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一、突然の婚約破棄 一

 王子から宮殿の一室をたまわる。庶民はもちろん、貴族の子女からしても夢の中の夢。


 いま、満面の笑みを浮かべて映っている……正確には、椅子に座って肩から上が楕円形の鏡面の中に納まっている……十七歳の少女、チェザンヌこそが『赤いバラの間』の主だ。


 『赤いバラの間』は王国の第五王子、マギルスがいくつか持つ部屋の一つだった。そこには純金で作った、唐草模様風の縁取りをあしらった鏡があることで知られていた。


 宮殿は王都でももっとも大きな建物であり、日々の宴会や舞踏会や演劇に備えて農民から職人まで数千人の使用人を抱えている。いわばそれ自体が一つの街といえる。


 その中で、マギルスから得られた好意は格別な現実だ。


 チェザンヌは、ブルギータ伯爵令嬢として参加した二年前の宮廷舞踏会でマギルスに見初められた。それから現在まではマギルス王子の『ご学友』として宮殿で生活してきた。


「お嬢様、ひときわ輝かしいおぐしでございますわ」


 部屋ごとおつきになった若いメイドがチェザンヌの自尊心を盛りあげた。それが単なるお世辞でないのはチェザンヌ自身が意識している。


 磨きぬいたかのような白い肌の輪郭を、輝かしい金色の縦ロールが覆っている。つんと尖り気味の鼻と、桜色をした唇はこれまでにも数多の求婚者を招いていた。


 青い瞳をいろどる長く濃いまつ毛にいたっては、婚約が発表されたあとでさえ人づてに一本でいいから欲しいと真顔で頼む者もいる。受けいれたことはなく、丁重に断るのも最近の仕事の一つになっていた。


 襟元のネックレスは、細い銀の鎖に大粒のダイヤモンドをはめてある。ブルギータ伯爵家に代々伝わるものだ。


「そう? ありがとう」


 うきうきしながら答える伸びやかなアルトの声が、我ながら上ずっている。ネックレスから下はワインレッドのワンピースドレスが彼女を包んでいて、襟ぐりはあくまでつつましやかに。


 わざわざ胸元を下品に強調しなくとも、着こなしさえよければ豊かな胸と引き締まった腰が自然に目を引く。化粧も然り。


 それとわかりつつも、鏡に少しばかり顔を近づけないと自分の様子がよく見えない。


 つつましやかに控えるメイドの背後には、様々な背表紙でぎっしり埋められた本棚が床に据えてあった。恋愛小説から鍛冶屋の実用書まで、様々な書物が収まっている。そのすべてが、チェザンヌの頭の中に吸収されていた。代わりに目の具合が少々落ちたのはしかたない。


 マギルスはチェザンヌより一歳上の十八歳。これから兄王子達と共に本格的に国政にかかわる。


 この二年というもの、チェザンヌはマギルスを支えるべく様々な勉強も抜かりなく打ちこんできた。その労苦を思いだすにつけても、窓からちらっと差しだされる月明かりにさえ心がわきたつ。


 それにしても、さわやかな初夏の満月だ。今日を境に、晴れて公式の『婚約者』。あと十分ほどで迎えがくる。マギルスが宮殿で婚約者……すなわちチェザンヌ……を披露する晩餐会を兼ねたパーティーが始まるのだ。


 ドアがノックされ、チェザンヌは反射的に鏡から少し離れた場所にある壁かけ時計に目をやった。まだ五分ほど早い。


「はい」


 メイドが櫛をエプロンのポケットにしまい、部屋を横切ってからドアを開けた。


「スイシァ様……」


 メイドの慌てた口調に、チェザンヌは心の中で顔をしかめた。余り同席したい人間ではない。


 スイシァは、自分の母が王族の遠縁ということで、特別に宮殿で生活するのを許されている。


 それはまだしも、数週間前に自分の部屋が少し寒かったというだけでおつきのメイドを全裸にして氷詰めの箱に入れたことがある。十分ほどで解放したらしいが、それを隠すどころか面白おかしく他の令嬢に自慢して回るので少々人格の歪んだ人間だとチェザンヌは考えている。


「どいてちょうだい」


 メゾソプラノの声まで横柄だ。


「大変失礼致しました」


 恐縮しきった様子でメイドは戸口を譲り、スイシァはずかずか室内に踏みこんだ。しかも、二人の若い男性を従えて。宮殿では決して許されない無作法だ。


 そこで初めて、チェザンヌは椅子からたち上がった。身体の向きを変え、スイシァと男どもに対峙する。


 チェザンヌよりは、スイシァの方が少し背が高い。黒紫色のワンピースドレスは随所に真珠をちりばめてあった。青く長いストレートの髪に、細長く切れ上がった藤色の瞳はたしかに美しい。肌はチェザンヌほど白くも滑らかでもないが、比べるのは不公平だろう。


 うしろの男二人は、全くの無表情だ。黒づくめの上下に黒い蝶ネクタイで、丸腰ながら筋力は申し分なさそう。


「ご機嫌いかが、チェザンヌ嬢?」


 背丈もあってか、チェザンヌを見下しきった言いかたでスイシァは形ばかりの挨拶をした。


「ありがとうございます。麗しく……」

「さ、でていって下さいな」


 返事を待たず、スイシァは要件を述べた。


「は……はい? いまなんと……」

「あらあら、お耳が遠くおなりね。でていって下さいなと申しましたわ」

「な、何故でございますの?」

「ああごめんなさい。それを説明するのを忘れていましたわ」


 わざとらしく大仰に、スイシァは軽く両手を左右に伸ばしてお辞儀した。


「あなたはマギルス殿下から婚約を破棄されました。速やかに宮殿からでていくようにとの仰せです」

「そんな……」


 なにか、できの悪い芝居にむりやり参加させられているような現実感のなさだった。


「本来なら、そこの者ら二人がお話を伝えた上でお手伝いをします。今回は特別に、あなたと特に仲のよいわたくしが殿下にご無理を申しあげてこのように伝えたのです」

「……」


 恩ぎせがましい、などという筋合いですらない。そもそもスイシァと友人になった覚えは一つもない。


「そうそう。近く私、スイシァが殿下の新たな婚約者になりましたの」


 つまりはそれがいいたくてわざわざやってきたということだ。


「どうして……どうしてわたくしが……」


 何重もの衝撃に叩きのめされ、チェザンヌはやっとそれだけ口にした。


「親御様に尋ねられてはいかが? 私も、あえて危険をおかしてまであなたにお話を伝えていますのよ」


 だからそれ以上は要求するなといわんばかりだ。


「かしこまりました。殿下には、ご迷惑をおかけしてまことに申し訳ございませんとお伝え下されば幸いに存じます」


 スカートの両端をつまみ、チェザンヌは深々と頭を下げた。


「チェザンヌ様、宮殿の出入口までご案内致します」


 頭を下げたままのチェザンヌに、野太い男の呼びかけが重なった。そして、ハイヒールが絨毯を踏みしめていくかすかな音も。


 スイシァはチェザンヌの頭を踏みつけなどしなかったが、やっていることは結局それと同じだ。

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