私たちには色々足りない 1
ゲームだった頃、マイホームの外には居住区エリアが広がっていた。
現実世界に照らし合わせたなら、小規模の商店街と住宅地を合わせたような街並みと言うべきか。ゲームの中では、人が多く集まる中央都市の中では比較的治安がよく、穏やかな場所と言う設定だったはずだ。その居住区エリアの端に、プレイヤーは部屋を借りていると言う事になっている。
もちろん、初期の状態だと家賃が発生し、恰幅のいい大家らしい中年女性が女性が時折、様子を見るついでに家賃の督促にやってくる。
支払いに使えるのは、敵を倒したりクエストを達成したりした時にもらえるゲーム内通貨で、普通にプレイしていれば払えないと言う状態にはならない。
払わないからと言って追い出される事もなく、放置する事も可能だ。
けれど、放って置くと次第に大家の口調がキツくなって行き、プレイヤーの心を遠慮なく抉ってくる。
「画用紙で作った剣かい? 紙を買う金を稼げるとは、凄い冒険者だねぇ」
と鼻で笑われるシーンの動画を見た事はあるが、あの温厚で人当たりのいいキャラクターが蔑むような目をしているのには驚いた。
彼女が貸してくれている部屋はそれほど大きくなく、ベッドが一つと小さな家具を三つ程置ける程度の広さで、壁紙や床材などを変更する事は出来ない。
ハウジングシステムと呼ばれる、プレイヤーに与えられたプライベート空間を好きにカスタマイズできる機能は、有料ポイントを消費する事で手に入るのだが、これがなかなか楽しくやり込み要素があった。
最初に部屋を貸してくれる大家のクエスト、「家を買わないかい?」と言うものを受け、有料ポイントを使って許可証と呼ばれるチケットを購入し、渡す。
それだけで、現実世界では豪邸と呼ばれるだろう広さの一軒家が手に入る。
敷地には温室の他、家庭菜園も作る事が出来、ダンジョンでボスを倒した際に手に入る希少な花や植物を植える事が出来た。
何より、様々な家具を好きに配置でき、フレンドリストに登録されている知り合いを呼ぶことも出来る。
マイホームに設置できる家具の大半は、有料ポイントを使って引く事が出来る、ランダム型アイテム提供方式のクジから出るため、ゲーム内通貨で手に入れようとするとそれなりのお値段だが、スクリーンショットを取るために趣向を凝らすプレイヤーも多いため、新旧関係なくそれなりに売れる。
かく言う私も、屋敷を入手した直後は沢山買い込んだ。
ダンジョンでボスを倒した際に手に入れた家具を、戦利品として倉庫の中に並べたり、温室に希少な花の種を植え、家庭菜園には錬成で使う薬草などを植えている。
それらを欲しがる居住区エリアのノンプレイヤーキャラクターに、育ったものを渡して好感度や信頼度を上げ、それなりに交流してきた。
たまに貰える手紙は、メールボックスの中に入っている。他愛もない日常の事、また声をかけて欲しいと言うもの、次も頼むと言うものと様々だ。
現実世界で支払いの督促以外の手紙を貰う事がない私には、なんだか友人からの便りのようで嬉しく、最初の頃の物からずっと残している。
プレイヤーが存在する街エリアと違い、独特の雰囲気がある居住区エリア。
あまり広くはないその場所にいると、不思議な気持ちになった。
こちらから話しかけても返事はないが、どこからともなく聞こえてくる会話……人々が行きかう街の中に立っていると、異世界にいるような気分になれた。
まるで、部屋に居ながら異国街の中を歩いているような、そんな感じだ。
居住区エリアには街エリアとは別の店が並んでおり、ラインナップは交流によって変化する。
店舗の形態は様々で、住宅と店が一体化しているショップの他に、露天や、路地裏の怪しい雰囲気の占い屋、期間限定の行商人、不定期のテント型ショップなど。
利用出来る店もあれば、ノンプレイヤーキャラクターが立っていてクエストを貰えるだけ、と言うものもある。
中には、親しくなるとマイホームに尋ねてきて、たまにプレゼントをくれるキャラクターもおり、このイベントで貰える品は意外と使えるものが多い。大半は差し入れを持って来た的なシナリオなので、食品アイテムなのだが、稀に街エリアで販売されている高価なポーションの詰め合わせだったり、装備品の素材をランダムでもらえたりする。
