01 遠い背中
期末試験前という事もあり、放課後の界力術訓練場は大勢の生徒で賑わっていた。
青く着色された合成樹脂の地面に、四方を囲う背の高い金網。ネットも審判台もないが、遠くから見ればテニスコートに見えるかもしれない。長方形のスペースが碁盤みたいに敷き詰められているため、施設自体の面積はちょっとした球場くらいはありそうだ。
「……、」
スラックスのポケットに手を入れた状態で、石瀧圭一は金網の向こうで界力術の練習をする数人の男子生徒を眺めていた。
くっきりとした顔立ちで、そこそこガッチリとした体付き。身長は180センチくらいか。分け目でアップにした茶色の前髪に、優しさを滲ませた垂れ目。近づきやすい朗らか印象には、子供らしさを忘れず成長しているからこそ出せる親近感を覚えた。首元に覗くネックレスや着崩された夏服と軽薄そうな格好をしているのに、そこまで不真面目さを感じないのが不思議である。
金網の向こうの男子生徒達は第二校区の高等部生だ。真剣に取り組んでいるのは、二週間後に控えた期末試験で行われる界力術制御基礎理論の試験対策だろう。
集中した様子の男子生徒が、長方形のスペースの中央に置かれたサッカーボールに向かって手を向ける。ぱっと男子生徒の体から溢れ出したのは靄状の青い光。それと同時、サッカーボールの真下で針のように鋭い輝きが収束した。
編み出されるのは、光の絵画――前衛的な現代アートにも見える立体的な幾何学模様は、ファンタジーに出てくる魔法陣にそっくりだった。
ばんっ!! と、サッカーボールが光の絵画によって直上に射出される。
西に傾き始めた太陽の光を浴びながら、サッカーボールは十メートルほど上昇した。そして、重力に捕まって落下を始める。そのまま合成樹脂の地面にぶつかって大きく跳ねる――はずだった。
ふわり、と。
青い光で紡がれた幾何学模様に落ちた瞬間、まるで羽ばたいたみたいに着地して、一切跳ねる事なく静止したのだ。
界力術。
物理法則を無視した現象を引き起こした異能の正体だ。今から約70年前に存在が公になった『界力』という粒子状のエネルギーを利用した技術。界術師を育成するため国家によって創設された学園『界術師育成専門機関』で教えられている一種の科学大系である。
「ちょっと、なに立ち尽くしてるの。早く案内してよ」
背後に立った女子生徒に剣呑な声を浴びせられる。
運動系の部活に属していると思われる健康的なスタイルに、肩まで届かないショートカット。整った容姿をしているが、キツめの目鼻立ちも相まって、今みたいみ眉間に皺を寄せられると非常に近づきにくさを感じてしまう。もっと愛嬌を良くすればいいのにと思ったが口には出さなかった。
「それとも何? あの男子達が関係あるって言うの?」
「いや、あの技術って将来的に何も役に立たねぇよなって思ってさ」
「そんなの今更でしょ? 本気で界力術を勉強してるのなんて特殊な生徒だけよ」
界力術を発動した男子生徒は地面に尻餅をついて、一仕事終えたみたいに大粒の汗を額に浮かべていた。ただボールを操作しただけかもしれないが、術式の精度を高めようと思えばトランプタワーを組み上げるよりも高い集中力を要求される。特殊な訓練を積んでいない一般生徒なら、これでも充分に優秀だと言えるだろう。
タン、タン、と女子生徒が右足で軽く地面を叩きながらこちらを睨んでいる。まるで時間に遅れて連絡も寄越さない友人を待っているような態度。虫の居所が悪いらしく、これ以上余計な事を口にすれば怒鳴られそうだ。
「悪い、先を急ぐよ」
「そうして。ただでさえ、こっちはイライラしてるんだから」
テニスコートみたいな長方形のスペースの合間を抜け、界力術訓練場の奥へと進んでいく。活気が溢れる様子は、高等部進学時に友人と行ったテニス部の様子に似ていた。
時刻は午後五時を回っている。夏休みが終わって九月になってからも暑い日が続いているが、夕暮れを迎えるのは少しだけ早まったかもしれない。伸び始めた影に、茜色に染まりつつある景色。生温い夏風が前髪を少し揺らし、炎天下に灼かれた空気を掻き乱してくれる。
「さて、依頼内容の確認だが」
