第十六話 姫将軍の事情
ちょっと閑話チックですが、一応本編です。
主人公がああなった過去話ですね。
何時の頃からか。
彼女は知っていた。
自分は周囲の誰にとっても、一番になれる存在ではないと。
気づかせてくれたのは、他ならぬ母セリシェレで。
実感させてくれたのは、彼女に最も愛を注いでくれた父レスクで。
理由を理解させてくれたのは、年の離れた異母兄だった。
「いいですか。イスフェリア。私は王国の剣にして陛下の盾。剣は繰り手の意のままに敵を切り裂くだけ。陛下の支えとなりたいのなら、まず先に自分の立場を明確になさい。貴女の立場は決して盤石なものではないのですから」
イーシャにとって、セリシェレは母と言うより師であった。
愛情が無かったとは言わない。
母は彼女なりに娘を愛していただろう。
ただ、一番では無かった。
その理由も、イーシャは他ならぬ本人に尋ねて知っていた。
「どうしてお母様は正妃にならないの?」
「理由は三つあります。
私の元々仕えていた主がメラルディーア様――セーマゲルタ様、パリテュイア様、アルフェルク様のご生母であった事、私は陛下を尊敬してはいても愛していない事、そして私の夫は死んでしまったあの人だけで良いと思っているからです」
セリシェレは既婚者で未亡人だった。
これは正妃の周囲で仕える者には珍しい事ではないのだ。
うっかり手をつけられても逃げ帰れる婚家があり、妊娠しても他の男との子だと主張する事で主の邪魔にならないようにと。
純潔が重視される上流階級出身の未婚者では、こういったごまかしが効かない。
ディアマスでは婚姻も政治手段とされており、より効率を上げるために王族に限り重婚が許されている。だからといって、気に入った者とホイホイ結婚する事は許されていない。
特に、相手の意思に反して無理やり婚姻を結ぶ事は不可能だ。
状況的に断り切れず、追い込まれる形で結婚した例もあるが、とにかく王族相手でも求婚を拒否する権利はある。
セリシェレはその権利を行使し、レスクの求婚を断り続けた。
娘を愛している。でも、一番ではない。
娘を理由に愛してもいない国王の后に納まるには、かつての主と亡くなった夫への想いが強過ぎて出来ない。
セリシェレは己を優先した点が母親として失格だったが、自分に厳しく嘘を何より嫌っていて正直だった。
「イスフェリア。イーシャ。仮にもし、私が死んでも嘆く事はありません。死ねば、あの人と同じ所へ逝けるのですから。むしろ母は幸せでしょう」
その言葉の通り、葬送の棺に横たわったセリシェレは苦痛の色なく微笑んでいた。
その死による悲しみが無かったと言えば嘘になる。
途方もない喪失感に、イーシャが泣かなかったのは、生前の母の言葉を思い出したからだ。
死んで現世から解き放たれた母は、愛する夫の元へと逝った。
セリシェレが死亡した事で、イーシャは早々に立場を明確にする必要があった。
正妃どころか愛妾でもなかった、国王の婚外子。
それは決して身を守るのに都合の良い事実ではない。
宮廷魔導師にはなれない。
その時のイーシャが出来る方法は一つ。
騎士の誓いだ。
イーシャは、セリシェレの棺にすがって嘆くレスクに歩み寄った。
太腿に巻いたベルトに着けた護身用の短剣を取り出す。
勢いがよかったせいでドレスの裾が捲れ上がり、一瞬、周囲に真っ白な細い足が際どいところまで見えたが、イーシャは気にしなかった。
そのまま短剣を抜き放ち、さっと自らの手のひらを切り裂く。
「い、イーシャ!? 何を――」
「『陛下』、今ここに私は血の誓いを捧げます」
突然の事に驚き戸惑うレスクに応じる事無く。
イーシャは地面に跪くと、レスクの片手の中に血をすりつけ、続けて唱えた。
「――我が血は陛下の手の中に。
我が身は陛下の御身を守る盾とならん事を。
我が剣を振るいし相手は陛下の御心のままに。
我が忠誠は全て、陛下だけのもの――」
流れるような自然さでイーシャは、腰まで伸びた真っ直ぐな銀糸の髪を左手で掴んだ。
何をするのかレスクは悟ったようだが、遅い。
ぶつっ!!
