夢ではないと言われても
ここがどこか、私が誰か。
混乱の代表的な台詞を使ってから、あまり時間は経っていない。
ここは、三好 恵真だった私がいた世界とは異なり、ノウム・プルウィアと言う二柱の男女の神々が治める異世界で、私は貰い事故のようなものに不運にもあってしまい、呼び寄せられた異世界人。
混沌の歪みと呼ばれる、異世界のよくないものがたまたま部屋に現れ、両腕を飲み込まれてしまったた。
男神ル・ティーダは異変に気付き助けてくれたが、失った両腕はどうにも出来ず、私が強い執着を示していたゲームのデータを異世界に持ち帰り、”エマ”と名付けたキャラクターの身体から腕を再現してくれたのだが、二十四歳の私の身体は”エマ”に引きずられるように若返り、十八歳前後の頃の容姿になっている。
髪の色も、日本人特有の黒ではなく、今は濃茶にこげ茶の瞳だ。
簡潔に言うと、異世界のものに襲われて異世界の神様に助けられて、異世界にやってきたら若返った。
と、ここまでは驚きはしたものの、仕方ないで受け入れるしかない範囲なのだが……
「えーっと……冗談、ですよね?」
真顔で訊き返せば、ウサギの耳にイタチの顔をした、羊やアルパカのような毛並みの身体にリスの尾を持つキメラの獣、フィラフトが呆れたように鼻で息をする。
「なんども おなじことを いわせないで いただきたい ですの」
「いや、でも、あの、それって……」
「ですから うけいれるしか ありませんのよ」
「とは、言われましても。夢じゃないとは思っても、夢かもしれないって思う部分もありまして。だって、仮想世界のデータを再現して仲間にとか、なんかもう、漫画としか思えなくて」
言って、クルリと後ろを振り返りまた正面に向き直す。
視界の端に映った色が、記憶の中にある姿と重なりサッと血の気が引いていく。それと同時に、喜びが心の中に花を咲かせるのだから、矛盾しているのかもしれない。
相反する感情がグルグルと渦巻く中、私は引きつった顔で天を仰いだ。
「夢ではないと言われましても、夢だと思い込みたくなるわけなんですよ……」
そのまま首を横に振れば、サラサラと髪が揺れる。元の世界にいた時よりも色艶のいいこげ茶の髪。それに触れてガシガシと掻き、大きく溜息を吐きながら溢れ出る記憶に、あちこちが痛む。
頭が、胃が、心が、主に羞恥心と言う名の感情によってジクジクと膿むような感覚を訴えるも、逃避できる場所はない。
時折、濁った「あ」が口から漏れ出ていた。額を抑える私の反応が予想と違い過ぎたのか、フィラフトもまた前足で器用に頭を掻く。
そして同時に、ハァー……と言うお決まりの声が口からこぼれ、顔を見合わせてまた繰り返した。
「ル・ティーダは あなたの たいせつな ものを とりこぼしたり していませんのよ」
「あ……はい……大切ではあるんですが……」
「いいですか? あのかたは あなたが ことなる せかいで ひとりでは ふべんだろうと わざわざ あなたの つよい しゅうちゃくを かんじる そんざいを さいげんして くださったの ですのよ」
「はぁ……そうなんですか……お気遣い痛み入ります、はい……」
「かんしゃの こころを みじんも かんじませんの」
「いえ、あの、感謝はしてると言えば、してるんですが……」
言い淀み、もう一度確かめるように真後ろを見る。
そこには、糸が切れた人形のように横たわる、美しい少年たちの姿があった――
薄い青紫の髪、長い睫毛、左右対称で整った顔。白磁の肌にしなやかな手足。中性的な、けれども少年らしい雰囲気を残したその人は、いつも私に「おかえり」と声をかけてくれた美しい少年によく似ていた。
彼の近くに横たわる、赤みがかった藤色の髪をした少女風の人物にも見覚えがある。
白皙の肌に華奢に見える身体、艶めいた赤い唇。雰囲気は可憐な少女だと言うのに、中性的な少年に似た顔立ちをしている事で性別の判断が出来ない。けれど、着ている服は明らかに少女の物だ。
「何故、リヒトとテネーブルなんでしょうか……」
