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クリルひと粒、約束の味

作者: たんすい
掲載日:2025/09/23

 ◆◇ 【みどりと小さな世界】 ◆◇


 部屋を満たすのは、フィルターが水を吐き出す規則正しい音。


 かつて会社勤めをしていた頃に買った30センチのキューブ水槽が、息の詰まるようなこの部屋に、不思議と馴染んでいた。


 中でミドリフグが一匹、ゆらりと尾を振っている。


 俺はそいつに「みどり」と名付けた。

 そう呼ぶことで、自分がまだ誰かと繋がれる存在なのだと、確かめたかったのかもしれない。


 社会との繋がりが、ぷっつりと切れて久しい。

 色を失った世界で、どうしようもない無力感が俺をこの四角い部屋に縛り付けていた。


 また、けたたましい選挙カーが通り過ぎる。

 親の年金とアフィリエイトで食い繋ぐ身にとって、選挙も、景気も、遠い世界の出来事だ。


 だが、今日だけは違った。

 コンビニからの帰り道、駅前のロータリーで足を止めた俺の耳に、一つの声が突き刺さった。


「私は、敗れた人を見捨てません!」


 白いスーツに身を包んだ女性だった。

 額に汗を光らせ、声がかすれてもなお、祈るように叫び続けている。


「この街で、今日食べるものに困る人が一人でもいるのなら、私は絶対に見過ごしません!」


(……綺麗事だ。そんな都合のいい公約が守られるものか)