ノンプレイヤーキャラクターには、信頼度や好感度が存在し、クエストの達成率でそれらは変動する。見た目に変化はないものの、挨拶や報告後にかけられる言葉が変わっていくので、最初はあいさつ程度の付き合いだったご近所さんが、次第に体調の心配をしてくれるようになり、気が付けば友達になっていたり恋されていたりと、様々だ。
定期的に会話やイベント、クエストが更新されるため、この変化を楽しんでいるユーザーも多い。
窓の外に広がる景色は、ゲームだった頃の街並みとは違って、鬱蒼と生い茂る木々が並び、森とも林とも言えないエリアを作っているように見える。
クエストをくれたノンプレイヤーキャラクターの姿もなく、私が購入した屋敷だけが居住区エリアから切り離されたような、そんな感じだ。
起きて食事をし、誰かと多少話して風呂に入り寝る。
そんな生活を繰り返し、二週間がたった頃……
食堂の日当たりのいい場所で、お気に入りらしいフカフカのマットを取り出し、その上に腰かけて日向ぼっこをしているフィラフトの近くで、食後のコーヒーを頂いていた私は、代わり映えのない毎日にさすがに飽き飽きしていた。
有料クジで入手したソファーは思いのほか座り心地がよく、温かな日差しもあって昼寝の場所にはいいなと感じたが、それも最初の三日間だけ。
今となっては、惰眠を貪るのすら飽きた。
「…………退屈です」
ポツリと漏らせば、もう一つのソファーの上で微睡んでいたリヒトが「ボクも」と言い、身体を起こす。
そして、ローテーブルの上に広げた白いハンカチの上に置かれた、ホワイトデーの配布アイテムであるイチゴ入りホワイトチョコを口の中に放り込み、湯気が消えたコーヒーで喉を潤す。
「やる事なさ過ぎて自分を殺したいぐらいだよ」
「ひいっ、それは待ってください!」
真顔のリヒトに顔が引きつる。さすがに慌てて止めれば、彼は「冗談だって」と笑った。
けれど、目は笑っていない。たぶん、半分ぐらい本気だろう。
「まぁ、テネーブルよりマシだとは思うけどね」
もう一つチョコを口の中に押し込み、チラリと窓際を見る。
そこには、窓枠に顔を乗せて外を見つめているテネーブルの姿があった。
「……今日は随分大人しいような」
「なにも いって きません のよ」
目を閉じたままフィラフトが言う。
「いつもは煩いからね。外に出せって、フィラフトさんの前でギャーギャーと」
リヒトの言葉にフィラフトの耳がピクリと動いた。
「さとりの きょうち という あなたがたの せかいに あった ことばを りかい しましたのよ」
あからさまな溜息にリヒトと私が苦笑いを返す。確かに、どれだけ可愛らしくても、毎日朝から晩まで「お願い、お・ね・が・い」言われながら追いかけ回されればそうなるだろう……
リヒトが「お気の毒様」と言えば、フィラフトが「めいわく ですのよ」と返す。
そんなやり取りも聞こえているはずなのだが……
話題の人物は窓の外を静かに見たまま、微動だにしない。
それが少し怖くて、私はコーヒーカップを持ったままテネーブルの背を眺めていた。
不意にメキリ……と、何かが折れるような音が聞こえ、フィラフトの尾が膨らむ。
「もう…………もう…………もうっ…………」
牛の鳴の声のように呟いたテネーブルに、全員の視線が集中した。
彼は顔を乗せていた窓枠を掴んでおり、音の発生源はその手元らしい。
窓枠は拉げており、もう少しで取れそうになっていた。
突然の事にフィラフトが立ち上がり、全身の毛を逆立てる。
「な なにごと ですの!?」
「どどど、どうしたの??」
同時に、私とフィラフトが声を上げるが、テネーブルはわなわなと肩を震わせるだけだ。
そんな彼を、遠い目をして眺めたまま
「あー……これは、まずいかも……」
棒読みで言って、サッとリヒトがソファーから立ち上がった。
そのまま足を進め、私の手を引いて食堂の出入り口へ向かう。
混乱している私が「え? え??」と短く尋ねれば、彼は「もうすぐわかるよ」と言うだけで足を止めはしない。
避難を開始したリヒトに、慌てた様子でフィラフトも続く。
扉を開け、後ろ足で閉める。――パタン。
音を立てて木製の扉が閉まった瞬間、ゴウッと聞きなれない音と共に隙間から漏れ出た風が熱を伝えてきた。
――もう我慢できない!
