私たちには色々足りない 2
「何の花なら喜ぶかな?」
感情のない声が温室に響いた。
光を通すために、壁の大半が透明なガラスで作られた空間は温かく、色鮮やかな草花が咲き誇っている。
舞う蝶の羽音が聞こえてきそうな程静かなその場所に、腕を組んで佇む少年。
光を浴び、淡く輝く髪。白磁の肌に落ちる陰影が、呼吸などの動きによって微かに揺れる。それが、現実だと知らせていた。退屈そうな表情すら、色とりどりの花々の中では幻想的に見え、私は見とれてしまい言葉を返すのを忘れる。
プロが描いた絵画のようだ。それも、精霊や妖精などと言った、神秘的な存在をモチーフに選んだ。
「…………エマは時々、遠くを見たまま固まるよね」
不意に、目の前から声が聞こえて現実に引き戻される。
覗き込むように自分を見た紫が、リヒトのアイオライトのような輝きを持つ瞳だと気づいた瞬間、弾かれたように一歩後ろに引いた。
「ご、ごめんなさいっ」
見とれていました、とは言えず慌てて謝罪する。
すると、彼は呆れたように鼻から息を吐き、「いいけど」と短く言って辺りを見渡した。
「そう言えば、これって全部ボクらが集めた植物だっけ?」
「希少なドロップ品は、温室に植えたのでそうですね」
「あんまり気にした事はなかったけど、こうやって見ると…………圧巻、って言うのかな? 結構凄い?」
首を捻るリヒトに、私は小さく頷いた。新しいダンジョンに実装されたものはないが、それ以外は全部植わっている。
「かなり、凄いかと……」
私の返答に、リヒトは興味なさそうに「そっか」と呟き、花に触れるように屈んで手を伸ばした。
「これとか、拾って来たけど名前なんて覚えてないや」
彼が触れている花を見れば、そこには私でも知っている特徴的な植物が咲いている。
高さは60センチ前後、伸びた花茎の先端には穂状に小さな花が沢山ついており、色は薄紫から濃紫、白っぽい物もあった。
近づけば、香り立ちそうなその植物の名前は、
「ラベンダー……かと」
名前を告げれば、リヒトが花弁から手を離して姿勢を戻す。
「知ってるの?」
「安眠出来るらしいので……」
「昏睡状態になるとか?」
私の言葉を聞き、改めてラベンダーを見るリヒトの眼に興味が宿る。
その瞳の仄暗さにゾワリと肌が粟立ち、私は慌てて違うと首を振った。
「意識は失わないです! 入眠しやすくなると言うか、リラックスと言うか、鎮静作用があると言うか!」
「つまり?」
「不安とか緊張とかを和らげてくれる、防虫効果のあるハーブだったかと……思います……」
効果を並べてみたが、それが正確な情報だったか自信がなく語気が弱まっていく。
断言出来るのは、リラックスと防虫効果がある点で、その他はうろ覚えだ。
「ハーブについての辞書とかって屋敷にあるかな?」
リヒトの質問が意外で、私は目を丸くする。
好んで分厚い本を読むような性格にはしていなかったはずだ。それに、詠唱を覚えるのが面倒で物理職を選んだと設定には書いているし、頭の中に疑問符が浮かぶ。
「花に、興味が……?」
尋ねると、彼は身体ごと私の方を向き苦笑いを浮かべて腕を組んだ。
「効果の方にね」
そして周囲を見渡し、
「やる事はないのに時間はあるから、知っててもいいかなって」
と言い、穏やかな笑みを浮かべた。
純粋な好奇心。それが瞳の中にあり、つられて私も周り見る。幾つか知っている花があり、それを何度か紅茶屋などで購入して飲んだ事があった。
風邪の時にカモミール、美肌と言われてハイビスカス。確信はないが、特徴的な葉を持つ花はローズマリーじゃないだろうかと考え、頭の中に香草焼きが浮かぶ。
「そうですね……」
肉や魚が手に入ったら作れるだろうか。料理の腕に自信はないが、一緒に焼くだけなら何とかなりそうな気もする。
