10年かけて貯めたお金で買ったタワマンが、夫と不倫相手の家になっていた
結婚五周年の日だった。
仕事が予定より早く終わり、三千万円の住宅ローンをようやく完済したばかりのタワーマンションへ戻ると、リビングのソファに一本の髪が落ちていた。
赤みがかった茶色の長い髪だった。私の髪は黒く、長さも肩までしかない。
嫌な予感がしてウォークインクローゼットを確認すると、見過ごせない痕跡が次々に見つかった。Diorのコートの襟には見覚えのない口紅がつき、Tiffanyのブレスレットが一本なくなっている。ほとんど履いていないLouboutinのヒールにも、はっきりと使用跡が残っていた。
写真を撮り、「重要な会議中」のはずの夫――圭介へ送った。
『家に誰か入ったみたい。警察に相談する』
それから十分もしないうちに、玄関が勢いよく開いた。
圭介は息を切らしていた。
「今日、なんでこんなに早く帰ってきたの?」
第一声がそれだった。
答えるより先に、玄関から顔認証ロックの電子音が響いた。
赤茶色の長い髪をした女が、両手いっぱいにショップバッグを提げて入ってくる。
足元にあるのは、私のLouboutinだった。
「圭介さん、ちょっと持って。もう手が痛いんだけど」
そこまで言って、女はようやく私に気づいた。
一瞬だけ目を見開き、すぐに不満そうな顔で圭介を見る。
「……なんでまだいるの?」
壁の時計を見て、さらに眉を寄せた。
「もう八時過ぎてるよ。八時からは私と過ごすって言ってたよね? ローンを払い終わったら、ちゃんと話すって言ってたじゃない」
女と圭介を交互に見た。
四年以上、毎月ローン残高を確認しながら働いてきた。少しでも早く、この家の借金をなくしたかったからだ。
けれど、ここで日常を過ごしていたのは、どうやら私ではなかったらしい。
1
胸の奥が激しく波打っていた。一度だけ深く息を吸い、どうにか声を整える。
「あなた、誰?」
女が答える前に、圭介が一歩前へ出た。私の視線を遮るように立ち、そのまま女を自分の後ろへかばう。
「成瀬莉子。母さんの知り合いの娘だよ。少し前にカナダから帰ってきて、今うちの会社に入ったばかりなんだ」
そこでいったん言葉を切った。
「まだ住むところが決まってないから、母さんに頼まれて、しばらく泊めてるだけ。言うの忘れてた」
「泊めてるだけ?」
思わず笑った。
「少し泊めてるだけの人が、私のコートを着て、化粧品を使って、アクセサリーまで持ち出すの?」
玄関へ視線を向ける。
「しかも顔認証まで登録されてるのに?」
圭介の眉間に皺が寄った。
「莉子はまだ若いんだし、綺麗なものが好きなんだよ。ちょっと借りたくらいで、そこまで言わなくてもいいだろ」
私に向けていた苛立った表情は、莉子へ振り返った途端に柔らかくなった。
「とりあえず紗季のものは返して。欲しいものがあるなら、明日一緒に買いに行こう」
莉子が不満そうに圭介の袖をつまむ。
二人が視線を交わす。
帰国したばかりの社員と上司には見えなかった。
やがて莉子がこちらを見る。
「ごめんなさい、紗季さん。可愛かったから、ちょっと借りただけなんです」
何も答えなかった。
莉子はゆっくりコートを脱ぎ、今度は足元へ目を落とした。
「圭介さん、朝これ留めてくれた時、ちょっときつかったみたい。自分じゃ外せない」
こちらをちらりと見る。
「手伝ってくれない? このままだと、また紗季さんにわざとだって思われそう」
圭介の表情が一瞬固まった。
それでも最後には莉子の前へしゃがみ込み、足首を支えながらストラップを外した。
靴を脱がせると、そのまま靴箱の一番下からピンク色のファー付きスリッパを取り出し、莉子の足元へ置く。
目が、そのスリッパに釘づけになった。
二か月ほど前、初めて靴箱で見つけたものだった。私より一つ小さいサイズで、ピンクのファーにリボンまでついている。自分では絶対に選ばないデザインだ。
圭介は、ネット通販でショップが間違えて送ってきたと言っていた。
返品すればいいと言った私に、彼は首を振った。
「三万円以上したんだぞ。開封済みだし、返品も面倒だろ。置いとけば、そのうち何かに使えるよ」
あの頃は、私へのプレゼントを選び間違えただけだと思っていた。
靴箱を開けるたびに、少なくとも私のために何かを選んでくれたのだと、少し嬉しくさえ感じていた。
今、そのスリッパを履いているのは莉子だった。
吐き気がこみ上げる。
圭介はこれ以上追及されたくなかったのか、莉子へ先に部屋へ行くよう言った。
