紫苑色の宝物 3
「……………… なにを していますの?」
頭の上から、淡々とした声が降り注ぐ。
泣きそうな顔で見上げれば、一瞬たじろぐように身を引き、けれども頭を振ってフィラフトは表情を戻した。
そして、もう一度同じように
「こんな ばしょで なにを していますの?」
質問を繰り返す。
こんな場所。それは、私が逃げ込んだ小部屋の事だろう。窓がなくて明かりが少ないため薄暗く、並んでいるのはインテリアのような小瓶。更にそんなところで膝を抱えて丸まっていたら誰だって疑問に思うはずだと頭ではわかっている。
けれど、問いに返す言葉を探すも、浮かんだ幾つかの単語を口にする勇気はなかった。
特別親しいわけでもなければ、職場の同僚でも、近所の人でも、ましてや友達でもない。
知り合ったばかりの、それもよくわからない立場の存在だ。
「………………」
黙っている私に対し、困ったように目を閉じ息を吐く。
「ふたごは しょくどう ですのよ」
案じているであろう事が容易に想像出来たのか、それとも気遣いからか。フィラフトはそう言って前足で床を蹴る。
かすかな光が模様を作り、現れたのは食堂で使っていたモコモコしたマットだ。
その上にゆっくりと腰を下ろし、フウと一息ついた後
「あなたも なんぎな かた ですのね」
表情が和らぎ、穏やかな声音が言葉を紡いだ。
「しょうさんの ことばを きらう ようには みえませんの」
戸惑いはするだろうが、と続けてフィラフトが笑みを作る。
けれど、素直にその言葉を受け入れられなかった。理由は、見開かれたアイオライトの瞳。
その中にあった、困惑の色。
「きっと、気持ち悪がられてます……」
「なぜ?」
「だって……私、笑顔が可愛いとか……男の子に言う事じゃないですし……」
「きずつける ような ことばでは ありませんのよ」
「素敵とか、それに………………私の……リヒトって……」
最後の言葉を思い出し、両手で顔を覆う。モゴモゴと口の中で消えたのは、所有を意味する音。
それに対し、フィラフトは当然だと言いたげに頷く。
「まちがっては いませんの」
「でも……」
「でも も だって も あなたの なかの ことですの いいわけなど わたくしにも かれらにも むかんけい ですのよ」
ピシャリと言い放たれ、続きの言葉をグッと飲み込み押し黙る。
確かにそう、言い訳は後付けの事情説明。フィラフトにどれだけ丁寧に話しても、言動の正当化を図っても、言ってしまった事は取り返しがつかないし、訂正する前に飛び出してきたのだから、双子に悪感情を抱かれても仕方ないだろう。
そもそも、言い訳すべき相手が違うのだから。
私は、弁明すると言う選択肢を破棄した。リヒトが不快感を感じたのなら、そこから生まれる苛立ちを甘んじて受けるべきだと、頭はわかっている。けれど、……心は竦んだ。
彼の視線が、表情が、厚意を失い軽蔑を宿す瞬間を見るのが怖い。
「嫌われたくない……」
涙と共に、本音が漏れる。
――私のリヒト。
この言葉の意味を自覚した瞬間、自分が酷く醜く思え、おぞましいとさえ感じてしまった。
お前は私の所有物だ。
”家族のように”と言いながら、私は心のどこかでずっとそう思っていたのだろう。
彼らを利用し、自分を慰め、都合よく扱って、誰かと繋がっている気になっていた。
物ではないと言いながら、心の奥底では物扱いしていたのだ。神様に身体を貰い、仮想ではなくなった彼らに対しても、ゲームだった頃と同じように「お前は私の物」と、言ってしまう程。
否定の言葉を心の中で繰り返す。けれど、瞼の裏に焼き付いたリヒトの顔が、私を責めた。――嘘つきだと、言われているような気がした。
「……………… こどくは かんせいを ねじまげます のね」
僅かな間をおいて、フィラフトが溜息交じりに呟く。顔を上げれば、全てを見透かすように澄んだこげ茶の瞳が私を見据えていた。
「ひとと ひととの かんけいは いちや にして できあがる ほど よういな もの では ないと わたくしは おもいますのよ」
「………………」
小部屋の中に、凛とした声が響く。
「ながい こどくが あたの しやと せんたくを へらして いますの もっとよく めをあけて こころをひらいて ごらんなさい おくびょうは わるいこと では ありませんが よいこと でも ありませんのよ」
「心を開くって……私は……」
閉ざしているつもりはない。かと言って、開いているかと言われれば答えに詰まる。
ただ、臆病な自覚はあった。
違うと言い切れず、目を伏せる。すると、察したらしいフィラフトが困ったように笑んだ。
「かれらは あなたを きらって いませんのよ」
「物扱いするような人間なのに……?」
「ものに たいする しゅうちゃくを こえて いたからこそ ル・ティーダは かれらに にくたいを あたえることが できましたのよ」
「…………嘘、…………嘘……」
泣きながら頭を振る。
そんな私の肩に、触れるようにフィラフトが右の前足を乗せた。
