JKと猫
「ねえ、あんた今、ユウイチさんの事考えてたでしょ?」
眺めていると自分まで霞んでいきそうになるぐらいに青い空を見て、ぼおっとしているユキに、隣で座っていたクルミが声を掛けた。
「え、ん?なんて?」ユキがクルミの顔をきょとんと見つめる。
「なんでもなあい。」
クルミは両手を頭上に突き上げると、そのまま一面に広がる芝生に身を預けた。
「クルミ、それ年頃の女の子がする格好じゃないよ。お腹出てるし。」
両手両足を放り出して寝そべるクルミにユキが言う。
「うるさいなあ。」
何とも言えない静かな時間が風と共に流れた。いつもと変わらず今日も平和で、そして暇だ。気付けばユキはまた果てしなく真っ青な空を瞳に映して、一人の男性の事を考えていた。
「まあたユウイチの事考えてる。」
間髪入れずクルミが言う。
「え、いや、そんな事ないって。」
今度はユキの耳にも届いたらしく、彼女はビクッとしてクルミを見た。
「あんたさあ、ユウイチの事はもう諦めなよ。」
クルミは寝そべったままユキに顔だけを向けて言う。
「なんで?」
ユキは澄まし顔で尋ねる。
「何でって・・・、ユウイチはあんたの事、そういう目で見てないんだって。」
クルミは気だるげな眼を青い空に向けて言った。また静かな時間が風と一緒に流れた。今度の沈黙はさっきより少しだけ重たかった。
「私、この前ユウイチさんに告ったんだ。」
ユキがぽつりと言った。クルミは雲一つない空から雨粒でも落ちてきたのかと思って、さっとユキの方を見る。
「マ?」
「うん。」
「それで、ユウイチはなんて?」
「今日もユキは可愛いなって。」
「何よそれ。」
「それから・・・」
「それから?」
クルミは神妙な顔つきで尋ねる。
「頭撫でられた。」
嬉し恥ずかしそうに言うユキを見てクルミは呆れた顔をする。
「あんたそれ真面目に相手にされてないから。」
ユキとクルミの間にさらに重たい沈黙が流れる。今度は重すぎて風すら吹かなかった。
「分かってるけど・・・」
ユキが口を開く。
「でも私がユウイチさんの事好きで何が悪いの?別に誰にも迷惑かけてないし。」
クルミは再び気だるげに空を仰いだ。
「うちが言いたいのはそういう事じゃなくって・・・」
そこまで言うとクルミは体を起こしてユキと目を合わせた。
「あんたにはもっといい男がいるって事。あんたはうちと違ってスタイルいいし、綺麗だし、眼だってぱっちりしててかわいいんだから、とっとと他の男捕まえてユウイチの事諦めなさいよ。」
クルミがそう言うと今度はユキが神妙な顔をして黙り込んだ。それからクルミと目を合わせて明るいトーンで言った。
「大丈夫だよ、クルミちゃん。ぽっちゃり系も一部の男子からは人気らしいから!」
「やかましいわ!」
最近太り気味のクルミはユキの脳天にチョップを下した。
「ただいまあ。」
よく通る低い声がしたのでユキは玄関の方へ一目散に駆けて行った。ユキの後にクルミが続く。扉の前にはユウイチの姿があった。
「おかえりなさい!」
ユキとクルミは声を揃えて言った。ユウイチは笑顔でただいま、と再び言う。
ユキとクルミと、それからユウイチは訳あって同じ家で暮らしていた。ユウイチは二十五歳で大手証券会社に勤めるエリートだ。おまけにかなりイケメンな上、いつも優しく接してくれるので、ユキはすぐにユウイチの事が好きになった。もちろんクルミもユウイチの事が大好きなのだが、クルミの好きとユキの好きはちょっと違う。
ユウイチは仕事終わりで疲れているのに、自分たちのために夕飯を用意してくれた。肩を並べてご飯を食べるユキとクルミにユウイチは笑顔で、
「おいしいかい?」と尋ねる。
「おいしい!」
「微妙。」
低い声で言うクルミをユキは睨む。
「そっか、そっか、そりゃ良かったよ。」
クルミが文句を言うのはいつもの事なのでユウイチはニコニコしながらスルーしている。ユキはそんなユウイチの笑顔に見惚れた。なんて素敵な笑顔なんだろう。
「どうしたの?」
ユキの視線に気づいたユウイチが彼女に声を掛ける。
「えっと、ううん、何でもない。」
ユキは慌てて自分の皿に目を落とした。とりあえず今日はあの笑顔を見られただけで幸せだ。
「ユキー!朝だよー。今日もいい波乗ってんねー。」
「うん、おはよ。なんで朝からそんなにテンション高いの?」
眠気の残るユキはあくびをしてから高揚気味なクルミに尋ねる。するとクルミはにやにやしながら、
「うち今日好きピとデートなの。」
と答える。
「マ?クルミちゃんこの間彼氏と別れたばっかりじゃん。もう新しい恋始まっちゃってるわけ?」
「へへ、命短し恋せよ乙女ってね。てことでうち今日一日留守にするからよろ。」
得意げにそう言うクルミにユキは体を伸ばしながら冷たい視線を送った。それから、