 心の中で毒づき、部屋に逃げ帰ると、スマートフォンの匿名掲示板に苛立ちをぶつける。

 指先で放った悪意は、あっけなく画面の向こうに溶けて消えた。


 なにをしても、胸の奥がざらつくだけだ。


 ふてくされてベッドに横たわる。何も思いつかないまま、目を閉じた。


 不意に、昼間聞いたあの必死な声が蘇る。

 脳裏に焼き付いた彼女の姿が、重い楔のように胸に食い込んでいた。


 心の奥で何かが音を立てて崩れ、そして、何かが静かに芽吹いていく。


「……死ぬ前に一度くらい、誰かを信じてみるか」


 水槽の向こうで揺れるみどりに、俺はそう、呟いた。


 ◆◇ 【約束を信じた日】 ◆◇


「みどり。俺、ちょっとだけ外に出てみる。……すぐ戻るから」


 みどりに誓いを立て、俺は何年かぶりにコンビニより遠い場所へ足を踏み出した。

 目を刺すような陽光の中、投票所へと向かう。


 名前はたしか……天野真里。そうだ、あの人の名前だ。

 震える手で、その名を投票用紙に刻み込んだ。


 だが、時はあまりに無情に流れた。

 父が病で倒れ、後を追うように母が逝った。


 満足な葬儀も出せない俺の代わりに、親族がすべてを取り仕切ってくれた。扉一枚を隔てた向こうで進む儀式の間、俺は部屋から一歩も出られなかった。


 帰り際、叔父が吐き捨てるように言った。

「いつまで魚なんかにかまけているんだ。働け」


 その言葉が、最後の繋がりさえも断ち切っていく。俺は水槽にすがるように語りかけた。


「みどり……。俺にはもう、お前しかいないんだ……」


 親の年金が途絶えれば、蓄えなどあっという間に消し飛んだ。


 炊飯器は埃をかぶり、冷蔵庫はとうにただの箱と化した。部屋に残された食糧は、みどりの餌である乾燥クリルだけ。

 ある夜、俺は吸い寄せられるようにそれを手に取った。


 指でひとつまみ、口へ運ぶ。塩辛く、粉っぽい。

 乾いた笑いがこぼれた。「……これが、クリルの味か」

 ――そうだ。これが、敗者の味だ。


「……見捨てないって言ったくせに。結局、嘘だったじゃないか」


 恨み言は吐息となって、静かな部屋に消える。

 俺は、懺悔するように呟いた。


「……ごめんな、みどり。お前の飯なのに……俺、これしかなくて……」


 言い終える前に、喉の奥から熱い塊がせり上がってきた。


「……っ、う……ああ……っ」


 抑えようとしても、獣のような嗚咽が漏れ出す。情けない。惨めだ。たった一人の家族の命まで奪って、俺は、なんてザマなんだ。

 肩を震わせ、声を殺して泣き続けた。水槽のガラスに映った自分の顔が、醜く歪んでいた。


 ◆◇ 【もう一度、届いた声】 ◆◇


 虚無だけが支配する部屋で、テレビの光だけが明滅していた。

 意味もなく流れる映像を眺めていると、ふいに画面が切り替わる。薄暗い部屋でうなだれる男の姿が、自分と重なって目を逸らせなかった。

 静かなナレーションが響く。


『ひとりで、抱え込んでいませんか?』


 画面に現れたのは、見覚えのある女性だった。

 あの駅前で叫んでいた、天野真里――今は市長としてカメラをまっすぐに見据え、あの時と同じ声で言った。


『この街で、今日食べるものに困る人が一人でもいるのなら、私は絶対に見捨てません!』


 その言葉が、胸に突き刺さる。

 忘れようとしていた約束が、今、テレビの中から再び届いたのだ。


 画面に「〇〇区役所・生活支援課」のテロップが浮かぶ。


『その悩み、お聞かせください』

『あなたの明日を、一緒に』


 テレビが次のCMを映し始めても、俺は動けなかった。

 水槽の中の小さな相棒に、最後の望みを託すように話しかける。


「これが最後だ。……本当に、最後だからな」


 ◆◇ 【自分で稼いだ金】 ◆◇


 翌日、俺は陽光の中を歩いていた。

 市役所の隅に立つ、手書きの案内板が目に入る。「生活支援課」。その端に、小さくこう書かれていた。


「市長の公約に基づき新設。生活にお困りの方は、どなたでもご相談ください」


 読み終えた瞬間、膝から力が抜けた。

 あのときの錆びついた一票が、こんなかたちで自分を救い上げようとしている――。


 呆然と佇んでいると、窓口の女性が優しい声で話しかけてきた。

「どうかされましたか? よろしければ、お話を伺いますよ」


 促されるままに椅子に座ると、彼女は続けた。

「まず、お名前からお伺いしてもよろしいですか?」

「……幸無さちなき。幸無 健太です」

 自分の名前を、何年ぶりに口にしただろうか。


 食事にも困っていることを途切れ途切れに告げると、女性は深く頷き、一つの提案をしてくれた。

「今日から働ける場所があります。緊急の支援ですので、日当も本日中にお支払いできます。もしよろしければ、今からご案内しますよ」

「こ、こんな俺でも、働けるんですか……?」

「はい、もちろんです。行きましょう」


 連れられて向かったのは、市役所近くのプレハブ作業場だった。製品のラベル貼りや、小さな部品の袋詰めといった、誰にでもできる軽作業を任された。


 指が震え、何度もラベルをずらしてしまう。だが、隣で黙々と作業していた初老の男性が、俺の肩をぽんと叩いた。

「大丈夫。最初はみんなそんなもんさ。慣れればすぐ出来るようになる」

 その無骨な優しさが、涙が出るほど嬉しかった。


 終業後、責任者から「今日の分だ。ご苦労さん」と手渡された封筒には、数枚の紙幣と硬貨が入っていた。ずしりとした、確かな重み。

(嬉しい……。これで飯が食える。みどりの餌も、買ってやれる)


 俺はまっすぐペットショップへ向かい、クリルを一番大きな袋で買った。

 アパートに駆け込むと、水槽の前で声を震わせた。


「みどり、見てくれ! 俺、働いてきたんだ! この手で稼いだ金で……お前にこれを、買ってきたんだ!」


 腹を空かせていたのか、みどりは水面まで寄ってきて、ぱくりとクリルに食いついた。

 そして、くるりと嬉しそうに身を翻し、ひれを大きく揺らす。

 その姿が、まるで俺を祝福してくれているようだった。


 ◆◇ 【約束の味とその代償】 ◆◇


 仕事から帰ったある夜、俺はいつものように水槽の前に座った。だがその表情は、重く曇っていた。


「なあ、みどり……。今日、職場で気になる噂を聞いたんだ。天野市長のことなんだが…」


 買ってきたばかりのクリルを指でつまみながら、静かに続ける。


「市長が進めた改革は、相当なもんだったらしい。長年の問題だった生活保護制度にメスを入れて、不正受給の防止や財源の再配分を断行したんだと。結果、受給者の数は半分近くまで減ったそうだ」


