10 本気の喧嘩
心配をかけたこと、こんなことになって巻き込んでしまったこと、いろいろな可能性が頭をよぎった。しかし、サカネの顔を見てサージは目を開いて固まった。十四年間ずっと一緒に育ってきた自分の片割れ。もう何も驚くことなんてないと思っていたのに。
サカネは、泣いていた。泣いている顔を見るのはいつ以来だろうか、母が死んだ時が最後だったと思う。普段泣くことなんてしない、そんなサカネがボロボロと大粒の涙をこぼしていたのだ。心配をかけてしまったことを謝ろうとしたが、今度は逆に怒った表情となる。
「母ちゃんに謝れ!」
「え」
「お前昔、母ちゃんに向かって幸せじゃないって言ったことあっただろう! アタシたちが何で生まれたのか知ってたから!」
「……」
「あのボケ親父と喧嘩ばっかりしてても、アタシたちに辛く当たったことなんて一度もなかったじゃないか! 憎い男の子供を憎んでたのに、なんでアタシたちを見捨て出て行かなかったと思ってるんだ! 」
目の前の姿が母と重なる。女性らしい格好をしたサカネは、母そっくりだ。たとえ貧しくても、母であっても、女は美しく着飾るものなんだ、といつも言っていた。たとえ周囲から冷たい目で見られても、自分で作った耳飾りを首飾り、腕輪は絶対に欠かさなかった。化粧も毎日していた。
母に叱られているかのような、そんな光景に見えてしまう。だからこそ胸の内に深くしまっておいた本心が湧き出てしまう。
「……そんなの、言ってくれなきゃわからない」
母は何か手伝おうとしても大丈夫だからと言って何もできなかった。お前の力は必要としてないと言われているようで悲しかった。
「僕は馬鹿だから、察することができなかったんだ!」
泣きながら叫んだ。あの日、母が泣きながら謝ってきた。だから図星をさされて泣いてしまったのだと思った。女性の気持ちも、母親の心情も、男である自分にはわからないと思っていた。
「わからないんだよ、母ちゃんはいつも何も言ってくれない! 全部自分で抱え込んで、困ってるなんて言ってくれなかった!」
「自分の子供にそんなこと言えるわけないでしょ!? 言われなくても何かすればよかっただけだ!」
「だからそれができなかったんだよ!」
二人は掴み合って殴り合って転げ回る。いつも喧嘩は口喧嘩だけではなく殴る蹴るの喧嘩だ。それでも、この年になってしまったらできないこともある。
「ふざけんな、手加減してるだろ!」
「当たり前だ! 本気でやったらお前の骨が折れるだろうが! もう僕の方が強いんだよ!」
サカネが馬乗りの状態でサージを殴りつけていた。本来であればサカネの方があっという間に負けているに決まっている。二次性徴をむかえれば、男も女も体の成長の仕方が分かれるからだ。
「本心を言わないのも、本気にならないのもお前の方だ! 母ちゃんと同じことしてるくせに母ちゃんを責めるな!」
渾身の力を込めて頭に拳骨を振り下ろした。サージは痛み顔を歪めるが、目の前のサカネも同じ顔している。殴った方の手が痛いからだ。喧嘩は、優位に立っている方も痛い。
「なんでアタシに何も言わなかったんだよ馬鹿野郎! 男とか女とか、大人とか子供とか変なもんで括るんじゃない! お前はサージで、アタシはサカネだ、それ以外あるか! 一人で何もできないなら二人で解決すればいいじゃないか!」
泣きながら、腹から声を出して叫んだ。本心を言わないのは、ずっと一緒にいるから言わなくても通じてしまうから。だがそんなのは子供の時だけだ。大人になればごちゃごちゃと色々と考えて隠し事も増える。
双子は普通のきょうだいとは違う。それでも一人の人間なのだから、何もかも自分と同じというわけではない。
「母ちゃんの魂に謝れ! 母ちゃんの魂が救われる手伝いをしやがれ! 今もどこかで母ちゃん泣いてるかもしれないだろ!!」
二人の喧嘩を周囲の大人たちは黙って見守っている。誰一人止めようとしない。これは二人にとって必要な喧嘩なのだ。女の子であるサカネも殴られて蹴られて噛み付かれて血も出ている。だが今の二人を止めるのは絶対にしてはいけない。仲直りのための喧嘩なのだから。
「……ごめん、母ちゃん。母ちゃんを傷つけるようなこと言って」
「それから、なに」
あの時できなかった会話。謝りたかった。でもそれ以上に言いたいことがあった。
「でもね母ちゃん。僕は母ちゃんをずっと助けたかった。大きくなったら三人であんなクソ親父見捨てて家を出てやろうって言いたかったんだ。でも母ちゃんが仕方なく俺たちを育ててるんじゃないかと思ったら、怖くて言えなかった! 嫌だって言われたらどうしようって! お前らと暮らすのなんて、嫌だって言われるのが……怖くて」
しゃくりあげながら大粒の涙をこぼして、サージは本心を話す。目の前のサカネにではない。仰向けの状態で寝転がっているので見つめるのは空だ。
死者の肉体は大地に眠り、魂は空へと昇る。人はどんな生まれや育ちであっても皆等しく神のもとに帰る。母がいつも寝る前に聞かせてくれていた話だ。
「ごめん母ちゃん。母ちゃんを信じなくて。傷つけて、ごめんなさい……」