界の記憶を神話や伝承という形で再現する方式だ。界力術の効果が及ぶのは術式領域の範囲内だけとなる。
訓練を積めば界力演算領域内だけで術式発動の条件を満たせるようになるのだが、まだそのレベルには至っていない。この欠点を補うのが儀式場。本来なら術式の効果を高めるために作成するのだが、絵野は術式を確実に発動するための補助として使っていた。
「(室内に成立させた『儀式場』と新術式の接続を確認。術式の投影を開始)」
構築領域で組み上げた術式情報を生命力に乗せて、一つ隣の空間である『界力次元』へ送る。次元内に滞留している粒子状の界力が反応。更に奥に存在する『記憶次元』へと影響が波及し、指定の神話や伝承が超常現象として引き出されるのだ。
これが、界力術――儀式術式。
現代社会に溶け込んだ異能の科学。
「(供物は『罪の告白』、象徴物は界力石で代用――馴染んだ、発動可能!)」
血が通ったみたいに界力下垂体が熱を帯びる。全身から赤い界力光が溢れ出し、薄闇に染まった室内を朱塗りの屋敷へと変貌させた。
「余裕そうにしていられるのも今だけよ、都市伝説」
好戦的に頬を持ち上げて、夏服のスカートのポケットに手を入れる。目的は緑色に輝く小さな界力石。界力が結晶化した特別な鉱石であり、術式に組み込む事ができるそれを握り取って天井へと放り投げた。
「――主よ、汝に罪を告白します」
両手を組んで、跪く。
それが術式発動の引き金になった。
ばぁぢばぢぃぃッ!! と。
思わず耳を塞ぎたくなる高音が弾け飛ぶ。
まるで、雷。
空中に留まった緑色の界力石が莫大な光に包まれ、光の槍となって放たれたのだ。対象は目の前の少女。罪を告白せずにランデクスの怒りを買った人々と同じく、神の裁きによって消し炭に――
「……は?」
いない。
目の前から、少女の姿が消えている。
「(手応えはなかった、命中した訳じゃない……ならどうして!?)」
辺りを見回してみても蒼い少女の姿は見つけられない。それどころか気配すら消失してる。残っているのは不思議そうな顔でこちらを眺めている石瀧だけだ。
黒く焦げ付いた床の跡からはうっすらと煙が立ち上っている。先程みたいに術式自体が発動しなかった訳ではない証拠。躱されたのは確かだが、それで跡形もなく消え去ってしまうのはどういう理屈だ?
「大した威力だな。実力が青色しかないオレへの当て付けか?」
「っっっ!?」
唐突に。
目と鼻の先に、端正な少女の顔が出現した。
極大の驚愕で思考が吹っ飛ぶ。
瞬きをした刹那に映像を視界に差し込まれたとしか思えない。まるとずっとここに居たと言わんばかりの登場に全身が強張った。咄嗟に一歩後退るのが精一杯だ。
「想像力を働かせろよ。ただ手を伸ばすだけじゃ、空には届かないぜ」
とん、と。
蒼い少女の指先が、軽く眉間に触れる。
途端、鈍器で殴られたような衝撃が脳に炸裂した。
「がァッ!?」
弾かれたみたいに目線が上を向き、そのまま尻餅を付いてしまう。いつの間にか部屋の端まで後退していたせいで背中が硬いコンクリートの壁に当たった。
何をされたのか。全く理解できない。
蒼い少女は、ただ腕を振って、散歩でも始める気軽さで、こちらに歩いて来ているだけ。複雑な術式を展開しておらず、また剣や銃といった分かりやすい武器も使っていない。何よりも最低実力の青色を相手にして、界術師全体で一割にも満たない上位ランクである赤色の自分が遅れを取っている現状は道理に反している。
折れそうになる心を奮わせて、スカートのポケットから緑色の界力石を掴み取る。まだ諦める訳にはいかない。相手がどんな界力術を使っているかだけでも看破してやれば状況は大きく変わるはずだ。
「――主よ、汝に罪を……え?」
しかし、界力石を放り投げる直前で気が付いた。
儀式場と界力下垂体の接続が切れている。何度試しても『場』からエネルギーが供給されてこない。界力演算領域内だけで術式を組み立てられないため、儀式場の補助がなければ界力術を発動する事は困難だ。
翼をもがれて、大地に堕ちた一羽の鳥。
何故か、そんなイメージが唐突に脳裏を過った。
「これで、終わりか?」
頭上の窓から差し込む月明かりを浴びて、中性的な少女が見下ろしてきた。
氷雨降る夜を想起させる冷徹な眼差し。蒼い瞳から零れる光芒は、黄金のカーテンの中でも薄れる事はない。その酷薄な表情は、慈悲を乞う民を容赦なく切り捨てる王よりも残忍で、幼さを残した少女の顔には似合っていなかった。
「一体、何をしたの……?」
「絶ったのさ、オマエと儀式場の繋がりを」
当たり前の常識を告げるみたいな口調で言った。
「オレの瞳は特別製でね、モノの繋がりが視えるんだ。『結視の瞳』――アイツはそう呼んでいたよ」
「……結視の、瞳?」
「この世界はさ、色んなモノが繋がってできているんだ。人、国、文化……例を挙げれば切りがないんだけど、オレにはそれが光の連なりになって視えるんだ。太さも色もバラバラで、夜空で煌めく星座みたいで、すごく綺麗なんだぜ」
だけど、蒼い少女の顔が、刃のような鋭さを帯びた。
「オマエの光は醜い。必死に足掻いて、縋って、しがみ付こうとしてるからか、ただ眩しいだけで品がないんだ。邪魔なんだよ、オレの空に濁った光は必要ない。飛び方を知らないのなら、大人しく地面に這い蹲っておけ」
しゃがみ込むと、何の躊躇もなく首筋へと小さな手を伸ばしてきた。
「まさか、貴女は能力者……っ!?」
「今更遅いよ、すでにオマエの翼は折れている」
そして。
青い界力光で世界を空色に染めながら、酷薄に告げた。
「墜ちろ三下、オマエに空を飛ぶ資格はない」
まるでスイッチを切ったみたいに。
意識が、黒く染まった。
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