 俺は、指の上のクリルをじっと見つめる。


「その代わり、本当に支援が必要な人には、俺が世話になった『生活支援課』みたいな新しい受け皿が用意された、って話だ。あの一票が、間違いなく俺たちを助けてくれたんだよ」


 言葉を切り、少し間を置く。


「ただ……その改革の中に、一つだけ大きな争いを呼ぶ項目があった。『支援対象を、日本国籍保持者に限定する』ってな。それが、ものすごい反発を招いて……事件まで起きたそうだ」


 俺の声が、わずかに震えた。


「市長、区役所の階段から突き飛ばされたらしい。一時は意識不明の重体だったって……。ひどい話だと思わないか?」


 俺は、そっとクリルを水槽の中へ落としてやる。


「許せないよ……。あの人は、俺みたいな人間を見捨てないって約束を、命がけで守ってくれたんだ」


 握りしめた拳が、小さく震えた。怒りと悔しさが込み上げ、俺はもう一粒、クリルを口に放り込み、奥歯で噛み締めた。


「俺が味わった『約束の味』は、本物だった。でも、その味が誰かにとっては『排除の味』だったのかもしれない。正しいことをしようとした人間が、どうしてこんな目に遭わなきゃならないんだ。なあ、みどり」


 水槽の中のみどりは、ただ静かにクリルをついばむ。その姿を、俺は黙って見つめていた。


 ◆◇ 【ゆっくりと満たされていく】 ◆◇


 季節は移ろい、俺の生活は少しずつ、そして確実に変化していた。

 印刷所の軽作業にも慣れ、新しく紹介された公園清掃の仕事にも通うようになった。朝の光を浴びながら落ち葉を掃く時間は、ささやかな誇りと共に俺の心を穏やかに満たしていく。


 荒れ放題だった部屋は片付き、かつての主のように鎮座していたキューブ水槽は、いつも清潔に磨かれている。みどりは気持ちよさそうに泳ぎ回っていた。


 そんなある日の仕事帰り、駅前が騒がしいのに気づき足を止めた。人だかりの中に、見覚えのある姿があった。

 天野市長だ。

 松葉杖をつきながらも背筋を伸ばし、以前と変わらない力強い声で訴えている。


「私は、暴力には決して屈しません! この街で、誰ひとり見捨てないと誓ったあの日から、私の決意は何も変わっていません!」


 痛々しい姿のはずが、その顔は以前よりずっと力強く、輝いて見えた。

 あの人も、自分の足で立ち上がって、また戦っているんだ。

 胸の奥から熱いものがこみ上げ、俺は夢中で拍手を送っていた。そうだ、俺はもう孤独じゃない。この街の一員として、あの人を応援しよう。


 その帰り道、俺は自然とペットショップへ向かっていた。満たされた気持ちでいると、ふと、水槽で一匹きりのみどりのことが頭に浮かんだのだ。

「あいつ、一人で寂しくないだろうか」と。


 店の水槽で、一匹のミドリフグがこちらを見ている気がした。俺は決心し、店員に声をかけた。

「すみません。この子を、いただけますか」


 部屋に帰り、俺は少し照れくさそうに、新しいミドリフグが入った袋を水槽の前に掲げた。

「なあ、みどり。今日からお前に、新しい家族ができたぞ。この子はマリちゃん。一人じゃ寂しいだろうと思ってな。これからは二人で、仲良くするんだぞ」

 袋の中では、小さなミドリフグが戸惑うように揺れていた。


 部屋の真ん中には、やがて少し大きな新しい水槽が置かれた。中では、みどりとマリちゃんが、つかず離れず、ゆったりと泳いでいる。


 公園清掃の仕事は、今や俺にとって日常の一部だ。ある朝、落ち葉を掃いていると、ジョギング中の年配の男性が「いつもありがとう。おかげで気持ちよく走れますよ」と、深々と頭を下げてくれた。


