初夏の休日
樋口さんと江口くんの、和やかな大学生活。
1年生6月の休日。
大学生になってハムスターを飼うことにした。独り暮らしに慣れてきた6月、ふと寂しさを感じてしまった。ワンルームにお風呂、トイレ、小さなキッチン。実家とは違う私だけの空間。好きなようにできるが、話し相手がいない。よし、ペットショップにいこう。そう思い立ったのは暑い午後のことだった。
部屋着から黄色のワンピースに着替え、薄く化粧をする。化粧は苦手だ。目の周りに何かを付けるのが嫌なのだ。痒くなるのに加え、合わないと目が真っ赤になってしまう。そして、不器用なのだ。マスカラを上手く塗ることができない。練習すればいいのに、と言われるが練習するためだけに化粧を施す意味がわからない。だから、頬と口に紅を注す程度の簡単な化粧しかしないことにしていた。
エントランスに着いたとき、江口くんと会った。
「あら、江口くん。こんなところで奇遇ね」
見慣れた額には汗が浮いていた。部屋も暑かったけど、外はもっと暑そう。
「よう、どこか行くのか」
ここは学生アパートであるため、3つ上の階に江口くんも住んでいた。買い物帰りのようで、袋からは長葱が頭を出していた。
「これからペットショップに行こうと思って」
そういえば、この辺のペットショップってどこにあったっけ。
「ああ、大きなところが二つ向こうの駅前にあったな」
そうそう、流石江口くん。二つ先の駅だったわね。
「そろそろハムスターを飼おうと思いまして」
「昔から動物好きだもんな、樋口は」
中学からの同級生は何でもお見通しであった。実家には白いサモエドが2匹いる。ゴンと龍馬という。もうずいぶんとおじいちゃんだが、散歩に行くといつもはしゃいでいた可愛い子達だ。
「ちょっと待ってろ、俺も行く」
江口くんもなかなかの動物好きだ。確か、柴犬がいたような気がする。写真を見せてもらったことがあるが、あまり覚えていなかった。あの頃は私も幼くて、うちの子が一番可愛いの、とか言っていた。みんな違ってみんないい。みんな違ってみんな可愛いのだ。今ならそう言える。いや、でもやはり。ゴンと龍馬が世界一可愛いと思う。みんな可愛いけど、一番はうちの子。
そんなことを考えていたら、江口くんが戻ってきた。
「百面相してたぞ」
変な顔を見られてしまったかと思うと恥ずかしかった。
「江口くんのこと考えてた」
なんて、嘘をついておいた。
駅前のペットショップには、さまざまな種類のハムスターがいた。しかしあまり詳しくは知らない。
「どの子にしようかしら」
ケージを覗いて回った。ハムスターは夜行性であるため元気に活動している子は少なかった。大半の子は潜って寝ている。ケージの端で寝ている子は、毛が押し当てられてなんとも言えない可愛さである。一生懸命にひまわりの種をかじる姿もぐっとくる。まるっこい濡れた瞳はつやつやと輝いている。
「全部買って帰りたい」
ボソッと呟いた独り言に江口くんは目を見開いていた。
「いや、無理だろう」
分かってはいるが、どの子にするかなんて私には決めきらない。
「そういえば、なんでハムスターなんだ」
実家で飼ったことでもあるのか、と彼は言った。
「いいえ。本当はもっと大きいもふもふした子を飼いたいの」
しかし、犬猫など大型のペットは禁止なのだ。
「だから、ハムスターにするの」
優しく微笑んで、そうか、大事に飼えよと、保護者のようなことを言ってきた。言われなくても大事にするに決まっているわ。
「江口くんも飼ったらいいじゃない」
動物好き、かつ独り暮らしで私と条件は一緒だ。
「俺はやめておくよ。樋口の見に行ったらそれで充分」
それならたまになら来ても良いわよ、触らせてあげる。そう約束した。
最終的に私が選んだのは、ジャンガリアンハムスターのオスだった。この子を選ぶのに三時間もかかってしまった。あんなに沢山いたら、選べないですよ。
「とても楽しかった」
私は満足していた。ペットショップからずっと、頬が緩みっぱなしだ。
「よかったな」
江口くんはケージなどの荷物を全部持ってくれた。頼れる男ですな。
「付き合ってくれてありがとう、江口くん」
「おう。どういたしまして」
日中の暑さもどこかへいったので、歩いて帰ることにした。
「ところで、こいつの名前はどうするんだ」
「ちくわ!」
買うときに決めていた。この子は絶対ちくわだ。
「やけに美味しそうな名前だな」
「食べてしまったら駄目よ」
二人で顔を見合わせて笑った。
「江口くん、今夜はうちで食べていって。ご馳走するわ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
そういえば、と江口くんは、
「俺は化粧しなくてもいいと思ってる」
樋口は不器用だしな、と。
「苦手なことがある女子は可愛いものだ」
うんうんと、ひとりで頷いていた。
「あら、そんなこと言うの。意地悪ね」
少しだけ足取りが軽くなった気がした。