莉子は迷いもせず主寝室へ向かう。途中で私の存在を思い出したように足を止め、それから廊下の反対側にあるゲストルームへ進路を変えた。
その背中を見ながら、思わず笑いが漏れた。
圭介が苛立った様子で髪をかき上げる。
「もういいだろ。事情は説明したし、莉子が少し使っただけじゃないか。いくらだった? 払えばいいんだろ」
スマートフォンを操作する。
すぐに送金通知が届いた。
二万円。
先ほど莉子が持っていたCHANELのショップバッグ。その中身なら、どれを取っても二万円では到底足りない。
金額を見つめた。
弁償というより、これで黙れと投げつけられた小銭のようだった。
「ずいぶん気前がいいのね」
声が震えた。
圭介もとうとう苛立ちを隠さなくなった。
「紗季、ひとつ勘違いするなよ。この部屋の登記名義は俺だ。誰を住ませるかは俺が決める。そこまで口を出される筋合いはないだろ」
胸の奥が重く沈んだ。
マンションを買った当時、私は転職してまだ一年も経っていなかった。
圭介は自分一人で住宅ローンを組んだほうが話が早いと言った。
「俺一人で組んだほうが審査も早いって。登記もまとめたほうが面倒がないし。夫婦なんだから、どっちの名前でも同じだろ」
そう言っていた。
「紗季が出したお金だって、ちゃんと分かってるから」
疑う理由などないと思っていた。
頭金の大半は、結婚前から貯めていた私の預金だった。その後の高額な住宅ローンも、ほとんど私の収入から返してきた。
なのに、最後の一円を払い終えた途端、この家は圭介の中で完全に「自分のもの」になったらしい。
胸が痛い。目の奥まで熱くなる。
それでも、この二人の前でだけは泣きたくなかった。
「分かった」
バッグを手に取る。
「あなたの家なら、二人で好きに住めば」
あまりに静かな反応だったせいか、圭介のほうが戸惑った。
「どこ行くんだよ」
送金画面を見せるようにスマートフォンを軽く振った。
「結婚してから、あなたが自分から私に送金したのって初めてじゃない?」
圭介を見る。
「せっかくだから、使ってくる」
そのまま玄関へ向かった。
2
靴を履き替えながら、莉子が持ち帰ったショップバッグへ目をやった。
どれも有名ブランドの新作ばかりで、その中にはランジェリーショップの袋まで混ざっていた。
今日は結婚記念日だった。たまたま仕事が早く終わらなければ、いつものように帰宅は九時を過ぎていたはずだ。
その場合、この部屋で二人がどんな夜を過ごすつもりだったのか、考える必要もなかった。
エレベーターの扉が閉じると、壁にもたれてしばらく動けなかった。
一階へ下りたところで管理会社に電話する。
「星浜リバーフロントタワー三六〇二号室の久世紗季です。自宅に誰かが長期間出入りしている可能性があります。アクセサリーと衣類もなくなっているので、防犯カメラと入退館記録を消さずに残していただけますか」
担当の佐藤さんが少し言いよどんだ。
「映像をそのまま個人の方へお渡しすることはできませんので、盗難の可能性があるのでしたら、一度警察にもご相談ください」
「分かりました。今から連絡します」
声が自然と低くなる。
「ただ、映像だけは上書きしないでください」
警察にも相談し、管理会社には関連する映像を保全してもらった。
その後、管理室で担当者立ち会いのもと、自宅周辺の映像を確認することになった。
残っていた映像は三か月分。
一番古い日付から再生した。
午前八時五分。
いつものように私が出勤する。
その十分後、莉子がエレベーターから現れた。
ゆったりした部屋着のような格好をしている。
玄関前まで迷う様子もなかった。
顔認証を済ませると、内側からドアが開く。
画面に映ったのは男の手だけだった。
その手が莉子の腰を抱き、そのまま中へ引き入れる。
薬指には結婚指輪があった。
結婚した時、私が圭介へ贈ったものだ。
映像を止める。
「ここ、セキュリティが売りのマンションですよね?」
佐藤さんを見る。
「住んでいない人が、どうして顔認証でここまで入ってこられるんですか」
彼は困ったような表情を浮かべ、居住者情報を調べ始めた。
しばらくして、声を少し落とす。
「成瀬様は訪問者ではありません。久世様から申請が出ていて、同居者として登録されています」
言葉が出なかった。
映像を再生する。
八時半になって、ようやく圭介が会社へ出た。
私はずっと、彼は夕方六時か七時まで仕事をしているものだと思っていた。
けれどその日は午前十時二十分ごろ、スーパーの袋を提げて戻ってきた。
それから二人は部屋から出ない。