ギギギと軋む音が聞こえそうな動きでフィラフトへ顔を向ける。キャラクターは他にもいたはずなのにと責めるような目で見れば、獣は「しりませんのよ」と投げやりに答え、近くのソファーに上りゆっくりと腰を下ろした。
そして、理解出来ないと言いたげな顔で私を見て
「あなたのことは なんでも しっていますのよ」
と、始める。
「ひとと えんどおいからとは いえ かそうせかいに ぎじ パートナーを つくって なにが たのしいのか わかりませんが その おかげで こうして かれらは このせかいに さいげん された のです」
「ぎ、疑似!? ち、ちがっ」
「おや? ちがいまして? それは しつれいしましたの」
詫びを口にしつつ
「あなたの せかい では つがいと なる ための れんしゅう として かそう せかいを つかうのでは?」
”悪気”が微塵もないないらしい発言がグサリと胸に刺さる。物理的ではない、精神的なダメージが確実に入っている気がした。。穴があったら入りたいと言うことわざは、こういう時に使うべきなのだろうか。気分的には、穴を掘ってでも入って逃げ出したい気分にさせる、つぶらな、悪意の一切ない純粋なフィラフトの瞳が思いの他つらい。心に、会心の一撃状態だ。
「いや、あの……毎日見る顔なら、見てくれがちょっとでもいい方が楽しいかなと……言うか、好みの顔を再現出来ちゃったと言うか、少しでも自分が癒されるようにしたかったと言うか……綺麗な子が戦うって、なんかいいと言うか……」
言い訳めいて早口で告げるも、要約すれば”彼が自分の好みのタイプだ”と白状しているようなもので、なんだか羞恥心が追い打ちをかけてくる。ゲーム内のように体力ゲージがあれば、きっと危険域まで減っているだろう。
「こまりましたの」
焦っている私に対し、フィラフトはフウ……とわかりやすく溜息を吐いた。そして、前足で器用に頬に触れたまま
「ことばとは ぞんがい むずかしいくて つかうのが たいへんですの」
と言って本当に困っている様子で目を細めた。眉があったら、きっと眉間に皴が出来ているかもしれない。
「え?」
「わたくしは なんであろうと そのおかげで あなたが こどくでは なくなると いう いみで つかいましたが そのように つたわらなかったの ですね」
と頭を振る。そして、僅かに冷ややかさを取り戻した視線がチクリと刺さった。
まるで、目で”趣味が悪い”と言われているようで、思わず「うぐっ……」と追加でしようとしていた言い訳を飲み込み、私の眼が泳ぐ。
黙っていれば、心に深手を負わず済んだのかもしれない。短い否定だけにしておけば、リヒトやテネーブルが自分の好みであると暴露する事にはならなかっただろう。なんだか、自ら進んで墓穴を掘っているような気がする。穴は掘って入りたいが、墓穴は掘りたくないのに……
「……コホン」
わざとらしく咳払いし、
「とにかく わたくしは あなたのことは なんでも しっていますの」
前置きのようにそう言って、フィラフトは私の過去を時系列順に並べ始めた。
約二十四年前、当時二十代後半だった三好夫妻の間に娘が生まれ、その子に恵真と名付けた。
娘が五歳になる頃、父親の知り合いの夫婦が不慮の事故で亡くなり、男の子を預かった。
預かった男の子はその後夫婦の息子になり、血の繋がりのない兄に娘が懐いたことで男の子が心を開く。男の子は一年ほどで三好家に馴染み、それから三年ほどで心も家族となった。
娘が十三歳になった頃、母親が病に倒れ半年ほどで帰らぬ人となり、最愛の人を亡くした父親の心が壊れ、不摂生が祟り父親もその二年後に病死。兄妹は祖母に引き取られるも、高齢だった祖母も老衰で亡くなり、二人きりとなってしまう。
祖母の死から一年後、兄が失踪。遺産だけが手元に残された娘は、家族の思い出が残る家を引き払い、賃貸マンションの一室を借り、独りきりでの生活を始める。
