06 裏路地の不思議少女
「贋作くらいにはなりたいんだよ、俺だってなあっ!!」
石瀧圭一は勢い良く立ち上がり、何年も整備されていないアスファルトの表面を蹴る。青い燐光を水飛沫みたいに撒き散らし、放たれた矢のように真っ直ぐ疾走した。
「――え?」
呆然とする絵野静菜と目が合った。
だが、それだけ。
何もかもを置き去りにして、突風と化した石瀧が人形みたいに動かない境目空を抱えて加速する。
「ハ、ハハ……ハハハハハハッ!! ヤベーって、まじでヤバい! チクショーやっちまった!! あーあ! もう後には戻れねぇぞクソッタレっっっ!!」
目を白黒させる境目を抱えながら、短距離走の試合を早送りしたみたいた速度で一方通行の道路を走り続ける。反射的に目に付いた細い路地に飛び込んだ。室外機や壁面に走る配管を足場にして、入り組んだ裏路地の更に奥まで進んでいく。
息が切れる。
足が縺れて、転倒しそうになる。
全身に適用した身体強化の発動が終わるまであと十数秒。少しでも連中から離れるために、限界まで足を動かした。
「……はぁっ……はぁっ……限界、もう無理……動けねぇ……」
ビルとビルに挟まれた薄暗い路地に駆け込んで足を止める。
ずっと抱えていた境目を下ろした石瀧は、使われているか分からない室外機に腰を下ろして肩で大きく息をする。三十秒くらいしか逃げていないだろうが、そこそこ連中からは離れられたはずだ。
酸欠で頭が痛い。ドッと吹き出してくる汗で夏服がベタベタになる。室外機に手を付いた瞬間、積もっていた泥や埃が付着して汚れたが、眉を顰める余裕すらなかった。
少しでも酸素を取り入れようと首を上向ける。
ビルに切り取られた狭く四角い空は、押し寄せる夕闇によって藍色に染まっていた。視界が開けていれば一番星が見えるかもしれない。風通しが悪いせいもあって、冷却装置の壊れたエンジンみたいに発熱する体から汗が引いていくまでは時間が掛かりそうだ。
「……あ、あの、貴方は?」
両手を胸の前で組んだ境目が、困惑の眼差しで見詰めてくる。白磁器よりもきめ細やかな肌に、夜空を詰め込んだ黒い瞳。透き通った水のように静謐な少女は、夕闇に溶けていくのではないかと心配になる程に儚げだった。
「石瀧圭一、探偵さ」
「探偵?」
「まあ正確には『何でも屋』って感じだけどな。安心していいぜ、俺は君の味方だから。一緒にここから逃げ出そう」
「一緒にって……助けてくれるんですか? どうして?」
「どうしてって、そんなの……」
格好付けようと気の利いた言葉を探してみたけど見つからず、結局思い付いた言葉をそのまま口にした。
「別に、大層な理由なんてねぇよ。別件であそこにいて、君が誘拐されて来たって聞いて、明かにピンチだったから助けなきゃって思っただけさ」
「本当にそれだけ?」
声が鋭くなり、目付きが変わる。
「そんな適当な理由で、自らの危険も顧みず、見ず知らずの女の子を助けたって言うのですか?」
「そう、だけど……」
言葉を濁した石瀧は、猛烈な違和感に襲われて眉根を寄せた。
「(なんだ、こいつ……雰囲気が変わった?)」
先程の怯えていた弱々しい印象は微塵も残っていない。
レンズ奥の瞳に浮かぶのは、試すような、挑発するような、真っ直ぐな光。放っておけば暗闇へ揺らいでいきそうだった虚ろな存在感も、まるで編集ツールで解像度を上げたみたいに輪郭が鮮明になっている。
底が見えない……というよりも、見えていたはずの底が一気に深くなった感じか。
無意識の内に、石瀧の脳内で警戒のスイッチが入る。
「誰か助けるのに、理由なんて必要か? 君だってぶるぶる震えて怯えてたじゃねぇか」
「あれは演技ですよ、連中を騙すための」
「演技? 何だよ、それ……なら、あそこから状況をひっくり返すだけの策があったってのかよ?」
「いいえ、策なんて必要ありません。だって青い絶望が来てくれるのですから。彼女は空を穢す者を決して赦しはしません」
「……?」
黒髪ショートカットの少女が言っている事がよく分からずに、思わず首を傾げてしまう。