「りぃ。」
と低い声で返事をする。そして家の裏口から出て行くクルミを少し羨ましい気持ちで見送った。ああ、自分もクルミのように気軽に恋が出来たらいいのに。
クルミが居ないとなると途端に一日が暇になる。ユウイチが家に居てくれたらいいのだが、彼はさっさと出勤してしまう。もちろん朝食は用意してくれるし、声も掛けてはくれるのだが、出勤前のユウイチはどことなく不機嫌である。ただし、ユキにとっては腐ってもユウイチなので、少し不機嫌そうな顔つきでさえもカッコよく見えるのだった。
誰もいない家でユキは独りで過ごした。ユキはこういう時間が歯痒かった。どうせ特に意味のない短い一生なのだから一分一秒でも長くユウイチと一緒に居たかった。退屈さに耐えられず裏口から家を出た。家の周辺をぶらぶら歩き、クルミとよく一緒に訪れる公園に立ち寄った。芝生でぼおっとしながら妄想を膨らませ、午後の眠い時間を過ごした。
ユキが目を覚ますと、辺りはすっかり暗くなっていた。いけない、早く帰らないとユウイチさんが心配してしまう。ユキは体を起こして大きくあくびをし、それから伸びをした。
その時だった。ユキは暗闇の中に不穏な気配を感じ取り、辺りを見回した。遠くの茂みから、黒い影がじっとこちらに怪しい視線送っている。ユキは怖くなってその場から逃げ去ろうとした。だが黒い影は一定の距離を保ったままユキの後を延々と付いてくる。ユキは恐る恐る振り返り、その姿を見た。公園の街灯に照らしだされていたのは明らかにいやらしい目をした大柄な男だった。ユキの心に更なる恐怖心こみ上げてくる。逃げないと。ユキは全力で走り出す。早く、ユウイチさんの元へ帰らないと!背後から怪しい気配が音もなく近づいて来る。ユキは等間隔に備え付けられた街灯の光だけを頼りに闇の中をひたすら走った。
嫌だ、助けて!ユウイチさん!ユキは公園を抜け、街明かりが照らす大通りへと飛び出た。息を切らしながら背後を振り返る。男の姿は見えないが、すぐ近くまで迫ってきているような気がした。再び走り出そうとユキが踵を返す。
「ユキ!」
私服姿のユウイチが驚きと共にほっとした表情を浮かべてこっちを見ている。ああ、ユウイチさんだ。私の事を心配して探しに来てくれたんだ!ユキは心を喜びで満たし、ユウイチの元へと駆け出した。その瞬間、ユウイチの表情が一変する。
「駄目だ、ユキ!来るんじゃない!」
ユキが次に耳にしたのは、怒鳴りつけるようなクラクションの音と、耳をつんざく急ブレーキの音だった。ユキは何が起こったのか分からず、小さく身を屈めていた。恐る恐る顔を上げると、目が眩むようなヘッドライトの光がユキの顔を照らしていた。ユキの目と鼻の先で、巨大な牡牛のような黒色のヴェルファイアが唸りを上げている。運転席の女性は焦りと怒りと安堵が入り混じったような複雑な表情を浮かべていた。危なかった。危うくただでさえ短い自分の命をここで終わらせるところだった。
「ユキ!」
ユウイチの裏返りそうな声でユキは我に返った。再び恐怖心がぶり返してきて、一刻も早くユウイチの元へ走っていきたい衝動に駆られた。ユキは焦る気持ちを押さえて対向車を確認してから、ユウイチの元へと駆け出した。
「ユキ、良かった。本当に無事で良かった。」
ユウイチはユキの事を優しく、力強く抱きしめた。ユウイチの温かさがユキに伝わってきて、本当にユウイチは自分の事を心配してくれていたのだとユキは感じた。幸福と安堵が身に染みてきて、さっきまでの恐怖心を拭い去ってくれた。あんなに怖いことがあったのに、今は幸せだ。ユウイチさんの腕に抱かれて、私はとても幸せだ。
「何よ、帰って来てからずーっとにやにやしちゃって。」
クルミは棘のある口調でそう言った。ユキが事情を説明してもクルミはふうんと言って、なおも責めるような目でユキを見ていた。
「なんでそんなにおこなの?私なんかした?それとも例の彼となんかあった?」
ユキの質問にクルミは鬼の形相をつくる。
「なんでうちが怒ってるかって?それ本気で聞いてるわけ?じゃあ教えてあげるわよ。あんたが暗くなってもちっとも帰って来やしないからよ。それで何?変な男に追い回されたあげく、車に撥ねられそうになりましたですって?ふざけんじゃないわよ!うちとユウイチさんがどんだけ心配したか分かってるわけ?それなのにあんたときたら、帰って来てからずーーーっとにやにやしちゃって。あんたなんていっそのこと車に撥ねられちまえば良かったのよ!」
クルミの剣幕にユキはたじろいだ。ユキとクルミの間に百均で買ってきたダンベルほどの重さの沈黙が流れる。
「・・・・ごめんなさい。」
とユキ。
「・・・・心配した。」
とクルミ。それからユキとクルミはなきながら抱き合った。
「ばかあ、ユキのばかあ、無事でよかったあ。」
