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第2話:荒野と飢えと、呪いの片鱗


どれくらい歩き続けたのか、もはや分からなかった。

夜の闇に紛れて王都の城壁を抜け、当てもなく西へ、西へと足を向けた。夜が白み始め、鳥のさえずりが聞こえ始めた頃、私はようやく足を止めた。

朝日が照らし出したのは、どこまでも続く荒野と、不規則に生える灌木ばかりの荒涼とした風景。そして、そんな風景の中に立つ、泥と埃にまみれた自分の姿だった。

一晩で、豪奢なパーティードレスは裾が裂け、夜露に濡れて薄汚れていた。繊細な刺繍は枝に引っかかってほつれ、もはや何の価値も示していない。手元には、追放される際に兵士から半ば投げつけられた、銀貨数枚が入った小さな革袋があるだけ。

「……これから、どうしろと」

虚ろな声が、乾いた唇から漏れた。

前世で過労死した時ですら、最後には病院のベッドがあった。しかし今、私には雨風をしのぐ屋根すらない。

ぐぅ、と情けない音が腹で鳴った。空腹。貴族として生きてきて、この感覚を明確に意識したのは初めてかもしれない。

生きなければ。

その思いだけが、かろうじて私を突き動かしていた。希望があるからではない。前世のように、ここで呆気なく死んでたまるかという、ただそれだけの意地だった。

革袋の銀貨は、街にたどり着くまで使えない。私はよろめきながら、食べられそうなものを探し始めた。アカデミーで学んだ薬草学の知識が、こんな形で役立つ日が来るとは。

しかし、知識と現実は違う。図鑑で見た草と、実際に土に生えている草の見分けは驚くほど難しく、そもそもこの荒れ地には、食べられるような植物はほとんど自生していなかった。

陽が高く昇る頃には、喉の渇きが限界に達していた。ぬかるみに溜まった泥水を、もう失うものなどない、と躊躇いなくすする。泥の味と生温い水が喉を通り過ぎる屈辱も、今は生きるための糧でしかなかった。

日が暮れ始めると、今度は寒さが容赦なく体力を奪う。火を起こす技術もなく、私は大きな岩陰で身体を丸めることしかできない。

飢えと寒さ、そして絶望。私の思考は、ゆっくりとその鋭さを失っていく。

(私は、何のために努力してきたんだろう……)

民のため。国のため。そんな大義は、今や遠い世界の響きでしかない。報われない努力。踏み躙られる善意。そんな前世からの教訓を、なぜまた繰り返してしまったのか。後悔と自己嫌悪が、闇の中で渦を巻いていた。

そんな日が、三日続いた。

もはや私が人間としての尊厳を保っているかは怪しかった。ただ生きるためだけに動く、獣のような存在になり果てていた。

体力の限界が近いことを感じながら、私は少しでも風を避けられそうな森の中へと足を踏み入れた。そこで少しでも食べられる木の実が見つかれば、という淡い期待を抱いて。

その時だった。

ガサッ、と背後で大きな物音がした。

振り返ると、そこにいたのは一匹の狼だった。痩せこけているが、その分、飢え切った目が爛々と輝いている。涎を垂らし、低い唸り声を上げながら、じりじりと私との距離を詰めてくる。

全身の血が凍りつくのを感じた。

(……死ぬ)

直感的にそう思った。今の私に、この獣から逃げる体力も、戦う力もない。

ああ、結局、私の人生はこうやって終わるのか。王城で華々しく断罪され、誰にも知られず、獣の腹の中で生涯を終える。なんとも、私らしい惨めな最期だ。

諦めが心を支配しかけた、その瞬間。

グルルゥッ!

狼が、牙を剥き出しにして、地面を蹴った。

そのスローモーションのような光景の中で、私の心の奥底から、抗いがたい叫びが湧き上がった。

(嫌だ!)

死にたくない。こんな場所で。こんな無様に。

まだ何も取り返していない。自分の人生を生きていない!

――生きる!

その強烈な意志に呼応するように、私の身体から淡い光の波紋が広がった。

それは、私が今まで誇りとしてきた支援魔法、【サンクチュアリ・フィールド】。

意図したわけではない。ただ、生きようとする本能が、私の魂に眠る最後の力を引きずり出したのだ。

光に触れた狼は、キャン!と悲鳴のような声を上げて急停止し、数歩後ずさった。その目に、先程までの飢えた光はなく、純粋な恐怖と混乱が浮かんでいる。私の放つ魔力のオーラが、獣の本能的な生存欲求を刺激したのだろう。

狼はしばらく私を威嚇していたが、やがて諦めたように背を向け、森の奥へと走り去っていった。

「はぁ……はぁっ……助かっ、た……?」

私はその場にへなへなと座り込んだ。生き延びた安堵感で、全身から力が抜けていく。

だが、その安堵は、次の瞬間に訪れた異変によって、根こそぎ吹き飛ばされることになる。

「……なんだ、これ……?」

突然、私の腹の底から、猛烈な飢餓感がせり上がってきたのだ。

おかしい。私はついさっきまで、空腹の限界を超えて、むしろ感覚が麻痺していたはずだ。なのに今、この身の内から湧き上がってくるのは、胃が焼け付くような、えぐるような、純粋で暴力的な「飢え」。

それだけではなかった。

(肉……血……もっと、もっとだ……!)

そんな、獣じみた渇望が、自分の思考であるかのように頭の中に響き渡る。まるで何日も、何週間も何も食べていないかのような、強烈な食欲。

それは、私、ルシアーナ・フォン・ヴァインベルクのものではない。

これは、間違いなく――さっきの狼が抱いていた感覚だ。

獲物を追い詰め、その喉笛に噛みつき、温かい血肉を貪りたいという、獰猛な衝動。

その、あまりにも生々しい感覚が、私の精神にダイレクトに流れ込んでくる。

「うっ……! ああ……!」

私は頭を抱えてうずくまった。この感覚は、魔法を使った直後から始まっている。私が放った光が、狼に触れた瞬間から。

まさか。

私の【サンクチュアリ・フィールド】は、ただ敵を怯えさせるだけの力だったのか? 違う、本質は味方の強化のはず。では、この感覚は一体……?

その時、脳裏に、アルフレッド王子の言葉が雷鳴のように蘇った。

『お前の力は、ただ周囲の人間の気力や活力を奪い取り……忌むべき『呪われた力』なのだ!』

まさか、「奪う」というのは、気力や活力だけではない……?

恐怖、焦り、そして今しがた体験した、この「飢え」や「渇望」。

もし、私の力が、相手の負の感情や苦痛を、自分の魂に吸収してしまうものだとしたら……。

全身から、ぶわりと冷たい汗が噴き出した。

王子が言った「呪い」という言葉が、今、現実の恐怖となって、私の喉元に突きつけられている。

もし、そうなら。

私は、この力を使うたびに、他人の苦しみを追体験し、その汚濁に精神を蝕まれていくというのか。

私は震える手で、自分の身体を抱きしめた。荒野の寒さとは質の違う、魂の芯から凍えさせるような恐怖が、私を支配し始めていた。



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