「はじめに わたくしは こう いいましたのよ? あなたのことを しっている と あなたが どれだけ かれらを たいせつに していたかも もちろん ぞんじて おりますの」
「………………どうして?」
その問いに、「不快に思うでしょうが」と前置きをし、穏やかな声音で話し始める。
「かこを あばいた ひれいは わびますが ひつような ことでしたの わたくしの やくわりは あなたを ささえること なにも しらぬまま あなたを しえん するなど できるはずが ありませんの ですから あなたが あなたと なるまでに とおった みちを みさせて いただきました」
「見た……?」
「ええ…… あなたが ひとりに なる しゅんかんも あなたが それを だっそうと あがいて いた ころの ことも あきらめた ときの ことも すべて ……かおを おぼえてもらえず ふぼが つけた なを まちがえられる ことに かなしむ あなたも しっていますの なんども わすれられる きょうふは あなたを いくどとなく おいつめましたの」
まるで見て来たかのように、懐かしむように目を細めるフィラフトに言葉を失う。
涙が止まり、代わりに古傷が血を流しながら痛んだ。ジクジクと、ジクジクと。過去の苦しみを思い出させるように。
学生時代、出欠の確認を取る教師に何度も忘れられた。列の先頭から回答を行うと決められているのに、私の順は飛ばされ、プリントが配られなかった事も多い。
そこに居る事を不思議がられ、いてもいなくても同じようにクラスは回る。自分が空気になったような気がして、必死に「ここにいる」事をアピールするようになった。けれど、大声を出しても髪の色を派手にしても、注意される事はない。校則を破っていても、目を付けられる事はなかった。
虚しさが芽吹き、次第に口数が減った。好きな人にぐらい気づいてもらおうと手紙を書いてロッカーに入れても、「三好って誰だっけ?」と意中の人は首を捻るばかり。
私だとわかっても、思い出せない様子で「ごめんね」と告げられた。――死にたくなった。
首を吊ろうとした、包丁で喉を刺そうとした、カッターで手首を切ろうとした。そのたびに宅配便が届き、間違い電話が携帯を鳴らし、近所の老人が家を間違えてやってきた。何度も邪魔が入り、死ぬ事すら出来ないのかと諦め、死んだように生き続けた。
「こどくに あなたは たえた たしゃを きずつける ことを えらばず ……それが かそうという げんじつではない ばしょへ すがりつく ことでも こころの あなを うめるためでも ……まえを むいて あなたは ふぼから あたえられた ものを かれらに かえして いましたのよ」
フィラフトが私の眼を見て微笑む。その表情は、天使を描いた絵画のように清らかで、慈愛に満ちていた。
「あなたは かれらを こころのそこから いつくしみ あいしていた たましいを やどさせる ほどに つよい しゅうちゃくが うまれ かれらは それを かんじ ル・ティーダの こえに こたえましたの」
リヒトとテネーブルは、”エマ”と暮らす事を望み、男神の呼びかけに答えたのだと言うフィラフト。
それが信じられず、私は震える声で「なんで……」とこぼした。彼らが私を好んでくれているのは、AIの設定のはずだから。
彼らが生きた人間だったなら、きっと私の事を鬱陶しがっていたに違いない。似たような言葉で毎日誉めそやす私は、大層喧しかっただろう。煩かっただろう。
嫌われてもおかしくない事ばかりしていた。それなのに、慈しんでいた、愛していたと言う表現をされるのには違和感があった。
けれど、胸の内にある”この”気持ちを否定したくはない。
彼らを大切だと思うこの気持ちは、本物だと。大事に思っているのは嘘じゃないと。
”私の大切な宝物”なのだと、叫びたかった。
また泣き始めた私の頭を、フィラフトは何も言わず器用に前足を使って撫でてくれた。
「その きもちは ほんもの ですのよ」
優しさに、古傷の痛みが消えていく。
異世界は、私が過去に失ったものをくれているような、そんな気がした。
***
私の涙が止まるまで慰めてくれたフィラフトに連れられ、戻った食堂。
不安を抱えて廊下を進み、もう少しで食堂につくと言うところで、扉の前に佇む双子に気づいた。
彼らは私に気づき、手を振ってくれた。その様子は、失言前と変わらない。
物扱いしてごめんなさい。急に変な事を言ってごめんなさい。
謝罪の言葉を口にし、頭を下げた私に一瞬ポカンと口を開け、
「――え? 気持ち悪くないよ?? ね!」
肩の高さに上げた手を広げ、”そんな事ない”とリヒトが首を横に振る。
そして、同意を求めるように隣を見ればテネーブルが勢いよく頷いた。
「全然! むしろ、褒められるのはすっごく嬉しい!」
鎖骨の高さで組んだ手に頬をつけ、花が綻ぶような笑みをくれたテネーブルにホッと胸を撫で下ろし、不意に隣から聞こえてきた鼻を鳴らす音に視線を向ける。