「ごめんね、クルミちゃん、ごめんね。」
「うちらBBFなんだから、勝手に死ぬんじゃねえぞコノヤロー。」
「うん、マジBBFだよお。」
そこでユキは真顔に戻って、
「ところで例の好きピとはどうなったの?」
と尋ねる。クルミも真顔に戻り、
「それ聞いちゃう?」
と声を潜めて聞き返す。
「聞いちゃう。」
ユキもつられて声を潜める。
「ワンチャン付き合えるかも!」
クルミは声を大にして言う。
「マ?」
ユキも大きな声を出す。夢と理想に満ちた女子トークはその後も続いた。そうして夜は更けていった。
「ねえ聞いてクルミちゃん。」
ユキは最近新調された冬物のカーペットの上で寝ころびながら、隣で横になるクルミに声を掛けた。
「えー、なになに?」
クルミが顔をこちらに向けて尋ねる。
「ユウイチさん、最近なんかずっとスマホ気にしてる。」
「ふーん、それで?」
クルミはカーペットの上で丸っこい体をゴロゴロさせながらユキに尋ねた。さすが食欲の秋というべきか、クルミが日に日に太っていくことをユキはひそかに感じていた。
「だから、その、女の人と連絡取ってるのかなって・・・。」
「まあ、男が女と連絡取り合うのは森羅万象の理だからねえ。」
クルミは高くてのっぺりした天井を仰ぎ見ながら言った。
「何それイミフ。」
「別に珍しくもなんともないって事。ユウイチはイケメンだから、彼女でもできたんじゃない?」
「え・・・。」
ユキはまるで世界の滅亡を自分だけに告知されたかのような声を出した。
「なんて顔してんのよ。冗談だって冗談。」
ユキはクルミを励ますように明るいトーンで言ったが、ユキは体をうつ伏せにすると、両腕に顎を乗せ、はあと深いため息をついた。
「何乙女のようなため息ついてんのよ。」
ユキはクルミのその言葉には何も応えなかった。クルミは体を起こすと真面目な顔をしてユキに問い掛ける。
「ねえユキ、もしユウイチに彼女が居たらあんたどうすんのよ?」
短くて少し重たい沈黙が部屋の中を包む。
「分かんない。」
その日、ユウイチは帰宅した後、ご飯を食べ、缶ビールを飲みながらテレビを見ていたが、どうにも心ここにあらずと言う感じでスマホをちらちらと気にしているようだった。
そんなユウイチの姿をソファに座って一緒にテレビを見ていたユキはちらちらと気にし、またそんなユキの様子をカーペットで横になるクルミがちらちらと気にしていたので、結局のところテレビでやっているクイズ番組をだれも真剣には見ていなかった。
クイズ番組が終わりに差し掛かり、今まさにクイズ王が決定しようという時には、ユキは知らず知らずのうちに睡魔に襲われ、こっくりこっくりしていた。
気づくとユキは木立の中に居た。辺りは薄暗く、怪しげな空気が漂っている。いつの間に屋外に出たのだろうか。何かの気配を感じ、ユキは木立の影に身を潜めた。誰か居る。ユキは木立の間からそっと様子を窺った。そこはユキがクルミとよく一緒に訪れる公園の芝生だった。先日、ユキが怪しげな男に遭遇した場所と全く同じところだ。ユキは芝生に横たわる人影に目を凝らした。そこでユキははっとする。青白い月明かりと街灯の光に照らし出されたその男は、ユキが思いを寄せる人物に間違いなかった。
ユウイチさん・・・!ユキは声を上げようとしたが、なぜだかそれは喉の奥の方につっかえて出てこようとしない。ふと見るとユウイチは上体を起こしていた。辺りをきょろきょろと見回し、そしてユキの方に目を据えた。ユキはユウイチに見つけてもらえた事が嬉しくて、木立の中から出て行こうとした。
だが、その瞬間足を止めた。ユウイチの様子がおかしい。確かにあれはユキが思いを寄せる人物だ。だが、彼は今ユキを、ユキの姿を見て未だかつて彼女に向けたことのない感情をぶつけていた。ユウイチの綺麗で整った顔は恐怖に引きつり、その目には明らかに警戒の色を浮かべている。額には冷や汗をかいていた。
ユウイチさん、私だよ。ユキだよ。ユキは必死で声を出そうとするが、声帯がごっそり持ち去られてしまったみたいに全く声を発することが出来なかった。ユキがユウイチに近づこうと一歩踏み出した瞬間だった。彼はユキから逃げるように走り出した。待って!ユウイチさん、どうして私から逃げようとするの?ユキは全速力でユウイチの背中を追う。
自分の荒い息遣いを聞きながら、等間隔に設置された街灯の光と月明かりを頼りに闇の中を駆けた。だがどれだけ必死で走っても、ユウイチの背中は近づくこともなく、かといって離れることもなく一定の距離を保ったままだった。やがてユウイチは公園を抜けて大通りへと出て行った。ユキもその後を追う。するとユウイチが振り返り、ユキと目を合わせる。その目にはやはり恐怖の色が浮かび、何とかユキから逃れようという思いがひしひしと伝わってくる。ユウイチが踵を返し、また走り出そうとした。嫌な予感がする。