莉子が再び姿を見せたのは、夜八時を過ぎてからだった。
ほぼ十二時間。
私が選んだソファを使い、私が買った食器で食事をする。
私と圭介のベッドも使っていたのだろう。
翌日も、その翌日も同じだった。
三か月前の最も古い映像まで遡っても、莉子が来ない日はほとんどない。
二人で色を合わせたような服を着て出かける日もある。
私のコートを着た莉子が、圭介の腕へ自然に腕を絡め、そのままエレベーターへ乗り込んでいく。
私よりよほど、ここで暮らすことに慣れていた。
莉子には決まったネイリストや美容スタッフまでいて、何度も部屋へ呼んでいた。
中でも忘れられないのは、圭介の誕生日だった。
あの日、私は大型広告案件の企画で残業していた。
受注できれば、八十万円のインセンティブが入る仕事だった。
住宅ローン完済まであと少しだったため、その報酬はどうしても欲しかった。
圭介には、誕生日のお祝いを数日遅らせてほしいと謝った。
彼は優しく笑い、私を抱きしめた。
「紗季が頑張ってるのだって、俺たちのためだろ。誕生日くらいで邪魔したくないよ。仕事に集中して。俺は家で待ってるから」
その日の映像では、午後二時を過ぎた頃から若い女性たちが次々と部屋へ入っていた。
リビングで酒を飲み、ケーキを食べ、酔って廊下まで出て大声で笑っている。
莉子が着ていたのは、何度探しても見つからなかったGUCCIのワンピースだった。
あとになってスカートについていた香水とクリームの染みも、これで理由が分かった。
私は深夜まで会社で働いていた。
同じ時間、圭介は私の家で莉子たちとパーティーをしていた。
映像の中の二人は、この部屋で暮らすことにすっかり慣れていた。
その間、私は一日でも早くローンを返そうと必死になっていた。
莉子の動きは、三か月前から出入りし始めた人間のものではない。
パーティーの日の映像をもう一度見返すと、参加者の中に見覚えのある女性がいた。
星浜ではそこそこ知られたライフスタイル系インフルエンサーだ。
Instagramの公開アカウントを探し、当時の投稿や相互フォローを辿っていく。
ほどなく、莉子の暮らし用のサブ垢に行き着いた。
アカウント名は、
『rio_roomlife』
プロフィールには一行だけ。
『大好きな人との暮らし♡』
最初の投稿は、四年前だった。
私と圭介が結婚して、まだ半年も経っていない頃だった。
3
四年前、私たちはまだ普通の賃貸マンションに住んでいた。
星浜リバーフロントタワーが売り出された時、モデルルームへ行こうと言い出したのは圭介だった。
大きな窓の前に立つと、背後から抱きしめられた。
「ずっと広いリビングと川の見えるバルコニーに憧れてたんだろ?」
耳元で笑う。
「今までできなかったこと、これから俺と一緒に叶えよう」
販売価格は七千八百万円だった。
圭介も当時動かせる預金を出したが、頭金の大半は私が結婚前から貯めていたお金だった。
残り三千万円を住宅ローンにした。
家具や内装にもかなり費用がかかるため、圭介の手元資金はそちらへ残したほうがいい。
そう言われ、私も納得した。
正式契約の日、仕事の打ち合わせが重なり、私は現地へ行けなかった。
当時の私は転職してまだ日が浅かった。
電話口で圭介は、
「住宅ローンは俺一人で組んだほうが早いって。登記も俺にまとめておけば面倒が少ないし」
そう言った。
「夫婦なんだから、どっちの名前でも同じだろ。紗季は仕事してて。こっちは俺が全部やるから」
その言葉を、ずっと信じていた。
けれど莉子のInstagramには、まったく別の四年間が残っていた。
私たちが売買契約を結んだのと同じ日。
莉子はまだ内装前の部屋を撮影していた。
コンクリートの床と白い壁だけのリビング。
大きな窓から夕日が差し込み、床には手をつないだ男女の影が伸びている。
キャプションは一行。
『ここを二人の家にしようって言ってくれた』
三年前。
圭介から内装工事の追加費用が必要だと言われ、まとまった金額を振り込んだ日。
莉子は完成した部屋の写真をアップしていた。
私が選んだ大理石のアイランドキッチンに、圭介と並んで腰掛けている。
二人は抱き合うようにキスをしていた。
そばには、こぼれた高級ワインのボトルまで写っている。
さらに遡れば、見覚えのあるものばかりだった。
何軒も店を回って色を選んだカーテン。
五回も作り直してもらったダイニングテーブル。
半月かけて探したリビングの照明。
私が「自分たちの家」のために選んだものが、ずっと前から別の女の暮らしとして投稿されていた。