界力術訓練所の外周を囲う金網の傍。巨大照明の柱の陰に隠れるよう指示してから、石瀧は冷静な口調で告げた。
「君の恋人が浮気をしているかもしれないから確かめて欲しい、だったよな?」
「そうよ。答えを教えてくれるって言うから、こんなトコまで来てるんじゃない」
「オーケー。なら、あれが調査の結果だ」
石瀧が指を向けた先にあるのは、小さな用具入れだ。
閉まった扉の前にいるのは、一組の男女。
通学用の鞄を肩に掛けて詰め寄る軽薄そうな男子生徒と、頬を赤くして困惑気味に目を伏せるポニーテールの女子生徒。距離があって楽しそうな会話内容までは聞こえないが、あの背景にピンク色を使えそうな雰囲気はデートと表現しても間違いないだろう。
「……なによ、あれ」
隣の女子生徒が、信じられないと言わんばかりに両目を見開く。きつめな印象が霧散するほどに真っ青に染まった顔。わなわなと震える唇には、裏切られた事に対する失望と怒りの色が交互に浮かんでいた。
「残念だけど、これが調査結果だ。あのイケメンは君という可愛い彼女がいながら浮気をしてる。羨ましいね、お顔が綺麗なクソ野郎は。ちょっと優しくするだけで青春を謳歌できんだからよ」
「嘘よ、そんなの信じられない……」
「悪いが現実を見てくれ、ありゃどう見てもアウトだな。それに俺は『探偵』なんだぜ。曖昧な根拠で依頼主に答えたりしねぇよ」
「違う、違う違う! だって、だって私は……っ!」
「何なら他にも証拠を提示してやろうか? あんましお勧めはしねぇけどな。俺は口は悪いし空気も読む気はねぇが、これでも君の事を慮って精一杯気を遣ってるんだ。それでもってなら話してやるけど?」
がくっ、と女子生徒が無言で膝から崩れ落ちた。
俯いているせいで前髪に隠れた表情はよく見えない。それでも合成樹脂の地面に伸びる長い影が小刻みに震えている事から、彼女の最悪な心境は推し量れた。
これ以上の追い打ちをする気はない。
周囲の様子を確認するために視線を走らせる。こちらに意識を向けている人影はいない。聞こえてくるのも界力術訓練場に飛び交う生徒の話し声や界力術の騒音だけだ。
問題がないという確信を得てから、石瀧は界力術を発動する。
全身から青い燐光が水飛沫のように弾け跳ぶ。一瞬だけ夕焼けを押し退けて周囲の景色を青色に染め上げた後、薄い靄状になって安定した。
身体強化。
界力術発動のプロセスを応用して、肉体の機能を向上させる技術だ。程度の差はあれ、界術師なら誰でも使う事ができる。その中でも、石瀧が発動したのは少々特殊な技能だった。
怪しまれないように気を付けて、巨大照明の柱から顔だけを出す。
『……でもいいの、こんな場所で私と会っても。彼女がいるんでしょ?』
『いいんだよ。あいつ、全然相手してくれないし。別れるのも時間の問題だろ』
聞こえてきたのは、対象の二人の会話。
様々な音に紛れて聞き取れなかった声が、鮮明に脳へと届くようになる。
五感――中でも、『聴力』の強化。
脚力や腕力といった肉体ではなく、明確な形を持たない感覚への干渉。実行には先天的な適性が必要であり、誰でも使える訳ではない。寄り目や舌を丸めるといった動作を思い出してもらうと分かりやすいか。
「(会話の内容も確認。俺の勘違いって可能性もなくなった)」
身体強化の発動を止めて、絶望に打ち拉がれた女子生徒を見下ろす。
きっと、彼女はなれなかったのだ。
あの男子生徒にとって、唯一無二の存在に。
勿論、この女子生徒にも目を見張るだけの『魅力』はあったのだろう。男子生徒と恋仲になれるだけの『理由』はあった。
でもそれは、換えの利かない『個性』ではなかった。
少しでも気に入らなければ交換されてしまう程度の存在。大きな機械に使われる歯車と同じだ。男子生徒にとっての『たった一人』に――『本物』になれなかったのだ。
「ったく、酷い話だぜ。複数ヒロインの同時攻略とかどこのハーレム主人公だよ」
溜息をついてから、石瀧はしゃがみ込んでショートカットの女子生徒と目線を合わせた。
「さて、落ち込んでいるところ申し訳ねぇんだけど、君はこれから一つの選択をする必要がある」
「……選択?」
「このまま尻尾を巻いて無様に逃げ出すか、あのクソイケメンに一矢報いるために殴り込むかだ」
