婚約破棄したら元婚約者が破産しました
ティターニア王国、王都アストレアには、由緒ある二つの貴族家があった。
一つは堅実な経営で知られるプレスコード伯爵家。
もう一つは華やかな社交界で名を馳せるパット侯爵家。
プレスコード伯爵令嬢サンドリーヌ・プレスコードとパット侯爵令息ドミニク・パットは、ごく幼い頃から婚約していた。
サンドリーヌはこの婚約にほとんど満足していた。家格のつり合いも取れるし、ドミニクは可もなく不可もなく凡庸で優しい性格だ。――少なくとも、数年前までは。
「ごめんよ、サンドリーヌ。昨日はオナーの具合が悪かったんだ」
サンドリーヌは笑顔を崩さずに紅茶を口へ運んだ。
「そうでしたの」
「彼女は体が弱いんだ。俺が側にいてあげなければ」
「そうですわね」
昨日のお茶会、婚約者同士の定期的な交流会をすっぽかした謝罪は、それで終わりだった。
オナー・オーブリー。
ドミニクの遠縁にあたる少女である。
遠くの土地に住んでいたが、商売に失敗し破産しかけてしまったため、パット家を頼って王都へやってきた家の娘だった。
儚げな美貌、銀髪に青い瞳。病弱で、催しに参加できないことも多い。いつもどこか悲しそうな顔をしている。
社交界の紳士たちは当然、彼女を守るべき可憐な存在だと思っていた。
そしてその筆頭がドミニクだった。
最初はサンドリーヌも同情していた。だが半年、一年、二年と続けば話は別である。
婚約者との約束を破る。舞踏会を欠席する。誕生日祝いを忘れる。
すべての理由が「オナーの体調不良」だった。「遠縁のパット家しか頼れないんだから、俺が面倒みないと」と言った。
家と家の話ならパット侯爵に任せておけばいい、わざわざドミニクが看病する意味はない。サンドリーヌはそう提言したこともある。
返ってきたのは、「きみは弱って苦しんでいるオナーをほったらかせというのか!? なんて冷酷な人なんだ!」という罵倒だった。
そのへんでサンドリーヌは色々と諦めた。
そして決定的な出来事が起こる。
その日はプレスコード家の親族が集まる重要なお茶会だった。地方からも親戚が来る。婚約者としてドミニクを紹介する予定だった。
しかし開始一時間前になって使者が現れた。
「オナー様が発熱されたため、本日は欠席されるとのことです」
さすがにこれはまずいと分かっているのだろう、パット家の侍従である彼の顔は青ざめている。
親族たちはざわめき、サンドリーヌさえさすがの微笑が凍った。
サンドリーヌの叔父が眉をひそめ、祖父が苛立たし気に机を叩く。
父が使者を伴って立ち去った。詳細を聞くつもりなのだ。
これは明らかに――パット侯爵家からプレスコード伯爵家への侮辱だった。
「またか」誰かが小さく呟いた。
「病弱な親戚のほうが婚約者より大事らしい」と誰かが笑った。
「気の毒なサンドリーヌ」
その言葉を聞いた瞬間、サンドリーヌの中で何かが切れた。
――もう十分だ。
父が戻ってくるのを待たず、サンドリーヌは静かに立ち上がった。
「皆様、お待たせして申し訳ありません。こうなっては仕方ありません。パット家との婚約は本日をもって解消いたします」
会場は騒然となったが、サンドリーヌの心は驚くほど穏やかだった。
これだけの証人がいる中で宣言した以上、もはや公的にも婚約破棄が確定したようなものである。
翌日。
ドミニクは怒鳴り込んできた。
「サンドリーヌ! どういうことだ、子供みたいに拗ねて色んな人に迷惑かけて!」
「どうもこうもありません。ああ、慰謝料の請求は正式な書面としてプレスコード家からパット家にお送りしますので」
「君は俺を支えるべき婚約者だろう!?」
「オナー様が支えてくださるのでは?」
ドミニクは顔を真っ赤にした。
「か弱いオナーのために必死になる俺のことを馬鹿にしてるのか!?」
「していませんわ。どうぞオナー様をお大事になさってください」
サンドリーヌは婚約指輪を侍女に持たせた銀の盆から取り、ドミニクに手渡して返した。
ドミニクは唇を噛んだが、なぜかすぐに勝ち誇った顔になった。
「ふん。後悔するなよ」
「いたしません」
「俺はオナーと結婚する!」
「そうですか」
サンドリーヌにとっては本当にどうでもよかった。
「いいのか!? 婚約じゃなくて結婚だぞ!?」
となぜか怒鳴りながらドミニクは帰っていった。
数か月後。ドミニクとオナーは正式に婚約し、すぐに結婚した。
社交界では美談として語られた。
「これぞ真実の愛だ、家の事情など関係ない愛」