「まぁ、活用出来るならしたいよね。種が取れるのなら、定期的に蒔けば咲くだろうし」
ゲームだった頃は植えれば勝手に育っていた。それも、早い物だと一週間程度で。が、この世界ではどうだろう……
もし、水や肥料が必要だと言うのなら、用意しなくてはならない。水道とホースがないならバケツもいる。
後で、食堂で日向ぼっこをしているはずのフィラフトに尋ねてみよう。
「とりあえず、適当に花瓶に挿せそうなの持ってく?」
そう言って、リヒトは手にしたナイフを使ってラベンダーを摘む。
いつの間に用意したのだろうかと驚いていると、いつかの食堂と同じように服の胸元を示され、そう言えばと思い出す。
便利そうなので真似してみようかと考えるが……ハサミすら持ち歩かない私には少しハードルが高いように思えた。
刃物を衣類に忍ばせる事に抵抗があるし、何より自分に刺さりそうな気がして怖い。
無理だなと自己完結させると、不意にリヒトがナイフを空中に投げた。光を反射し、回りながら手の中に戻ったそれを、彼は指先で弄ぶ。
まるでサーカスのナイフ投げの人のようだと思っていると、何かに気づいたらしいリヒトがこちらを見る。
「エマは切れるもの持ってないよね?」
「ない、です」
「じゃあ、良さそうなの見つけたら教えて。切らなきゃなのはボクが摘むから」
「あ、はい」
目的を思い出し、改めて咲いている花の中でテネーブルが気に入りそうなものを探す。
ラベンダーと一緒に飾るのであれば、白い花が無難だろうかと足元を見れば、花束でよく使われているカスミソウらしいものを見つける事が出来た。
他にも、確信は持てないがジャスミンのような花もある。
「…………ラベンダーにジャスミンはさすがに喧嘩するかな」
切り花として花瓶に活けた事がないのでわからないが、両方ともポプリとして使われているのは見た事がある。それを一緒に置くのはどうかと考え、ジャスミンは見なかった事にする。
「……………………」
他にはと周囲を確かめれば、少し離れた場所で薄いピンクの花をつけた特徴的な葉の植物を前に、リヒトが首を捻っていた。
「なんだろう、見覚えがある草だけど……?」
「葉の感じだと、ローズマリーっぽいような……」
「よくわからないけど、これもよさそう?」
「少しだけなら……?」
「少しって、どのくらいかな?」
顔を見合わせてうーん……と短く唸る。二人とも、花束やブーケなどに関する知識や経験はないらしく、色に関してもどう合わせていいかピンときていない。
しかも、渡す相手はこう言う事に明るいテネーブルだ。
少なくとも、無難にまとめておいた方がよさそうな気がする。
「とりあえず、ラベンダーをメインにして……ローズマリーっぽい花の、色が白に近いのを4、5本とあっちにあったカスミソウを添えたら……なんとか、なりそうな……」
どうかなとリヒトを伺い見れば、
「そうだね。まぁ、エマが選んだものだって言えば、喜ぶと思うよ」
面倒だなと言いたげに溜息を吐き、投げやりに答えられてしまった。
どうやら、花選びに飽きたらしい。
「これと、これと、これで……後は、こっちの白くて小さいのを、ちょっと多めっと……」
手にしたナイフを使い、彼は慣れた手つきで咲いている花を摘んで行く。
膝の上に置かれた白いカスミソウと、薄いピンク色をしたローズマリー。
まるでゲームのイベントスチルのような光景に、私は無意識に携帯電話を探してポケットの中に手を入れた。弟のために花を用意する兄。それを、形に残るものに収めたい。
けれど、そこには何も入っておらず、美少年と花と言う光景を収める事は出来なかった。
その事を悔やんでいると、作業を終えたリヒトが顔を上げる。
「このくらいでどうかな?」
「わぁ……」