「けねん じこうは なくなり まして?」
「は、はい」
「わたくしは しんじつ しか いいませんのよ」
倉庫兼荷物置きの中で話した時の柔和な雰囲気はなく、どこか刺々しさを感じる物言いに思わず声が裏返った。
「それにしても ほんとうに ひとさわがせな かたですの」
同一人物なのか疑いたくなる、皮肉ったような顔に何度も瞼を擦る。
けれど、その声音はどこか優しい。
倉庫兼荷物置き場で、私の涙が止まるまで慰めてくれたフィラフトのままだ。
不意に、親友の姿と重なる。似ても似つかない姿と物言いなのに、何故だろう。
彼女もよく、後ろ向きになってばかりの私の背中を押してくれていた。
懐かしさと、一握りの温かさが胸の中に広がっていき、私は心地よさを感じていたのだが……
「それにしても なにか におう ような……」
不意に、鼻孔を擽る奇妙な臭いにフィラフトが顔を顰める。同じように私も鼻を摘まみ、発生源らしい場所を探せば、食堂からのような気がした。
廊下側の扉に異変はない。思わず首を捻るが、子供の頃の記憶が何かを訴えてくる。
お香好きの母が棚の上に置いていたライターを使って、折り紙を燃やした時のような……焦げた匂い。
嫌な予感がした。
「まあ とにかく なかに はいりましょう」
そう言って床を前足で蹴れば、幾何学模様が波紋のように広がり、ぶつかった扉がキイ……と音を立て動く。
けれど、動いた瞬間視界に飛び込んだ光景に私とフィラフトは思わず絶句した。
数十分前、パンプキンパイを昼食に頂いた場所とは似ても似つかない――黒く焦げ、煤けた部屋。
家具の大半は無残にも砕け、床には穴が開いていた。天井も、ところどころ割れている。窓ガラスは床に散らばり、カーテンだったものは半分以上燃えていた。
調度品の殆どが破壊の限りを尽くされており、思わず二度、三度と確かめるように目元を擦って部屋を見るが、夢ではない。現実だ――
「ひいっ……」
隣のフィラフトが一歩後退り、短く息を飲んだ。
それに対し、向き合う形で立っていたリヒトが後ろを振り返って室内をチラリと見た後、目を泳がせて頬をかいた。その隣で、照れくさそうにテネーブルが両頬を抑える。
「えーっと……やり過ぎた、かも」
「盛り上がっちゃって……えへ」
可愛らしい声が漏れるも、フィラフトの反応はない。私はと言うと、誉めそやす言葉は浮かびつつも心が引いていた。
双子が何をしていたかの予想はつく。きっと、軽口の冗談をどちらかが本気にし、テネーブル放った火の魔法をリヒトが避けた結果なのだろう。
放たれた火は家具類を燃やし、それをリヒトが武器として利用したのか、投げた物をテネーブルが避け、壁にぶつかり壊れ……ではないかと流れを想像していると、ワナワナとフィラフトの身体が震えた。
「めを はなした しゅんかん これ とは……」
「あ、あの……」
落ち着いて、と言いかけて息を飲む。口元に覗く獣の牙……今にも双子に食いつかんと殺気立っている。
さすがの双子も気まずそうに頭をかいたり、俯いているものの
「だって、ボクが変な事しようとしたからエマが逃げたって、テネーブルが……」
「リヒトがナイフを投げて来たから、つい……」
もごもごとハッキリしない物言いに、フィラフトが眼を鋭くさせ睨む。その迫力に、全員の背筋がピンと伸びた。
「だっても ついも この さんじょうの いいわけには なりませんのよ! よくも いちばん ひのあたる ばしょを ぐちゃぐちゃに……!!」
キイッと喚き、フィラフトが前足を二回床に叩きつけた。すると、今までとは異なる色をした光が幾何学模様を描き始め、反対の前足で床を軽く叩けば、模様は大きく広がった。
広がっていく光は、食堂の中を進む。すると、時間が巻き戻るかのように椅子の足がくっつき、元の場所へとクルクルと回りながら戻って行った。
「嘘っ、なにこの魔法??」
テネーブルが驚き、声を上げる。目を瞬かせ、扉の前に立って食い入るように中を見る。その横で、リヒトが興味深そうに顎に手を当て、フィラフトと部屋を交互に見やる。
「凄い、焦げがなくなったよ!」
「カウンターテーブルのナイフの穴、塞がっちゃったね」
割れたガラスもフワリと浮いて窓に張り付き、焼けたカーテンは元の長さまで伸びていく。
床の穴が補修されていく中、ポカンと口を開けて目を見開く私たちを他所に、フィラフトはスタスタと食堂の中へと進んでいく。
そして、もう一度床を前足で叩き、取り出した魔法のフカフカマットの上に乗った。
「つぎの しょくじの じかん まで たちいりを きんじ ますのよ!」
クワッと口を開き、威嚇するように尾を膨らませる。
その迫力にテネーブルが後退りした。
「えーっと……ご、ごめん?」
「ごめんね……」
その気迫に気おされ、双子の口から謝罪が零れる。
けれど、フィラフトの怒りは収まらないらしく、トンと前足で床を叩いた瞬間、荒々しく扉が閉められた。
――バンッ! と目の前で閉ざされた扉に、テネーブルがビクリと身を震わせ、短く「キャアッ」と女の子のような驚きの声を上げた。