――ずっと家なんて嫌ー!
――なんでもいいから殺したいー!!
部屋から聞こえてくる叫び声に驚き、ポカンと口を開けていると
「爆発しちゃった」
食堂の方を指さし、リヒトがフィラフトを無表情で見つめる。
「し……………… しちゃった じゃ ありませんのよおおおおおおお!?」
廊下にこだました絶叫。中へ戻ろうとするフィラフトを引き留めていると、轟音が相槌のように入る。
食堂の有様を想像するのが恐ろしくなったのか、それとも諦めたのか。立ち尽くすフィラフトの横で私は、これは悪い夢じゃないかと頬を抓った。
けれど、肉に感じるのは鋭い痛み。追いかけるように、薄い痛みが皮膚に残って伝えてくる。これは現実だよと……
遠い目をして逃避を始めた私を、リヒトの一言が掴んだ。
「しょうがないよね」
投げやりな声に、何一つしょうがなくない。そう言いたいのに、口は動かない。
何かが燃える音や、物が倒れる音が聞こえなくなった頃、かろうじて立っていた扉が蹴破られ、けたたましい音と共に床に倒れた。
下から三分の一ぐらいの高さのところを足蹴にされたのだろうか。上等な板は無残にも折れていた。
「スッ……キリしたぁ~」
爽快感を感じさせる微笑みと、柔らかな絹糸のような髪を手の甲で払う仕草は、背景が花畑だったならきっと、食い入るようにして見つめて称賛する言葉を並べさせたかもしれない。
けれど、煤を払うような動きと背後に見える光景に絶句する。
言葉を失っている私とフィラフトを見て、テネーブルは握りしめていたらしい窓枠を叩きつけるようにして床に捨て、それを勢いよく踏みつぶした。床を踏み抜かんばかりの勢いの足が、時間差で衝撃と音をこちらにまで伝えた。
――高レベルになると、魔法職でも格下相手なら物理で倒せる。
ふと、ゲームだった頃の事が頭を過った。そう言えば、低レベルの敵をクエストで倒さなければいけない時、魔法を使うのが面倒で殴って倒していたな、と。
素手で試したことはなかったが、案外普通に倒せたのだろうか……
相変わらず棒読みで「ゴリラみたい」とリヒトが感想めいた言葉を呟くが、テネーブルの爽やかな笑みは崩れない。
「フィラフトさーん、修復お願いー」
コテンと小首を傾げ、甘えた声でフィラフトに言えば、ハッと我を取り戻したフィラフトがワナワナト身体を震わせた。
地を這うようなとはこういう時に使うのだろうか、と思わず考えてしまう程の低い声で
「な…… なんて ことを して くれて ますの……」
言い、掴みかからんばかりの恐ろしい形相でテネーブルをねめつけた。
けれど、今日は引く様子がない。酷く冷めた目で、口元にだけ薄く笑みを作り
「ごめんね、我慢が限界になっちゃって」
人差し指を唇の上に乗せ、甘く呟く。
その様子が妙に色っぽかった。けれどゾクリとするほど恐ろしく、ゴクリと唾を飲む。
フィラフトも同じなのか、警戒したように尾を膨らませて右足を少し浮かせた。
殺気だと気づいた時には、彼の掌の中に炎が現れ――
「そうだ、全部ぶっ壊しちゃおうか!」
名案だ。そう言いたげな明るい声に吸い込んだ息が「ひいっ」小さく鳴った。
「い いけません のよ!!」
「壊しちゃえば、外と一緒だもんね」
「はなしを きいて くださいまし!!」
「じゃあ、天井から――」
踊る時のように、彼は空に向かい左手を掲げる。炎が、まるで生き物のように揺らいだ。
