うたかたの -壱
久しぶりに筆を執ります。
グレックフォード通り三番街路にある古惚けた戸建のアパートメント。
建ち並ぶ他のアパートメントと何ら遜色ない、ある程度の稼ぎがあるなら貴賤を問わずに賃貸できる物件のひとつ。ダークブラウンの扉には<5-8>と番地が刻印された金属板が打ち込まれ、家族名や個人を示すものは一切ない。
そんなアパートメントで物語は始まる。
―― 帝歴653年3月16日 ――
窓の外は雨。
春先とはいえ、この時期の雨はまだ冷たい。
アパートメントの暖炉には薪がくべられ、赤々とした炎が嬉々として飲み込んでいく。時折、小さく薪の爆ぜる音が雨音の中にアクセントのように交じる。
黒褐色で統一された内装に、調度品の類もその調和を崩すような物は置かれていない。中央にはソファとリビングテーブル、安楽椅子とサイドチェスト、壁際に来客用の椅子が数脚寄せられている。一見すると質素だが、値段を感じさせない落ち着いた雰囲気があった。
暖炉から奏でられる音に身を委ねるのは1人の青年。
安楽椅子に腰かけ、旧い革の装丁の書物を開いて目で追っている。
青年の名はカイン・F・クロスウェル。
歳は20代前半。180㎝と高身長だが、正装の上から判るほどに体の線が細い。顔立ちが中性的なことに加え、睫毛が長く、鼻梁の線も整っている。筋肉の有無はともかく、手足がすらりと長く、立ち居振る舞いから文官や学者といった識者然とした佇まいが窺えた。
「……」
変色したページ1枚が時間をかけゆっくりとめくられる。
カインの持つ書物は世に数冊しか現存しない稀覯本――約800年前に滅んだ【スヴェン王国】の王宮史書――である。当時一般に出回るような書物ではなかったため、現代の歴史研究者からすればまさに垂涎の逸品。競売に出されれば金貨100枚を最低相場とした激しい競合が始まるだろう。
だが、それだけではない。
カインの腰かけている安楽椅子脇のサイドチェストには、これまた古めかしい書物が幾冊も積み上げられていた。もし、この場に競売の主催者が同席すれば卒倒しただろう。何故なら歴史、医学、哲学、文学など、多岐に亘った各書物もまた稀覯本か、それに類する品だ。
これだけの蔵書を揃えるとならば、大陸列強の【ツヴェント帝国】における最高権力者、皇帝ミーティア・ロード・カスミ・ツヴェント・エルグランドを除けば幾人もいないだろう。
「……客人かい?」
カインのページをめくる手が不意に止まる。
いや、そもそも誰に向けての言葉なのか。リビングにはカインを除いて他の誰もいないというのに。
「――」
否、いた。
痩せ過ぎな肢体を濃紺のワンピースと白いエプロンを組み合わせたエプロンドレスに包む細身の女性。
格好は一般的なハウスメイドだが、顔の大半を漆黒のベールに隠しており、まるで喪中の貴婦人を連想させる。
「そう。なら案内して」
「――」
カインの言葉に小さく頷き、それに合わせた漆黒のベールの端が僅かに揺らぐ。
メイドの所作という疑問は当然残るが、雇用主のカインがそれを言及する様子は見られない。そして、カインが稀覯本のページを再びめくり始め――瞬き1つの間にメイドは煙のように消え失せていた。
最初から誰も存在していないと言われたら、思わず頷いてしてしまうほど音や空気の動きなど一切の揺らぎを感じ取れない。
ただ、メイドの佇んでいた場所には1枚の姿見鏡が冷たい光を反射しているのみ。
だから、
「――さて、どんな暇つぶしがきたのやら」
そんな呟きに答える者はいなかった。
短い文章で投稿していく予定です。
筆が遅いのでお待たせするかもしれません。