「そんなの、決まってるじゃない」
フッと鼻で笑ってから、前髪で赤く染まった目許を隠した。
「帰るわよ。今更出て行ったってムダだし、負け犬みたいで恥ずかしいし……」
「そうか、残念だよ。もう少し骨のある答えを期待してたんだけどな」
「……どういう意味よ? 私が腰抜けだって言いたいの?」
「その通りだけど?」
なっ……、と女子生徒は両目を見開いてから、怒りの色に染まった鋭い視線を突き付けてきた。だが、敢えて逃げずに真正面から受けて立ってやる。
「逃げ出す事は否定しねぇよ、それだって立派な君の選択だ。その決断に胸を張れるなら、全力でやり遂げるべきだ。他の誰が何を言おうと迷う必要はねぇ。君が心の底から正しいと判断した事が批判されるのなら、その時は世界の方が間違っているんだから」
この言葉は石瀧の物ではない。
記憶の中に存在する『あの人』の幻影に自分の姿を重ねる。
「だけど少しでも迷っているのなら、考え直した方がいい。中途半端な決断の先には後悔しかねぇんだからな」
「……アンタ最低ね。失恋した女の子を目の前にして、厳しい事ばっか言って。少しは同情とかしないワケ?」
「言っただろ、俺は口が悪いし空気も読む気がねぇって。それともお嬢様は、背中がむず痒くなるような優しい言葉をご所望で?」
「アンタからは要らないわよ、気持ち悪いだけだわ」
「そりゃ結構」
立ち上がった石瀧は、赤く染まった空を見上げた。
「この世界は理不尽だ。でも、空っぽじゃない」
「……?」
「生まれた時から色々と決まってるし、どれだけ手を伸ばしても届かない物も存在してる。ゲームなら修正されるべき欠陥だよ。初期ステータスに差があるのに、成長速度に違いはねぇみたいなモンだからな」
だけど、と。
一呼吸置いた石瀧は、困惑に揺れる女子生徒の瞳を真剣な眼差しで見詰める。
「選択次第じゃ及第点くらいは掴み取れるようにできてる。『本物』に追い付けねぇとしても、まあギリギリ納得できる結果なら手に入るんだ。さて、それじゃあもう一度だけ問い掛けようか。これから君はどうしたい?」
「……っ、分かったわよ! やればいいんでしょ、やればっ!!」
手の甲で乱暴に両目を擦ってから勢い良く立ち上がる依頼主を見て、探偵は満足そうに笑いかけた。
「良かったよ、後悔しねぇ選択をしてくれて」
「アンタに言われなくてもこうしてたわよ! だからその自分の手柄みたいなドヤ顔はやめて!! 腹が立ってくるからっ!!」
女子生徒は夏服のスカートから財布を取り出して紙幣を乱暴に投げ付けた。しゃがんだままの石瀧の顔に当たって、紅葉みたいにヒラヒラと地面に落ちていく。
「最低な仕事をありがと名探偵! 二度と頼まないから!!」
キッ、と激情に駆られた眼光で睨み付けられる。
観念したとばかり両手を挙げてやると、フンと顎を逸らして正面を向いた。そのまま勢い良く柱の陰から飛び出して用具入れへと突撃して行く。どうやら上手く発破を掛けられたようだ。
「毎度あり」
落ちた紙幣を拾って、そそくさとその場から立ち去る。背後からは何やら甲高い声が聞こえてくるが、盗み聞きをする気はなかった。これ以上首を突っ込むのはマナー違反だ。
界力術訓練場を出て、石瀧はスラックスのポケットからスマホを取り出して電話を掛ける。
『ケー君、連絡待ってたよ。依頼はどうだった?』
「滞りなく。無事に成功報酬も回収してきた。今からそっちに向かうよ」
『お疲れ様ー』
「ったくよ、余計なオーダーを増やしやがって。発破を掛けるの大変だったんだぜ、一度は完全に心が折れてたしな」
『だってムカついたんだもん、ああ言う女の敵には痛い目に遭って貰わないとね』
電話口の少女の声は今にも歌い出しそうな程に楽しげだった。
『……? どうしたのケー君、元気ないけど。なんか機嫌悪い感じ?』
「別に、何でもねぇよ。ただ、『あの人』みたいに上手くはできねぇんだなって思ってさ」
手を。
真っ赤な波が押し寄せる空へと伸ばしながら、溜息交じりに言った。
「やっぱり遠いよ。まだ届きそうにねぇや」
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