「これこそ男ってもんだろう」
「病弱な令嬢を救ったのね。素敵だわ」
「オナー様はようやくお幸せになれるのねえ」
ドミニクは鼻高々にあらゆるパーティーにオナーを連れていく。病弱はどこにいったのだろう。
プレスコード家から正式な書状がきた。婚約破棄の慰謝料が正式に要求されたのだった。
「フンッ。もはやこんなことでしか俺の気を惹けないとは、サンドリーヌは哀れな女だなあ。なあオナー?」
「あはーん。オナーもそうだと思いますうン」
ドミニクがプレスコード家への慰謝料の小切手に景気よくサインするのを、オナーはじいっと黙ったまま見つめている。
その熱っぽい、粘っこい視線が意味するものを世間知らずのドミニクはまだ知らない。
さて、現実が追ってきた。
結婚式から一か月のち。
オナーの父親が侯爵邸を訪れた。
「実は住んでいる家が老朽化しておりまして」
元々、パット家のもう使っていない別宅を貸してやっていたのだった。
ドミニクは快く金を出し、新築の屋敷が建った。
「家族になるのですから当然です」
「さすがドミニク様ですわあ! オナー、嬉しい!」
オナーに首に齧りつかれ、ドミニクは鼻の下を伸ばす。
二か月後。
オナーの弟がやってきた。
「オベロン王国の魔法学院へ留学したいんです」
「もちろん支援しよう」
高額な学費を払ってやった。
さらに一か月後。今度は妹だった。
「美容術師に通いたいの」
「え?」
「お姉様の旦那様なら当然でしょう? あたしがみっともないカッコしてたらお姉様だって恥をかくわけだし」
ドミニクは困惑したが支払った。
しかし、それで終わらなかった。
伯父。叔母。従兄。従姉。
再従兄。再従姉。
親戚。親戚。親戚。次々と現れる。
「事業資金を」「借金返済を」「馬車を」「結婚資金を」「農地を」「治療費を」
ドミニクは頭を抱えた。
「いったい何人いるんだ!?」
執事が震える声で答えた。
「調査したところ……九十七名ほど」
「九十七!?」
ドミニクは叫んだ。遠縁も含めると百人近い。
しかも全員が貧しい。そして全員が口を揃える。
「オナーちゃんには昔から世話になった」
「家族だから助け合わないと」
「旦那なんだから当然だろう?」
オナーは最初こそ申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさい、ドミニク様……」
「いや、君は悪くない」
最初はそう言えた。
だが一年もすれば、オナーはすべてを当然と享受するようになった。
「ドミニク様は遠縁のパット家の当主だわ。ならうちの当主と言ってもいいのよ。つまり、あなたにはみんなに対する責任があるのよお!」
勝ち誇ったように宣言するオナーのお腹は膨らんでいる。
ドミニクは冷や汗をかいたが、もはや後戻りはできなかった。
二年後まで、侯爵家の資産はもった。
じりじりと少しずつ、財産は目減りしていった。
別荘売却。宝石売却。馬車売却。使用人削減。それでも足りない。
なぜなら親戚たちは際限なく増えるからだ。
「実は母の従兄の娘の夫の弟が――」
「知らん!」
ドミニクは絶叫した。しかしオナーは泣き出す。
「ひどい、ひどいっ、やっぱりドミニク様はあたしたちのことなんてどうでもいいのねえええええっ!」
「あ、いや……」
「ひどおおおおおおいわああああああああああああああああああああッ!! 病弱な身体を無理して跡取りを産んであげるのにいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいキイイイイイイイイイエエエエエエエエエエエエエ!!」
少しでも金を出し渋れば、「オナーちゃんの旦那なのに冷たい!」と言われ、悪者になるのはいつもドミニクだった。
「そ、それでも俺が侯爵になりさえすれば……きっと、父上が隠してる財産がもっとあるはずさ!」
だがある日。
パット侯爵は息子を呼び出した。
「お前、いくら使った?」
「少しだけですよ」
「少しで三億リルも消えるか!」
侯爵怒鳴ったあと、フラフラと座り込んでしまった。
彼は半隠居状態で、実務をドミニクに渡していた。渡してしまっていたのだ。
四十歳を過ぎてから生まれた自慢の可愛い一人息子が結婚し、これでもう大丈夫だろうと思っていた。産褥で亡くした妻の忘れ形見はそれほど可愛かったのだ。
ドミニクは青ざめた。少しずつ、少しずつ、……このくらいなら親戚の助け合いの範疇だから……と言いながら、彼はパット家を瘦せ細らせていたのだった。