成人を迎え、手元の保険金や遺産を使い利便性のよいマンションの購入を考えるも、何故か悉く抽選から外れ、そうしているうちにネットゲームに没頭し、そこで出会った女性と意気投合。ルームシェアを始めるが、一年ほどで終わりを迎え女性が亡くなった事を知り、自暴自棄になってしまう。
何度か自殺を試みるも上手くいかず、
「ただ おき はたらき たべ ねむる せいかつを つづけていた ところに おとこが あらわれ こんとんの ゆがみが へやを のみこみ あなたは ここへ いたった ですの」
「………………」
淡々と告げられた自分の過去に、何故だか履歴書を読み上げられている時のような気分になった。
不快で、不愉快で、気分が悪く、軽い苛立ち。理不尽さに抗議したいのに、言葉が出ない。言葉を失う、の方が言葉的には正しいかもしれない。呆れ果てて頭が真っ白になるような、そんな感覚。
絶句している私を前に、
「てんがい こどく ということ ですのね」
と、気の毒そうに呟く。これが一番私の心に突き刺さった。
「プライバシー……」
ポツリと呟いた言葉にフィラフトが小首を傾げる。
「あると おもいまして?」
「………………」
「しる ひつようが ありましたのよ」
目を伏せ胸元を抑えて黙れば、さすがに悪いと感じたのかフィラフトの声音が和らぐ。
「わたくしは この せかいの ちを うけつぐもの そして あなたの しえんを わたくしの かみから おおせつかって おりますの」
「支援?」
「ええ このやしきで あなたが かいてきに くらせるよう ささえるのが わたくしの やくめ ですの」
そう言いながら、フィラフトは視線を横たわる双子の兄弟へ向ける。
「あなたの しゅうちゃくが かれらに たましいを あたえ ル・ティーダが からだを つくり いのちが さずけられた それだけ ですの」
続けられる説明に、、私は打ちひしがれたようにその場に両手、両膝を突いて濁音交じりの「あ」を繰り返した。
こんなことになるのなら、もっと違う設定にしていたと心の中で叫びながら、神様の善意に感謝と共に抗議する。
正直、羞恥心に身もだえる事になる日が来るとは思わなかった。
***
単純に、簡単に、簡潔に。
フィラフトの説明をまとめるなら、こうだ。
私がオンラインゲームの世界に執着し、大切に扱っていた事で作ったキャラクター全てに魂に似たものが宿っており、その事に気づいた男神、ル・ティーダは命を司る神なので、肉体を再現し魂の類似品を本物にした。それ定着させ、リヒトやテネーブルに新たな命を与え、ゲームの世界と同じ能力を使えるようにしている。
すべては、天涯孤独の身の上の私が異世界でも不自由なく、元の世界にいた頃と同じように心穏やかに生活できるように、と言う完全なる善意からの事で、フィラフトがプライバシーを全力で侵害している事も悪気などない。私を知る者がいないので、知って親しくなるための情報として活用するためだ、と事らしい。
彼らに対して抱いていた感情や感覚についても述べられ、私は今顔を両手で覆って死にたい気分になっていた。
「ごめんなさい、もう、勘弁してください……」
「キャラクターの ために たんじょうびの ケーキを てづくり する とは すばらしい と おおいますのよ ただ イメージカラー の とおり あおむらさき や あかむらさき の しょくひんは いかがかと おもいますの」
「ぐっ……いや、でも、味は普通に……」
「キャラクターの がぞうを もちあるき ショッピング も よいと おもいますの ただ にあう ふくを かっては クローゼットで ねむらせる だけなのは どうなの でしょうね」
「…………ギャフン」
恥ずかしさの余り顔から火が出そうだ。
会ってまだ数十分の相手は、細かな事も知っているらしい。隠しておきたい恥ずかしい過去を並べ立てられ、正直混沌の歪みとやらに飲み込まれていた方がマシじゃないかと思う程、羞恥心が悲鳴を上げている。
確かに、私のキャラクターに対する感覚は普通の人とは違ったと思う。
ゲーム内に食事の概念があったため、似たようなものを用意してパソコンの前で食べるのは当たり前で、飲み物だって出来る限り合わせていた。
