第3話 エピローグ
頭が重い。
瞼が腫れているのか、微かに痛む。寒くはないが、体が気だるい。
熱が出る一歩手前のようだ。
目を覚ました俺は、気付けば見知らぬ場所に立っていた。
寒々とした鈍色の空があって、家が建ち並んでいる。疎らだが、人もいる。
街路樹に隔たれた歩道を歩く、疲れ顔のサラリーマン。アホみたいに髪の色を変えたチャラい若者。
見慣れた日本の住宅街だ。ちと、雑多な気もするがな。
要するに、俺は日本に戻ってきたという訳だ。
ただ、あの女神の口振りだとそう長くは居られない。
つまり、これが俺の見る「最期の日本」ってことか。
「てか、会って詫びる以前にここどこよ?」
誰に言うとなく思った言葉が、口を突いて出る。
一時的にとは言え、体がある。唇が動く感覚は久しぶりだ。
手も、足も、首も、どれもこれも久しぶりだ。
声帯が震えて声が出ることが、こんなに感動するものとは思わなかった。
その感情ですらも、新鮮だ。
だが俺が何を言おうと、横から茶々を入れるアホ女神はいな――
〈アホ女神じゃないもん! 私えらいもん!〉
「女神いんのかよ!」
不意に覚えた掌のムズ痒さに掌を見れば、そこにはデカデカと不平不満が落書きされていた。
やがてその文字は消え、また新たな文字が浮かび上がってきた。
〈今のアンタには、体があるわ〉
ああ、そうだ。確かに、体がある。
手は動くし、足も動く。首も普通に回れば、唇が動いて声も出せる。
至って健全。肉体の感覚は久しぶりだ。
だがちと、違和感を覚えるんだが。
体がやけに重いし、体が動かし辛い。それに目線が少し高い。
一言で言うと、
「俺の体じゃ、ないのか?」
〈そう。その体はただの人形よ〉
なるほど、だから『貸してあげる』なのか。
俺の体に魂を放り込むんなら、『返す』って言うだろうしな。
「はは、なんじゃこりゃ……」
複雑な胸中を呟きつつ、街路樹に寄りかかって次の「落書き」を待つ。
多分、この掌の文字はヴィストレアが直接書いてるんだろう。
向こうにも人形があって、それに書かれた文字が魂を介してこの体に反映される。
無線機みたいなもんか。
何れにせよ、本当にリアルな夢だ。
〈しかもその体は、他の人間には見えない。見えるのは、アンタの家族だけ〉
掌にペンの走る感覚があって、落書きが更新されていく。
なるほど、それは助かるな。俺、さっきから叫びっぱなしだしな。
世が世で実体があったら、俺は不審者としてお巡りさんにパクられるだろう。
流石にブタ箱は勘弁だ。
でも、家族には見えるんなら都合がいい。
いや、でも――
(行きたくねぇなぁ)
ポツリと呟き、俺は歩き出す。
テキトーな方向へ……。
目的の場所へは、すぐに到着した。
ヴィストレアの落書きナビが、目的地へとナビゲートしてくれたからだ。
流石、アホ女神様!
一家にゃいらない! アホ女神ナビ!