待って!ユウイチさん!ユキが声にならない叫びを上げる。お願い!待って!その先に行っちゃだめ!次の瞬間ユキは戦慄した。案の定、車道へと飛び出していったユウイチは、視界の外から突っ込んできた巨大な牡牛のような黒いヴェルファイアに撥ねられ、体を高く吹っ飛ばされた。ユウイチの体が硬いコンクリートの上にたたきつけられる音を聞く前に、ユキは夢から目覚めた。
ユキはソファの上にうずくまっていた。体の上には薄い毛布が一枚掛けられていた。ユキが風邪をひかないようにとユウイチが掛けてくれたものだろう。部屋は暗く、しんと静まり返っていて、時計が秒針を刻む音だけがやけに大きく響いている。ユキは先ほど見た夢が頭に蘇り、思わず身震いした。ユウイチさんは何処だろうか。言葉に出来ない不安が部屋の隅っこの暗闇から自分に向かって迫ってくる気がして、ユキは辺りを見回し、立ち上がって部屋の中を行ったり来たりした。それから意を決してユウイチの部屋へと静かに近づいた。部屋の扉は少しだけ開いていた。隙間からそっと中を覗く。ユウイチは暗い部屋のベッドの上で静かに眠っているようだった。ユウイチの姿を見ると、ユキは少しだけ安心した。
「ユウイチさん。」
ユキは小さな声で彼の名前を呼んでみた。特に意味はない。ただ彼の名前を呼んでみたくなっただけだ。声は正常に発せられた。夢の中で声が出せなかったのが嘘みたいに、ユキの声は簡単に遠くまで飛んでいった。
「ユウイチさん。」
ユキはもう一度なんとなく彼の名前を呼んでみた。すると、堰を切ったようにユウイチへの想いが胸の奥から溢れ出してきて、どうしようもなく彼の事が愛しくなった。
「私は、あなたの事が好きなんです。」
ユキは小さな声で言った。自分だけに聞こえる声でそっと。その時ユウイチの体がもぞもぞと動いた。ユキはビクッとする。聞こえていただろうか?
「ユキ?」
ユウイチは低い声で彼女の名前を呼んだ。横になったまま体を少しこちらに向けて、ユキと目を合わせた。その表情は夢現といった感じだったが、ユキが先ほど夢で見たような恐怖の色は何処にも見受けられなかった。深い慈愛に満ちた眼でユキを見つめている。
「眠れないのかい、ユキ。」
ユウイチは優しさのこもった声でユキに尋ねた。それから少し間を開けてユキに問い掛ける。
「一緒のベッドで眠るかい?」
「えっと、あの、それは・・・」
ユウイチの唐突な言葉にユキはたじろいだ。体が火照ってきて、言葉がうまく出て来ない。するとユウイチは、ははっと小さく笑ってから、
「そうだよなあ、」
と独り言のように言った。
「ユキは女の子だもんな。」
消え入るような声でそれだけ言うと、彼は小さな寝息を立てて再び眠ってしまった。しばらくユキはユウイチの寝顔に見入っていたが、背後から
「ユキが行かないなら、うちがユウイチと一緒のベッドで寝よっかなあ。」
と声を掛けられ、ぎくりとして後ろを振り返る。クルミがニヤニヤした顔でこっちを見ていた。
「クルミちゃん!いつからそこに居た?」
急にさっきとはちょっと違った恥ずかしさがこみ上げてくる。
「わたしぃ、あなたのこと好きなんですぅってとこから。」
ユキはあまりの恥ずかしさにいたたまれなくなってクルミの体をポカポカ叩いた。
「あー、もう!悪かったって。」
クルミが半笑いを浮かべながら言う。
「ユキ、ちょっと外歩かない?」クルミの言葉にユキは手を止める。
「今から?」
「うん、月綺麗だよ。」ユキは少し考えてから嬉しそうに言った。
「ありよりのありだね。」
ユキはクルミの後をついて裏口から家を抜け出した。もちろんユウイチを起こしてしまわないようにそっとだ。外に出るとひんやりと肌に心地よい秋の風が吹いていた。
クルミの言った通り、綺麗な満月が空に浮かんでいて、耿々としたその白い輝きは周りの星の光さえも消し去ってしまうほどだった。ユキとクルミは家の近くにある堤防をそろって歩いた。ユキはクルミに自分の見た夢の話をした。
夢の中で自分は、自分を襲った男と同じ目線でユウイチを追いかけた事、ユウイチは自分の姿を見て恐怖していた事、そして夢の最後にはユウイチが自分から逃れるために車道へと飛び出し、車に撥ねられてしまう事。クルミは一字一句を聞き逃したくないというように、黙って話に耳を傾けてくれた。それだけでもユキは心の荷が降りたような気がした。
「ユキ、それはただの夢だから、あんまり深く考えすぎちゃだめだよ。」
クルミは真剣な表情でユキに言った。
「そうかなあ、」
ユキは顔を伏せて呟く。
「クルミちゃん。私、時々思うんだ。私なんかがユウイチさんの事好きでいてもいいのかなって。」
