第一話 始まりは、ある手紙
タイトルが……
ディアマス王国は、約三年前からブルートゥス大陸全土を統治下に置いている。
現在、戦時状態ではないものの、平常時でも王国内の魔物討伐や治安維持に騎士団が駆り出される関係上、団長であるイーシャは現場で身体を動かすより、書類仕事が多い。
彼女の実父である現王レスクの意思もあるのだが、イーシャは第三王女で近衛騎士でもある。
そちらの職務も踏まえた結果、規模の大きい魔物討伐や鎮圧・反乱でない限り、現場出動はしない――というより、出来ないのだ。
これはイーシャに限った話ではなく、王位継承権所持者を団長にしている第一、第二、第三騎士団は、王族としての職務も兼任している関係で王都とその周辺が基本担当地区だ。
騎士団ごと定期駐屯を命じられない限り、イーシャが王都から離れた土地に向かうことは殆どない。
イーシャの通常任務が書類仕事とはいえ、立場と職務上、いつ戦場に出ても良いように技術や体力を落とせないため、毎日数時間の武術稽古も欠かせない。
イーシャはすっかり慣れているのでどうとも思わないが、一日で行うには結構な重労働だ。
日によって部下である騎士団員の出動回数が異なるので、実を言えば、重要書類以外――騎士団の事務担当官が仕分けした『緊急』に入っていない出動報告書や申請は先送りする事が可能である。
とはいえ、イーシャは王族として与えられた領地から上がってくる報告書の処理もこなすので、その日は少ないから――と、安易に油断して手を抜いたりすると結構な書類の山脈が出来あがったりするので、日々真面目に一定の分量をこなすのが一番だ。
アルウェスの件が分かった半年前から、イーシャはカタストロフ関連を重要優先にしたため、いつでも休暇が取れるように通常の書類処理に投じていた時間を三十分ずつ――計一時間、増やしている。
先送りに分類されていたある書類が、申請があった翌日にイーシャの手の中にあったのは、むしろ必然であった。
水の月も半ば過ぎた頃の事。
イーシャは王城内の兵舎にある騎士団本部で、いつものように赤と紫が基調の近衛騎士専用武官服を纏い、通常の書類仕事を行った。
その後、第三王女として与えられた執務室で自領から上がってきた書類を片付けていると、問題の書類が目に入る。
「……これは、私の一存で決められる事じゃないわね」
イーシャは眉間に皺を寄せて呟いた。
もう一度最初から数枚に及ぶ書類を読み返し、変わることのない感想を心に抱くと、白紙を取り出して真ん中に自分の名と承認のサインを記す。
そして、イーシャは執務机の一番上の引き出しを開けて『民族長会議行き』の判を取り出し、その紙の上方にペタっと押した。
判を押すのに赤いインクを使用したため、非常に目立つ。
インクが完全に乾き切るのを待って、イーシャはその紙を問題の書類の上に重ね、クリップで留めた。
「多分、時期的に私が出した依頼を受けて返ってきたものだから、積極的に協力して貰うには通ってほしいけど」
イーシャに与えられた領地は、ブルートゥス大陸で唯一、南にあるスノーン大陸との交易を行っている港のある沿岸都市イムハール。
イーシャの亡き母セリシェレの婚家が治めていた、元イエルク公国内の重要拠点だ。
セリシェレの義弟である後継者が、『嘆きの水曜日』の約一年後に若くして海難事故で亡くなった。
セリシェレの義弟は十代半ばで亡くなり、本当に突発的な事故であったために、その母であるイムハールの領主ヴィヴィアンは生存していたものの、領主の地を継ぐ存在は他におらず、すぐ後継者に立てる者がいない状態に陥ったのである。
それに加えて、イムハールは元イエルク公国内。
『嘆きの水曜日』――先代女王ルーフィア、先王弟ルフェル大公への襲撃殺害事件と関わり合いはなかったものの、現在、王城内の塔で生涯軟禁にされているレスクの元妃メラルディーアに、セリシェレが護衛官として仕えていた事でイエルク一族と関わり深い土地である――と、ディアマス上層部に判断されていた。
後継者争いが親族間で発生して変に王国から目をつけられ、イムハールが戦場になるよりはマシ。
そう決断したヴィヴィアンの申請もあり、ディアマス王家の直轄地になっていた都市だ。
ちなみに、当時初老の域に差し掛かっていたヴィヴィアンは、ディアマス王家から派遣された代官に引き継ぎを完全に終えると、そのまま引退した。
血の繋がりは全くないが、元領主一族と関係あるイーシャが生まれたので、イムハールはそのまま第三王女の領地になったという経緯があるのだ。
イーシャにとって幸いな事に。
現在も悠々自適な生活を送るヴィヴィアンは、息子の嫁であったセリシェレの子供という事で、イーシャ自身の事も何かと気にかけてくれている。