――もう駄目だ。そう思って身を屈めた瞬間、気だるげな声が
「…………そう言えば、砂糖菓子をみつけたけど」
緊迫した空気を打ち破るかのように呟かれた。
「え?」
掌の中に生まれた深紅の炎は、シュポンと言う奇妙な音と共に消え、テネーブルが目を丸くして声の主であるリヒトを見る。
「いる?」
胸の高さで右手を広げれば、その上にポンッと包み紙が現れた。
指先で包みを広げていくと、中から一口サイズにカットした宝石のようなお菓子、琥珀糖が現れテネーブルの表情が輝く。まるで、蕾が花開く時のように愛らしさが増していった。
「え? 嘘!? 琥珀糖!!」
キャアと女の子のような声を出し、飛びつくようにリヒトの前に移動し、手元の宝石を覗き込んだ。
「残ってたの?」
「九個目の倉庫に三個だけ」
「たまに居住区に来る行商人が、在庫もないしもう仕入れる予定もないって言ってたから、諦めてたのに!」
「嬉しいの?」
「すっごく! ありがとう、リヒト!!」
包みの中の赤色をした砂糖菓子を指先で掴み、こぼれんばかりの笑みを浮かべているテネーブルに対し、私とフィラフトが顔を見合わせてポカンと口を開ける。
一触即発、と言う雰囲気はもうない。
ただ、なんだか疲れが押し寄せてきたような気がして、顔を見合わせたままハァ……と息を吐く。
「いが いたくて しかたが ありませんのよ」
フィラフトの呟きに、同意するように私は首を縦に振った。
まさか、ゲームを始めた直後に開催された、お花見イベントで配布されていた和菓子が危機を救うとは。そして、それが残っているとは思わなかった。
***
綺麗なものが二つ並ぶと、お店のディスプレイのように思えた。
けれど、マネキンよりも艶やかで、人形よりも艶めかしいそれは、ショーウィンドウに並べられたディスプレイと言うよりは、モデルのようにも見える。
ただし、衣服や装飾品を美しく着こなし、魅力をアピールしているわけではない。
中性的だが、少年だとわかる外見をして遠くを見つめているリヒト。そんな彼の首にまとわりつくようん腕を回し、頬を染めて嬉しそうに微笑んでいるのは、少女らしい身なりをした、テネーブル。
彼らは双子らしく似た顔立ちと髪の色をしているが、微かに青や赤が混じっている。
淡い紫苑色と、少し赤が入った薄い藤色。
表情にも差があり、華やかでよく微笑むテネーブルに対し、麗しいがどこか退屈そうなリヒト。
映像だった頃とは違い、二人の違いがありありと感じられる。
様々な事を頭の中で考えながら、食い入るように二人を見ていた私に気づき、テネーブルが天使の微笑みをくれた。
「どうしたの、エマちゃん?」
可憐な声が私の名前を呼ぶ。キュンと、胸に何かが刺さったような気がして、心臓が一際大きく鳴った。
琥珀糖と言う砂糖菓子を手に入れ、ご機嫌らしい彼は愛想を振りまけるだけ振りまいているのだが、口から溢れかけた言葉を我慢するのが大変で、顔が引きつる。
首を左右に振りつつ
「な、なんでもない、です」
と、答えてみれば「ふふふ、変なエマちゃん」とまた名を呼ばれた。その、ふふふと笑った声にまたキュンと何かが胸に刺さる。
心臓があるはずの場所を両手で強く押え、私は逃れるために不穏な空気を漂わせている方へと視線を向けた。
そこには、食堂の修復作業を終え、憤怒・激怒・立腹などと言った言葉が相応しいと思える表情をした、複数の獣の特徴を持つフィラフトが座っている。