思わず感嘆詞が漏れた。
差し出された花を受け取る。そして、確かめるように手元を見れば、そこには8本のラベンダーと4本のローズマリー。そして、二種類の花を包み込むように添えられたカスミソウ。
気を利かせてくれたのか、茎の下の方についていた葉はカットされている。
花瓶に挿すには多いようにも思えたが、花束としてまとめるなら丁度いい大きさになりそうだ。
「リボンとか、どこかにありましたっけ……」
「どうだろ? お菓子の包みについているのでいいなら、すぐに用意できるけど」
そう言って、リヒトが空中を見て視界の高さで指を動かす。その動きは、私がグローブ型のコントローラーを使っている時の様子に似ていた。
右へ左へ、視線と指が動く。しばらくすると、ある一点を見て動きが止まった。そこを、トンと押すように中指が空中で微かに跳ねると、彼の左手の上にハートが描かれた小箱がポンと音を立てて現れた。
ピンク色をしたレースのリボンを、人差し指と親指で摘まんで解く。
「長さ、足りる?」
ぴらりと目の前に広げられたリボンは、リヒトの腰のあたりまでの長さだ。
「え、あ……はい」
足りると思うと首を縦に振れば、花の上にそれを乗せ
「じゃあ、あとはよろしく」
私を見て極上の笑みを浮かべた彼に、目を瞠り言葉を失った。
こちらの反応を待たず、リヒトはヒラヒラと顔の横で掌を振る。
そして、踵を返し温室の出入り口へと向かった。その背中を見つめたまま、呆けたように立ち尽くし……遅れて大きく鳴り始めた鼓動と、呼吸の仕方を思い出したかのように肺が慌てて空気を求める。
「は…………ハッ、えっ…………え??」
言葉にならない声が息と共に口から溢れるが、引き留めようにも彼はもう扉を開けていた。
そのまま向こう側へと消えたリヒト。見とれてしまった自分を責める言葉は浮かばなかったが、持っている花の重さが倍になったような気がする。
責任と言う名の重みが、加わったような感じだ。
「えーっと…………リボン、巻かなきゃ」
いったん部屋に戻り、リボンを撒こう。そして、心を落ち着けてから向かおう。
そう決め、リヒトが出て行った扉の方へと足を進める。
来た時は二人、帰り道は一人。花が増えて、それを摘んでくれたひとがいなくなった。
たったそれだけの事なのに、なんだか寂しく感じる。
思い出すのは、まだ幼かった頃の帰り道。友達と「またね」をした後の分かれ道のような気分だ。
***
あれこれと考えたものの、結局単純に三度回して普通の蝶蝶結びにする、と言う形に落ち着いたのだが、リボンが真っ直ぐ向かずに苦戦してしまった。
それなりの花束になった物を手に、二階の双子の部屋を訪ねてみたが……扉の前でかける言葉に悩み、まだノックすら出来ていない。
頭の中でシミュレートしているのは、「どうぞ」「どうも」「では」で終わる流れなのだが、きっとこうはならないだろう。
何より、業務報告以外で誰かの部屋を尋ねると言う事態に緊張しているし、動揺している。
「………………!」
このままでは埒が明かない。
意を決し、右手を拳にする。それで扉を叩こうとしてみるが、勢いをつける前に決意が揺らいだ。
どう言って渡せばいいのか……。長い間の空気生活が足を引っ張り、適切な言葉が浮かばない。これをコミュ障と言うのだろうかと考えていると、突如目の前の扉からガチャリと音が聞こえた。
――ゴンッ。
次いで、開かれた木製の扉が一番突き出ていた場所、額と拳にしていた手の甲に当たり、嫌な音を骨越しに伝えてくる。
「いっ――!?」
「え?」
衝撃に脳が揺れ、反動で二歩ほど後ろに下がる。顔を覗かせた人物の眼が私を捉え、見開かれる。
そして、視界の端から淡い赤が入った藤色が飛び出し、私の身体に手を伸ばした。