動画も一本あった。
莉子が私のウェディングドレスを着て、リビングの真ん中でくるりと回っている。
楽しそうに笑っていた。
『圭介さんが、この家でもう一度私と結婚したいって♡』
どうやって管理室を出たのか、よく覚えていない。
スマートフォンに保存した一枚一枚の画像が、鈍い刃物のように胸の内側を削っていた。
痛みが続きすぎて、最後には感覚まで薄れていった。
あの部屋には戻らなかった。
そのまま両親の家へ向かった。
母は玄関を開けた瞬間、私の顔を見て笑顔を消した。
「紗季、どうしたの。顔色悪いよ」
何か言おうとしたのに、声にならなかった。
両親は若い頃、月森町で小さな果樹園を営んでいた。
けれど何度か台風被害が続き、農業を諦めて星浜郊外へ移り住んだ。
今も築四十年を超えた古い2DKで暮らしている。
冬は冷え、強い雨の日には古い窓枠から水が染み込むこともあった。
子どもの頃に住んでいた家は、さらに古かった。
雨の日になると父は軒先を見に行き、母は窓辺へタオルを詰めていた。
そんな光景を見ながら、いつか広い家に住みたいと思った。
大きなリビングがあって、明るい窓があって、川を眺められるバルコニーがある家。
やがて、その夢は叶った。
住宅ローンを完済したら、両親にも一緒に住んでもらうつもりだった。
「お母さん」
俯く。
「圭介と離婚したら……前に言ってた、一緒にあの家に住むって約束、守れないかもしれない」
声が震えた。
どうして離婚するのか。
きっと聞かれると思った。
けれど母は何も尋ねず、ただ私の手を握った。
「住めないなら、住まなくていいじゃない」
顔を上げる。
「私たち、いつ大きな家に住みたいなんて言った?」
母は困ったように笑った。
「一緒に住ませてあげたいって思ってくれてたのは知ってるよ。でも毎月あんなにローン払って、夜中まで働いて、お正月だってすぐ仕事に戻ってたでしょう」
手に力がこもる。
「私たちは、大きな家より紗季が楽に暮らせるほうがいいの」
目の奥が熱くなった。
母はスマートフォンを操作し、私へ三百万円を振り込んだ。
「お母さん、何してるの?」
「お父さんと少しずつ貯めてたお金」
スマートフォンをしまう。
「圭介くんと何があったのか、今は言いたくないなら言わなくていい」
少しだけ間を置いた。
「弁護士さんに頼むなら使いなさい。お金なんて、また貯めればいいから」
母は私を見た。
「我慢だけはしないで」
とうとう耐えられなくなり、その胸にしがみついて泣いた。
どれくらい泣いていたのか分からない。
その夜、実家で使っていた部屋に横になり、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
夜が明ける頃、友人に紹介してもらった弁護士へ連絡した。
『離婚と財産分与について相談したいです』
4
担当してくれたのは、野村千尋先生だった。
四十歳前後で、離婚や夫婦財産の案件を多く扱っているという。
購入時の資料、銀行口座の履歴、住宅ローンの返済記録。持っているものをすべて机の上へ並べた。
野村先生はすぐに結論を出さず、一枚ずつ確認していった。
「頭金のかなりの部分は、結婚前から紗季さんが持っていたお金なんですね」
さらに住宅ローンの記録をめくる。
「登記がご主人単独でも、それだけで全部が決まるわけではありません。まずは、お金の流れを全部整理しましょう」
「じゃあ、家が全部あの人のものになるとは限らないんですか?」
「少なくとも、久世さんが言うほど単純ではありません」
野村先生はメモを取り始めた。
「婚前の預金、頭金、住宅ローン、リフォーム代。残っている記録は全部保存してください」
そこで私のスマートフォンが鳴った。
圭介だった。
野村先生と目を合わせ、録音を開始してから通話に出た。
「紗季。管理会社で映像、見たんだろ」
妙に落ち着いた声だった。
返事をしなくても、圭介はそのまま続けた。
「もうここまで分かってるなら、隠しても仕方ないか」
一拍置く。
「莉子があの部屋に出入りするようになったのは最近じゃない。四年くらい前からだ」
思っていたより長い。
爪が掌へ食い込む。
「そもそも、あのマンションを最初に気に入ったのも莉子だった」
呼吸が止まりそうになった。
圭介は事務所の物音に気づいたらしい。
「……弁護士のところにいる?」
声色が変わる。
「本気で離婚するつもりか?」
「しちゃいけない理由がある?」
紙をめくる音がした。
「二年前の冬、取引先との飲み会でかなり酔って帰ってきたの、覚えてる?」