「……………………」
目は座っており、発言はなくても「あなたの しゅみを うたがいます」と言われているような気がし、身が竦む。
頭が冷えたお陰で、口からあふれ出しかけた称賛の言葉は引っ込んだものの、なんとも言えない罪悪感や後ろめたさが胸の内に広がった。
テネーブルが炎の魔法で焼き尽くした食堂は、フィラフトの魔法で修復、修繕が行われ、終了した今は傷一つない状態になっている。
とは言え、その作業はかなりの集中力が必要で、フィラフトに魔力と言うものがあるのかはわからないが、疲れた様子でお気に入りのフカフカマットの上で少し前までぐったりとしていた。
さすがのテネーブルも申し訳なく感じたのか、リヒトから貰った琥珀糖を差し出したが、食べ物を必要としないと言う理由から拒否され、しょぼくれていたのは少し前の話し。
一粒お菓子を口に入れれば、花畑の花が一斉に咲いたかのような笑みを浮かべ、頬を染めて「幸せ……」と呟いた後、感極まったのかリヒトに抱き着いた。
うっとりと、口の中に広がる甘味に酔いしれるような顔をしている弟を鬱陶しげに一瞥し、溜息は吐いたが邪険にはせず、面倒くさそうにそっぽを向く。
そんなリヒトが意外に感じ、まじまじと彼を見つめてしまった。
「………………なに?」
視線に気づいたリヒトが私を見る。目が合い、思わず瞬きを繰り返し驚いた顔をする私にリヒトがフッ……と微かに噴き出す。
「なんで驚くの?」
「え、いや、あの、その」
「見てただけ?」
「…………」
小さく頷けば、楽しそうに「あっそ」と短く言って首に絡まったテネーブルの腕に触れる。
そして、一切の気遣いも躊躇いも感じさせない動きで引きはがし、
「いい加減、暑っ苦しいんだよね」
と言い放てば、彼の弟は眉根を下げた。
「むー……リヒトってば、もう少し優しく出来ないの?」
「無理。それに、フィラフトさんと話したいんだ」
「そっか」
なら、しょうがない。納得したように呟き、テネーブルが椅子に座り直す。
フィラフトが修復したソファーは、前と変わらず彼の身体をふんわりと受け入れた。
話したい、と言われてフィラフトが顔を擡げれば、ソファーから立ち上がったリヒトが目の前に立って屈む。
片膝を突き、寛いでいるフィラフトと同じ目線の高さで、
「ねぇ……出ても、平気なんでしょ?」
無駄を省き、端的に述べる。
その所作と声音は、まるで王子が姫を口説く時のようにも感じられたが、決定的に異なるのは彼の眼だ。
アイオライトの瞳の中は仄暗く、微かに苛立ちを宿して目前の獣を映している。
嘘を吐いたら殺す。騙したら殺す。偽るなら殺す。そう、暗に言っているように思えた。
そんなリヒトの発言を肯定するように、「ええ」とフィラフトが短く返す。
溜息交じりのリヒトの声に被さるように、勢いよく立ち上がったテネーブルが「ええええええ!」と叫ぶ。
とたんに、リヒトの表情が変わる。その眼にはもう、殺意など宿っていない。
***
開け放たれた玄関扉。室内に差し込む光は温かく、入り込む風が優しく頬を撫でる。
それだけでも心地よいが、開かれた視界に入り込んだ小さな花壇には、色とりどりの花が植えられており、そこだけをくりぬけば絵本の中の世界のようにも見えた。
同系色のタイルをバランスよく敷き詰めた道の先には、豪奢な門扉が一つ。
双子はそこへたどり着くことなく、見えない何かに弾かれたようにして倒れ込んだ。
