水ありき里のはなし
人間って本来、共生しているもののなかに、どうしても説明のつかないことや言葉に形容できない不思議なことってあるんだと思う。それは、日常の忙しさのなかに、つい忘れてしまいがちだけど、たまには思い出せたら、思い出せたらいいよね。ってお話です。
それは或る川の不思議な物語。
20xx年、夏も盛りの山間の村。近隣の登山スポットは、ワリと知られたとある閑村での出来事だった。その年は大型の台風が7日に一度やってくる稀有な年だった。
その村には、名も知れぬような山から滾滾と湧き水が沢沿いに流れる小さな川があった。
下流で中規模の水量をもった河に合流するのだが、山間の沢は別段、堤防があるわけでもなく大雨が降れば、鉄砲水が迸るような人気も薄い沢だった。台風が接近ともなれば、人が近づくはずもなく、無防備に近いような水源だったのだ。
大型の台風が沖縄から本州を舐めるように直撃するコースを辿るという、厄介極まりない進路を選択したとの気象情報が流れていた。
そんな時の警報発令に森林山野局は定点カメラで森林の中の沢を監視していた。局の人間は至って職務に忠実で監視を怠るようなことは一切なかった。
モニタリングしていると一人の老人がモニタに現れた。暴風の真っ只中である。
老人は何を思ったかデジタルカメラらしきものを樫の木に括りつけ、沢に一礼すると濁流と化した奔流に身を投じたのである。
一部始終を観察していた局では、悲鳴と怒号が鳴り響いた。
台風一過の正午、やり場の無い怒りと共に、老人とおぼしき人物の捜索が開始された。
これを地元のローカル局が取材として同行し、そのニュースは県内に漏れなく放送された。
それをいち早く受け、反応したのはSNSだった。
『迷惑な爺だな』『自殺でしょ』『ご冥福を、祈れねーよ』『山狩りする人、大変そう』
そんな自殺志願者のように受け止められた事態だったが、驚くべきことに、その当事者である老人が7日後に、地元の警察に姿を現したのである。半信半疑で事情を聞いた警察官は上司に相談したうえで厳重警告を老人にした。『あんた、あの濁流に飲み込まれて、よく無事だったね。信じられん。』老人は終始頭を下げ、微笑みを絶やさなかった。後日、その警察官にその時のやりとりを取材すると、『なんていうかね、怒る気にならんのよ。私も不思議でしてね?物腰が柔らかいっていうか、そう、水みたいな人でね。』
翌週も忌まわしき台風は本州を直撃したのである。
そして、驚くべきことに、老人は先週と同じことをやってみせたのである。
局から通報を受けた消防、警察の反応は穏やかならざるものがあった。
その際、2日前に老人を聴取した書類が一切、紛失していた。再び鳴り響く怒号。
そして、どこから漏れたかわからない定点カメラの映像。SNSは熱狂的にこの馬鹿げた行為に反応した。
『FREAKEY!!』『イカレてる』『ただただ、不愉快』『自殺志願者、再び』『ボケてんじゃねーか』『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』『ありゃ、神だよ。神。』
といった具合であっと言う間にSNSで拡散された。
消防、警察はこの迷惑な老人を再び捜索するという事態に見舞われ、現場はピリピリした空気に包まれた。
数日間の捜索が行われたが、遺体の痕跡も発見できなかった。
ある警察官は言った。
『不思議なんだけどね、こんなことをいうのもおかしな話だけれど…あの老人がホトケになったって気がしないんだよ。むしろ、なんていうか…死ぬなんて、まるで想像できない。』
捜索に携わった人間は同様、もしくはそれに近いような感覚や雲をつかむような手ごたえのなさを感じていた。
また、現れるんじゃないのか。ひょっこりと。