覚えている。
迎えに来たのも圭介だった。
「あの日、内装費の確認書類を何枚か追加で書いてもらった。紗季、ペンもまともに持てなかったから、俺が手を添えたんだよ」
スマートフォンを握る手が固まった。
「次の日は覚えてなかっただろ」
声はあくまで穏やかだった。
「その中に、住宅購入資金の贈与契約書もあった」
何も言えない。
「結婚前のお金から出した購入資金は、俺に贈与したって内容だ」
野村先生の表情も変わった。
「だから裁判までやるなら、俺はあれを出すしかない」
小さなため息が聞こえた。
「紗季、俺は離婚なんて考えてなかったよ。五年間、普通にやってきただろ?」
思わず笑ってしまった。
この状況で、本気でそう言えるのか。
「紗季だって今まで困ってなかっただろ。昼間は仕事でいないし、夜は俺もちゃんと家にいたじゃないか」
圭介の口調は真剣だった。
「今まで通りでいいだろ。莉子のことは気にしなければいい。向こうも紗季には口を出さない」
通話を切った。
指先が冷えていた。
野村先生がしばらく黙ったあと、静かに尋ねる。
「その贈与契約書、本当に覚えていませんか?」
首を横に振った。
「酔ってたのは本当です。どうやって家に帰ったのかもほとんど覚えてません」
覚えているのは、翌朝だけだった。
圭介がメイクを落として、着替えさせてくれていた。
台所には、二日酔い用の味噌汁まで作ってあった。
ベッドのそばに座り、頭痛はしないかと心配してくれた。
あの時は、本当にこの人と結婚してよかったと思った。
まさか、まともに意識もない私へそんな書類を書かせていたかもしれないなんて、想像もしなかった。
野村先生は少し考えた。
「書類がある前提で準備しましょう」
「……はったりって可能性もありますか?」
「あります。でも、そこに賭けるのは危ないです」
野村先生は、録音を止めた私のスマートフォンに目を落とした。
「今の通話も保存しておいてください」
黙って資料へ目を落とした。
家を失うかもしれない。
これまで払ってきたお金も、簡単には戻らないかもしれない。
それでも、一つだけ迷いはなかった。
「野村先生」
「はい」
「家を取られても、離婚します」
顔を上げた。
「もう、あの人とは暮らせません」
5
法律事務所を出たあと、そのまま会社へ向かった。
星浜の大手広告会社で、私はストラテジックプランニング部門のチームリーダーをしている。
十二人のチームをまとめ、年収は一千万円を超えていた。大型案件が決まれば、別途インセンティブも入る。
ここまで来るために、何年も仕事へ時間を注ぎ込んできた。
三千万円の住宅ローンを予定より早く完済できたのも、その積み重ねだった。
直属の上司は藤崎理恵部長。
四十代で、一度離婚し、娘を一人で育てている。
事情を簡単に話すと、詳しく聞こうとはせず、肩を軽く叩いた。
「必要なら休んでいいから。仕事は気にしなくていいよ」
「大丈夫です。いつも通り働きたいです」
仕事をしている時間だけは、圭介と莉子のことを考えずに済んだ。
けれど圭介は放っておいてくれなかった。
その日の午後、また電話が来た。
「紗季。離婚の条件、見たよ。弁護士さん、仕事早いな」
今回も先に録音を開始した。
「でも、要求しすぎじゃないか? 家も欲しい、車も欲しい、預金も分けろって。内装や家具に俺がいくら出したかも考えてる?」
「内装費の大半は私が振り込んでる。全部、記録が残ってるから」
少し沈黙した。
「それだって結婚後の生活費だろ」
圭介は、聞き分けの悪い部下を説得するような口調だった。
「こうしよう。マンションは俺、車は紗季。預金は半分ずつ。それなら揉めなくて済む」
「無理」
ため息が聞こえた。
「本当に裁判までやるつもり?」
呆れたような声だった。
「例の契約書を出されたら、結婚前のお金だって簡単じゃなくなる。弁護士費用も鑑定費用もかかるし、時間だって無駄になる」
少し間が空く。
「結局、離婚だけして金も取れなかったらどうするんだよ」
「そんなに強い証拠なら、どうして見せないの?」
二秒ほど静かになった。
「分かった。送るよ」
通話が切れてすぐ、LINEに画像が届いた。
タイトルは、
『住宅購入資金に関する贈与契約書』
下には確かに私の署名がある。
文面には、星浜リバーフロントタワー三六〇二号室の購入時に私が出した婚前資金を久世圭介へ贈与し、その金額について権利を主張しない、と記されていた。
心臓を強く握られたような感覚がした。
画像を拡大する。
右下に、ぼんやりと赤い跡があった。