「おかんむりだね……」
リヒトの言葉に短く頷く。
食堂の窓際はフィラフトのお気に入りの場所。
そう確りと心に刻み、私たちはひとまずゲームだった頃に皆が集まる用に使っていた部屋へ向かう事にした。
二階に続く階段のある、大きな鏡を設置したその部屋をリビングや居間と呼んでいいいのか考えながら廊下を進む。
***
双子を始め、各キャラクターたちの部屋があるのは二階だ。
上の階に繋がる階段。その一段一段に敷かれた、ゲームのマスコットキャラクター”ハリー”の足跡柄の階段マット。くつろげるようにと設置した淡い緑のソファーの上には等身大の”ハリー”ぬいぐるみが置かれ、足元に敷かれた楕円のラグマットには笑顔で花を差し出す”ハリー”が描かれている。
テーブルクロスの上では、果物を追いかける可愛らしい”ハリー”の姿。棚の上の花瓶にも、ティーカップにも、ポットにも。ハリー、ハリー、ハリー。
ハリー関係の調度品を並べたその部屋は、他に比べると随分可愛らしい、女の子の雰囲気のある場所になっていた。
「じゃあ、上でシャワー浴びてくるねー」
そう言って、足音を立てながら階段を上る後姿は、どう見ても年頃の少女だ。上機嫌でトントンと登っていく彼の足の動きに合わせ、揺れるスカートから覗く白皙の足。いけないものを見てしまった気がしてドキドキしてしまい、顔を反らした。傷一つない滑らかな肌が魅力的に見え、思わず口元を抑える。
「……………………負けた」
ポツリと呟かれた言葉に視線が吸い寄せられた。そこには、右手をチョキにしたままソファーに座っているリヒトの姿が……。
顔には”不満”と言う文字が書かれているように見える。
「い、一階のお風呂も……使えます、よ?」
おずおずと伝えるも、首を横に振られてしまう。
「やだ」
「え、でも……煤が気持ち悪いって……」
「一階は女性用でしょ? ボクは男なんだから、やだ、無理。二階のを使う」
そう言って、あからさまにハァ……と溜息を吐いてチョキにしていた手を降ろす。近くにあったハリーのぬいぐるみをギュッと抱く姿は、整った容姿と相まってオトメンなのだが……
「八つ裂きにしたい」
おやつ食べたい、と言うような感覚で呟かれた言葉に息を飲む。
煤のついた身体をどちらが先に洗い流すか。殴り合いに発展しそうなやり取りを、じゃんけんを提案する事で回避出来た私はホッと胸を撫で下ろしていたが、負けた方をどうするかまでは考えていなかった。
内心焦りつつ、周辺の棚を漁る。中から現れるのは、どれもこれも”ハリーグッズ ミニ”と呼ばれる、引き出しに入れる事が出来る飾り類だ。
持ち手の部分にハリーがついている銀食器、ハリーのお腹が鏡になっている手鏡。持ち運びできるコンパクトに、腕時計も。この部屋にあるものすべてにハリーがいる。
その中の一つが懐かしく、手に取る。すると、シャラリとチェーンが音を立てた。
「ん……?」
音に反応し、リヒトが私の方へ顔を向ける。
「なにそれ?」
「え? あ、はい。かなり昔のクジ品ですが」
両手の指で摘み、リヒトの方へとハリーが向くようにすれば、「あ」っと短い声が聞こえた。
抱きしめていたハリーのクッションの上に顎を乗せ、
「それって、ボクの服と一緒に実装されたアクセサリーだよね?」
と、肩の布を掴み引っ張る。
銀色の名刺サイズのプレートに、花を手にしたハリーが照れた顔で描かれているネックレス。
懐かしがるリヒトの無邪気な笑み。
それを目にした私の頭に、朝見た夢が過った。
「コートには合わないって、言われたなぁ……」
無意識にこぼした言葉に、
「言われたねー」
と、リヒトが答える。
「………………!」
返答に驚き、目を瞬かせた。すると、またふくれっ面に戻った彼がへの字の口を開く。
「エマの友達、名前は確か……アイリーンだっけ? アイリだったっけ……どっちでもいいか。あの人、結構ズバズバ言うよね? 似合わないとか、微妙とか。女子っぽいとか。…………テネーブルじゃないんだし。まぁ、動くのに邪魔なのは当たってたけど」
「………………」
「なんで驚いた顔してるのさ。エマだって聞いてたでしょ?」
「え……あ…………」
うん、とは言えず困惑する。
夢の続き、ではなく昔の話し。
オンラインゲームを始めて一ヶ月経った頃、ランダム型アイテム提供方式の課金アイテムが販売されている事に気づいた。
ゲーム内ではプレイヤーから「クジ」と呼ばれており、ラインナップを公式のwebページで確認すれば魅力的なコスチュームが並んでいた。
女性向けの可愛らしいワンピースに、SF風のメカニックなスーツ。お洒落な街で見かける男性向けコート。どれもが魅力的で、自分のキャラクターに着せてみたくなった私は、財布を片手に際限なく現金をつぎ込んでいった。
けれど、欲しい色のコスチュームは一向に当たらない。
音声チャットをしながらクジを引いていた事で、通話相手の親友がさすがに待ったをかけ、他の入手方法を提案してくれたのだが、その時にはもう大量のアイテムが倉庫の中に入っており、そのうちの一つが”マスコットキャラクター、ハリーのカード型ネックレス”だ。