「キャアアッ!? エマちゃん?? え? ええ??」
女の子より女の子らしい声と、額に触れる滑らかな肌の感触。心配と戸惑い、そして焦りが混じったような表情が近づき、皴などない額に影を落とし八の字を作っている。
「ごめんね? 痛かった? 傷は? 出来てない??」
「だ、だいじょ、あの、平気、まっ、ちょっ」
彼の手が私の顔を掴み、ぶつけた個所を探る。右へ、左へ。動かされるたびに言葉が途切れた。
さすがに距離が近い気がして焦り、声を上げるがテネーブルは離してくれない。逃れようと身を捩るが、鍛え方の違いなのかビクともしなかった。
「うん、傷は出来てないし骨も折れてなさそう……よかったー……」
そう言って手を離し、胸を撫で下ろす。
「普通に扉を開けたつもりだったけど、エマちゃんとはレベル差もあるし、脳みそ潰れてなくてよかったよー……」
触れられていた頬を抑え、早鐘を打つ心臓に困惑していた私の背筋を、冷たいものが走る。
――『レベル下がってるね』
少し前にテネーブルに言われた言葉が脳内に響いた。
今の私は、彼の物理攻撃でも簡単に死んでしまう程で、扱いに注意が必要だと入念な確認をされたじゃないか。
双子に手を握られ、熱を出すほどの接触で……
「…………あ、え、っと」
触れられた手の感触を思い出し、今度は頬が熱くなる。
赤くなって青くなって、また赤くなって。そんな私に目を瞬かせ、ふと彼は笑みをこぼした。
「待って、エマちゃん。一人百面相、面白い」
ふふふと、口元を軽く手で押さえて声を漏らす。
それが愛らしくて、花束を持っていない方の手で慌てて口を押えた。そして、出かかった言葉をゴクリと飲み込む。
「エマちゃんって、たまに変だから見てて飽きないんだよね」
「………………そ、そうですか」
「ワタシを見る目は輝いているのに、明後日の方向を見ながら突拍子もない褒め方を始めて、途中で何かに気づいて慌てふためくから。今日は何を言ってくれるんだろうって、気になっちゃう」
「………………突拍子もない……」
さすがにスッ……と熱が冷めて頭が冴えた。
そうか、もう変な人と言う認識になっているのか。彼がそう思うのなら、きっとリヒトも同じ感想を抱いているに違いない。
そう考えると、何とも言えない複雑な気持ちが膨らみ、恥の感情を上書きしていく。次いで、後悔が浮かんだ。
この、なんとも言えない気持ちを忘れるため、早く部屋に戻りたくなった。フカフカのベッドの上に飛び込み、目を閉じてすぐさま眠りたい。
モヤモヤとした気持ちをリセットするために、今すぐに。直ちに。即座に。
「あの、これ……」
言って、私は持っていた花束を勢いよく差し出した。
「え?」
キョトンと、彼が目を丸くする。驚きながらも、テネーブルは突き出すようにして差し出した花束を受け取ってくれた。無意識になのか、それとも意識的になのかはわからない。
ただ、そんなテネーブルのガーネットを埋め込んだような瞳が、零れ落ちそうに思えた。
「リヒトと一緒に摘んできました。よかったら部屋に飾ってください」
花束を受け取ってくれたテネーブルに向かい、正しく伝える。自分ひとりではなく、リヒトも一緒だったと。焦りもあり、口調は早くなってしまったが、伝わっているはずだ。
すると、彼は目を瞬かせて顔を上げる。
「リヒトが?」
異なる双眸に驚きが浮かんでいた。
「ナイフで、ササっと茎を切ってくれました」
「ワタシのために?」
頷いて見せれば、パチクリと目を瞬かせ――ふわりと柔らかな笑みで手元の花を見つめる。
「ふーん……そっか。ありがと」
「かわー…………んぐっ、い、いえ、き、気分転換になればと……!!」
「………………嬉しいなぁ。うん、すっごく……嬉しい、なんだろう……くすぐったい気持ち、懐かしいかも、ふふっ」