「何言ってんの。あんたこの前自分で言ってたじゃない。誰かに迷惑をかけてるわけじゃないって。ユウイチの事が好きなら、それでいいじゃない。」
クルミは励ますようにそう言ったが、ユキの不安を拭い去る事は出来なかった。それはまるで月がどれだけ明るく輝こうとも、夜の闇を拭い去ることが出来ないようなものだった。
「ユウイチさんは私なんかに振り向いてくれないって、分かってるの。分かってるのに、私はユウイチさんの事がずっと好きなの。こんなのおかしいよね。ユウイチさん、きっと迷惑してるよね。ごめんねクルミちゃん。重いよね、こんな話。」
クルミは立ち止まった。ユキもつられて立ち止まる。
「おかしくないよ。」
クルミは何かを確かめるようにユキの顔を見てそう言った。
「おかしくない。」
クルミはもう一度言う。今度はさっきよりも力強い声だった。
「ユウイチはあんたに好かれて迷惑だなんて思ってないよ。一緒に暮らしてるうちが言うんだからこれは本当。」
それからクルミは少し言葉を選ぶようにして続けた。
「でもユウイチがあんたに振り向くこともないって思う。そりゃあ、絶対にとは言わないけど、難しいと思う。だから、諦めて欲しいっていうのもうちの本音。ユキには早く、幸せになってほしいから。でもね、それはうちが決める事じゃないし、他の誰にも決められないと思うんだ。あんた自身が納得するまでは、あんたはユウイチの事好きでいていいんじゃないかな。」
ユキはクルミをまっすぐに見つめ返す。胸が熱くなった。包み隠さず本当の気持ちを伝えてくれる友達の存在が、ユキはかつてないほどにありがたいと思った。白い月が夜の闇の中で輝いている。
その光は、この世が始まってからずっと地球上の生き物を夜の闇から守ってくれていた光だった。
その時だった。ユキとクルミは不意に近づいて来る何者かの足音に気づいて体をこわばらせた。数メートル離れたところに大きな影が一つ浮かび上がる。月明かりに照らされたその姿にユキは見覚えがあった。
「あいつだ・・・。」
ユキはじりじりと後ずさりしながら言う。
「公園でこの間私を付け回したやつ・・・。」
その言葉を聞いて、クルミはユキの前に出る。その男は以前と同じようにじっと怪しい視線をクルミの後ろに隠れるユキへと送っていた。恐怖で震えるユキをよそに、クルミは凄みを利かせてずんずんと男の方へと近づいていった。
「クルミちゃん・・・」
ユキは声を掛けたが、クルミは足を止めなかった。至近距離でクルミと男が睨み合う。次の瞬間クルミの右フックが男の顔にさく裂した。痛みで男が呻く。クルミはその隙を逃さず、今度はジャブを相手の顔面にお見舞いする。男が情けない声を上げた。クルミが次の攻撃を繰り出す姿勢を見せると、男は尻尾を巻いて逃げていった。
「一昨日きやがれ馬鹿野郎!二度とうちのユキに手ぇだすんじゃねぇぞ!」
クルミは凄みを利かした声で逃げていく男の背中に怒鳴りつけた。ユキは長い間クルミと生活を共にしてきたが、こんなに怒った彼女を見るのは初めてだった。クルミは戦場から帰還した英雄の如き顔をしてユキの元に戻ってきた。
「クルミちゃん!大丈夫?」
ユキは小走りでクルミに駆け寄り声を掛ける。するとクルミはニコッと笑って言った。
「全く、ふざけんじゃないわよ。」
秋雨の雨粒が窓ガラスに尾を引くのを珍しく乙女チックに眺めているクルミに、ユキは声を掛けた。
「ねえ、クルミちゃん。やっぱりユウイチさん彼女が出来たんじゃないかな。」
「どうしてそう思うの?」
クルミは窓に張り付く水滴から目を離さず、ユキに問い返した。
「この間ユウイチさん、新しい服買ってきてた。それから新しいワックスと、新しい香水も。」
「うーん、じゃあやっぱりできたのかもしれないねぇ。」
クルミはしみじみと言った。
「テンサゲなんだけど。」
しょんぼりするユキに、あっ、そういえばと思い出したようにクルミが言う。
「ユウイチ最近週末になると嬉しそうにそわそわしてるよね。」
「それって・・・」
「こっそりデートとか行ってるのかもね。」
クルミは窓の外を見たまま言った。
「マジテンサゲなんだけど。ていうかクルミちゃんさっきから窓の外ばっかり見て何してるの?」
ユキの質問にクルミが深いため息をこぼす。
「こんな雨の日は彼に会いに行けないなあと思って・・・。」
「あっそ。」
ユキはそうクルミをあしらってから、クルミの隣で同じように窓の外を眺めた。雨の日はちょっぴり憂鬱な気分になる。別にユウイチはいつも通り夕方には帰って来るのだからクルミのように気を落とす必要はないはずなのに、それが分かっていても気分は晴れなかった。もしユウイチに仮に彼女が出来ていたとしたら、自分の気持ちが晴れる事なんて一生ないだろう、とユキは思う。
ねえユキ、もしユウイチに彼女が居たらあんたどうすんのよ?