キャラクターを変えて戻って来た私は、”エマ”ではなく”リヒト”を操作し、コスチュームを変更した。手に入れた装飾品を付け、友人である愛理が操作する”アイリーン”と言うキャラクターの前に戻ったが、開口一番「うわ、邪魔そう」と”ハリーのネックレス”について指摘を受けた。
動くたびにぶらぶらと揺れるハリーは、ジャンプのたびに顔の前と胸の上を行き来する。それが、キャラクターの視点で考えれば確かに邪魔で、結局誰にも使われる事無くハリーグッズ部屋の引き出しの中に保管される事になったのだが……
「どうして……知ってるの……?」
戸惑いが、口を動かした。
あの時、まだリヒトはただのキャラクターで、AI化はさせていなかった。
戦闘用の固定コスチュームを今の紺色のコートに決めた後、ゲーム内で使用できる有料ポイントに余りがあったため、試しにと課金アイテムを購入し登録したのだが……
「……………………んー……説明って、なんか苦手なんだよね」
抱きしめていたハリーのぬいぐるみを元の場所に戻し、リヒトが腕を組む。
そして、目を閉じ眉間に皴を刻んで小さく唸り、
「たぶん、エマが思っているよりもボクは、ボクの事を覚えてるのかも?」
疑問形で告げられた言葉に目を瞬かせれば、アイオライトの瞳が細められ、美しい笑みが私に向けられた。
「うん、忘れてないっぽい。迎えに行ったら毎回褒めてくれるし、そう言う点では変わってるよね、エマって」
「へ!?」
「最初は何を言ってるんだろうって、わけわかんなかったんだけど。やたら好き好き言われるし、可愛いとか格好いいとか、素敵とか。どこで覚えたんだろうって言葉まで使うから、次はどんな褒め方するのかなって、興味がわいたんだよね」
恥ずかしくなるような事も言われたけど。と照れ臭そうにリヒトが頬をかく。
驚愕が、私の心音を一際大きく鳴らした。
血液を送り出す勢いが増し、ドクドクと強く脈打つ。リヒトに、聞こえてしまいそうな程、心臓が煩く音を立てた。
両手で胸元を抑え、落ち着かせようと試みる。握っていたハリーのネックレスがシャラリと音を立てて揺れた。
冷静さを取り戻せないかと深呼吸を試すが、空気を吸っているのか吐いているのか、もうわからない。口がパクパクと動くだけだ。
羞恥心が、顔を染めていく。きっと、耳まで赤くなっているだろう。
腰かけていたソファーから立ち上がり、リヒトが一歩足を踏み出す。一歩、一歩と。そして、混乱する私の前に立って、顔を覗き込み、
「”宝物”なんでしょう?」
「な、なんで、それを!?」
慌てる私に、リヒトは口角を上げて笑みを向けた。
「なんでかな? 忘れっぽいけど、エマから言われた事は結構覚えてるんだよね。指の使い方が綺麗とか、ナイフを投げる時の鋭い目つきが色っぽいとか」
結構思い出せるよ、と無邪気に言われ顔から火が出そうになる。
両手で顔を覆い、穴を掘って埋まりたくなる気持ちを堪える私に向かい、リヒトが言う。
「ボクも、エマを宝物だと思ってるよ。特に、その濁ってない目が、気に入ってるんだ」
蠱惑的な笑みの中、指の間から見えたアイオライトの瞳がかすかに歪んだ。
宿っているのは、嗜虐心だと頭のどこかで自分が答える。けれど、魅力的な少年を前に見惚れてしまった私は動けない。
少年らしい、けれども色気を感じさせる甘い声音が耳朶を震わせ、心を捉えたからだ。
宝物。そのフレーズが脳内でリフレインする。
ただ、気分は蛇に睨まれた瞬間の蛙だ。
――殺すのなら、一思いに殺してほしい。そうでなければ、穴を掘って埋めてくれ。
恥ずかしくて頭と心が今にも爆発しそうだ。
***
目の前で星がチラつく中、けたたましい音が静かな室内に響き、二度目の衝撃が顔面を襲う。
その音の発生源が自分で、混乱が脳内物質を大量に発生させた結果、擦れた皮膚や打ち付けた個所に灯った痛みも、気にならず……ただ、何が起こったのかわからないと、疑問符が頭の中を闊歩していた。
「………………凄い音がしたけど、平気?」
頭にタオルを巻き、湯上りの上気した頬が色っぽいテネーブルが顔を引きつらせ、階段の柵を掴んでこちらを見据える。
二人掛け掛けのソファーをひっくり返し、顔を上げた半泣きの私に気づきいた彼は、ギョッと目を見開いて階段を駆け下りてきた。
素足なのか、足音がほとんどない。
「どうしたのエマちゃん!? リヒト? リヒトが投げ飛ばしたの??」
混乱交じりの声が頭の上からかけられ、次いでほっそりとした腕が頭に巻かれているタオルに伸びた。
白い布を掴み、焦った様子で私の顔に押し付ける。鼻の辺りを摘ままれ、短く「ふぐっ」と漏らせば、「ごめんね、でも我慢して」と声をかけられた。
すると、テネーブルが手にしていたタオルに赤いシミがじんわりと広がっていく。
ああ、鼻血が出てたのか。
ぼんやりとする思考が、赤色を見て答えを出す。
そう言えば、鼻骨が痛い。折れていたらどうしよう。