その年の台風はもう、訪れず沢が増水するようなできごともなく、山嗤う、紅葉のシーズンが訪れた。瞬間的とはいえ、奇怪な事件の現場として、その年の観光客は例年の2倍近くの人々が訪れ、村は密かに活気づいた。
地元のタクシーの運転手は乗せた乗客に想像力豊かな持論を披露していた。
『ありゃね、竜神様だよ。俺の死んだ爺さんが言ってたよ。あの沢はね、いや、ずっと下流の海まで続く河川まで広く、昔はね、とうにすたれっちゃたけど、竜神を祭る祭事があったって。いまでもその名残がね、この川沿いの地域にはあるんさ。五穀豊穣の祭りごとだけんどね。…ありゃ、竜神様だよ。ま、デジタルカメラ持ち歩く竜神様なんて今時でいいじゃないの。』
ことの真偽は75日も過ぎれば世間の興味からは薄れていく。
皆がそんな話題を口にしなくなったころ、大学生の登山サークルが沢の上流に、小さな、小さな祠を発見した。学生達はそれを写真に収め、村役場に報告した。村役場の担当者はその学生達がネットにアップする前に役場に報告してくれたことに、感謝しきりだった。曰く、
『今日び、役場でも人手がただでさえ足りないからね。また妙な噂でもたったら仕事にならんのよ。いや、大変だったんだから。村の商工会の連中は喜んでたけれど、こっちは、ほんと、大変だったのよ』
かくして、森林山野局、地元消防、警察、県の歴史資料研究家の特別チームが結成され、秋も深まったころ、先導する発見当事者の学生達との沢登りが行われた。
学生達は発見した祠の付近の白樺にタコ糸を巻きつけて、目印にしていたので祠を探す手間もなく案内をした。
そこは、巨大な岩石と岩石が複数に支えあっている小さな空間だった。濃い緑と赤茶けた苔がびっしりと茂った小さな空間には、苔に覆われた石像らしきものがひっそりと眠っていた。研究家は、呟いた。
『いやぁ、知らなかったなあ。よくこんな山道の裏にあるような隙間を見つけたねぇ。』
学生はバツが悪そうに答えた。
『ちょっと、用を足そうと…』
軽い笑い声の輪が広がった。
研究家は手袋を嵌め、慎重に苔を払っていく。
撫でるように、慎重に。すると、境界線のおぼろげだった輪郭がはっきりしてきた。
頭部とおぼしき部位を払っていくと、柔和な表情を湛えた顔が現れた。
同行していた警察官の一人が声を上げた。
『ああっ!間違いねぇ。この顔!出頭してきた爺さんですよ!なっ、お前も見たろ?この爺さん。間違いねぇ。』
若い後輩の警察官は、小首をかしげている。
『そういえば、そんな気も…すみません。自分、あまりよく、思いだせんのです。』
一同は、まるで不思議な体験を共有した。季節はずれの生暖かい風が一陣、吹いた。
みな、押し黙り、口を開かない。
沈黙を破り、研究家は言った。
『偶然の一致…ですかねぇ。うーん、実に穏やかな表情をしている。事前に、下調べしたときに、、ひとつだけこの祠を示すような記述があったんですよ。それが、ちょっと、謎めいてましてね。600年ほど前の文献なんですがね。この山に道を拓いたときのことらしいんですが、奉納をした、と。ただ、奉納した。…ということはこの祠へなのか、それとももっと違う何かなのか。祠はもしかしたら、それより昔からあったのかもしれません。複数の資料があれば、裏づけにもなるんですが…判断できないなぁ』
一同はここで考えていてもしかたないと、撮影できるあらゆる角度から、録れるだけ撮影した。そして、それぞれの立場での高揚を胸に抱いて下山した。
ただちに、祠と石像の件は村長に報告され、村長は子一時間迷ったあげく、県知事に報告した。県知事は貴重な観光資源になると考え、さらには、歴史的な文化遺産として世界に認知させるところまで、想像の翼をはためかせた。
しかし、時期を考えねばなるまい。これから厳冬の季節である。本格的な調査は、来年の雪解けを待たねばなるまい。
