15話
ほんの少し前に正面扉が開け放たれるまで全ての扉と窓が閉め切られていた教会内の空気は酷いものだった。
物質的な意味、雰囲気的な意味の両方においてだ。
吐瀉物と糞便と膿、それと一般的には病魔を払う効果があるという薬草の匂いが混ざり合った悪臭。
熱にうなされる声に呪詛を紡ぐ声、懺悔し許しを請う声。
患者に巻かれている包帯は御世辞にも清潔であるとは言い難く、何度も使い古されているであろうことは見て取れる。
床にはなぜか鋸が突き刺さった状態で立っており、まるで自分は持ち手が現れるのを待つ御伽話の聖剣だとでも言いたげな様子に少し興味が沸いた。
何の気なくその鋸を取ってみたが、別に変わった様子はなく使い古されたただの鋸だった。
「何をしているんですか!」
振り返ると修道服に身を包んだ女性がいた。
「数日前からここでお世話になっている娘の仲間だよ」
「それならその手のものはなんですか? あの子はいつもこの時間にはここで働いてくれています。今朝もここにいるかと思ったのですが……」
女は辺りを見回し、正面扉が開いていることに目を細めた。
「どうやらいないようですね。貴方、あの子の知人だというのなら彼女がどこにいるのかご存じなのではなくて?」
随分と気が立った様子の女を見て、学長は面倒そうに鼻を鳴らす。
この修道女も体調があまり良いとは言えない様子だった。
それは誓願を立て信仰に準じているためだけでないことは確かだろう。
「あの子が来てから病が治ったものは増えたかい?」
「話を逸らさないでいただきたい。率直に申し上げますと私は貴女を信用していません」
「あの子は村の入り口にいる私達の仲間に伝言を頼んだんだ、大丈夫すぐに戻ってくるよ。おそらくシスターが考えているような血なまぐさいことは何もない、この鋸だって綺麗なものでしょう」
学長は鋸の刃を見えやすいように掲げてみせた。
しかし修道女は凶器足り得る刃物の動向にしか目が行かず、とてもではないが刃に血が付いているかどうかなんて見る余裕なんてないようだ。
「とまあ、真実を述べたところでこの通り。あなたは不審者の言い分を丸呑みするほど愚かではないし、私は自身の証言の証拠など持ってはいないからね。
シスター、私が今あなたを信頼を得るのはとても難しい、不可能と言ってもいいだろう、少なくともあの子が戻ってくるまでは。だから私は貴方の信用が得られるまで動かないと約束しよう、ただ話を聞かせてもらえないか」
「話?」
「そうだ。どのような進行だったのか、死んだ奴は普段どんな奴でどんな死に方をしてどう処理したのか、治った奴はいたのか?あの子が来てから何か変わったのか、死ぬ人数は減ったかあるいは増えたかね?それとも無駄に生きる日数が増えただけだったかな? 何、あの子を待つまでの暇潰しとでも思ってさ」
人の不幸を暇潰しの話題だと楽しそうに笑う不審者に、修道女は眉を顰めた。
「あの子は自身も同じ病魔に冒される危険も顧みずに寝る間も惜しみ、自身の持てる知識と技術を惜しみなくここの人たちに奮っていました。もちろん、残念ながら神の身元に旅立ってしまった方もいるのは事実です。
しかし私はあの子の献身に敬意を持ちます。だからこそ、そのような物言いをする貴女を私は信用する訳にはまいりません」
「結構、ならばあの子を信じるといい。どちらにせよこんな地獄絵図を続けたいわけではないだろう? 知識も技術も足りない分は私が手を貸そう」
修道女が踵を返し奥の部屋へと入っていくと、学長は残念だと肩を竦めた。
必要以上に不審に思われている間は動くつもりない。それはこの部屋からいなくなったとしてもだ。
途中で邪魔をされても困るし、取り返しのつかないほどに信用を失うことも後々の事を考えると避けた方が効率が良い。
大人しく今いる患者の状態を見てとれるだけでも診ていくことにしようかと学長が思った矢先、修道女が椅子を持って戻ってきた。
「貴女を信用したわけではありません。でもそれは貴女の言葉になんでかんでも反発するというわけではありませんので」
「それはありがたいね。とりあえずこの鋸は本当にここで拾っただけなんだまずはそれを信じて欲しい」
修道女はそれから今回の事の初めから今までの事を話した。
聞いた話を纏めると始まりは一年の豊漁を願う祭の日、より正確にはその次の日だった。
村での祭りは奇祭というようなものでもなく酒や米、野菜、魚などといった供物を捧げ、昔はもっと格式ばったものだったという踊りを奉納し、最期は村人全員で酒盛りをするというこういった村であれば比較的にオーソドックスな形態のものだ。
最初に病魔に冒されたというのは一人の老人だった。その老人は恰幅がよく快活で、力も若者に負けないほど強くそしてとても大酒呑みな人物だったそうだ。
祭の夜にも人と呑み比べをし幾人も負かしたというその老人は、それでも次の日の朝には酒が残っている様子もなく漁に出ていつも変わらない調子で働いたそうだ。
問題が起こったのはその日の夜中、皆が寝静まったころだった。
「腹が痛い」
そう言って寝床から出た老人はその後も何度も何度も便所に向かっては水状の便と嘔吐を繰り返した。
便所と寝床を往復し、熱に魘され、食べることもままならなくなり、移動すらもできなくなるほど衰弱し最後には……。
「それが私の知る一番最初の被害者です」
「それから近しい人たちから広まってといった具合かな」
ええその通りですと、修道女は首肯する。
それから着々と病に臥せる人が増え、その老人の息子である若い男が医者を求め、ローラがやってきた。
ローラの治療や薬は一定の効果をもたらした。便の出る頻度を減らし、嘔吐を止め、熱を治めた。一部の人間は働けるようになるまで回復させることに成功した。
けれどまた漁に出始めると具合が悪くなる、ローラの治療と具合が悪くなるのを繰り返すこととなった。
ただ病を治めるため祈りを捧げるだけだった時よりは良くになったが、それを良しとはできないことが起こった。
ローラの治療を受けていた中でも比較的安定したものが急に容体が悪くなりそのまま長い眠りについた者が出た。
「……その病魔の手痛い反撃を抑えることが出来ず、今に至ります。私が話せるのはこのくらいです」
閉め切られた窓から差し込む日光がいつの間にか学長まで燦々と降り注ぐようになっていた。
学長は恨めしそうに窓の外を睨み。
「今年は随分と暑いね、夏はまだ先だろうに」
「そうですね、水不足にならなければいいのですが。あら、あれはローラさん。となるとあの方達がお連れ様ですか」
「お、来たね。さてそれじゃあ」
学長は椅子から立ち上がると大きく背伸びをして、
「治療を始めよう」