口紅のように見える。
莉子があの日使っていた色に近かった。
もちろん、それだけでは何の証明にもならない。
ただ、本来なら私と圭介しか触れる必要のない書類が、莉子の手にも渡っていた可能性はある。
圭介へLINEを送った。
『莉子に新しい書類を用意させることだってできるよね。そもそも署名だって、酔った私の手をあなたが動かして書かせたんでしょう』
既読になったが、返事は来なかった。
その午後、開きっぱなしの企画書を見つめ続けた。
文字が一行も頭に入らなかった。
6
半月後の金曜日。
圭介の母、美津子さんが星浜へ来た。
電話では、「少し話したい」としか言わなかった。
何を言われても驚かないつもりで、指定された和食店へ向かった。
けれど個室へ入ると、美津子さん一人ではなかった。
隣に圭介。
さらにその隣には莉子まで座っている。
三人とも、すでに揃って待っていた。
美津子さんは私を見ると、昔と変わらない柔らかな笑顔を作った。
「紗季ちゃん、来たのね。座って。前に好きだって言ってた煮魚、頼んであるから」
莉子の前にも、同じ料理が置かれていた。
以前なら、私は彼女を「お母さん」と呼んでいた。
その言葉はもう出てこなかった。
「話って、何ですか」
笑顔が少し薄くなった。
バッグから封筒を取り出し、テーブルの中央へ置く。
「五百万円入ってる」
封筒を見る。
「これを受け取って、圭介と離婚してくれない?」
美津子さんは穏やかな口調を崩さない。
「マンションのことも、もう争わない。それで終わりにしましょう」
封筒には触れなかった。
「あのマンションには、頭金からローンまで合わせて五千万円以上出しています。それを五百万円で手放せってことですか?」
美津子さんの顔から笑みが消えた。
「頭金を紗季ちゃんがたくさん出したのは分かってるわ。でも圭介だって何もしてないわけじゃないでしょう」
箸を置く。
「あなたはずっと仕事ばかり。家のこと、誰がしてたと思ってるの?」
黙って見返した。
「莉子ちゃんは何年もあそこで料理して、片づけて、圭介のことも支えてた」
さらりと言う。
「あなたが帰った時、いつも家が綺麗だったのは誰のおかげ?」
耳を疑った。
莉子は俯き、指でナプキンの端をいじっている。
圭介は何も言わず、時折母親の顔を見ていた。
「つまり」
笑いが込み上げる。
「私は家を買ってローンを払う。莉子さんはそこで四年間、ご飯を作って、あなたの息子と寝る」
個室が静まり返った。
「最後は二人が家をもらって、私は五百万円だけ持って出ていく?」
美津子さんが箸を強く置いた。
「紗季、いい加減にしなさい」
口調が一変する。
「圭介だって、揉めたくないからこうして話し合おうとしてるのよ。あの贈与契約書を出されたら、あなたがどれだけ取り戻せるか分からないでしょう?」
封筒を指差す。
「今なら五百万円受け取って終わりにできる。それの何が悪いの?」
椅子を引いて立ち上がった。
「じゃあ、もう弁護士を通してください」
店を出ると、冷たい秋風が襟元へ入り込み、体が小さく震えた。
その時、野村先生から電話が来た。
「紗季さん。相手側から出てきた財産資料を整理していたら、少し気になる支払いがありました」
「何ですか?」
「久世さんが、別のマンションの管理会社へ何年も管理費を払っています。住所も今のタワーマンションとは違います」
足が止まった。
「登記を確認したら、久世さん名義の小さな区分マンションがありました。購入時期は結婚後です」
スマートフォンを握り直す。
「四年前あたりに、大きな金額を圭介へ振り込んだ記録がないか確認できますか?」
歩道脇に立ち、銀行アプリを開いた。
古い履歴を何度も遡る。
冷たい風で指先がかじかんできた頃、四年前の七月に八百万円の振込を見つけた。
送金先は圭介の個人口座。
摘要には、
『内装工事残金』
そう書いてある。
当時は、タワーマンションの追加工事に必要なのだと思っていた。
けれど主要な内装工事は、その数か月前にはほぼ終わっていた。
画面を保存し、野村先生へ送る。
ほどなく電話がかかってきた。
「時期は合っています」
「マンションの購入と?」
「はい。この八百万円が振り込まれた少しあとです」
野村先生はすぐに断定しなかった。
「実際に購入資金へ流れたかは、もう少し確認します。ただ、結びつけば大きいです」
「莉子のInstagramは?」
「全部保存してあります。いつから住んでいたか分かる投稿も、久世さんとの生活が分かる写真も、時系列にしてあります」
