初恋の話
初恋の話
「初恋だったんです」
相田幸は初恋の話をそう切り出した。語り手の幸はまず登場人物を紹介した。幸の幼なじみで美形の尚紀、美人の転校生七生、その他大勢のクラスメイト達、彼らによって物語は展開する。
「僕ね、昔から虐められてたんです。ほら僕ってこんなんでしょう? 地味で卑屈でなんの面白みもない。そんな虐められっ子の僕を尚くんはいつも庇ってくれたんです。いつだって傍にいてくれたんです。尚くんは優しい人で、僕の家は母子家庭なんですけど母が仕事で遅くなる時は決まって夕飯を誘いに来てくれました。“一緒に食おう。大勢で食べた方が絶対美味しい”からって。尚くんの家は隣なんです。……尚くんがいないところで虐めは続いてましたし、かっこ良くて人気者な尚くんに引け目を感じていたけど、」
それでも中学時代は幸せでした、そう付け加えた幸の瞳は少しだけ色を帯びた。それまで嘘くさい笑顔を崩さなかった幸が見せた僅かばかりの落莫の色。幸の本当の顔を垣間見れた瞬間。
「僕は今、高二になるんですが高一の秋に転校生が来たんです。それが七生くんでした。七生くんは最初にも話しましたが、とても綺麗な子で……、うちは男子校なので七生くんの存在は余計に際立ちました。七生くんはあっという間にクラスの……、いえ学校の人気者になりました。そんな七生くんと尚くんが親しくなるのは自然な事です。二人は常に一緒にいるようになりました。当然僕は七生くんに嫉妬しましたが、納得せざるを得なかった。尚くんと僕が並ぶより、尚くんと七生くんが並んだ方が断然絵になりましたから。比べるのもおこがましいくらいです。だから僕は決意しました。尚くんから離れようって。これを機会に尚くんに頼るのは止めて一人で生きていこうって。それまで登下校は一緒でしたが断りました。御飯も一人で食べるようにしました。そんな僕の変化に尚くんは戸惑ってたみたいです。“急にどうした?”“何かあった?”“俺が原因?”尚くんに色々訪ねられました。全てはぐらかしましたけど。尚くんは本当に優しい。尚くんに散々迷惑を掛けて勝手に離れていく僕を最後まで気にかけてくれたんですから」
ここで幸は言葉を切った。表情を見れば、驚くほど覇気がなかった。十代ならば無条件で持ち合わせているだろうそれを幸からは伺い知ることは出来ない。全てを諦めているようにも、全てを悟っているようにも見える独特の雰囲気が幸にはあった。
「そんな時、噂が立ちました。内容は僕が売春しているというものです。僕は否定しましたが、元々皆僕に良い感情を持ってませんでしたから誰も信じてくれませんでした。尚くん以外は。尚くんはいつものように庇ってくれました。“幸がそんなことする訳ない!”そう皆に怒ってくれました。でも誰かが写真を出してきたんです。ホテル街で男の肩に抱かれている僕の写真を。僕は今まで売春どころかホテル街にも行った事はありませんでしたが、その写真には覚えがありました。あれは……そう、丁度尚くんから離れようと決意した頃です。靴箱に尚くんの事で大事な話があるから××駅まで来てくれという内容の手紙が入ってたんです。差出人の名前はなかったですし、今思えば何とも奇妙な手紙ですけど、その時は尚くんに関する事なら行かなくちゃって気持ちになったんです。行ってみたら知らないサラリーマンがいて、ホテル街に引きずられました。何とか逃げ出せましたが、まさか写真を撮られてたとは。誰かに嵌められたんですよね、僕。結果、動かぬ証拠とばかりに突きつけられたそれを見た尚くんは僕を庇う事を諦めました。変わりに軽蔑するような視線が向けられました。尚くんにそんな目で見られたのは初めてで僕は言葉が出なかった。そんな僕に止めとばかりに皆から一斉に僕への罵倒大会が始まりました。皆、僕の傷付け方が上手いです。どう言えば僕が傷付くのかを知っている。どれもこれも傷付きましたが、一番傷付いたのは七生くんの言葉です。“もう止めてやれよ。可哀想だろ”って。僕は虐められっ子でしたし、自分に自信はないですけど、それでも自分を可哀想だと思った事は一度もありません。惨めでした。七生くんにとって僕は哀れまれる存在なのかと思ったら消えたくなりました。何より尚くんに嫌われてしまった。もう全てが嫌になって逃げ出してきました」
「だから自棄になった?」
それまで幸の物語を黙って聞いていた直樹がニヤリと口角を上げて言った。幸は被りを振って否定する。
「自棄じゃないです」
「会ったばかりの俺に“抱いてくれ”と懇願するのが正気だって?」