さらに悪い知らせが続く。
弟の留学先から飲み代の請求書。
妹の美容術師から専属代の請求書。
叔父の事業失敗。従兄の借金。再従姉妹の博打で擦った分。
全部が侯爵家へ回ってきた。
「なぜだ! なぜ全部うちにくるんだあ!?」
「保証人になっておりますので」
執事の言葉にドミニクは半狂乱になって崩れ落ちた。
オナーが褒めてくれ、おっぱいを触らせてくれるのが嬉しくて、いつの間にか大量の書類へ署名していたのだ。
断るとオナーは泣きながら頼む。
「助けてあげたいんですうううう、あたしの家族なんだからあ」
ドミニクはその言葉に逆らえなかった。
二年後。
パット侯爵家は事実上の破綻状態となった。
銀行も融資を拒否。領地経営も赤字。ついに裁判所から通告が届く。
「破産手続き開始……」
ドミニクは通知を取り落としながら呆然とした。
豪華な執務室は空っぽだった。家具も絵画も売り払われた。
「どうしてこうなったんだ……?」
その時、オナーがやってきた。
「ドミニク様あ」
小さな息子の手を引いているが、その子の顔つきはいかにもぼんやりして、少なくとも家を建て直せるような才覚があるようには見えない。
「オナー……」
「実はご相談があってえ」
ドミニクは嫌な予感を覚えた。
「今度、母方の親戚がですね」
「まだいるのか!?」
「三十六名ほど。うちに住むんだってえ。賑やかになるわねえ」
ドミニクは白目をむいた。そのまま椅子から転げ落ちた。
「あ、それとお。今度の社交界に出るためのドレス、もう発注しちゃったから! うふふふ~~二千万リルよ。安いでしょ?」
数日後。
社交界をある噂が駆けまわっていた。
名門侯爵家の破産。しかも原因は親族への過剰支援。
人々は呆れた。
「愛は大事だが限度がある。ドミニク殿は博愛主義者だったのか?」
「それにしても百人近い親戚を養えるわけがない」
「平民なのに商売も出来ない親戚って……なら他に何ができるの?」
「百歩譲って平民は平民らしくつつましい生活をさせておけばいいものを……」
「平民には分不相応なお屋敷に住まわせていたんですってよ?」
「サンドリーヌ様が逃げて正解だった」
一方その頃。
サンドリーヌは別の人生を歩んでいた。
彼女は家業改革のため新しく商会を立ち上げ、領地の特産品を扱う経営で大成功していた。
家の財産ではない、自分で稼いだ金で作ったドレスを着たとき、彼女は感激に打ち震えたものだった。これが生きると言うこと。と思った。
新しい取引先との会食を終えた帰り道。夕暮れの王都を歩くサンドリーヌの隣には、一人の男性がいた。
ハワード・レイヴン侯爵令息。
誠実で穏やかな人柄から社交界でも評価の高い青年であり、現在のサンドリーヌの婚約者だった。
五男であるため相続がほとんどなく、婿入りしてくれる約束である。すでに婚約者披露のパーティーもすませた。
「今日は大成功でしたね」
ハワードが微笑む。
「ええ。想像以上の成果でしたわ」
「貴女の手腕ですよ、サンドリーヌ」
「そんなことはありません」
くすくす笑いながら、サンドリーヌの表情は柔らかかった。
かつての婚約では決して感じられなかった安心感がある。彼は彼女の話を聞いてくれる。努力を認めてくれる。そして何より、対等な相手として接してくれる。
――サンドリーヌは幸せだった。
穏やかに会話しながらゆっくり歩いていた時のこと。
路地の向こうから現れた男に、サンドリーヌは思わず足を止めた。
古びた上着。擦り切れた靴。ざんばらの髪。こけた頬のやつれた顔。
だが見間違えるはずがない。
ドミニク・パットだった。
かつて侯爵家の跡取りとして輝いていた青年は、見る影もなくなっていた。
ドミニクも二人に気付いた。そして固まる。
まずサンドリーヌを見る。
次に彼女と腕を組むハワードを見る。その顔から血の気が引いた。
「サンドリーヌ……」
「お久しぶりですわ」
サンドリーヌは静かに挨拶する。ハワードの腕を持つ手にきゅっと力をこめると、彼は状況を察したのか、そっとサンドリーヌに寄り添った。
威圧するでもなく、ただ守るように。
その自然な仕草にサンドリーヌはほっとした。
一方、ドミニクは何故かショックを受けた様子である。
かつて自分が立っていた場所にいる男。そして、自分には決してできなかった接し方をしている男。
やがてドミニクは言った。
「君は正しかった」
「何のことでしょう」
「俺は何も見えていなかった」
