紫苑色の宝物
「なんか……眠い、かも……?」
掌で口元を隠し、小さなあくびをテネーブルがしてみせれば
「ふわっ…………あー……ボクも」
移ったらしいリヒトが豪快に口を開ける。眠そうに目元を擦る様子を眺めつつ、データだった彼らの人間らしい仕草に驚きを覚えた。
あくびなんてゲームの頃には見た事がない。
キョトンと目を丸くしている私に向かい、テネーブルが可愛らしく小首を傾げて見せた。
傾きに合わせてさらりと揺れた赤みがかった淡い藤色の髪。色を失くした灰色と、ガーネットを埋め込んだような瞳。ぷっくりとした唇は赤く、艶やかだ。
「かわ…………ッんぐ」
言葉にしかかった音を飲み込み、慌てて唇を引き結んで表情を頼む。
あぶない、もう少しで彼の容姿を称賛する言葉を羅列させるところだった。
「んん? どうしたの?」
急に黙った私が気になるのか、テネーブルが声をかけてくれた。けれど、首を横に振り「気にしないで」と何でもないふりを装う。
「異世界に呼び出されて疲れてるんじゃない?」と、様子のおかしい私を気遣うようにリヒトが言えば「それかも!」とテネーブルが納得してくれた。
そしてクルリと振り返れば髪や衣装がフワリと遅れて動き、ソファーの上で呆気に取られているフィラフトの前まで移動し、恭しく一礼する。
その様子に目を眇めたキメラの獣に、顔を上げたテネーブルがパッと花が咲いたように愛らしい笑みを向け
「それじゃ、フィラフトさん。お先に失礼します。おやすみなさーい」
「え? はあ…… おやすみなさい ませ ですの」
朗らかに言えば、つられたフィラフトが眠る前の挨拶を返す。
「あ、ボクもおやすみ」
二人……テネーブルとフィラフトの横を、右手を軽く上げて眠そうな目をしたリヒトが通り、扉の前でドアノブを捻る。
キイッ……と木製の扉が音を立てて開き、駆けたテネーブルが身体を閉まりかけたドアの向こう側に身体を滑り込ませた。
閉じられる寸前、振り返って笑顔で手を振ったテネーブルに思わず顔が綻ぶ。
「可愛い……」
つい、ポツリと感想が零れた。にやけた両頬を覆い、廊下から聞こえてくる微かな足音を心地よく思っていると
「あれが かわいい ですの?」
意味が分からない、と言いたげな顔でフィラフトが私を見る。
「天使みたいだな……と。お花みたいな笑顔で、その……ふわっと、心が軽くなるような……」
「みじんも なりませんでしたのよ」
言ったあと、一呼吸置いて
「ふたり とも めが わらっていません の なぜ そのように つくりましたの?」
と、首を傾げて問う。その言葉に、私は戸惑い狼狽えた。
外見ではない部分を説明するのは難しい。
何故なら、オンラインゲームの世界観から考えたものだからだ。彼らがどうして好戦的なのか、傷つける事に躊躇いがないのか、命を軽んじているか。
それらは、すべて”千年王国と封印の鍵”のシナリオに沿わせている。
「どうして あわてますの」
「いえ、あの……なんと言うか……」
オロオロと言葉を探している私に対し、フィラフトは困惑したように顔を顰めた。
「むりに はなそうと しなくても けっこう ですのよ じかんは たっぷり ありますの」
ソファーから降り、前足で床をトンと叩けば小さな模様が波紋のように広がる。そして、間を置かずフワリとカーテンが揺らいだ。ガラスの向こう側に映された世界は暗い。この世界にも夜があるのだろうか……
「みての とおり やみの おとずれ ですの」
揺らいだカーテンは何事もなかったかのように窓を隠し、暗がりが視界から消える。フィラフトはもう一度前足で軽く床を叩いた。微かな光を放ちながら広がった幾何学模様が物に当たると、それらはあった場所に自分で戻って行った。
私が腰かけていた椅子も動き始めたので慌てて立ち上がる。平行移動していく家具に目を瞬かせていると、
「あなたのいた せかい では よるになると ねむる かたが おおいの でしょう?」
そう言ってフィラフトが促すように扉へ視線を向けた。
リヒトが閉めたはずの木製の扉が、人ひとり通れる程度に開いている。
「おおくの ことに からだも こころも こんらん している はずですのよ」
最後にもう一度、トンと床を蹴る。淡い青色の光が室内に広がり、私の背中を微かな風が押した。
