第1章 第1話 ここなら残るらしい。
《 ピピッ... 》
カメラの電源が落ちる音が微かに聞こえた。
夜風に紛れそうなほど小さな音だった。
老人は肩を落とし、空を見上げたまま動かなくなった。
「壊れたんですか?」
老人は振り向いて小さく笑った。
「バッテリー切れだ」
河川敷には僕と老人しかいない。
「困るんですか?」
老人は少しだけ考えてから答えた。
「困るよ、今日はE-36の日だからな」
「E-36って?」
「36年に1度来る彗星だ。」
僕は空を見上げた。
「いつ来るんですか?」
「じきに来るよ」
「綺麗ですか?」
「綺麗だよ」
老人は迷わなかった。まだ見えてもいないのに。
「見たことはあるんですか?」
「あるよ。1度目は6歳の時に父と、2度目は42の時に妻と。」
「じゃあ、どうして困るんですか?」
「...これが最後だから」
老人は、聞かれたことにしか答えなかった。
だから僕は、この老人は僕と話すのが好きではないのだと思った。
けれど、分からないことはまだたくさんあった。
「どうしてですか?」
老人は空を見上げたまま言った。
「次に来る頃には114歳だ、私はそこまで長くない。」
「どうして写真を撮りたいんですか?」
「残したかったから。でも、もう残せない。」
「…これは?」
ベンチに置いてあった四角い通信機器を手に取る。
「それじゃ星は写らない」
僕はわからなかった。
「見えるのに写らないんですか?」
「見えるから写るとは限らない」
「そういうものなんですか?」
「そういうものだ」
僕にはまだ分からなかった。
けれど老人は納得しているようだった。
「それ、君にあげるよ」
「いいの?」
「私にはもう必要ない。」
僕は老人の顔を見た。少し寂しそうだった。
けれど、不思議と不幸そうには見えなかった。
その時だった。
「あ」
老人が小さく声を漏らした。
僕はつられて空を見上げる。
最初は分からなかった。
星がひとつ増えたように見えた。
けれど違う。
その星はゆっくりと夜空を横切っていた。
流れ星より遅く。飛行機より静かに。
まるで空そのものに傷がついたみたいだった。
老人は何も言わなかった。ただ空を見上げていた。
しばらくして老人が呟く。
「見られた」
その声は、少しだけ嬉しそうだった。
僕は手の中の通信機器を見た。そして空へ向ける。
画面の中には夜しかなかった。
僕は空を見る。彗星は見える。
画面を見る。何も見えない。
もう一度空を見る。
ーーやっぱり見える。
「見えているのに」
僕は呟いた。
老人は小さく笑う。
「だから言っただろう」
僕は通信機器を少し高く掲げた。
角度を変える。
それでも画面は真っ黒だった。
彗星はどこにも映らない。
「本当だ」
老人は頷いた。
「見えているから写るとは限らない」
僕はもう一度空を見上げた。
彗星は、E-36は確かにそこにあった。
老人は立ち上がった。
「そろそろ帰るよ」
僕は手の中の通信機器を見た。
「これは何をするものなんですか?」
老人は振り返った。
「色々だな。例えば話したり、調べたり、残したり。」
僕は画面を見つめた。
「残るんですか?」
「残るよ、少なくとも私よりは長くな。」
老人は手を振りながら河川敷を去っていく。
しばらくして見えなくなった。
僕は一人になった。
手の中の通信機器に目を戻す。
色々いじってみると、1つのアプリに目を惹かれた。
ーーー日記?
画面には何かを登録するための項目が並んでいた。
【名前】
《フィニクス・ルイン》
【プロフィール】
何を書けばいいのか分からなかった。
だから、今日聞いた言葉を書くことにした。
『ここなら残るらしい。』
空にはまだ、E-36が輝いていた。
僕の目と同じ「バッテン」の日記機能を使ってみることにした。