サンドリーヌは首を傾げた。
「そうかもしれませんね。でも……もう終わった話ですもの」
「たぶん、君を失った時が分岐点だったんだ。もう戻れない……」
するとサンドリーヌより先に、ハワードが呆れたように小さく息を吐いた。
サンドリーヌはハワードを見上げて微笑んだあと、ドミニクに向き直る。
「現状の原因を私たちに求めるのはやめてくださいませ。それに、仮に私たちが結婚していても、あなたはいずれ似たような状況に追い込まれていたことでしょう」
「え?」
「あなたはご自分の頭で考えるということをなさらないんですもの。――もっとも、それはかつての私も似たようなものでした」
父の言いなりになるのが正しいことだと思っていた。
引き合わされた婚約のことを深く考えもせずありがたがっていた、かつてのサンドリーヌ。
もし彼女があのまま貴族のお嬢様をしていたら、こうしてハワードと巡り合うこともできなかっただろう。
「誰かが可哀想だからという理由だけで全てを許すのも、全てを与え続けてやめないのも、愚かなことです」
ドミニクは何も言えないでいる。
「あなたはオナー様のためと言いながら、自分で判断することをやめていました。だから今の結果になったのです」
サンドリーヌとハワードは一礼した。
「それでは失礼します。……お元気で」
二人は並んで歩き出した。自然に腕を組みながら。
その背中を見送りながら、ドミニクはぼんやりと立ち尽くす。かつて婚約者だった女性は、もう自分の知らない未来を歩いている。隣には彼女を尊重し、支え合う婚約者がいる。
もしもあの時。自分がサンドリーヌの言葉に耳を傾けていたら。もしもあの時。婚約者を後回しにしなかったら。そんな後悔が胸をよぎる。
だが、その未来はもう存在しない。サンドリーヌは振り返らなかった。ハワードと共に、まっすぐ前だけを見て歩いていく。夕陽に照らされた二人の背中は、ドミニクには眩しすぎた。
彼はよろよろと家に帰った。すでに仕事は終わり、あとは帰宅するだけだったのだ。
帰りたくなくて、うろうろしていたから天罰が当たったのだ、と思った。
「アアアアアアアアアアアーーーーーー!! 帰ってきたあああああああああああ! あんたあああああああああッ、今度こそまともな就職決まったんでしょおおねええええええええエエエ!?」
玄関の扉を開けるなり、オナーの鋭い金切声がドミニクの耳をつんざいた。
パット家が破産宣告を受けたあと。
ドミニクはオナーを連れて王都を離れるつもりだったが、オナーが嫌がった。
「あたしのぼうやは王都で文化に触れさせて育てるのおおおおおおおッ!」
と言って聞かなかったのを受け入れたのは、やはり彼が自分の頭で考えなかったから、なのだろうか?
全部、自業自得なのか?
そうなんだろうなあ……。
「お、大黒柱のおかえりだ」
と、オナーの叔父だったか伯父だったか、の男が言った。
「稼いできたのかあ? 金出しな」
と、オナーの祖父が言った。
「あんたの稼ぎが少ないからみんな苦労してるんだよ!」
と、ドレスや家を買ってやったときはあんなに感謝していたオナーの母が叫んだ。
その小さな借家には、オナーとその親戚たち二十人余りが暮らしている。男もいたが、ドミニク以外は働いていない。働くにはかつての怪我が、持病が重たすぎ――病弱すぎるのだという。老若男女全員が。
そしてドミニクの今の仕事は、港湾の日雇い荷運び人足。
一日にもらえる駄賃では、二十人の大人を養いきれない。
「それよりおじさんたち、職業斡旋所には行ったのか? いい加減働いてくれよ……」
ドミニクがぽつりと呟くと、全員が彼を罵倒した。
甲斐性なし、没落貴族、お坊ちゃんの癖に、オナーを妊娠させておいて……。
その中には他ならぬドミニクの息子である幼児もいて、
「おとーちゃんのかいしょーなし、かいしょーなし」
と嬉しそうに手を叩いている。
本当ならパット侯爵家の時期跡取り息子だった子である。
だが、すでにパットという名前の家はない。領地もない。収入もない。
ドミニクには何もない。この小さな借家と、オナーとオナーの家族しか。
すでに食事は終わっていて、彼には薄い粥の余りしかなかった。
一度、逃げ出そうとしたときに取り囲まれて殴打され、折ったあばら骨が鈍く痛んだ。
オナーが耳元で絶叫し続けるので、もう何も考えられない。
近い将来、彼は死ぬだろう。
彼が死んだらオナーやオナーの家族は働き出すのだろうか?
それは誰にもわからない。