VR機器を付けて窓際に移動し、喫茶店で話しながら飲んでいるような気分を演出した事もある。
けれど、自分がやった事を客観的に第三者から語られれば、それこそ恥ずかしさが追い打ちをかけるだけで、明らかに黒い歴史だ。
私の事を知っていると言ったフィラフトに対する不快感は消し飛び、過去の自分を如何に誤魔化せるかと思考を巡らせる。それはもう、必死だ。
だから、つい、忘れていた。
「ああああああ、あのですね、何と言うか、やっぱりほら、自分と違って、美形ってアクセサリーとか似合うからっ」
声が裏返り、語気が強まる。続けようとした言葉を遮るように、何かがヒュッと視界の端を飛んだ。
同時に、フィラフトの目の前に現れた幾何学模様が弾く。
――キンッ。
金属音が聞こえたが、ナイフは床と接触する前に差し出された掌の中へと落ち、それを空中に投げればクルクルと鈍色が回った。
光を反射するナイフが眩しくて目を眇め、その柄を掴んだ手の肌色が、白磁のように抜けるような白だと気づいた時には、踵がフィラフトの頭上に落ちる寸前だった。
「えええ!?」
気の抜けた声が口からこぼれ、フィラフトを害そうとした人物の動きがピタリと止まる。
足の動きに遅れて広がったコートの裾が、重力に引かれて元の位置に戻ってくるのが印象的だった。
「その声は――」
次の瞬間、フィラフトの前に現れていた幾何学模様が弾けた。激しい光と共に、衝撃が身体に感じられて私はその場に尻餅を付く。
突然の事に対応が遅れたのか、それとも油断していたのか。”彼”は床に手を突き、キョトンと目を丸くさせていた。
「なにを しますの!」
耳がピンと立ちあがり、リスの尾が膨れ上がっている。どうやら、フィラフトはかなりお怒りらしい。
けれど、怒りを向けられているはずの”彼”は床についた手を見つめ、握ったり広げたりを繰り返している。
「あれれ、おかしいな」
「………………」
「あ、ごめんね。ちょっと待ってもらえる? 違和感があるから、調べたいんだ」
「いわかん ですの?」
警戒するように身構えたまま、フィラフトが尋ねれば
「うん。動きが鈍いって言うか、手の感覚が変って言うか。腕の力だけで身体を支えて、後方に跳ねようと思ったんだけど、上手く出来なくて。なんでだろう?」
小首を傾げれば、絹糸のように細く薄い紫苑色の髪がサラリと流れる。合成音声ではない、滑らかな音が奏でる声は少年らしさを残し、けれどどこか危うさを感じさせた。
記憶が、その色が。服装が、雰囲気が。私に”彼”が誰か、知らせていた。
「リヒト……?」
尻餅を付いたまま私が呟けば、声を聞き取ったリヒトが顔を上げる。
「おはよう、エマ」
春風を思わせる程爽やかな声が私の名を呼んだ。そして、目を細めて口角を上げ、微笑みを作る。
「うん、今日も綺麗な目をしているね。抉り出したくなっちゃうよ」
物騒な、けれども純粋な好意の含まれた声に、フィラフトの顔が引きつる。
同じように、私も「ヒッ……」と短く息を吸い込み、まるで石のように固まったまま、その言葉の意味を手繰る。
画面越しに何度も見た笑顔。何度も聞いた言葉。
心臓が早鐘を打つ理由が二種類で、素直に喜べない再会は波乱をにおわせていた。
***
自主的に、フィラフトが座っているソファーの前に椅子を持ってきたリヒトが、背もたれ側を前にして足を広げて腰を下ろす。
そのまま、両腕を背もたれの上に乗せ、
「で、なんの話だっけ?」
と切り出せば、面食らったらしいフィラフトが目を瞠った。
ニコニコと微笑んでいるリヒトに対し
「あなた なにを したか おぼえて いませんの?」
と尋ねれば、何のことかと言いたげなリヒトが小首を捻る。
「………………」
そんなやり取りを横目に、絶句ってこういう時に使う言葉だよね、などと考えていると
「まぁ、いいや。とりあえず、身体に馴染むまで時間がかかるっぽいし、それまで我慢するよ」
と、明るくリヒトが言う。
何に対する我慢なのかと、怖くて聞けない。が、責めるようなフィラフトの視線が私に向けられ、目が泳いでしまった。