「(大丈夫か、こいつ? 新興宗教にドップリはまったみたいになってんぞ。殆ど噂レベルでしかねぇ奴に依存するなんて異常だろ)」
盲目的な信頼の根拠が理解できずに胡乱な眼差しで見詰めるも、妄想癖のある不思議少女は気にしない様子で続けた。
「それと、やっぱり誰かを助けるにも理由はいりますよ。そっちの方が安心できますから。後で何か見返りを要求されるかもしれないですし」
「それもいいかもな。恩を強調してアレコレ強要するのも嫌いじゃねぇよ。個人的にはメイド服とか着て色々とサービスしてくれると嬉しいな、趣味なんでね」
「……最低ですね」
「ほっとけ」
「でも……ふふっ」
少女の唇の端から、小さな笑みが零れ落ちた。
「貴方も、狂っているのですね」
細い指を唇に添えて、表情を柔らかく綻ばせる。
それはまるで名家のお嬢様が、手入れの行き届いた庭園で紅茶を飲みながら浮かべるような優雅で、品位に満ちた仕草。周囲の薄汚い景色との差に認識が音を立てて軋む。こんな裏路地に存在してはいけない物のような気がして、何故か猛烈な不安に見舞われた。
「狂ってる……?」
「だってそうでしょ? 特に理由もなく、自分を危険に晒してまで他人を助ける。況してや、貴方が踏み込んだのは非日常の世界。言葉にするだけなら簡単ですが、実行できる人間は限られてきます。貴方は『常人の領域』から大きく逸脱しているのですよ」
「……、」
「あら、自覚がないのかしら? それとも知らない振りをしているだけ? 遠慮なんてする必要はないのですよ、私と貴方は同類なのですから」
「同類、だと?」
「もっとも、方向性は正反対みたいですけれどね。貴方の根底には『普通』を感じますから。それでも、初めてお友達に会えたから嬉しくなってしまいましたわ。今でも心のトキメキが収まらないのですもの」
鈴を鳴らしたように可憐な声だけが、細い裏路地の夕闇を揺らした。控えめな胸の前で両手を組み、熱っぽい眼差しで見詰められる。歌い出しそうな程に上機嫌な姿を見て、脳に突き刺さる違和感が益々強くなった。
「(訳が分かんねぇよ、情緒が安定してねぇにも程があんだろ)」
人格が二つあると言われても信じられる変わりようだ。
色々と訊きたい所だが、あまりここでゆっくりしている訳にもいかない。行方を眩ませている内に商業地区の人通りが多い場所に出る必要があるからだ。連中に見つかれば無事に帰れる保証はない。
古いビルの壁面を走る配管に手を付いて立ち上がった。無理に身体強化を使った反動で痛む足を引き摺るように歩き始めると、スキップでも始めそうな軽い足取りで境目もついてくる。随分とご機嫌なようで、背後からは鼻歌まで聞こえてきた。
「(あれ、この歌……)」
追っ手に居場所がばれる可能性を忘れる程に、不思議少女の歌声は聞き心地が良かった。一流の音楽家が、一流の楽器を使って奏でる気品に満ちた旋律。彼女の周りだけ薄汚い裏路地がコンサートホールに変貌を遂げたと錯覚してしまいそうになる。
「……『バインド』だっけ、その曲?」
「あら、よくご存じですね」
ネットの歌姫『バインド』。
正体が一切不明とされているラクニルで人気の女性歌手だ。
「私、この歌が大好きなんです。曲調も歌詞も良いのですけれど、何よりも曲名が気に入っています。ソラ――私と同じ名前です」
「機嫌が良いのは分かったが、今は勘弁してくれ。鼻歌で連中に見つかるなんて間抜け過ぎる」
「大丈夫です、この近くにはいませんから」
妙に確信的な言い方が気になったが、この浮き世離れした少女からまともな答えが返ってくるとは思えない。舌の先まで出かかった疑問を飲み込んで、細い裏路地を奥へ、奥へ、進んでいく。真っ直ぐ雑居ビル街の外を目指せればいいのだが、連中と鉢合わせになる可能性も高くなる。できるだけ迂回した方が安全だろう。
「なあ、駄目元で訊いてみるんだけどさ」
「何ですか、圭一さん?」
「さっき言ってたよな、青い絶望が来るって。まるで本人に会った事があるみたいな言い方だったけどよ、あれって実際どういう事なんだ?」
「簡単な話ですよ。だって、実は私が――」