いつだったか、クルミがユキに尋ねた質問だ。ユキはその時、分からないと答えた。だけど実際にユウイチに彼女が居たとしても、ユウイチの事を諦めることはないだろうとユキは思う。
ユウイチはユキにとってそれだけ近しい存在だった。それなのにどうしてか、ユキにとって最も遠い存在でもあるような気がした。
十一月になると公園のイチョウ並木が一斉に黄葉し、幻想的な風景を作り出していた。絶え間なく続く落葉を、どちらが多く掴めるかでユキとクルミは競い合った。遊び疲れたら、近くにあった青色のベンチで休んだ。
そんな折、落葉に打たれながらこっちに近づいて来る男の姿があった。大柄な男で、ユキとクルミは一目見ただけでそれが誰なのか分かった。ユキは不思議に思った。彼の目つきからは以前のようないやらしさが一切消え失せていた。今の彼は何かに怯えているような、緊張しているような、それでいて覚悟を決めたような、そんな顔をして一心にユキを見ていた。
「ちょっとあんた、どの面下げてうちらの前に出て来たわけ?」
クルミが立ち上がって凄む。
「クルミちゃん。」
ユキはクルミにそう声を掛けると、驚くクルミをよそに男の前まで歩いて行った。男はユキが近づくとさらに緊張を募らせたように顔をこわばらせた。今にも逃げ出してしまいそうだ。
だが彼は震える足で落ち葉に覆われた地面にしっかりと立っていた。自分に伝えなければいけないことがあるのだ、とユキは思った。
「自分は、」
男は声を出したが、そこで言葉を詰まらせた。そこで一呼吸おいて再び話し始めた。
「自分はノブって言います。この間は、怖い思いをさせてしまって、申し訳ありませんでした。だけど、おれ、ユキさんの事、好きなんです。初めてこの公園であなたを見た時から、ずっと好きでした。おれみたいなブ男がおこがましいとは思ってるんですけど、でもこの気持ちを伝えておかないと、どうにかなってしまいそうで・・・。」
ノブと名乗った男はそれ以上の言葉が出てこないようだった。じっとノブの目を見て話を聞いていたユキは一言、
「そうだったんだ・・・。」
と呟いた。それから言葉を慎重に選びながら、気持ちを込めて言った。
「ごめんなさい。私、他に好きな人がいるの。だから、あなたの気持ちには応えられない。ごめんなさい。」
その時のノブという男の顔を一生忘れることはないだろうとユキは思った。きっと彼はフラれることも覚悟してきたのだろう。解っていたのに、予想していたよりもはるかに大きな衝撃に襲われ、それでも必死で平静を装っているような、そんな顔だった。
「そうですか。」
ノブは声を絞り出すように言った。それから俯き、
「失礼します。」
と言い、踵を返して離れていった。
「もう二度とユキに近づくんじゃねえぞ!」
クルミは彼の大きくて弱弱しい後ろ姿に追い打ちをかけるように叫んだ。落葉の中遠ざかっていく彼の姿を見ていると、ユキはその姿がユウイチを一心に求める自分と重なり、胸が圧迫されるような切なさを感じた。
ユキは独り家路についた。と言うのも先ほど偶然にもクルミが想いを寄せる男性に遭遇し、クルミは彼と一緒にどこかに行ってしまったからだ。幸せそうにしているクルミを見ると素直に応援してあげたいと思うのだが、それでもどうしてかため息がこぼれた。ユキの脳裏にはノブという男の悲し気な後ろ姿が焼き付いていた。
そして、自分とユウイチの関係が今後どうなっていくのかを考え、不安が募った。再び深いため息が零れ落ちる。そこに哀愁漂う秋の風が吹き込み、ユキはたまらなく切なくなった。ユウイチさんに会いたい。たまらなく会いたい。会って、好きだと伝えたら何か変わるだろうか。何も変わらないかもしれない。むしろユウイチとの関係は今よりも悪くなってしまうかもしれない。
だけど、しっかりとユウイチに自分の気持ちが伝えられないと、ユキはどうにかなってしまいそうだった。
夕方になってもクルミは帰って来なかった。先に帰って来たのはユウイチの方だった。ユキは心躍る気持ちで、玄関先でユウイチを迎えた。
「おかえりなさい!」
「ただいま、ユキ。」
ユウイチは笑顔でそう言うと、ポンとユキの頭に手を乗せた。それだけでユキは気持ちが満たされていくような気がした。今まで感じていた切なさも、全部忘れさせてくれるようだった。
「待っててね、すぐご飯用意するから。クルミは?」
「クルミちゃん、デートだって」
「クルミが居ないんだったら、この家にはおれ達二人っきりだな。」
いたずらっぽく笑ってそう言うユウイチを見て、ユキは胸にときめきをふつふつと感じた。と言うより狂おしい気持ちになった。
「ユウイチさん、あの、私・・・。」
その時、ユウイチのポケットに入ったスマホが鳴った。画面を見て顔を輝かせるユウイチの姿に、ユキはそれが自分とユウイチとを引き裂く電話であることを悟った。
「もしもし、カナちゃん?どうしたの?うん。今週の日曜?空いてるよ。うん。いいよ・・・。」
ユウイチの様子を鋭く窺うユキの事を気にも留めずに彼は通話を続けた。
「付き合ってたんだって!」
いつの間にか帰って来ていたクルミの泣き出してしまいそうな声で、ユキは我に返った。
「え?うん。おかえりなさい。何が?ていうか誰が?」