されるがままになっている私の背後で、氷のように固まっていたリヒトがハッと我に返り、慌てて掛け寄り背中を擦る。
「な、なんで自分からソファーに飛び込んだの!?」
彼もテネーブル同様、酷く驚いているらしい。
それもそうだろうと、鼻を抑えられながら考える。
ほんの数分前。宝物だと思っているとリヒトに告げられた私は、脳内を縦横無尽に闊歩する混乱に耐えるのに必死で、口から飛び出しかけた心臓を抑えるように顔を覆って固まっていた。
正直、ミサイルを身体に打ち込まれたような衝撃だった。ドラマやアニメの告白シーンのような展開が、よもや自分の身に起こるとは思わなかった。
指の間から覗くリヒトの瞳が、自分をずっと見ている事に気づく。
視線から逃れるために二歩ほど後じさったのだが、彼はそんな私を逃すまいと手を伸ばしてきた。
そして、髪の一房を取って唇を落とし、「エマの全部はボクのだからね?」と、まるで恋しい人にかけるような甘やかな声音を、耳元で囁かれ……
心と頭が爆発した。文字通り、ドカンと音を立てて。
冷静だったなら、彼の言葉の意味を察する事は容易だっただろう。所有の宣言のような音に含まれるのは、愛でも恋でもない。ほんの少しの冗談と、「いずれボクが殺す」と言う決定だ。
彼の性格と、自分が書いた設定を考えればすぐにわかる事だが……
家族以外の異性に触れられたのが小学校以来と言う私には、雷に脳天を射抜かれたような気がした。
冷静さを欠いた私は、前後左右の確認を怠り駆け出して、二人掛けのソファーの背もたれ部分に飛び込んでしまい、そのままひっくり返った。
その時、強かなに鼻を打ったのだが、視界を乱舞する星々と、大量の脳内物質により興奮した私には痛みが感じられなかった。むしろ、何故ソファーの背もたれに向かって突撃したのかも理解出来ず、混乱が混乱を呼んで顔を上げれば二階から覗く顔と目が合う。
自分を見て目を瞠ったテネーブルの声と、駆け下りてくる音。そして…………今に至る。
「自分からって、なんでそんな自爆行為を……??」
「知らないよ!? ちょっとからかったら、飛び込んで行って」
「リヒトのせいじゃない!!」
「ボクがごめんなさい!?」
テネーブルの非難の声に慌てたリヒトが叫ぶ。
狼狽えている彼に鼻声で「大丈夫」と伝えるが、「大丈夫な人は大丈夫だって言わない!」とテネーブルに言い切られてしまった。
「とりあえず、立ち上がれる? ちゃんと座ろう? ね?」
優しく声をかけられ、倒れていない三人掛けのソファーに案内される。
腰を下ろせば、隣にテネーブルが座った。タオルを取って確かめるような視線が鼻に向けられる。
「うーん、パッと見だと折れてはなさそうだけど、一応回復魔法使っちゃう?」
「…………え?」
「ポーションでもいいけど、どっちがいい?」
「ま……魔法……?」
語尾に疑問符を付けたものの、テネーブルは「魔法がいい」と受け取ったらしく、
「魔法ね、任せて!」
パチリと片目を閉じ、ハートが飛んできそうなウインクに心臓がドキリと跳ねる。
そして、スッ……と表情が変わる。いつになく真剣な眼差しに息を飲んだ。
「――其は嘆きなり、其は憂いなり。我は大気の王に従うもの。息吹を知る、誇り高きもの。癒しの風よ、望みを叶えたまえ。愛しきものを慰める、力となれ」
唱え終わった言葉が、可思議な力を生む。
暖かな風が肌を撫でれば、熱を宿した皮膚や骨の痛みが消えていった。
血も止まり、ついでにと言わんばかりに手や服を汚していた赤も色を失う。
綺麗になった掌に驚き顔を上げれば、濡れたテネーブルの髪が風に揺れ、浮いた雫に光が反射しキラキラと輝いていた。
それがあまりにも神秘的で、女神のように見えた。
特に、ガーネットを埋め込んだような澄んだ瞳から目が離せない。
「ま、待って…………あの…………近い……」
真摯な表情が崩れ、テネーブルの白皙の頬が赤く染まる。
そして、微かに身を引いて視線を足元に落とした。
「え? …………………………ご、めんなさ!?」
指摘を受け、自分が吸い寄せられるように近づいていた事に気づき、慌てて掛けていたソファーから立ち上がれば、ゴンと後頭部が何かと接触した。
また、目の前に星がチラつく。
「ひぐっ!!」
「んぐっ!?」
微かに遅れて声が聞こえ、後ろにいたリヒトが顎を抑えてふらついた。
「あー……」
痛そうだな、と思ったのだろうか。テネーブルが発した声の語尾が次第に弱まっていく。
「…………ご、ごめんなさ……い……」
痛む個所を抑えリヒトに謝罪をするも、彼はぶつかった場所を抑えたまま静かに私を見据えている。
それが、背筋に冷たいものを走らせた。指先から血の気がなくなり、全身が凍り付いたように身動きが取れない。
――ああ、私……今度こそ死ぬのかな……
ぼんやりと考えていると、リヒトがポツリと「痛くない……」と漏らす。
その声に、テネーブルがキョトンと目を丸くした。
「もしかして」
テネーブルが私の頭を確認する。そこには、たんこぶが一つ。