「あきれて ものも いえない とは こういう ときに つかいます のよ」
皮肉ったように口元を歪め、前足で器用にある一点を指さしたフィラフトが言う。
示す先には、顔面を抑えて蹲っている双子の姿……
「かのじょ の ように せつめいは さいごまで きく べき でしたの」
彼女、とは私の事だろう。フィラフトの話しを聞いても、一人だけ飛び出さなかったからかもしれない。
放たれる言葉はどこまでも冷ややかで、私は口元を引きつらせててその光景を見ていた。
「な……んで……壁……」
「鼻……痛ーい……」
涙声の双子がそれぞれ声を上げる。
それに対し、「フンッ」と鼻から息を吐き、
「ですから にわ まで ですのよ」
そう言って、上げていた前足を降ろし、床を叩いた。
トンと、音と共に青白い光が広がり、見えない壁の位置で折り返し薄れ、消えていく。
それを目にしたテネーブルが、おもむろに身に着けていた装飾品の一つを外して投げた。
――カシャン。
音もなく弾き返され、タイルに落ちる。
その際に、鎖が音を立てた。
「……………………」
装飾品を拾い、無言でリヒトを見る。立ち上がり、リヒトが拳を叩きつけるが見えない壁を彼の拳が突き抜ける事はなかった。
「ヤバいぐらい痛い」
ヒラヒラと、掌を振って顔を引きつらせたリヒトに対し、テネーブルが顔を曇らせる。
「壊せない?」
「無理」
「魔法も駄目かな?」
「通らないと思う」
「試しちゃ駄目かな?」
「食堂燃やした後だし、魔力が枯れるかもね」
「むー……」
眉根が寄り、可愛らしい唇がへの字に曲がる。
ぶつけて痛むらしい鼻を左手で押え、渋々と言った様子で戻って来たテネーブルが
「お買い物に行きたいよー……」
心の底からそう思っているのか、感情を含ませて吐露する。
思わず抱きしめて頭を撫でたくなるような声音に、グッと唇を噛んで我慢していると
「ボクも、そろそろ狩りがしたい……」
リヒトが肩を落として呟いた。
二人とも、心の底からそう思っていると言った様子だ。
とは言え、私にはどうする事も出来ない。そのため、三人の視線は自然とフィラフトに集中するのだが……
「かべが きえましたら おつたえしますの」
淡々と言って、踵を返す。
三人それぞれの返答を待たず、来た道を戻っていくフィラフトの背を眺めたまま、リヒトが大きく溜息を吐き、テネーブルが不満げに「えー……」とこぼした。
「に……庭でも、散歩……します?」
控えめに、あれこれと考えた中で一番無難そうな言葉を選んでみたが、ショックの大きいテネーブルは小さく首を振る。
「ごめんね、エマちゃん……誘ってくれるのは嬉しいんだけど、ちょっと今は冷静じゃないから……」
躊躇いがちに返され、彼は肩を落とした。
そして、悲し気な笑みで手を振り
「今日は部屋でのんびりしてるね」
そう言い残し、ヒラヒラと手を振り去って行く。その背中に哀愁を感じるのは、きっといつもの明るく華やかな雰囲気が消え、しょんぼりとしているからだろうか。
「………………花でも渡したら、機嫌直るかな?」
弟の背中を見つめたまま、リヒトがぶっきらぼうに言う。それなのに、どこか優しく感じられたのは、彼の細められた目元のせいだろうか。
しかたないな。と言いたげな兄の眼差しは柔らかく、返答を待つリヒトが私を見た。
「直る、と……思います!」
弟を思うリヒトの態度に胸を打たれた私は、力強く頷いた。