その不思議な風は私の足を動かし、扉側へと向かわせる。
「え? え??」
驚き声を上げると、呆れたような顔ばかりをしていたフィラフトの目元が和らぎ、穏やかな笑みが浮かべられていた。
「わたくしは あなたを しえん するために おりますの どうか おわすれなきよう」
自分の意志に反して勝手に動く両足。肩越しに見たフィラフトは、器用に右の前足を左右に振り私を見送る姿勢だ。
聞きたい事も話したい事も山のようにあるが、廊下に出た瞬間パタンと音を立てて扉が閉まる。
私の背を押す風は、そのまま廊下を直進させるつもりらしくグングンと進み、気が付けばゲーム内で自室扱いにしている錬金術の道具の並んだ部屋の前にたどり着き、これまた勝手に扉が開いて部屋の中に押し込まれる。
「………………自動ドアならぬ、自動歩行」
真後ろで扉が勝手に閉まり、背中や足に感じていたものが消える。
魔法なのか何なのかわからないが、便利な仕組みだなと言う感想を抱え、ドッと身体に押し寄せた疲れに小さく息を吐いた。
もう、なにがなんだかわからない。
言葉にすれば簡単で単純だ。
休日、部屋でゲーム中乱入者。殴った男は部屋と一緒に溶けて、異世界に呼ばれて若返り。綺麗な男の子と獣に出会い、ゲームキャラの双子とご対面。
だけど、これを現実だと受け入れろと言われると難しい。
湯気が出そうな頭を右手で押え、フラフラとベッドに近づく。
部屋の調度品は何もかもゲームだった頃のまま。網膜に映し出された映像を再現したように正確で、すべてが上質で上等で上品だ。
自分の部屋の格安家具とは違い、触れるのを躊躇う程の高級感がある。
けれど、今は疲れが思考を曇らせ躊躇いが消えていく。
私は柔らかそうなベッドに倒れ込むようにして横になり、近くにあった枕をギュッと抱きしめる。ゲームだった頃、何度も寝転がったベッドだが一つだけ違う点があった。
「いい匂い……」
抱きしめた枕やシーツ、寝具全体から感じられたのは甘く、柔らかな花の香り。
それが、ソッと身体を包んでくれているような気がして、不思議と疲れが和らいでく。
同時に、睡魔が足元からやってきて、私の瞼を重くしていった。
寝よう。眠ろう。考えるのは明日にして、今日は休もう。
思考を濁す欲求を受け入れ、私はゆっくりと目を閉じる……
これが夢だったら、目覚めた時はテーブルの上でVR機器を付けたままかもしれない。
微かな期待を胸に、深く深く落ちていく。意識の底へと。
***
『――ちょ、ちょっと……貢ぎすぎじゃない?』
そう言って私を止めるのは、イヤホンの向こう側の声だ。
「いや、でも、黒系のコスチュームが出ないから……」
返事をしながらまたボタンを押す。連続で表示されていく画像に期待するも、目当ての物は見当たらない。
口から濁音交じりの”あ”が漏れ、手の動きを読み取るグローブ型のコントローラーを動かし、もう一度網膜に映し出されているボタンの場所まで指を伸ばす。
『ストップ、ストッープ!!』
「え?」
焦った声が聞こえる。
『そこまで来るとショップで買った方が早い! プレイヤーの個人ショップを探そう。じゃないと、何万消えるかわからないわよ??』
「あ……はい」
『とりあえず、右隣の青色端末に触れて。検索で、コスチューム名とカラー入力すればショップに出している人の金額と、商品数が見られるから』
指示に従い、私は”エマ”を動かして青色の端末に触れる。
視界に広がったキーボードを指先で打って文字を入力すれば、すぐに検索出来た。
「わぁお……一杯……」
『男物は基本、安いから。無理に自分でクジ引いて出すより、出た女性コスチュームを自分のショップで売って、得たゲーム通貨で買った方が早い!』
「は、はい……先輩、凄いです」
『で? お目当ての黒系ロングコート、あった?』
カラーの指定をしなかった事で、目当ての色以外の物も表示されている。上から登録順に並んでいるらしく、視線を下げて確かめていくと……
「あ、黒っぽい」
『上から何番目?』
「十七番目ぐらいに……うわ、結構高い!?」
設定されている金額に目を瞠り、思わず声を上げる。驚いている私に対し、画面の向こう側に座っているだろう通話相手が「あー……」と呟き、
『男性コスにしてはイケメン服だからねぇ。でも、真っ黒より安いね』
「…………買え……なくは、ないかな」
