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80.抗う一人の男

 馬車はゆっくりと街道を北へ北へと進んでいく。南側はイーライ、つまり反乱軍側の勢力下で魔力が払われた今、故郷へ戻っていくものがいた。そのためか、途中見かける村や町に人々の活気が戻り、街道ですれ違う人々に声援を送られたり、祈られたりした。

 しかし、そんなのも王都に近づけば近づくほどなくなった。

 馬車は半日という時間であっという間に王都が視認できるところまでやってきた。王都と言ってもただの黒い靄の塊だった。山の影がそこにあるようなもので、言われるまで気付かなかった。そんなだから、王都の街並みや中心にあるあんなに綺麗だった王城なんてまるで見えなかった。

 そして、馬が勝手に足を止めた。

 そこから先は行きたがらず、そこから歩くことになった。魔力に耐性のある兵士というのは反乱軍の兵士の十分の一ほどしかいなかった。

 これだけの数で王城までの道を切り開くというのだ。不安でならなかった。そして、手伝いたいと思ったが、彼らは俺たちのためにやるのだ。それは出来なかった。だから、俺はただ彼らの背中を見ているしかできなかった。




 玉座に一人の男が座っていた。

 年のころはまだ三十にも満たないが、酷くやつれていた。目はくぼみ、輝きを失っていた。綺麗だった金髪はくすみ、力なく顔にかかる。唇は紫で顔色は死人のように白く気味が悪い。

 肘掛に載せられた手は小刻みに震えていた。その手は血管が浮き出ており、骨に皮を貼り付けたようだった。着ている服や身に着けた装飾は豪華で、見るからに価値が高いと分かるが、その今にも死にそうな男が纏っているというだけで恐ろしいものへと成り果てた。

 玉座の間はその男しかいない。いや、他にも数人いるが、皆床に果てていた。

 王軍で高い地位を示す紋章が刻まれた鎧をまとう彼らは一つも怪我を負っていなかった。しかし、皆死んだように指一つ動かさなかった。彼らはすでに息絶えていた。男が触れたからだった。

 いつからか男は近づいただけで人を苦しめ、触れるとそのものを死に至らせた。それは男を耐え難い苦しみへと突き落とした。いつからこうなってしまったのだろう。いつから自分はこんな悪魔になってしまったのだろう。

 心の奥底からゾワゾワと悪寒が走るような言葉が浮かぶ。


 殺すのだ。廃せよ。忌むべき存在を根絶やしにするのだ。


 分からない。これは一体何を意味しているのだろうか。

 男は苦悩した。

男は最近眠っていることが多かった。いつからか眠気が襲い、つい意識を手放してしまう。しかし、周りのものに問うと自分は起きていて、さらに恐ろしいことを部下たちに命じていたのだ。

 自分は一体どうしてしまったのだろう。心を病んでしまったのか。しかし、すでに手遅れだった。誰かに相談しようにも近づいただけでそのものを苦しめてしまうのだ。紙に書いて伝えようとした。しかし手が震えて羽ペンすら握れなかった。

 誰でも良い。そのものを苦しめず、近寄りたい。命を奪わずに温もりを感じたい。

 誰か、自分に微笑みかけて欲しい。

 そんな小さな願いさえ、かなわなかった。

 ケイン、私はどうすれば良い。

 兄のように慕った男。腕が立ち、頭も良い。そして何より誰からも愛されていた男。その男はもういない。ある日気がつくとその男は死んでいた。あれだけ慕った男、その人を殺せと命じたのは自分だった。

 彼には娘がいた。彼の妻によく似たかわいらしい子だった。年がもっと近ければ自分の妻になっていたかもしれない。彼女にどう謝れば、どう償えというのだ。

 娘、私の娘はどこだ。

 眠くなることが頻繁になって、彼女を見かけなくなった。彼女だけではない。彼女の周りのもの、私の周りのものも、少しずつ、少しずつ、まるで砂山を周りから切り崩していくように。残ったのは一番高く、脆い塔。一つ風が吹いただけで崩れてしまうだろう。

