第16話:リーシャの涙
ゴードンに「お守りの盾」を渡してから、数日が経った。
彼がその盾を実際に装備することはなかったが、私への態度は以前よりも少しだけ和らいだように感じられた。相変わらず口は悪いものの、ぎこちない気遣いが垣間見える瞬間があった。ほんの少しの変化。だが、私にとっては大きな一歩だった。
私たちは、相変わらず素材採取の依頼を続けていた。穏やかで、刺激のない毎日。しかし、リーシャの心はまだ晴れないようだった。彼女は口数少なく、時折、遠い目をして何かを思い詰めている。
彼女が抱える、燃える村の悪夢。家族を失った悲しみ。
それに、私に何ができるだろうか。ゴードンのように、きっかけさえ掴めればいいのだが……。
そう思い悩んでいた矢先、その事件は起こった。
その日、私たちは街から少し離れた森で、薬草採取の依頼を終え、帰路についていた。日が傾き始めた頃、森を抜ける街道で、一つのキャラバンと遭遇した。
十数人の武装した男たちに囲まれた、いくつもの檻を積んだ荷馬車。檻の中には、様々な人種の、しかし皆一様に生気のない瞳をした人々が詰め込まれていた。
――奴隷商人だ。
この辺境では、決して珍しくない存在。冒険者ギルドも、街の衛兵も、彼らの存在を黙認している。下手に手を出せば、厄介なことになるだけだと誰もが知っているからだ。
「……ちっ、面倒なのに出くわしたな。ルシ、リーシャ、目を合わせるなよ」
ゴードンが、忌々しげに吐き捨てた。私もカインも、事を荒立てるつもりはなく、黙って彼らが通り過ぎるのを待つつもりだった。
しかし、リーシャだけが違った。
彼女は、その場に釘付けになったように立ち尽くしていた。その視線は、キャラバンの中央にある一つの檻に、真っ直ぐに注がれている。
檻の中には、怯えた表情の小さな子供がうずくまっていた。薄汚れてはいるが、僅かに尖った耳と、大きな瞳。彼女と同じ、エルフの血を引く子供だった。
「……あ……」
リーシャの唇から、か細い声が漏れる。
彼女の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。肩は小刻みに震え、瞳は恐怖と、そして過去の絶望に囚われていた。
悪夢で見た光景が、私の脳裏に蘇る。
燃え盛る村。幼い彼女。目の前で殺されていく、両親。
「おい、何をじろじろ見てやがる」
私たちの視線に気づいた奴隷商人たちが、柄の悪い笑みを浮かべてこちらに歩いてくる。
「こいつらも商品だ。手を出しゃ、どうなるか分かってんだろうな?」
威嚇するような言葉に、カインが一歩前に出ようとする。
しかし、その時だった。
「……っ!」
リーシャは、まるで悲鳴を押し殺すように息を呑むと、私たちに背を向けて、突然森の中へと走り出したのだ。
「おい、リーシャ!」
ゴードンが叫ぶが、彼女は振り返らない。木の間に吸い込まれるように、その姿はあっという間に見えなくなってしまった。
「カインさん、ゴードンさん、ここはお願いします!」
私は、二人にそう叫ぶと、ためらうことなくリーシャの後を追った。
奴隷商人たちが何かを喚いている声が背後で聞こえたが、今は構っていられない。
森の中を、がむしゃらに走る。木の枝が頬を掠り、足元の蔓に何度も足を取られそうになる。それでも、私は足を止めなかった。
彼女を、独りにしてはいけない。
ただ、その一心だった。
やがて、森の少し開けた場所で、彼女の姿を見つけた。
リーシャは、大きな木の根元にうずくまり、両手で顔を覆って泣いていた。その小さな背中は、拒絶しきれないほどの深い悲しみに、打ち震えていた。
私は静かに彼女の隣に腰を下ろす。何を言えばいいのか、言葉が見つからない。
しばらくの間、森には彼女の嗚咽だけが響いていた。
やがて、彼女は顔を覆ったまま、途切れ途切れに語り始めた。今まで、誰にも話したことのないであろう、彼女の魂の傷を。
「……昔、私の村が、あんな風に……人間に、襲われたの」
「……うん」
「金に目がくらんだ人間の手引きで……奴隷商人が、来た。父さんも、母さんも、私を庇って……目の前で……」
彼女の声が、絶望に掠れる。
「私が……私が、守ろうとしたから……みんな、死んだんだ……」
「……」
「だから、もう誰も守りたくない。守ろうとすると、また……みんな、いなくなっちゃうから……!」
涙と共に吐き出された、彼女の絶叫。
それは、彼女がずっと一人で抱え込んできた、あまりにも重い罪悪感だった。
私は、彼女の悲しみに、追放された時の自分の無力感を重ねていた。
守りたいものを守れない絶望。良かれと思ったことが、全て裏目に出る理不尽。
今はただ、彼女の隣で、その震える肩を抱きしめることしかできなかった。
空が、いつの間にか茜色に染まり始めていた。