リヒトが抑えた掌を離せば、そこには傷のない顎。
「体力、減ってないよ」
衝撃は感じたし、驚いたけどと付け加えたリヒトにテネーブルが顔を顰める。
「レベル下がってるね」
躊躇いがちに言われた、現実感のない台詞。
どうやら双子曰く、私はかなり弱くなっているらしい。
***
レベリングは嫌いじゃなかった。
淡々とした作業は現実を忘れさせてくれたし、ダンジョンに籠れば経験値は自然と増え、カンストと言われるレベル上限に達するのは早かったし、実装された転生システムも”エマ”以外は終了させている。
転生クエストに必要なアイテムを集めるのも楽しかった。
公式サイトを見て、効果範囲が広がる聖化転生か威力上昇の狂化転生か散々悩み、けれど終わらせてみれば後悔などなく、転生する事で増えた能力やスキルを試すのも面白くて色んなダンジョンを踏破したのはいい思い出……なのだが。
「………………もしかして、錬金術のレベルも下がってるのかな?」
腕を組んで首を傾げたテネーブルに、リヒトが「うーん……」と短く唸る。
そして、私の前に左掌を突き出し
「とりあえずエマ、全力で殴ってみて」
と、リヒトが真面目な顔で言う。
殴れ……と唐突に言われ困惑していると、早くと言いたげに顎で示された。仕方なく拳を作り、利き手で殴りつけてみる。
――ペチッ。
皮膚が接触した際の乾いた音が響き、リヒトの額に皴が刻まれた。
「……………………それ、本気?」
硬い表情に怖くなり、勢いよく首を縦に振る。「そうだ」と言わんばかりの私の動きに、リヒトがテネーブルを見て口を引き結んだ。
彼の言わんとした事を理解したのか、愛らしい顔を曇らせ
「気づいてよかったかも……」
と言って唇の下に軽く触れ、戸惑うように眉をハの字に下げた。繊細さを感じさせるその動きに、思わず抱きしめたくなるような、守りたくなるようななんとも言えない感情がフワリと胸の内に沸く。
けれど、次の発言でその考えは消し飛んだ。
「ワタシの物理でもエマちゃん、死んじゃうかも……?」
ヒュッ……と、息を吸い込んだ喉が鳴る。
テネーブルの発言を聞いたリヒトが同意するように頷き、
「ボクらの遊びに巻き込んだら、大変な事になるね」と息を吐き、当分は暴れないようにしようと提案する。それに、愛らしい少女の姿をした弟が首を縦に振った。
特別、何かスポーツをしていたわけではなく、趣味もインドアなものなので筋力がない事はわかっている。
体力も大してついていないだろう。接客業なのでそれなりに動くが、学生時代に比べれば落ちているし、職場と自宅の行き来で体力が付くとは思えない。
足はそれなりに早いつもりだが、同世代の男性と比べれば全然かもしれない。
極々普通の、二十代の女性でしかない私なのだが、双子のイメージは105レベルの防御力が高い”エマ”だったらしく、腕力も筋力も体力もない事に動揺を隠せない彼らは、まるで壊れそうなガラスを扱う時のように慎重になっている。
何度も「大丈夫?」「これくらいなら触っても痛くない?」と、双子にそれぞれの掌を押されて確認されているのだが、戦々恐々な彼らとは別の意味で私はビクビクしていた。
片手で手の甲を包むように持たれ、人差し指や親指で掌を押される。
不安げな眼差しで見つめられ、発せられるのは戸惑いと期待の込められた、あどけなく澄んだ声。
触れた皮膚に感じる温もりと、耳朶を震わせる囁くような柔らかな声音に、これは新手の拷問なのだろうかと、混乱している自分が心の中でもんどりを打つ。理性が止めていなければ、私は顔を真っ赤にさせてその場で悶絶していた事だろう。
美しくも可愛らしい兄弟に、近距離で手を握られ見つめられる。異性との接触なんてもう十年近くない私には、あまりにも急すぎるイベントだ。
「も……もう……勘弁して、いただけませんか……」
蚊の鳴くよな声で懇願するも、双子はそれぞれ拒否の反応を示す。
リヒトは眉根を寄せて「まだだよ」と短く言い、テネーブルは困ったような顔で「怪我させたくないから……」と愛らしく呟いた。
自分を思っての双子の行動にそれ以上強く出られず、頭から湯気を出しながら耐えたが……
両手で包み込むように触れられた瞬間、限界を突破した。
「もう……どうにでもしてくだ……さ……」
プシュウと、最後の蒸気が噴き出した後の事はよく覚えていない。
ただその日の夜、私は熱を出した。
***
「………………」
「え……あ……その……」
ベッドの傍らで、様子を窺うように見ていたフィラフトに気づき、身体を起こす
複数の獣の特徴を持つフィラフトは、垂れさがっていた耳をピンと立てて静かにこちらを見据え
「ふたごは でいり きんしに しましたのよ」
淡々と報告を済ませ、フカフカのマットをトンと前足で蹴った。
現れた幾何学模様の中に、フィラフトのお気に入りらしいマットが入り込むようにして消えていく。
「は、はい……」
戸惑いつつも返事をすれば、フウ……とあからさまな溜息を吐かれた。
「じじょうは きいていますの」