「だから、例の好きピが!彼女いたんだって!」
クルミは叫んだ。
「マ?」
ユキは呆気にとられた。碌な言葉が出て来ない。
「クルミ、帰ったのか?もう夜なんだからあんまり大きい声出すなよ。」
キッチンの方からユウイチの声がする。
「あんなに仲良さそうだったのに、マジか。それで、彼はどうしたの?」
ユキは声を抑えてクルミに尋ねる。
「お別れを告げてきました。」
「・・・そっか。」
二人の間に沈黙が流れる。キッチンからはユウイチが野菜をトントンと切る音が聞こえた。
「ユキ!もうちょっと励ましてよ!メンブレ気味なんだから構ってよ!」
クルミはせがむようにそう言ったが、ユキの浮かない顔を見て表情を変えた。
「ユキ、あんた、なんかあったの?」
「え、いや、別に・・・。」
ユキが顔を逸らす。
「何よ?」
「ユウイチさん、日曜出掛けるんだって。多分彼女と・・・。」
「うそ、ユウイチほんとに彼女出来てたの?」
クルミが驚いた顔をして尋ねる。
「分からないけど、日曜日女の人と出掛けるのは確かみたい。ユウイチさんすごくうれしそうな顔してたよ。」
ユキの言葉を聞いてクルミは神妙な顔つきになる。
「もしそれが本当だったら、あんたはどうするのよ?」
それは前にもされた質問だったが、前よりもずっと現実味を帯びていた。自分の気持ちに折り合いをつける時が近づいているのかもしれない。しかしユキにとってそれはあまりに困難な事だった。だからユキは結局、
「分からない。」
と答えた。
「けど、本当にユウイチさんに彼女が出来たのかは、ちゃんと確かめたい。」
ユキは言った。
「どうやって?」
クルミは尋ねる。
「日曜日ユウイチさんの後をつけるの。」
「マ?」
来る日曜日、ユウイチは整髪料で髪を固め、新調した秋物のジャケットに身を包んで、ふんわりと香水のにおいを漂わせながら朝から出掛けて行った。ユキとクルミは玄関先でユウイチを見送ると急いで裏口に回って家を抜け、気づかれないようにユウイチの後を追う。
「どうよあのユウイチの格好。」
角から顔をそっと出してユウイチの姿を確認してから、クルミがユキに尋ねる。
「どうって、カッコいいかな。」
「いや、そうじゃなくて、絶対いつもよりおしゃれしてるよねってこと。」
きょとんとするユキの顔を見てクルミがため息をつく。ユウイチは最寄りの無人駅まで歩いて行くとそこで電車に乗るようだった。その様子は他人が見れば平然と歩いているだけの様に見えるが、共に暮らすユキとクルミの目からは明らかにいつもより浮足立って見えた。ユキとクルミは、前を行くユウイチと距離を取りつつ無人駅の構内にある改札を抜けた。駅のホームに出ようとするユキをクルミが制する。
「待って、出て行ったらユウイチに見つかっちゃうよ。」
「どうしたらいいかな。」
ユキは尋ねる。
「電車が来るまで待とう。」
まもなく、熟した富士リンゴのような色の電車がホームに到着し、数人の乗客が中から降りてきた。ユウイチが乗車したのを確認すると、ユキとクルミはユウイチが乗ったのとは別の車両へと走った。駆けこんで乗車したからか、中に居た乗客がこっちを見て驚いた顔をする。
「ユウイチさんにばれてないかな?」
ユキが不安そうな顔でクルミに尋ねる。
「大丈夫だって。」
とクルミ。ユキは緊張していた。もちろん尾行がユウイチにばれてしまわないだろうかという心配もあったが、それともう一つユキを緊張させていることがあった。ユキもクルミも電車に乗るのが初めてだったのだ。クルミはなぜだか楽しそうにしているのだが、ユキはとてもそんな気分にはなれなかった。周りの人たちが自分たちの事をじろじろ見ているような気がして落ち着かない。
電車がゆっくりと動き出した。規則的な上下運動と共に外の景色が流れていく。ユキは目眩がするのを感じた。
「ちょっとユキ、大丈夫?顔色悪いよ。」
クルミが心配して声を掛けてくれる。
「うん、へーきへーき」
そうは言っても電車が駅に停車するたびに乗客の数は増えていき、車内の酸素濃度がどんどん薄くなっていく気がして、ユキはますます気分を悪くした。途中、制服に身を包んだ車掌と思しき男性がユキ達のいる車両に入って来た。車掌は車両の様子を見回すと、ふとユキとクルミの方をじっと見た。それから口元を少し緩めると、別の車両へと出て行った。
「何よあいつ、失礼ね。」
クルミが小言を言う。
電車が六駅目に到着した時、クルミがユキの肩をたたいて声を上げた。
「ユキ、ユウイチ降りたよ。」
ユキは重い頭を上げて窓の外を見た。そこには確かにユウイチの姿があった。
「ユキ、早く!」
クルミにせっつかれながらユキは電車を降りる。駅のホームには人びとが行き交い、危うくユウイチの姿を見失いそうになる。人ごみに慣れていないユキとクルミはやっとの思いでホームを抜けた。
「ユキ!見て!」
クルミの声にユキは再び重い頭を持ち上げた。そして目を見開いた。改札の前にはユウイチの姿があり、もう一人見たことのない女性が立っていた。茶色のダッフルコートに身を包んだ髪の長い女で、彼女はユウイチに笑い掛けていた。ユウイチの方もいつも自分やクルミに見せるのとは違った笑顔で彼女と話しているように見える。その瞬間、ユキは激しい目眩がするのを感じた。