県知事は関係者、ならび発見者に穏やかに緘口を通達した。それが、どれほどの効力を発揮するのかも見越していたので、慎ましい登山道は、翌日から入山禁止の措置をとることにした。
石像を搬出することは、方々、関係各所から批判的な意見が続出したため、中止された。
結論からいって、突如発見された信仰の対象になりえる史跡に人間が手を加えることを善しとしない意見が想像以上に強かったのである。
余談ではあるが、来年の7月には県知事選が控えていた。
関係者達は、煩雑な手続きをとり、雪がチラつくなか、再度、入山し、心づくしの供え物をし、頭を下げ一様に、願った。
『ひっそりと時を過ごしてらっしゃたのに、身辺が騒がしくなってしまうことをお許しください。』
そして、春が訪れた。限定的な入山許可が発行され、関係者はマスコミも含め祠を目指し入山した。雪を掻き分け、祠を覗き込んだ、局の人間が呻いた。
『石像がない!』
一同は愕然とした。
『そんなばかな。定点カメラで撮影し、だれも近づいてないことは確認している!』
『どうなっているんだ!』
一同は騒然とし、周囲の雪を掻き分け、必死に探したが、発見に至らなかった。
前回の入山に同行した研究家の一人がタブレットを弄りながら、入念に祠と写真を見比べ声をあげた。
『供え物の、酒が無い。うん、酒瓶が消えている。』
皆、集まって写真を除きこみ、祠と見比べた。祠自体が小さいため、一升瓶ではなく720mlの瓶を供え物の一つとして奉じたが、地元の銘酒が消えていた。
記者の一人が笑いながら言った。
『するってぇと何かい?石像さんは酒瓶片手にどこかへ、消えちまったってことかい?何か見落としているんじゃないか?これじゃ、記事にならんし、晩酌の肴の笑い話にしかなりませんぜ』
美味い。美味い酒だ。美味い。ただ、ひたすらに美味い。
瓶を覗き込む。残り僅かだ。
瓶に指を突っ込んだ。それを舐める。繰り返す。
指を入れる。舐める。指を入れる。舐める。ちびちびと。
それに夢中になることが無常の喜びだった。肴が欲しくなる。釣ろう。枝を選ばねば。
指を入れる。それを舐める。枝を選ぶ。懐にはタコ糸が入っている。破顔がする。
鹿がよってきた。
指を入れる。それを鹿が舐める。
鹿は身体を捩り、枝を咥える。それは、ちょうどいい枝ぶりだった。
金木犀か。一枝を瓶に挿す。
そっと、差し込む陽光は落ち葉に溶け込み、金色に輝く。
鹿は別れを告げる。さようなら。老人は足取りも軽く、山を下る。山嗤う。
柔らかくそよぐ風に乗り、鶯が鳴く。桜並木は八部咲き。今週末がピークだろう。
地元の若者たちが嬌声をあげて、バーベキューをしている。
ちょうど、支流の川が、穏やかに本流に抱かれる地点である。
若者の一人がほとぼりで竿を垂れる老人に声をかける。
『爺さん、朝から盛が出るねぇ。釣れてるんか?』
『そうじゃね。ほれ。』竹で編んだ魚篭を差し出す。若者は覗く。
『凄いねぇ。こりゃ、大振りだ』ビールを呷りながら感心したように笑っている。
『もっていきなさい。宴で焼くといい。塩、ふるといい』若者は喜んだ。
『いいのかい?そしたらお礼しねぇと…爺さん、酒、何が好きだい?』
『酒はいらん。その…デジタルカメラってやつ誰か、もっとらんかね。』
若者は頷く。
『ちょっと待っててな。』
春風が桜を揺らす。鳥は囀る。
若者が戻ってくる。脚が強いのだろう。風のようだ。老人は胡坐を崩さない。
『爺様。ほれ、これ。仲間が持ってたよ。型は古いがまだ使えるから』
老人は丁寧に礼をする。若者は笑う。
『いいって。いつも、ありがとう。爺様、いつもありがとうな。』
『いい天気じゃの。』
二人は笑った。
見上げた空に山が浮いているようだ。
一筋の雲が流れていく。水の音は静かに絶えることなく流々采采と続いていく。