受け取った花束を抱きしめ、彼は蕾が花開くようにゆっくりと表情を変えていく。陽の光を浴びた白百合のように、清らかで愛らしい微笑みは………………私の心を的確に打ち抜いた。
心臓が大きく鳴り、息の吸い方を忘れたように呼吸が止まる。頭の中では、教会の鐘のような音が鳴り響き、火傷するのではないかと思う程に顔が熱くなった。
この衝撃を言葉にするなら、雷が落ちた……だろうか。
とにかく、あまりの事に心も頭も真っ白になり――
「――ひぃっ…………やあああああっ!」
口からあふれ出した山のような感嘆詞を廊下に散らばしながら、私は一目散に自室へ向かった。
「え?? エマちゃ――!?」
後ろで、テネーブルの声がした気がする。気がするだけなので、実は違うかもしれない。
けれど、それを確かめる余裕もなく、私は廊下を全力で走り、階段を駆け下りてまた走る。
たどり着いた自室の扉を乱暴に開けて閉めて、鍵をかけてベッドに急ぐ。
飛び込むようにして倒れ込めば、位置が悪かったらしくフレームで強かに頭を打った。
――ゴンッ。
鈍い音が自分の内側から聞こえ、短く濁音交じりの「い」が口から漏れた。そして、痛みを伝えてくる個所を両手で押えて悶える。
「いた……痛いっ…………」
身体をくの字に曲げ、歯を食いしばって耐えていると……次第に鋭いものから鈍いものへと変わっていき、身を起こす余裕が出来た。
痛む個所を片手で押えたまま、涙目で身体を起こして改めて布団の中に潜り込む。
そして、仰向けになって天井を向いたまま、深呼吸をすれば少しだけ冷静になれた。
すると、今度は不安が自分の中に広がっていく。
「…………逃げちゃった」
しかも、今度はリヒトの時とは違い、変な声を出しながら。
自分の中で消化できない感情が衝動を生み、それに突き動かされる形で逃げてしまったのだが……どう見ても、聞いても、突然悲鳴を上げて走り出したようにしか思えないだろう。
彼を傷つけてしまったかもしれない。そう思うと、醜態を晒して恥ずかしいと言う気持ちよりも、強い罪悪感が私の心を締め付けた。
今すぐ謝りに行くべきだろう。けれど、足が竦んで動かない。
頭ではわかっているのに、身体が怖がって動けないまま……時間だけが過ぎていく。
臆病なのはよくない。わかっている、わかっている……
そんな自分が、心の底から哀れに思えた。
そんな自分を、今すぐ消し去ってしまいたくなった。
そんな自分が、とてつもなく嫌になった。
あれこれ考えている間に、足元から睡魔がゆっくりと身体を這い上がり、瞼が落ちて意識が途切れ……
その日眠りに落ちると、悪夢が私を捕まえた。
繰り返す家族の死の瞬間と、目覚めと共に喪失感が心臓を掴む。
それが、私の心を蝕んでいった――
***
「……………………相談、させてください」
目の下にクマを作り、虚ろな表情で話しかけてきた私を見て、フィラフトはギョッと目を瞠った。
屋敷の一階。場所は食堂。
日当たりのいい窓際の特等席を前に、やっとたどり着く事が出来た私の顔は、血の気がなく青白かった。
「ど どうしましたの その かおは」
「どうにも、夢見が悪くて……ここ、五日ほど……」
モゴモゴと、喋る気力さえなくなりその場に蹲る。
食事を取っていないせいか、胃がキュウ……と痛んだ。それなのに、食欲はない。
何かを食べようとする気力すら、削り取られてしまったような感じだ。
「ねむって いませんの?」
「………………」
問いかけに頷きで答える。
身体は眠い。それなのに、目が冴えていた。
けれど、意識ははっきりせず、常に思考が薄ぼんやりとしており、話す言葉をまとめるのすら今の私には難しい。
かだら、顔を振るだけですむのならそうしたかった。