 別の日には、ベビーカーを押した若い母親が、子どもに「ほら、きれいなお花だね。おじさんがいつもお掃除してくれてるんだよ」と語りかけているのが聞こえた。


 通学途中の小学生たちが「おはようございます!」と元気に挨拶してくることも増えた。最初は戸惑ったが、今では俺も自然に「おはよう」と返せる。


 誰に褒められる仕事ではない。だが、自分の手で綺麗になった花壇や、空になったゴミ箱を見るたび、胸の奥に小さな灯りがともるようだった。そしてその灯りは、誰かの言葉や笑顔によって、確かな温もりへと変わっていく。


 仕事から帰り、買ってきた弁当を食べる。そして、水槽の前に座り、二匹にクリルを与えながら語りかけるのが、俺の日課だった。

「ただいま、みどり、マリちゃん。今日も疲れたな。でも、お前たちの飯代は、ちゃんと稼いできたぞ」


 空腹に怯えることも、社会から見捨てられた絶望に苛まれることも、もうない。

 俺は自分の足で、この街に立っている。


 ◆◇ 【埋まらない隙間】 ◆◇


 だが、ある夜。

 いつものように水槽を眺めていた俺は、ふと気づいてしまった。


 部屋は、綺麗になった。

 水槽は、大きくなった。

 フグも、二匹に増えた。

 仕事も、金も手に入れた。


 ――なのに、なぜだろう。

 この満たされた部屋で、俺だけがぽつんと取り残されている。


 広い水槽の中、みどりとマリちゃんがじゃれ合うように寄り添って泳いでいる。その姿は、仲の良い恋人同士のようだった。

 その光景が、羨ましくて、妬ましい。そして無性に、寂しかった。

 満たされたはずの空間が、逆に己一人の孤独を際立たせていた。


 新しい「問題」が見つかった。

 ならば、行くべき場所は一つしかない。俺は、ごく自然にその結論へたどり着いた。


 数日後、俺は市役所の「生活支援課」の窓口へ、以前よりずっと落ち着いた足取りで向かっていた。出迎えてくれたのは、最初に俺を助けてくれた、あの女性職員だった。


「あら、幸無さん。お久しぶりです。お仕事、順調そうで何よりです」

 彼女の笑顔に、俺は小さく頷きを返す。

「はい。おかげさまで」


 椅子に腰かけ、俺はまっすぐに彼女の目を見た。

「仕事も安定し、部屋も広くなりました。それで、次のご相談なのですが…」

「はい、何でしょう?」


 俺は、ごく当たり前の事務手続きを確認する口調で、続けた。

「お嫁さんというのは、どちらで申し込めばよろしいのでしょうか?」


 時が、止まった。


 女性職員の顔から、業務用の笑顔がすっと消える。彼女は俺の言葉が理解できないというように数回まばたきをした。その目に浮かんだのは、恐怖や嘲笑ではなかった。マニュアルのどこにも答えのない問いを突きつけられ、ただ立ち尽くすしかない、深い無力感だった。

 彼女は、ようやく声を絞り出した。


「……幸無さん。それは……私どもの課では、どうすることもできない相談、なんです」


 俺は、その言葉が理解できなかった。

 なぜ?

 問題があればここへ来る。そうすれば解決策が見つかる。

 今まで、ずっとそうだったのに。


 俺は怒りも悲しみも見せなかった。

 ただ、世界のルールが突然変わってしまった子供のように、呆然と彼女の顔を見つめていた。


「……あ……。そ、そう、なんですか」


 それが、俺に言えるすべてだった。


 帰り道、頭は空っぽだった。

 自分の部屋に戻り、煌々と明かりが灯る水槽の前に、ただ立ち尽くす。みどりとマリちゃんが、心配そうにこちらを見上げている。

 ポケットの中のクリルの、硬い感触だけが現実だった。


 俺は、生きるために必要なすべてを手に入れたはずだった。

 しかし今、自分では決して埋めることのできない、巨大な虚無の存在に、初めて気づかされてしまったのだ。


 俺はもう腹は空かない。だが、決して満たされてはいない。

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