『相場はそれぐらいだし、青紫には合うんじゃない? 試しに試着させてみたらいいかも』
「じゃあ、ちょっとキャラ変えてきます」
『はーい、待ってるねー』
ヒラヒラと、網膜に映し出された映像の中で手を振る黒髪の女性。
幻獣師の職で、私と似たように二匹の聖獣を従えて戦っていた彼女の名前は、なんだっただろう。
画面のボタンを押し、映像が切り替わる。
ゲームのマスコットキャラクター、ハリネズミのハリーがひょこひょこと足音を立てて歩く中、私は微かな後悔と寂しさを感じていた。
けれど、もう元には戻せない。
視界に亀裂が入り、何かが意識を引き上げる。
窓から差し込む光と、木製の天井。
そして、覗き込む青紫の瞳が怪訝そうに細められてこちらを見ていた――
***
「おは……よう?」
疑問形で朝の挨拶をされ、思わず目を瞬かせて考える。
目の前には左右対称で、アイオライトを埋め込んだような瞳をした白磁の肌を持つ少年。
彼が着ているのは紺色をした薄手のロングコート。
思わず手を伸ばして紫苑色の髪の一房を掴み、握る。ギュッと引っ張ってみれば、不思議そうな顔をしていた少年がギョッと目を丸くしてベッドに手を突いた。
「いた、いたたたた!? な、なに?? なんなの???」
混乱と戸惑いと、焦りを加えたような声が形のいい唇から零れ落ち、痛みに耐えるように片目を眇めている。
ゲームの中で見た事のない表情だ。夢の続きだろうか。だとしたら、顔の横に手を突いてもらえるなんて、まるで恋愛ゲームのような展開じゃないか。
経験のない私が何故こんな夢を見られるのかはわからないが、ドラマのシーンでも脳が再現してくれているのかもしれない。ああ、これはありがたい。焦る美少年の顔を近距離で見られて、更に押し倒されているようなシチュエーションを体験出来るなんて、恋愛経験がなくて恋人が一度もいなかった身としては、宝物になる映像だ。
出来れば、これが夢ではないといいのだが。夢だと、時間と共に頭の中から映像が消えていくから――
「…………なに、してるの?」
夢を堪能していた私の耳に、愛らしい声が入り込む。視線だけを動かしてみれば、そこには水差しを片手に呆然と立ち尽くしている天使……のような少女風少年が。
その傍らには、複数の獣の特徴を持つフィラフトが佇んでいる。
獣の瞳は氷のように冷え切っていて……
「へ!?」
気の抜けた声を上げ、掴んでいた髪を離す。
目の前の少年はすぐさま態勢を整え、掴まれていた髪の根元を何度も撫でた。
「酷いよエマ……」
合成音声ではない、滑らかな音が言葉を紡ぐ。
「………………リヒト、え? テネ……え? え??」
ベッドから上半身を起こし、ベッド脇の少年と入り口付近の少女風の少年を交互に見て両手で頭を抑えた。夢の続きかもしれないと思い、頬を思いっきり張る。
――パアンッ。
乾いた音が室内に響き、今度は複数の獣の特徴を持つ動物と少女風の少年が目を丸くした。
「な、なにしてるのエマちゃん!?」
慌ててベッド脇に駆け寄り、水差しを持っていない手で私の頬に触れる。
私の肌よりも高い体温の指先が、ジンジンと痛む皮膚を撫でてくれた。心地よいが、感触がリアルだ。
「…………………………」
そう、リアルだ。フワフワのベッドに鼻を擽る甘い花の香り。絹糸のように柔らかく繊細な髪の感触が残る掌に、頬に感じる滑らかで暖かな肌。
なにより、叩いた顔が痛い。
「――――!?」
目を瞠り、声にならない声が口から溢れた。
***
「落ち着いた?」
苦笑いを浮かべ、水の入ったコップを差し出してくれたテネーブルに対し、私は勢いよく首を縦に振って受け取る。
「あ、ありが……とう……」
お礼を言えば、「どういたしまして」と語尾にハートが付いたような声で返され、思わず可愛いと言いかけて口を噤む。
テネーブルは自分用の水も用意していたらしく、それを持って部屋にあった木製の椅子をベッドの近くに持って来た。それに腰かけ足を組む。
スカートの裾から見える太ももが、妙に艶めかしく見えるのはガーターベルトのついたストッキングのせいだろうか。見えてしまった物に対して罪悪感と満足感が広がり、複雑な気持ちになる。
邪な感情を消すため、心を無にしてみるが上手くいかない。ただ、心臓の鼓動は落ち着いた気がする。
「リヒトのお水はないからね」