そして少しだけ口調を和らげた。
「だから、一枚の契約書だけで全部決まると思わなくて大丈夫です」
秋風の中に立っていた。
さっきまでより、少しだけ寒さが遠のいた気がした。
7
すぐに裁判になったわけではない。
まず家庭裁判所で何度か調停を重ねた。
けれど圭介は離婚そのものを拒み、マンションや預金、もう一つの物件についても譲ろうとしなかった。
そのたびに、例の贈与契約書を持ち出した。
結局、調停は成立しなかった。
その後、離婚訴訟を起こした。
初めて法廷で向き合った日の圭介は、目に見えて顔色が悪かった。
私が本当にここまで来るとは思っていなかったのだろう。
それ以上に、野村先生が数年間の資金の流れをここまで整理していたことが想定外だったようだ。
銀行の入出金履歴、頭金の原資、住宅ローンの返済記録、内装費用。
一つずつ資料として提出された。
莉子のInstagramも、投稿日ごとに整理されている。
裁判官が、彼女が私のウェディングドレスを着てリビングで笑っている写真のページで、少し手を止めたのが見えた。
圭介側が証拠を提出する番になり、とうとう『住宅購入資金に関する贈与契約書』が出された。
野村先生がすぐに異議を述べる。
「書面上、久世紗季さんの署名があること自体を否定しているわけではありません。ただ、署名当時の状態と、その署名が本人一人で書かれたものなのかについては争います」
こちらから筆跡鑑定を申し立てた。
結果が出るまで、二か月近くかかった。
その間も、いつも通り仕事へ行った。
会議をして、企画を作り、チームをまとめ、必要なら残業もした。
少しずつ、結婚前の生活へ戻っていくようだった。
両親も数日おきに惣菜を作って届けてくれた。
母は毎回、何か言いたそうにする。
それでも最後には、
「最近、ちゃんと眠れてる?」
その程度しか聞かなかった。
自分で思っていたほど、苦しくはなかった。
ソファに赤茶色の髪を見つけたあの日から、必死に守ってきたものが少しずつ意味を失っていたのだと思う。
表面だけの結婚生活を壊さないよう気を遣う必要もない。
家を大切にもしない人のために、必死で働き続ける必要もない。
鑑定結果が出た日、野村先生の声には珍しく安堵がにじんでいた。
「結果、出ました」
背筋を伸ばす。
「どうでした?」
「筆圧や運筆に不自然な停滞があるそうです」
少し間を置いた。
「紗季さんが自然な状態で一人で書いた署名だとは断定できない。手を添えられた可能性も否定できない、という結果でした」
長く息を吐いた。
その後も、圭介側は契約書を重要な証拠として主張し続けた。
けれど裁判所が見たのは、その一枚だけではなかった。
契約書が作られた経緯。
私が結婚前から持っていた資金。
長期間にわたる住宅ローンの返済。
さらに圭介が婚姻中に別のマンションを購入した際の資金の流れ。
すべてを合わせて判断された。
判決の日。
圭介は向かい側の席に座ったまま、ほとんど動かなかった。
離婚は認められた。
星浜リバーフロントタワー三六〇二号室は私が取得し、登記も私へ移すことになった。圭介が婚姻中に取得したもう一つのマンションも財産整理の対象となり、私の分については金銭で精算される。
車も私が取得した。
そのほかの預金も、決められた内容に従って分けられた。
結果を聞いても、思っていたほど嬉しくはなかった。
ただ、長い間、自分のお金と時間を注ぎ込んだあの部屋を、もう誰かに勝手に奪われることはない。
それだけで十分だった。
離婚が確定したあと、私は旧姓へ戻った。
久世紗季ではなく、再び橘紗季になった。
裁判所を出ると、よく晴れていた。
階段の下に圭介が立っている。
以前よりずいぶん痩せ、顎には無精ひげが残り、目の周りも落ちくぼんでいた。
莉子の姿はなかった。
あとになって聞いた話では、判決が出たあとすぐ圭介のもとから出ていったらしい。
別れの言葉すらなかったという。
「紗季」
後ろから呼ばれ、足を止めた。
声が掠れている。
「五年も夫婦だったんだぞ。本当に、もう何も残ってないのか」
振り返った。
「夫婦?」
圭介が黙る。
「結婚した日に言ったこと、覚えてる?」
返事はなかった。
「いつか星浜で一番いい家に住ませるって言ったよね。私の両親も呼んで、もう古い家で苦労しなくていいようにするって」
圭介を見る。
「実際、私はタワーマンションに住んだ。でも両親は、一度もあそこで暮らしてない」
目を伏せる圭介へ続けた。
「五年間、毎日仕事して、ローンを払った。時間かけて選んだダイニングテーブルなのに、あなたと一緒にそこで食事した回数なんて、数えるほどしかない」