一纏めにされたイーシャの髪が、肩より上の位置で乱雑に切り落とされた。
ほっそりとした華奢な白い首筋があらわになり、見る者に脆さを感じさせる。
しかし打って変わって、イーシャの紫の瞳に浮かび上がる光は強烈に自己を主張し、ある意味異様なほど落ち着いていた。
「――誓いの証に血を、忠誠の証に我が髪を捧げます。受け取っていただけますね?」
ずいっと、切り落とした髪を掲げるように持ってイーシャは確認を取った。
レスクは断れない。
第三者がいる場所で騎士の誓いを拒否する事は、その者の失墜を望む事と同意語だ。
騎士は基本的に主に付き従う――断る事は傍に寄るな、と宣言するもの。
その上、イーシャは髪を差し出している。
長い髪が美女の条件であるディアマスにおいて、短い髪の女はよほど幼いか生涯を神職に捧げた者、ヒトの感覚とは違う他の民族ぐらいだ。
長い髪を切って差し出す事は、未婚の主張と同じ。女性騎士の忠義の証としては最上級だった。
「……頼む、イーシャ。私より先に死なないでくれ」
己の騎士とする事を認め、髪を伸ばすよう命じると、レスクは彼女を力いっぱい抱きしめた。
――今考えると、あれは縋りつかれていたと言った方が正しい。
その時のレスクの声には涙が混じり、戦場を渡る事に耐えられるよう長年鍛えられた逞しい身体は震えていた。
「セリシェレはもういない。今、私が利害の関係なく、ただ純粋に愛せるのはセリシェレによく似たお前しかいないんだ。私を裏切ったメラルディーアの子は、どうしても愛せない」
イーシャは突然殴られたように、戦慄いた。
レスクの一番は母で、その付録といった形で愛している。
そう聞こえたのだ。
セリシェレが死の旅路に向かい、暫定一位の座が転がり込んできても全く嬉しくない。
けれど。
レスクは間違いなくイーシャを必要としていた。
他の誰でもなく、イーシャ自身の存在を。
必要としてくれるのならば、必要だと言ってくれるのならば、全身全霊を込めて傍で支えになろう。
十二歳の秋、イーシャは胸に誓った。
「イーシャ。あの宝物庫の封印を解いて、伝説の『紅の刃』を手に入れたんだって?」
唐突に。
先触れもなく訪ねてきたアルフェルクの姿に、イーシャは爽やかな朝を過ごすことを諦めた。
「王太子殿下。何処からその話を?」
「……父上の騎士になったからって王籍を返還したわけじゃないんだから、お兄様で良いんだよ」
赤い髪、菫色の瞳、陽に焼けて鍛えられた長身。
長兄アルフェルクは姿形だけなら、レスクに最も似ていた。
違いは年齢と、わずかに目が垂れて印象が柔和な事、そしてその眼差しから覇気のようなものを感じ取れない事だ。
彼の瞳をジッと見ると、イーシャはいつも畏れに近いものを感じる。
上っ面の優しげな印象に隠れている、暗く深い光が奥にあるのを気付いたのは何時だったか。
「ではお兄様、その話を何処で聞いたの?」
イーシャはアルフェルクが苦手だった。
それを分かっていながら、長兄は思い出したように予告無くイーシャを構いに来る。
「ラズからだよ」
「! そうなんだ」
イーシャがラムザアースの協力のもと、『紅の刃』の封印を解き、ルビエラと契約を交わしたのは昨晩の事だ。
情報が漏れるにしては早過ぎると警戒したのだが、当事者から聞いたとなると話は変わってくる。
安堵したイーシャに、アルフェルクはずいっと近づき、自然な仕草でぎゅうっと両手を取った。
「『紅の刃』で第三位になってくれるんだよね。大歓迎さ。ちゃっちゃと戦場で功を上げて、将軍まで上がっておいでよ」
「……何をいってるの? お兄様。私は近衛を目指すために強い武器が欲しかっただけで、王位継承権に興味は全くないわ」
そう告げて、イーシャは眉をしかめた。
アルフェルクの眼差しが、一気に馬鹿を見るようなものに変化したからだ。
「お前は賢い子だと思ってたけど、買いかぶりだったようだね。まるで状況を理解していない」
大きく溜息を吐き、嫌味な仕草で大仰に肩をすくめるとアルフェルクは首を振った。
非常にいらっとくる仕草だったが、挑発に乗せられてはいけない。
アルフェルクはイーシャの知る中で最も優れた人物だ。
一を聞いて十を覚える、文字通りの天才。
