18話
ぽつりと雨水が顔を濡らしたことで目が覚めました。
いえ、眠っていたわけではないのです。…ないのですが、ただ眠っていないだけというの方がおそらく正しいでしょう。
気が付けば私の意識はあの村での記憶に沈み、この道中も逃げなければという無意識で身体が動かしていたようです。
木の陰に座り込んでいることから雨宿りのつもりで入ったのかもしれません。
何も持たずに飛び出してきましたから、当然雨具もなく、今現在お尻を冷やしている泥を拭うタオルも何もありません。
「この雨は逃げ出した私への天罰でしょうか」
ここは村からどれほど離れているのでしょう。
元よりどこへ逃げるというのでしょうか。
このまま学び舎へと帰る?
まさかです、学長様にたてついたことも学び舎の者として行ったにも関わらず村をあんなことにしておいて、どうして学び舎に戻ることなんてできるでしょうか。
ではどこに?
私が帰れる所なんてあとは父のいる故郷くらいしか。
……こんな私を受け入れてくれるでしょうか。
幸い、この村は私の故郷から遠く離れています。私が何も言わなければただ都会での生活に耐えきれずに戻ってきた頼りない子でいられるでしょう。
そうすれば…!
「そんなの…いいわけないじゃない」
悔しくて悲しくて情けなくて。
一体どうすればよかったのかと後悔ばかりが心の中にわいて出ます。
ぽたりと暖かいものが手の甲におちました。
そうしたところで何も変わらないのに、何かを良くしたいのならそのために動かなければならないのに。
一度堰を切ったそれは簡単には止まってくれないようで。
わんわんと泣きました。
「何がいけなかったの!神様、私が何か悪いことをした!?どうすればよかったのよ!!人を助けたいと思って…助けようとすることの何が悪いのよ!!!!」
私にとって幸運だったのはここがあたりに人がいるようなところではない事でしょう。
誰の目を気にすることもなくみっともなく泣いて喚きました。
誰にも見せたくない心汚い姿。
誰にも聞かせられない神様や運命への呪いの言葉。
激情のままに全てを吐露したころ私はこれから何をするか決めることができました。
「……死のう」
ターレンさんに助けを求められた時にそれを請け負ったことが間違いだったとはやはり私は思えません。
自身の手に負えないかだなんてやってみなければ分からないのです。
このままだと死ぬというのに手を尽くさないなんてありえません。
だから私は人の命を救うものとして、いえ人の命を預かるものとして携わり、多くの命を失わせてしまったことの責任を果たしましょう。
それがせめてもの誠意です。
「意味ないよ」
それはもう驚きました。
森の中へと入ろうと道に背を向けたところに声を掛けられましたから。
「………」
不思議でした。
ほんの少し前にあれほど取り乱していたというのに。
もう終わりにしようと決心したからでしょうか。
どうしてここにだとか、意味が無いとはどういうことなのかとか、疑問は色々頭の中に浮かびました。
そうでなくともこの方に言いたいことなんてたくさんあります。
けれど……、
「ターレンさんは無事ですか?」
出た言葉は口汚い罵倒でも呪詛でもなく、あの村の事でした。
「生きてるよ。足が一本なくなったが命は助かる」
「それは良かったです。いや足がなくなったのなら良くはなかったんですかね」
まったく面白くないのにへらりと苦笑い。
ターレンさんの漁師という誇りを奪ったこの方を罵るべきなのでしょうか。
「もう分かりません、何もかも」
助かったのなら嬉しいはずなのに嬉しいとも思えません。
悲しいとも怒りともとも違う、この感情は何なのでしょう。
「今は出来ない。けれどいつか出来るようになることだ」
「え?」
「私たちは分からない事ばかりなのだよ。人が動くのは何故か、食べなければ死ぬのはどうしてなのか、今回の病にしてもね」
今回の病と学長様が上げた二つがどうして同じように扱われるのでしょう。
だってその二つは、
「当たり前の事じゃないですか」
「その通り、当たり前だ。だから疑問にさえ思わない」
いまいち理解していないことを察してでしょう。
学長様は私に見えるように顔の前で手を握ったり開いたりを繰り返します。
「例えばこの手を切り取り、失った足の部位に針と糸でつなぎ合わせれば、こんな風に動かせられると思うかい?」
「そんなこと……誰もやりません」
人はぬいぐるみではないのです。
千切れてしまったからと代わりの布と綿を用意して縫い合わせるのとは訳が違います。
……いいえ、これは例えばの話です。
仮に針と糸で繋げば動くようになるのでしょうか。
もしそうであるなら、
「例えばだよ、ちなみにやってみたが動かなかった」
ふと自身の足に手が伸びました。
学長様は微笑みそれを制されます。
「今まで誰もやらないからそんなことも分からない。私たちはもっとたくさんの事を知るべきだ。それこそあの足を切り落とさずに病から治す方法とかね」
「学長様はそんな方法があると思いますか」
「繰り返しになるが、今はない。けれどそのうち出来るようになる、必ず」
その言葉に迷いはなく、決まっていることのように断言されました。
えぇきっとそうなるのでしょう。学長様にはそう思わせてくれるだけの不思議な力があります。
『ちなみにやってみたが』
あの言葉は、つまりはそういうことなのでしょう。
疑問に思わない当り前を疑問として、なおかつそれを解き明かす。そもそもその何かを見つけることだって難しいのに、この学長様はそのうえで人が本来忌避してしまうことをやり遂げている。
「私も知りたいです、もっともっとたくさんの事を。そうしてたくさんの人を助けたい。私も学長様のようになれるでしょうか」
「なれるさ。だって君は鉈を取り出していたじゃないか」
あの時の悪夢、あとは振り下ろすだけというところで目が覚めたあの出来事。
もしそれが命を助けるために必要な行為だと知っていたなら最後までやり遂げられただろうか。
……できるだろう。ターレンさんのように本人の希望があれば話はまた変わってきますが。
考えてみればみるほど私の中には人に鉈を振り下ろす事自体に戸惑いはありませんでした。
その人自身を助ける為ではないとしたら?
いくら人のためになるとはいえ、知るために人を刻むのは人の道的にも法的にも踏み外しています。
私は……、
「大丈夫、好きにやればいい。人を助けることの命を救うことの何が悪い」
不安に駆られる私を学長様は優しく抱きしめてくれました。
伝わる体温がとても暖かくて心地よくて。
その言葉は何よりも私を受け入れてくれていて。
また涙が頬を濡らしました。
けれどそれはさっきと違い、安堵からあふれ出るもの。
この人についていきたい。この人とならきっと私は。
「――っひぐ。そういえば学長様はどうしてここに」
「そりゃ探しに来たんだよ君を。状況からの推察もあるが単純に運がよかったね、私かあるいは君が」