風が階段を吹き抜ける。
「その間に、あなたと莉子はとっくにあそこを二人の家にしてた」
不思議なくらい、心は静かだった。
「もう疲れた」
背を向ける前に言った。
「登記の変更や必要な書類は、野村先生から連絡する」
そこで一度だけ振り返る。
「全部終わったら、もう私に連絡しないで」
そのまま歩き出した。
今度は振り返らなかった。
8
マンションの登記名義が正式に私へ移ったあと、最初にしたのは玄関ロックと顔認証情報の変更だった。
圭介と莉子が残したものは、すべてまとめた。
野村先生を通じて圭介へ連絡し、指定された住所へまとめて配送した。
そのあと専門業者を入れ、部屋全体を徹底的に清掃してもらった。
カーテンは両親が好きな淡い花柄にした。
ソファカバーは暖かみのある黄色へ変えた。
バルコニーには籐のロッキングチェアを二脚置き、その周りを観葉植物で囲んだ。
両親が引っ越してきた日、父は腰ほどの高さがあるモンステラの鉢を抱えていた。
母はキッチンで鯖を焼いている。
フライパンに菜箸が当たる音と、焼き魚の香りがリビングへ広がった。
鉢を置き終えた父は腰を叩きながら立ち上がり、窓辺へ行った。
しばらく白凪川を眺める。
「本当に川が見えるんだなあ」
キッチンから顔を出した。
「夜は向こう岸の明かりも見えるよ」
手を拭きながらリビングへ出る。
「これから二人ともここに住んで。主寝室使っていいから」
父がすぐに手を振った。
「何言ってるんだ。主寝室は紗季が使え」
「もう何年も使ったから飽きた。南側の小さい部屋がいいの。冬でも日当たりがすごくいいから」
母が焼いた鯖を持ってキッチンから出てきた。
その言葉を聞いた瞬間、足が止まる。
目元が赤くなった。
すぐ窓のほうへ顔を向け、景色を見ているふりをする。
しばらくして席につくと、何でもない顔で私の皿へ料理を取り分けた。
「家の話ばっかりしてないで食べなさい。魚、冷めるよ」
その夜は、南側の部屋で眠った。
窓をほんの少し開けると、白凪川から湿った夜風が入ってくる。
なかなか寝つけず、スマートフォンを手に取った。
最後に一度だけ、莉子のInstagramを開く。
四年間の投稿はすべて消えていた。
プロフィール画像も真っ黒になっている。
古い投稿に残ったコメントだけが、いくつか表示されていた。
『付き合ってた既婚者、離婚したんでしょ? 結局マンションももらえなかったって本当?』
莉子からの返事はなかった。
画面を閉じ、銀行アプリを開く。
圭介のもう一つの物件に関する精算金も、判決に従って入金されていた。
自分で働いて貯めたお金もある。
もう誰かに頼らなくても、両親と三人で十分暮らしていける。
何より、毎月あの三千万円の住宅ローン残高を気にする必要はない。
あの借金は、もう返し終えた。
結婚生活と一緒に。
翌年の春。
新しい人と付き合い始めた。
小野寺航。
会社へ異動してきたストラテジックプランニング部門の責任者で、私より二歳年下だ。
年下なのに、仕事も話し方も落ち着いている。
初めて両親へ挨拶に来た日は、母の好きな焼き菓子と、父の好物の栗羊羹を持ってきた。
部屋へ入ってすぐ、バルコニーのロッキングチェアへ目を留める。
「この椅子、いいですね」
キッチンの入口にもたれながら笑った。
「座ってみる? 揺れてると眠くなるよ」
航は本当に座った。
そして十分少しで、本当に眠った。
キッチンから出てきた母が、椅子で眠っている航を見て口元を押さえる。
父も隣で笑いながら、私に目配せした。
たぶん、この男なら悪くない。
そんな意味だったのだろう。
春の風がバルコニーから入り、新しいカーテンを柔らかく膨らませた。
眠っている航を見ていると、ずっと昔のことを思い出した。
初めてこのマンションのモデルルームを見に来た日。
私はバルコニーに立って圭介へ言った。
「ここにロッキングチェアを二つ置きたいな。一つはお父さんとお母さん用。もう一つは私」
圭介が笑いながら肩を抱いた。
「俺は?」
「床でいいんじゃない?」
今、バルコニーには本当に二脚のロッキングチェアがある。
一脚は母が使い、もう一脚には父が座っている。
私は小さな椅子を持ってきて、二人の間に座った。
三人で春の日差しを浴びる。
誰も何も言わなかった。
窓の向こうでは、白凪川がゆっくりと流れている。
対岸の建物が、午後の光を受けて淡い金色に染まっていた。
目を閉じた。
今はもう、何も考えなくてよかった。