 その男は動けなかった。

 もう何日も食べていないようだった。腹の辺りが締め付けるようにきりきり痛い。息をするたび、痛んだ。着ている服が、身に着けた飾りが枷のように重い。

 何より足が酷く震えていた。その足は骨ばかりで、筋肉なんてまるでなかった。何年も足を使っていないようだった。立ち上がろうにも腰が持ち上がらない。手で支えようにも手に力がこもらない。節くれのようになった関節が悲鳴を上げた。

 私は一体どうなってしまったのだろう。

 母より王位を受け継ぎ、この実り少なくも人々がささやかな幸せを喜ぶ小さな国をより栄えさせようと誓ったのに。これでは逆だ。私はこの国を壊している。こんなことは望んでいない。あの頃に戻りたい。

 護るのだ。この地を侵略者から。

 浮かぶ言葉につられてふつふつと怒りがこみ上げる。その言葉に対する怒りではない。自分のものではなく、全く別のものの怒りが自分を飲み込もうとしていた。自分を奪われるのが不快で何度も何度も抵抗した。うまく行くときもあるが、たいていは失敗する。

 けれど、今回は勝ったようだ。

 カラカラに喉が渇いているときに冷たい水を飲んだようにすっとその怒りが鎮まる。残ったのは勝利の喜びではなく虚脱感と倦怠感だった。いつまでも続かない。自分がよくわかっていた。

 このまま死んでしまうだろう。

 あの者たちのようにここで干からびるのだ。

 考えもしなかった死に様だが、今はそれが救いだった。

 今の自分を救うのは死しかないのだ。この誰にも近寄れない、触れられない、語れない苦痛、自分を見失う絶望感、誰もいない孤独。それらから解放されるにはそれしかない。

 このまま目を瞑ればそのまま神の元へと行ける気がした。神は私を受け入れてくれるだろうか。知らぬ間に起こしてしまった罪で私を拒むだろうか。私は何と罪深いのだろうか。死は一時の救いでしかなかった。けれど、神が私に許した最後の幸せなのかもしれない。

 男は顔を上げた。

 この耳が痛くなるほど静かな空間に一瞬だけ音がした。いや、一瞬ではない。だんだん近づいている。鎧を纏っているのだろうか、金属をかち合わせる音。歩いているのだろう、それは規則的だった。その音に紛れるように布のこすれる音。

 二つの足音。

 神の使者か。

 ついに私に迎えが来たか。

 希望に満ちた期待。しかし、玉座から伸びた赤絨毯の先にある唯一の出入り口に現れたのはとてもそうとは思えない二つの影。

 部屋全体に黒い靄がかかりその姿はしっかりと見えなかった。

 しかし、だんだんと近づいているその影は真っ直ぐ男の下へと向かっていた。

 やがて現れたのは二人の男。

 真黒い鎧を纏った男と色違いの鎧を纏った魔法兵。

 彼らは誰だ。


「陛下、反乱軍のものどもがこちらにやってきております」


 反乱軍…。

 その記号の意味に気付くまで時間がかかった。頭がうまく動かない。眠気がゆっくりと男を蝕み始めていた。


「兵を出しましょう。魔力の壁がございます。その壁を乗り越えられるものはごくわずか。すぐに片付けられます」


 しゃべっているのは手前の黒い鎧だけだった。後に控える魔法兵はただ顔をうつむかせていた。座っていたためにそのうつむかせている顔がちらりと見えた。

 その魔法兵の目は疲れ果てたように虚ろで、人形のようにその黒い鎧につきしたがっていた。

 彼らは一体何ものなのだ。

 疑問が尽きなかった。

 反乱軍がやってきているという。それは救いの言葉だった。黒い鎧はそれを撃退しようとしているらしいが、それを止めさせようと思った。気付かぬ間に犯した罪。それが今裁かれようとしているのだから。

 男は石膏のように固い口を押し開けた。紫色の唇から、声を漏らす。


「ああ、うう」


 それが限界だった。まともにしゃべられない。たった少しの声を漏らしただけなのにずっと力が要った。しゃべるのはこんなにも辛いことだったのか。

 しかし、男は伝えなくてはいけなかった。

 兵を出してはならないと。

 自分がこのまま死んでしまうと分かっていたが、誰かに殺されるのもまた良いのだ。誰かを、皆を苦しめて、恨まれて、だから反乱軍が結成された。そして、私は報いを受ける。

 因果応報だ。

 これが罰なのだ。さぁ、私の首を刎ねてくれ!