「ちょっとユキ!」
クルミが隣で声を上げている。
「ごめんクルミちゃん、少し休ませて。」
ユキは身を屈めて小さな声で言った。熱に浮かされたように頭がぼーっとして、気を付けていないと意識を失いそうになる。
そしてそれ以上に、なぜだか胸がとても苦しかった。息が詰まりそうになるくらいに。
「ユキ。」
クルミが耳元で声を掛ける。
「もう、帰ろう。」
ユキは嫌だと言った。クルミはそれ以上何も言わなかった。
ユキが休んでいる間に、ユウイチと女はどこかに姿をくらませてしまった。だからユキとクルミは一日中町なかを探し回る羽目になった。クルミは何度も諦めて帰ろうと言ったが、ユキは意固地になって絶対に首を縦には振らなかった。まだあの女がユウイチさんの彼女と決まったわけじゃない、ユキは自分にそう言い聞かせて必死でユウイチの影を探した。
太陽が西に傾き、夕焼けが町を染め上げる時間が来ても結局二人を見つけることはできなかった。ユキとクルミはユウイチの家の近くにある公園と似た雰囲気の場所を見つけたのでそこに立ち寄った。地面はすでに一面が落ち葉で覆われているのに、それでもなお黄色いイチョウの葉は並木からとめどなく降りしきっていた。ユキは落ち葉の中にキラッと光る物を見つけた。何だろうと思って近づいてみると、それはピンク色のプラスチックで縁取られたおもちゃの手鏡だった。覗き込むと自分の姿をしっかりと映した。 その時、
「ユキ・・・あれ・・・!」
クルミはある一点に目線が釘付けになっていた。ユキはクルミの視線を辿っていった。それはまるで映画のワンシーンを切り取ったような、そんな光景だった。夕日に照らされた若い二人は抱き合い、黄葉したイチョウの木の下の、二人だけの世界で口づけを交わしていた。それは涙が出そうになるぐらいに綺麗な光景で、狂おしいほど切ない光景だった。
「ユキ。」
隣でクルミがそっと自分の名を呼んだ。
「もう帰ろ。」
ユキは嫌だと言った。
「もう止めなよ。」
クルミは優しく言った。
「やだ。」
「お願い、もう止めて。」
「やだ。」
「もう止めてってば!」
クルミの懇願するような声にユキは言葉を失う。重い重い沈黙が流れた。
「でも私は、ユウイチさんの事が好きなの。初めて会った時からずっと。多分あんな女なんかより、ずっと。」
ユキは遠くで身を寄せ合っている二人を見ながら言った。
「うん、知ってる。」
クルミは優しく言う。
「でもねユキ。本当はユキだって解ってるんでしょ?ユウイチさんがユキに振り向くことはないんだって・・・。」
ユキは視線を落とした。落葉に埋もれたおもちゃの手鏡に映った自分と目が合う。クルミは静かに言った。ユキに言い聞かせるように。
「だってあんたは、人間じゃないんだもの。」
鏡に映った毛むくじゃらの顔。鋭い眼。三角の形をした耳。ピンと伸びた髭。ユキは自分の足元に視線を落とした。そこには手ではなく、鋭い爪の生えた前足があった。あまりに、あまりにユウイチとかけ離れた姿。自分はどうしてユウイチと一緒になれないんだろう?こんなにも彼の事を想っているのに、一体どうしてなんだろう。誰に聞いてもその答えは返ってこなかった。自分の事を全部解ってくれるクルミだってその答えを知らなかった。でも、だったらどうすればいいんだろう。どれだけ想ったって振り向いてくれないなら、何回好きと言ったって伝わらないなら、自分のこの気持ちを一体どうしたらいいんだろう。
「ユキ、あんたは頑張ったよ。頑張ってユウイチに恋した。だからもう、そんな辛そうな顔しないで。もう、楽になっていいんだよ。」
ユキは泣き出した。あまりに悲しくて、あまりに切なかったから大きな声を出して鳴いた。
にゃーん。にゃーん。
「あ、ママ、あの猫ちゃん可愛い。」
通りすがっていく女の子が無慈悲な言葉を投げかける。そうだ、私は猫なんだ。ユウイチさんに絶対振り向いてはもらえないんだ。
「ユキ?」
遠くから自分の名を呼ぶ大好きな人の声がする。
「ユキ!」
ユウイチが彼女と共にこっちに近づいて来た。
「クルミまで。なんでこんな所にいるんだ。」
ユウイチは困惑した表情を浮かべた。
「可愛い!この子たちが前話してたユウイチ君の家で飼ってる猫?」
ユウイチの彼女が声を上げる。
「そうだよ。こっちの白い方がユキ。向こうの茶色くて丸っこいのがクルミ。一体何でこんなところにいるんだろう。」
「ひょっとしてユウイチ君について来たのかな。」
彼女は身を屈めるとユキと呼ばれた白猫の頭に触れようとした。その瞬間、白猫は牙を剥き出し、シャーっと威嚇する。
「こら、ユキ!」
ユウイチが声を上げる。
「おかしいな、いつもはおとなしい子なのに。」
白猫はユウイチに近づくと、にゃーと甘えるような声で鳴いた。
「ひょっとして、ユウイチ君を私にとられると思ってるのかな?」
と彼女。
「ははっ、まさか。」
ユウイチはそう言うと白猫を抱き上げた。
白猫はユウイチの温かな胸に顔をうずめると、ゴロゴロと心地良さげに喉を鳴らした。
ああ、私、幸せだ。ユウイチさんの胸に抱かれて、幸せだ。それなのにどうしてだろう。なぜだかとても、とても切なかった。