王太子という立場からイーシャに見えないものも沢山見て取って、理解し把握できる。
彼がイーシャは現状を把握してないというのなら、本当にそうなのだ。
「どうして、近衛を目指すのはいけないの?」
「死ぬからだよ。一年以内に」
さらりと物騒な単語を、異母兄は口に出した。
「継承問題で、大きな派閥があるのは知っているね。内情がどんなだと思ってる?」
「アルフお兄様と、ラズお義兄様、あとはどっちつかずの日和見、でしょう?」
「違うね。君の派閥もかなり前からあるし、挙げてる対象は合ってても、お前が考えている題目とは随分違うよ」
イーシャは首を傾げた。
鍛えていたし、騎士を目指していると周りに言った事はあるが、継承権に飛ぶのはいきすぎだ。早とちりする者達も居たものである。
それより題目が違うとはどういう事なのだろうか。
「歴史の勉強だよ、イーシャ。先代女王である御婆様と先王弟は誰に殺された?」
「イエルク……! あ、そのせいで揉めているの?」
白昼堂々殺された女王ルーフィアとその異母弟であるルフェル大公。
二人は公務として、視察に訪れた街で襲われた。
歓迎する住民達、警護していた騎兵、補佐の文官達――数百人もの巻き添えの死傷者を出したこの事件は、『嘆きの水曜日』と呼ばれている。
父である征服王ミルドとは違って、内政に重きを置いて国力を充実・上昇させ、防衛戦の他は撃って出る事の無かった彼女はディアマス史上最大に慕われた女王だ。
臣下や国民に及ばず、他国でも尊敬されていた名君である。
風の民も真偽調査に協力を申し出たため、かつてない速さで実行犯、共犯、主犯が割り出され、次々に刑が決まっていくのを見るのは出来の悪い喜劇のようだったという。
その黒幕は、イエルク公爵家――かつては公国の君主だった一族。
公女メラルディーアとレスクの婚姻により、平和的な方法でディアマス王国に組み込まれた一族だった。
イエルクは例外一名を除き一族郎党皆殺しで、少しでも事件に関与していた者達は処刑。
例外は王子妃メラルディーア。
彼女は関与していなかったという証拠があり、離縁と王城内の塔へ生涯幽閉となり。
当時十一歳のセーマゲルタと、九歳のパリテュイアは王籍剥奪を受け、監視態勢の整った家にそれぞれ降嫁という形で王城を去った。
アルフェルクも廃嫡の危機にあったが、国外のイエルク傍系である大商家ディルナードへの配慮と、当時六歳になったばかりの幼児、他にルーフィア直系がいなくなるという事が重視され、助かったという。
「御婆様が王太子にしていたのは亡くなったルフェル大公だった。
順番を守りたがってる奴等はラズを押し、憎いイエルク混じりとはいえ最年長の直孫を押したい奴等は僕。そして、まだ若年とはいえ騎士の才があり、将軍になれるだろうと予想されている、婚外子であっても御婆様の血を一番問題なく継ぐ君。
この中で一番勢力が強いのはラズだけど、一番望まれてるの君だよ。当然、面白くない奴等は大勢いる。それなのに、王位継承権を取らず近衛を目指してごらん。候補の座を捨てた途端、集中して潰しにかかるよ」
死にたくなかったら大人しく将軍を目指しなさい。
候補が三人いると下手に動きが取れなくなって、暗殺の危険が僕やラズに対するのも減るから。
あの時の長兄の眼は、深淵を覗きこんだかのように暗く。
嫌だと言ったら、アルフェルクに殺される。
反射に近い形でそう判断したイーシャは、忠告に従って戦功を挙げるべく予定外の初陣を飾った。
後見が望んでいるのはルーフィアの血を継ぐ問題のない直系王族であって、イーシャ自身ではない。
アルフェルクに教えられた通りで。
彼女はそれを理解させた異母兄が嫌いになった。
必要とされているのに、一番にしてくれない。
それがイーシャを傷つけていたが、彼女は表に出す事無く。
殆ど執着に等しく、最も想ってくれて必要だと言ってくれるレスクに忠誠を捧げていた。
水の民に拘束された状態でも。
その想いの強さから諦める事無く、一筋の光明に縋り、イーシャは数え切れぬほど呼びかけ続けた。
じつは、お兄様は可愛がってるつもりの妹に嫌われたのを未だに不審がってたりします(w
ここまで読んで下さり、ありがとうございます。