〈欲しがってよ! 一家に一柱置いてよ! 私を求めてよぉぉ!〉
目的地に着いた俺の掌に、新たな反論の文字が刻まれる。
いや、お前何人いるんだよ。
そんな各家庭に分散して置けんのかい。
つか、商品でいいのかよお前。
そのうち、「一匹見たら十匹いると思え」とか言われるようになるじゃないだろうか。
〈誰がゴキブリよ! アンタ、ホント天罰かますわよ!〉
「誰もゴキブリとは言ってねーよ!」
叫びつつ見上げた目的の家は、お世辞にも立派とは言えなかった。
いや、むしろみすぼらしい。汚ない。
家と言うより、一昔前の仮設倉庫のようだ。
これ以上ないほどにボロッボロで、小さくて。
いかにもビンボーですと言わんばかりだ。
玄関もくそもあったもんじゃない。ちょうど、昔テレビで見た仮設住宅に似てる。
防寒性も何もない、トタンのオンボロ家屋だ。
それでもこの家が自分の実家だと思うと、少し誇らしく思えてくる。
この家、俺のオヤジが頑張って借りたんだぜ。
もう、ホームレスじゃないんだぜ。みたいな感じに。
だが正直、行きたくないと思っていた。
姿形の変わった今会っても、親父は俺のことはわからないだろう。
いくら家族にだけは見える、と言ってもだ。
家族に認識されず、他人行儀に警戒されながら対応されれば、俺はどうなるだろうか。
考えるまでもなく、泣いてしまうだろう。逃げ出したりしてたかも知れない。
そして俺は、それが怖くて躊躇っていた。
でも、ヴィストレアが導いてくれた。俺を諭してくれた。
こんなに親身になってくれた奴は、今までいなかった。
冷たい橋桁の下でガタガタ震えてても、血を吐いても、誰も助けてくれなかった。
友達だった奴だって、俺がホームレスになった途端虫けらを見る目に変わった。
それどころか、「はよ死ね!」とのオマケ付だ。
色んな意味で涙が出た。
悔しくて、意味がわからなくて、悲しくて。
何で俺が、こんなツラい思いしなけりゃいけないんだ。
俺の何がいけなかったんだ。
俺はどうしたらよかったんだ。
俺は産まれてきちゃいけなかったのか。
とりとめもなく涙を流しては、そんなことばかり考えていた。
だが、今は違う。
嬉しい。嬉しくて、暖かくて、涙が出た。
飾る言葉も見当たらない程、嬉しかった。
アホだが、まあそこそこ真っ直ぐ。妙に人間贔屓で、暖かくて。
ヴィストレアは、確かに女神だ。
他の女神は知らんが、どの女神よりも女神だと思う。
本当に、感謝してる。
これが夢でも、俺のヴィストレアに対する気持ちは変わらない。
有り難う。
死ぬ前に、こんなあったかい夢が見れた。
俺は、この上ない幸せ者だ。
有り難う。有り難う。有り難う、ヴィスティ。
〈 〉
俺の掌から、文字が薄れて消えていった。
また、次の文字が浮かんでくるのだろうか。
また、あの暖かい会話がまたできるのだろうか。
また――
「会える、かな?」
胸に込み上げてくるものを必死に抑えて、俺は歩き出す。
涙なんて見せられない。
仮にこの夢が続いて、また会えて。
俺がヴィストレアの元で働くことになったら、「女々しい」とか言って笑われる。
アイツの人を小バカにした笑いは、イラッとくるからなあ。
何だよ「なあっはっはっ!」って、悪代官の高笑いじゃねぇか。
思い返せば、全く女神らしい所はない。
まあ精々、男らしくあろうじゃないか。
「っし、さあ、いくぞ!」
あそこに親父がいる。オカンが、妹がいる。
あのみすぼらしい家で、俺を待っている。
俺がいつ戻っても、元の暮らしを送れるようにして。
必死に働いて、泥水啜って、どんな仕事でもやって……。
やっと手に入った、小さな家で。
でも、俺はもう戻れない。
ひねくれて、荒んで、諦めて。早く死にたいと願った。
そして、その通りに俺は死んだ。
誰の気持ちも考えず、ただ自分勝手に死んだ。
親父は、傷付くだろうか。
俺のために、泣いてくれるだろうか?
お袋は、妹は、一体どうしているだろうか?
俺がいなくなったら、家族はどう生きていくんだろうか?
家の扉に近付くに連れ、心臓の鼓動が早くなる。
死んでるはずなのに、心臓は止まってるはずなのにだ。
幻肢痛みたいなものだろうか。何であれ不安だ。
「フー……ッ」
鼻から息を吸う。
相変わらず冷たい冬の空気が肺に入って、身を冷やす。
緊張は変わらず固いが、俺は家の玄関に辿り着いた。
目の前にはトタンの扉があり、古びて錆びたドアノブが付いている。
恐々と、錆びたドアノブに手を伸ばす。
ふとその手に痒みを覚え、伸びる手を止めて掌を見やる。
〈がんばれ!〉
強く濃く、でも美しく。
ただそれだけの一言が、俺を強くしたような気がした。