 男はカラカラに乾いた雑巾を絞るように、力をひねり出した。


「兵を…、兵を出すなっ」

「えっ?」


 黒い鎧は驚いた。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。しかし、男の命を護るらしく、不服そうだが


「分かりました」


 と答えた。

 そう、それでいい。

 ほっと安堵する。久しぶりに感じる安心。体の芯がホカホカと温かかった。

 しかし、黒い鎧は言った。


「しかし、陛下をお守りするのが我らの使命です。カルティスと共に城内にて彼らを待ちうけ、必ずや撃破してみせましょう」


 たちの悪い男だ。私がこんな有様をしていて護ると言うのだ。頭がいかれているに違いない。

 それを止めさせようとしたが、今度は力が出なかった。さっきの命令を出すのに力を使いすぎたようだ。情けない。こんな有様でまだ陛下と呼ばれる立場なのか。

 男が何も言わないので、黒い鎧は踵を返して立ち去った。その後に虚ろな魔法兵を従わせて。

 反乱軍というくらいなんだ。きっと一人や二人ではあるまい。

 しかし黒い鎧は言っていた。魔力の壁を乗り越えられるのはごくわずか、と。それがどれだけ強力なものかよく考えられなかったが、きっと反乱軍にとって厄介なものに違いない。ああ、本当に厄介だ。

 なぜ、私はこんなにも苦しめられるのか。

 知らぬ間に犯した罪のためか。それとも生まれ持った罪のためか。分からない。もう、どんな苦しみであろうとそれに死が含まれていないことだけが何となく分かった。

 そのとき一瞬だけ気に緩みが出た。

 その一瞬を狙って、凄まじい眠気が襲う。抗えない。あまりにも強烈で、耐え難い。

 そして男の意識は暗闇の中に放り込まれ、狂気がその体を乗っ取った。




 魔王はゆっくりと目を開く。そこは荒れ果てた玉座の間で、彼が決めた、勝ち残った勇者を討つ場所。

 その辺に薄汚い死体が転がっているのが残念だった。この綺麗な空間を汚しているし、何より腐りだしていて臭い。しかし、片付けなかった。片付けられなかったというべきか。

 人に頼んでやらせようと思ったが、もう誰も残っていなかった。二人の勇者にやらせようと思ったが、オルミオはこの城に残った唯一正気を保った男で他にいろいろやってもらいたい、カルティスはすでに自分の負に飲み込まれすでに使い物にならなかった。かといって自分でやるのは絶対に嫌なので、結局そのままなのだ。

 まぁ、この際どうでもいい。

 魔王は勇者を待っていた。

 五つの意思に選ばれた九人の勇者。その勝ち残りが今、魔王の元へと向かっている。

 まだ一人にはなっていないのが残念だったが、預言はまだ生きている。だから、まだ何かあるだろう。

 心がうずきだした。

 楽しいのだ。この状況が。待ち遠しい! もうすぐ、現れるのだ。我を討とうとする者が。どちらが上か、向かい合って剣を交えねば分からない。

 全身が震える。

 我をここまで焦らすとは何と愚かな!

 しかし、それすら頼もしい。

 魔王はその紫の唇から声を漏らす。


「クックックックックク」


 初めこそ引きつったような笑みだったが、次第に抑えきれずに大声で笑った。


「アッハハハハハハハハハ!」


 その声は玉座の間を越え、王城、王都まで響き渡った。

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