長年領主の座にいた彼女のコネを利用した有力者への働きかけもあってか。イーシャの領地であるイムハールの治安は良く、穏当に治められている。
イーシャが処理した問題の書類は、そのイムハールと交易している遠き南大陸のラスス皇国から、はるばる海を渡って届いたものだ。
スノーンとの交易はラスス皇国のみだが、これは海流や地理的な問題で他のスノーンの国から大型の船が出せないという実情からである。
ラスス皇国から届いたこの書類が、最初に受け取ったイムハール領主代理によって王都に向けて投函されたのは、昨日の日付だ。
ディアマス王国内では、ルウラーという名の鳥型魔獣の性質――鳩と同じで、帰巣本能の非常に高い――利用した空路が政府関連に流通している。
ルウラーは最高時速200キーロに及ぶ飛行速度を誇るので、その便を使えば、よほど離れた土地でない限り、即日書類が届く。
そのルウラー便が利用不可能であり、相手先があまりに遠距離である事、送ってきた相手――ラスス皇国時期皇帝アルシオーネ皇女が返事を急いでいない事もあり、他国から届いた重要書類であるものの、先送り可能の分類にされていた。
「――今日の処理はここまでにするわ。サラ、貴女も休んでいいわよ」
イーシャは長年の秘書である栗色の髪を肩で1つに束ねた年若い文官に向け、そう柔らかく告げた。
第三王女として政務を行うイーシャの直接の部下と直臣は、接する時間が長い分、万が一間違いが起こるといけないという立場もあってか、ほとんどが女性で構成されている。
その比率は九対一。
男性は、カタストロフと文官の男性(初老)が数人いるだけだ。
「御意に――イスフェリア殿下。その書類、届けてまいりましょうか?」
焦げ茶色の目を細めて柔らかく微笑み、穏やかな声音で提案してくるサラは、イーシャの乳母の子供――乳姉妹であり、一番の側近である。
王位継承者の資格を要するまでのイーシャの立場は、非常に危うい均衡で成り立っていた。
レスクに正式に認知されて王女の称号を持っているとはいえ、婚外子である事に変わりないからだ。
自分の娘が第三王女の側近である事に図に乗った場合、イーシャの足を引っ張ることになりかねない。
そんな風に懸念した乳母によって、王女で主君であるイーシャとの立場の違いを徹底的に教え込まれて育ったので、親しみは示すものの、サラは臣下としての姿勢を崩す事はない。決して。
一番の側近であるサラが終始この態度なので、イーシャの直臣には気安い態度で接してくる人間が皆無である。
乳姉妹すら友人足りえないせいなのか。
信頼できる忠実な臣下達と戦友でもある部下はいても、平時に友人と呼べる人間がイーシャには居なかったりする。
幼児の頃から宮廷魔導師を目指していたイーシャは際立って優秀だったせいなのか、それとも、イーシャが諸々の学習を行っているちょうどその時期、ディアマス王国とグラウニアとの間で戦時下にあったせいで、レスクがその手配をうっかり忘れていたのか。
イーシャには学友と分類される人間すら居ない。
異母兄にも、義兄にも学友に当たる人間が居ないので、あまり気にしてないが。
「ううん。これ、陛下に回さなくてはいけないものよ。私が直接届けた方が、早いわ」
「そうですか。出過ぎた事を申しました」
「気にしないで。貴女に見られても困るような書類というわけじゃないから、本来私が届けなくても構わないものなの。私が早く陛下に見てもらいたいだけ」
苦笑してそう返すと、イーシャは書類を手に持って、サラに見送られながら己の執務室を後にした。
廊下に出ると、サラに告げたようにレスクの執務室がある方向へ足を進める。
特に何事もなく、国王の執務室前へとイーシャは辿り着き――扉の前で左右に控えている同僚の近衛騎士の片方に、呼び止められた。
「――イスフェリア殿下。少々、お待ち下さい。現在、ドラクロ殿がおいでになっています」
それはまた、ちょうどいい。
イーシャは心の中でそう呟いた。
何の用事でレスクのもとを訪れたのかは分からないものの、イーシャの持ってきた書類の内容は、火の民族長であるドラクロにも関係があるのだ。
「ドラクロ殿と陛下と一緒であられるのなら、一緒にご覧になって頂いた方がいい案件を持ってきたのだけど……」
イーシャは一番上にある『民族長会議行き』と赤で押した判がよく見えるよう、手にした書類を掲げた。
今更ながら、この世界の月日の設定が載せていない事に気付いて慄いた作者です。
月は9で、光・生命・水・火・植物・風・土・闇と名無しの順。
最終月(名無しは10日間)以外、一月は45日。
一年は370日です。
一週間は8日で、曜日は光(日)・火・水・植物(木)・風(金)・土・闇の順。
ちなみに、ディアマスの王都は位置的に赤道直下で高地にある関係上、四季の変化があまりありません。あえて当てはめるなら、常春気候。