最後まで、彼女の言葉を聞く事はできなかった。
ッッッドォンッ!! と。
橙色の輝きと共に、目の前に巨大な物体が落ちてきたからだ。
「っっっ!?」
それは、人影だった。
肩幅が異様に広い大男だ。軍人が着る迷彩服のズボンと、黒いシャツを着ただけのラフな格好。彫りの深い粗野な髭面からは、容赦のない凶暴性と蓄積された経験に裏打ちされた圧を感じさせる。服の上からでも分かる筋骨隆々とした肉体は、腹を空かせた猛獣と対峙するにも似た恐怖を呼び起こさせた。
ラクニルの生徒ではない。
明らかに専門的な訓練を積んできたであろう人間。ピリピリと張り詰めた空気は、大男と石瀧が生きている世界が違うという事を雄弁に語っていた。
世界観が変わる。
体感した事のない緊張感に息が詰まる。
「(連中の追っ手か!? クソ、もう見つかっちまった!!)」
咄嗟に境目の手を掴んだ。強張りそうになる体を無理やり動かし、踵を返して細い裏路地を走り出す。転がっていた空き缶を蹴り飛ばし、派手な金属音がビルの壁面で反響した。
「圭一さん!?」
「いいから走れっ!! 人通りの多い所まで出ればまだ可能性があ――」
チカッ、とカメラのフラッシュを焚いたみたいに何かが背後で瞬く。
その直後。
すぐ隣のビルの壁面が破裂した。
「うおっっ!?」
いっそ前もって爆薬が仕込まれていたと言われた方が信じられる現象だった。散弾みたいに放出されたコンクリートの破片が左側面に直撃する。為す術なく吹っ飛ばされて、反対のビルの壁面に激突した。
「(何を、された……?)」
不自然な熱を帯びる頭に、鉄の味が広がる口の中。動揺と恐怖で朦朧とする意識を必死に動かして、現状を把握しようとする。
尻餅を付いた周囲にはコンクリートの破片が散乱している。細い路地裏の先には、橙色の燐光を撒き散らす大男。すぐ隣には境目の華奢な体が転がっているが、気を失っているのか起き上がる気配はない。
「逃げねぇと……!」
胸を衝くように溢れ出す猛烈な焦燥感に急かされて、慌てて立ち上がった。ぐったりとした少女の体を抱えようと手を伸ばす。
だが、そこまでだった。
大柄な男の全身から迸った燐光が蟠った暗闇を吹き飛ばし、辺り一面をライトオレンジに染め上げる。唇の端を歪に広げて獰猛に笑いながら、無骨なブーツでアスファルトを踏み付けた。
一閃。
生み出されたのは、直線と記号を組み合わせた回路図みたいな輝きのライン。それが幾条にも分裂して、草間を駆ける大蛇の如くアスファルトや壁面を這って迫り来る。
「界力、術――『刻印術式』かっ!?」
一瞬にして喉が干上がる。
界力術を発動するために先人が編み出した八つの『方式』。その内の一つで、『歳森家』が生み出した術式体系だ。
だが、そこまで理解するので精一杯。
自分の方式すらまともに発動できない落ちこぼれに、対応策など考えられる訳がない。況してや、放たれたのは生徒が授業で学ぶ実用性皆無な遊びではない。銃器や刀剣と同じく、人を殺すために磨かれた本物の技術である。
躱せるはずもなかった。
炸裂する。
迫り来る光のラインが同時に弾け飛び、アスファルトの暴風を撒き散らす。
「――ッ!?」
気付けば、仰向けに倒れ込んでいた。
自分がどうなったのか、瞬時に判断が付かない。破片が直撃したのか、衝撃を浴びせられたのか、あるいはその両方か。薄れゆく意識では、次に何をするべきなのかすら浮かんでこなかった。
足音がすぐ近くで止まる。目を向けてみれば、境目を肩で抱えた大男にニタニタと毒の滴るような笑みで見下ろされていた。
「覚悟はできたかい、色男?」
「……俺は普通の高校生なんだぜ。覚悟なんて大層なモン、できてる訳がねぇだろクソ野郎」
「そうかい、なら後悔しながら眠れ」
まるで、アルミ缶を潰すみたいな気軽さで。
ゴツゴツとしたブーツ底を持ち上げて、石瀧の額へと振り下ろす。
ぐしゃり、と。
石瀧の意識が黒く染まった。
読んでいただいて誠にありがとうございます!
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