「はい……」
「まぁ こんかいの ことは ふたごが わるい ですのよ きっと」
「………………」
今回の事……はて、何だろうと小首を傾げた私に対し、怪訝そうにフィラフトが顔を顰める。
「てを にぎられた ことを おぼえて いませんの?」
「…………………………」
手を握られた。その言葉が、ゆっくりと脳に染み込んでいく。
記憶の引き出しを、頭の中の私が幾つか探し、取り出した映像が瞼の裏側に表示された。
そこには、両手に触れる双子の姿と、彼らの真剣な眼差し。
時折聞こえる声が、確かめるように私にかけられていた。
「……あ」
思い出した、と短く反応した私に対し、フィラフトが呆れたように鼻を鳴らす。
「それで ねつを だす ほど の ことを されましたの?」
例えば、と言いかけたフィラフトを遮るように、慌てて首を横に振る。
「頭から冷や水をかけられたり、水風呂に突っ込まれたりはしてないです!」
焦り、早口で捲し立てた私に対し、フィラフトが蔑むような目で一瞥する。
どうやら、何かが違ったらしい。息を吸い込めば、ヒュッ……と喉が音を立てた。
「なにが ありましたの?」
「実験で、手を……押したり、軽く叩いたりと……私のレベルが下がっていて、加減がよくわからないからって……」
二人とも、どの程度力を込めていいのかわからず、恐々と触れていた。
自分の掌の上に私の手の甲を添えるように乗せ、人差し指で中心を押す。軽く弾いてみたり、デコピンしたり。親指と人差し指で摘まんでみたり。
回数が増える毎に力を強め、けれどそのたびに「痛くない?」と不安げな声が確かめるように使われた。
「きいた とおり ですのね」
納得した、フィラフトが軽く首を縦に振るが
「ねつを だす ほどに きんちょう する ことには おもえま せんが……」
困惑気味のフィラフトから慌てて目を反らす。
「だ、だって…………男の子に、その……手を、ずっと……さ、触られるなんて……」
接触した皮膚の熱と、滑らかは肌の質感が記憶から呼び起こされ、頬が熱を持ち始める。
言うだけでも恥ずかしいのに、勝手に脳内で再生される映像。自分の手を包み込むようにして掴む、紫苑色の髪をした少年と視線が絡み、「大丈夫、痛くはしないから」と微かに力が込められた。
程よい圧迫感に心臓が大きく跳ねた。次いで、少女のような見目の少年が互いの指を絡めるような掴み方をし「優しくするから、ギュってしていい?」と甘えるように聞いてきたのだ。
再生された記憶に、私は慌てて天井を見た。
自分の両腕にまだ双子の手の感触が残っており、意識すれば熱が上がりそうな気がした。
「…………………… あなたには しげきが つよすぎ ましたのね」
僅かな間をおいて、気の毒にとでも言いたげなフィラフトの声が静かな室内に溶ける。
「新手の、拷問のようでした……」
「まぁ きゅうな せっしょくは たしかに……」
「向こうは実験とか、調べているだけかもしれないんですが、こちらからすればもう………………口から臓器が出そうで、吐きそうで」
「でますの?」
「出したことはないですが、出せそうな気はしました」
真顔で見つめれば、フィラフトの頬が引きつる。
「ださないで くださいまし」
「出したくないです」
目を合わせ、互いに頷き合う。
それ以上会話は続かず、沈黙が訪れた。
「………… とにかく きょうは もう ゆっくりと おやすみに なって くださいな」
吸った息をゆっくりと吐き、静寂が包む室内に穏やかなフィラフトの声が広がる。
気遣うような声音に「はい」と短く答えれば、目元が細められ笑みが作られた。
「あすも おきられる じかんに からだを おこして くださいな わたくしは しょくどうに おりますので なにか ありましたら こえを かけて くださいまし」
「わかりました」
トンと床を蹴り、幾何学模様の中にフカフカのマットが仕舞われる。
そして、フィラフトは足音を立てながら扉の前まで進み、見送るためにベッドから降りた私を振り返った。
「にどめの よる ですのね」
「え……」
指摘に、自然と目が窓際へと向けられる。カーテンに隠された空の色は見えないが、外側から光が差し込まない時間帯に、私はどこか納得した。
「それでは よい ゆめを」
恭しく頭を下げ、前足で床を蹴る。模様が広がると同時に開かれた扉。そこに身体を滑り込ませ、フィラフトが足を踏み出すとパタンと音を立ててドアが閉まった。
魔法って便利だな。と言う、単純な感想を抱いて私はベッドに戻り、身体を横たえる。
目を閉じ、心を無にして深呼吸をするが、瞼の裏側にこびり付いた紫苑と藤色がチラつき、疲れて眠りに落ちるまでの間、私はベッドの上で頭を抱えて身悶えしていた。
深い意味はない。他意はない、好意ではない。
わかっているのに、彼らが使った幾つかの言葉が脳内で再生される度、甘みを帯びていく。
明日、どんな顔をして会えばいいのだろうか。
答えは出ないまま、意識がまどろみ夢の中へ落ちていく。