「……やつれて いますのよ」
「もう、無理かも……です……」
言って、小さく息を吐く。呼吸はしているのに、息苦しい。
体力の限界なのに、眠りに落ちても悪夢のせいで起きてしまい、強張った身体は簡単には休もうとはしてくれず、必要な睡眠がとれていない。
終始頭の中にかかった靄に、考えが定まらなくなる。正直、心も体も意識も限界だ。
「………………テネーブルが はなを もらってから みかけないと しんぱい していました のよ」
「………………鼻は、もうあります、大丈夫です」
「はい?」
「朝食は、………………そばを頂きました…………きゅうりが緑です」
「え ええ…… そう、ですの?」
「お風呂ですか? 右で…………扉が、突き当りに……」
「………………」
険しくなったフィラフトの表情に、思わず小首を傾げる。
何か間違った事を言っただろうかと、薄っすらした意識の中考えていると
「かいわが かみあい ませんのよ……」
「カイワレ、噛み合い、ません? 食欲ないので、おひとりで……」
「………………まったくもって だいじょうぶと かんじ られませんのよ!?」
私の発言に、フィラフトが「ひいっ」と短く息を吸う。
そして、膨らませた尾に注目していると、焦った様子でトンッと前足で床を蹴った。
フィラフトの前足の下から、光の線が円を描くように広がる。
それが眩しくて目を眇めれば、食堂の景色が白に飲まれるように消えて行った――
「とうとう ひきがねが ひかれ ましたのね……」
微かに聞こえた言葉の意味はわからなかった。けれど、理解出来なくても別にいい。
その声を最後に、音が消え辺りは静まり返る。
「………………ふぇ?」
自分でも間抜けな声だと思う。ふ、とへの間の音を口から漏らし、呆けたまま近くを見渡してみると……そこには、何もない白い世界が広がっていた。
複数の獣の特徴を持ったフィラフトも、フカフカのマットもなく、食堂に設置していた家具は消え、窓も扉もない。
「えーっと……」
とうとう死後の世界とやらに来てしまったのかと、思わず目元を擦る。
けれど、眠気は消えず見える景色に変化はない。
「…………まさか、夢?」
フィラフトとの会話の途中で眠ってしまったのだろうか。だとしたら、突然真っ白い世界に独りで放り出されたのも納得がいく。
今度はどんな内容だろう。
少なくとも悪夢だ、嫌なものを見るのはわかっている。
けれど、もう家族の死の瞬間は見たくなかった……
目の前で両親が車に跳ねられる。鉄骨の下敷きになり、家が火事になって焼けていく……
夢だと言うのに、時間と共に消えて行かない悪夢の記憶。まるで脳に刻まれたかのように鮮明で、その時感じた気持ちや声、匂い、感触などを何度も思い出させる。
血が、思ったより生ぬるく、ぬめる事。人の身体の中身が、意外と鮮やかな事。体毛が焼ける時、異臭がする事。
何もかも、知りたくなかった情報だ。
気が狂いそうで、目覚めるたびに声にならない悲鳴を上げ、破裂しそうな程大きく心臓が鳴った。
断末魔の叫びに、逃げろと言う声に、助けてと求める手に、何も出来ない自分が……最後の瞬間目覚めと言う裏切りを行う。
夢なのだから、現実ではないのだから。何度もそう言い聞かせ、眠ろうとすればするほど……眠り方がわからなくなって、気が付けば六日目の朝を迎えていた。
助けを求めてフィラフトを訪ねたが、話の途中で眠ってしまってはどうしようもない。
目覚めが訪れるまで、このままだ。
「もう…………嫌だ……」
頭を抱え、その場に蹲る。
夢の中だと言うのに、残ったままの自分の意識。それを、何とかしたかった。
「――あなたは、見えてしまったんだね」
淡く柔らかな声音が響き――
真っ白な世界に、太陽の化身のような幼い神が降り立った。