同じように適当な椅子を持って来て座ったリヒトに対し、テネーブルが意地悪を言う。
「いらないよ。喉乾いてないし」
昨日と同じように、背もたれ側を前にして跨ぐように座ったリヒトがフンッと鼻を鳴らす。
何故そんな座り方を……と聞きたくなったが、彼の肩越しに見えたフィラフトの姿に質問の言葉が消えた。
複数の獣の特徴を持つフィラフトは、椅子ではなく部屋の中央に置かれたソファーの上に寛ぐような姿勢で腰を下ろし、双子の様子を少し離れた位置から眺めるように伺っている。
私も、彼らと向き合うようにベッドに座り、受け取ったコップの中身を喉の奥に流し込む。冷たい水が、乾きと共にぼんやりとした意識を覚ましていく。
「……………………ねぇ」
コップから口を離すと、待っていたらしいリヒトに声をかけられた。
「…………なん、でしょうか」
近距離で彼の顔を眺めた事を思い出し、咎められないかと冷や冷やしていると
「別に、寝込み襲おうとしてたわけじゃないからね?」
不機嫌そうに口をへの字に曲げ、リヒトが言う。
「え?」
「引っ張られたから、顔の横に手を突いちゃっただけで。油断してただけだから」
そう言ってプイッと顔を背けられ、思わず首を傾げる。
寝込みを襲う……つまり、私の命を頂戴しに来たわけじゃない、と言う事だろうか。確かめるようにリヒトを見るも、ふくれっ面のままだ。助けを求めるようにテネーブルを見れば、彼はからかうように「引っこ抜かれなくてよかったね」と片方の口角を上げる。
「夢と、間違ってて……その、ごめんなさい……」
「気にしなくていいよ、エマちゃん。リヒトはビックリしただけだから」
「誰だって急に引っ掴まれたら驚くだろ!」
何回も声かけたのに起きないし、と続ける。その口ぶりから察するに、リヒトは眠っていた私を何度も起こそうとしてくれたらしいが、
「あの……今、何時でしょうか……」
混乱気味にそう尋ねれば、ソファーに腰かけていたフィラフトが顔を擡げて
「あなたの せかいで いうところの ひるどき ですのよ」
と教えてくれた。さすがに驚き窓の方を見れば、太陽が高い位置にあるのか明るい。真っ直ぐ光が差し込んでいる。
「え、もうそんな時間に???」
「ワタシたちもさっき起きたばっかりだけどねー」
明るくテネーブルが言えば、同意するようにリヒトが小さく頷く。
「しかた ありませんのよ からだが ねむりを もとめて いますの たましいが まだ にくたいに ていちゃく しきって いないので むいしきに やすもうと していますのよ」
「そうそう。なんか身体に違和感が残っててね、これが消えるまで屋敷から出ちゃダメなんだって」
「私も……?」
「あなたの ばあいは うで のみ ですが」
「………………」
指摘され、前とは異なる自分の両腕を見つめる。そこにあるのは、昨日と同じ傷一つない手だ。
服装も、マンションの一室で着ていたものとは異なり、オンラインゲームの中で”エマ”が着用していた、学者風のコスチュームのままで、これが現実だと言う事をありありと示している。
握りしめたり開いたりを繰り返して、ふと気になり
「ちなみに、屋敷の外に出たらどうなるんでしょうか……?」
伺い見るようにしてフィラフトに尋ねてみれば、
「わかりませんのよ ただ とれる かのうせいが ありますの」
真顔で言われ、ヒュッと喉が鳴る。ボトリと両腕が落ちる瞬間を想像し、慌てて頭を振って考えを消す。
リヒトとテネーブルは心底嫌そうな顔で顔を見合わせ、首を竦めた。
「いつまで外に出られないの?」
その問いに、フィラフトは小首を傾げて「さぁ」と告げる。
「………………マジ?」
「わかんないとか、キツイー……」
その反応にリヒトがガシガシと後頭部を手でかき、テネーブルが頬を抑えて溜息を吐く。
服装だけではなく、動きにも違いがある双子が妙に新鮮で、頭の中から腕が取れてしまうかもと言う不安よりも、好奇心が強くなる。
急ぎ伝えなくてはいけなかった事はそれだけだ、とフィラフトがソファーから降りた時、私のお腹がぐぅ……と鳴った。
それが恥ずかしくて慌てて腹部を抑えると、双子が顔を見合わせて表情を和らげる。
「お昼ごはんにしようか」
朗らかに笑んだテネーブルが眩しくて、羞恥心が消し飛んでしまったのは言うまでもない。