直樹が幸に会ったのは偶然だった。直樹は一時の情事をセフレの美少年と楽しんだ後、名残惜しむでもなくホテルの前で別れた。恋人となるとこうはいかないだろうが、セフレだと後腐れがない。それが良い。直樹は面倒ごとが大嫌いだった。だから恋人は作らないし、恋もしない。自分以外の他人に振り回されるなど、考えただけで頭をかきむしりたくなる。
「あの、僕を抱いてくれませんか?」
不意にそう声を掛けられた直樹はまずは驚いた。突然声を掛けられた事にではない。人工的な色で埋め尽くされたホテル街に全く溶け込んでいない少年がそこにいたからだ。テレビの見過ぎなのか、昼ドラのように陳腐な台詞がより一層少年を周囲から浮き立たせている。不躾な目で観察すれば少年も直樹を眺め返した。普通だ、直樹が感じた少年の印象はこうだ。見惚れるような美しさも、そそるようないやらしさも、惹かれるようなオーラも何もない。そんな普通の子が何故ーー面倒ごとは嫌いだが厄介な事に好奇心は旺盛だ。それに美少年や美女ばかりを相手にしてきた直樹にとって平凡な幸の容姿はえらく新鮮に映った。いくら高級料理が美味しくても毎回では飽きる。たまには庶民的な料理も食べようではないか。出たばかりのホテルに入り直し、部屋に入るまでは抱く気満々だった。直樹は大人びいた容姿から大学生に間違われることがしばしばあるが、れっきとした高校一年生だ。性欲は売るほどある。抱く気が萎んだのは部屋に入ってからの幸の行動にあった。
「あの……これ」
幸の白い手からおずおずと差し出されたのはキャラクターものの封筒だった。まさか、と目を見張れば幸がゆっくりと頷いて「三万あります」と言った。受け取ろうとしない直樹に違う方向へと勘違いしたのだろう幸が続けた。
「少なかったですか? すみません。相場が分からないもので」
「お前さぁ、そのお金どうしたの?」
直樹は幸の年齢を中学生ぐらいだと思っていた。後に直樹より幸の方が年上であると判明するのだが、この時はまだ知らない直樹は怪訝に思った。三万円、中学生にしてみれば大金だ。金持ちの坊ちゃんにも見えない彼が何故。直樹の問い詰めに幸は堂々と言いのけた。
「こつこつ貯めていたお年玉です。あやしいお金じゃありません」
瞬間、直樹は吹き出した。ダメだ、と思った。目の前の少年を安易な気持ちで抱いてはダメだと。直樹にとって幸は純粋過ぎた。そう感じた直樹は幸が行きずりの男に抱かれたい理由を知りたくなり、話てくれないかと言ってみた。すると幸は「長くて、しかも後味の悪い話になりますが」と前置きして話し始めたのだった。幸の話を聞き終わったが直樹は釈然としなかった。幸は自棄じゃないと言い張ったが、幸の様な純粋で世間知らずの少年が見ず知らずの男と寝ようなど自棄じゃないなら何だと言うんだ。けれど幸が直樹を選んだ理由は分かった。
「俺ってもしかして尚くんとやらに似てるの?」
言い当てた直樹に幸はあっさりと頷いた。出会った頃から感じていた事だが幸はどうも反応が薄い。
「最初見掛けた時ビックリしました。名前まで一緒ですし」
「えー良く見てよ。尚くんより俺のがイケメンでしょ?」
「性格は全然違いますけどね」
ふふ、と笑う幸に直樹も目を細める。
「そりゃあ良かった」
「えっ?」
「尚くんと違って実るかも知れない」
「何がです?」
「さっちゃんとの恋」
自前の端正な顔に色っぽい声、それに浮くような台詞を加えれば誰しもが間違いなく直樹に落ちた。
「何のサービスですか、それ」
けれど、幸には通じない。直樹にはそれが分かっていた。分かってやって、想像通りの幸の態度に胸が高揚した。情事中以外で気分が高まるなど実に久し振りの事だ。
「話を聞いてくれて有り難うございます。良かったら直樹さんの初恋話も聞かせて下さい」
「俺の初恋ねぇ。あーやだやだ初恋は実らないって本当かな?」
「……少なくとも僕の初恋はダメでした」
「あっさっちゃんの場合はいいの」
初恋が破れたばかりの幸に向かってこの言い草。非常にデリカシーのない言葉を放った自覚は直樹にはある。しかし言ってやらずにはいられなかった。幸はというと、怒るでもなく、悲しむでもなく、意味を計りかねたように小さく首を傾げただけだ。相変わらず反応が薄い。何となく面白くない直樹は抵抗として爆弾発言を投下する。
「ところでさっちゃんさ、会った時からずーっと敬語だけど俺こう見えて中学を卒業したのは去年なり~」
ーーそれはつまり。
「えええええっ!? と、年下なんです、なり!?」
「さっちゃんそれ何語?」
これまでにない幸の大きな反応に満足した直樹は盛大に笑った。