「うたがいます のよ あなたの しゅみを」
地を這うようなフィラフトの声が槍となり、頭の上から降り注ぐイメージが浮かび、思わず両手で肩を抱く。
相当お怒りらしい。
それもそうだ。
目覚めたリヒトが視界の端に映ったフィラフトに対し、ナイフを投げて頭蓋を割るために蹴りを入れようとしたのだから。
寸でで私に気づき動きは止まったものの、今も殺す気満々で、リヒトの言葉を私なりに翻訳すれば”身体の調子が悪いから、殺すのは今度にするよ”と言うもので、真正面から殺害予告をされているのだから、彼の性格設定を作った私に対して腹を立てるのは仕方ない。
仕方ないが、私だって眼球を狙われているのだから、その辺は理解して欲しいところだ。
「あー……えっと………………ごめんなさい」
こんな事になるとわかっていたら、聖人君子な設定にしてました。とは、今更言ったところで後の祭り。
とは言え、初めて登録したオンラインゲームで、キャラクターの性格を作るために必要な設定を、悩みに悩んで考えた結果がこれなのだ。
自ら進んで戦いに身を投じ、特別理由もなく何度もダンジョンへ立ち入る。
余程の戦闘狂か商売目的か、それとも借金があって手っ取り早く稼ぐための手段にしているか。または、親兄弟を魔物に殺されたか。崇高な目的があって敵を倒す人間より、目的のための手段として戦う事を選んでいる方が多いに違いない。
ならば、と考えたのが”純粋に殺しを楽しんでいる”人間だ。そう言った趣味があれば、魔物を始末する事に躊躇いもないだろうし、進んでダンジョンへ入るだろう。
と言う結論に至り、今の彼が出来た。
純粋で無邪気に狂っており、嗜虐心が高く本質は残忍。殺す事が趣味で、その他の物ごとにあまり関心がなく物や人に執着しない。大半の事がどうでもよく、人への説明が苦手で略したがり。
そんなリヒトが何故”エマ”共に冒険をしているのかと言えば、特別理由はなく単に”普通”過ぎるところに興味を持ったから。と、設定文に入れていた気がする。
つまり、私自身もいつナイフを向けられてもおかしくない。むしろ、気が向けば今すぐ殺される可能性だってある。
「ん、なに?」
チラリと横顔を見れば、視線に気づいたらしいリヒトが笑む。
「…………い、いえ……なんでもない、です……」
思わず敬語になり、目を反らして口元を覆う。
スッと通った鼻梁、白磁の肌にかかるイメージカラーの淡い紫苑色の髪の毛。艶めいた唇につり目がちな瞳が笑みと共に柔らかさを出す。布から覗く首は細く、触れてしまうと壊れそうな繊細さがあった。
溢れ出かけた称賛の言葉をゴクリと飲み込み、顔が緩みそうになるのを唇を引き結ぶ事で止める。
どれほど美しても、どれほど好ましくても、網膜に映し出される映像ではない少年への違和感と、フィラフトの存在が私の行動にブレーキをかけた。
気持ちが落ち着いたところでホッと胸を撫でおろし、表情を戻して口を覆う手を離す。
深呼吸して息を整え、
「それで、あの……目は……抉らないでいただけない……でしょうか……」
おずおずと頼み込んでみれば、リヒトは「いいよ」と気前よく答えてくれた。けれど、明るい笑みを張り付いた顔の中で、アイオライトのように透明感のある眼が笑ってない事を知っている。どこまでも仄暗く、歪み切った暗がりの奥に宿っているのは、無邪気さに隠された狂気。
ゲームだった頃は、見つめられても恐怖などなかった。合成音声が奏でる声に紡がれる言葉たち、名前を呼ばれる幸福感。記号の集まりである映像の瞳が私を映している事実に自分が空気出ない事を実感でき、心地よささえ得ていたと言うのに――
今は違う。
その眼が自分を映している事実にゾワリと肌が粟立つ。
「で、ボクを利用するつもりのケダモノさん、お名前は?」
楽しそうな声でそう言って、リヒトは目の前のソファーに腰かけているフィラフトを見る。自分から注意が反れた事に安堵している事実が、何故か罪悪感を生んだ。
あれ程大切に、大事に思っていたキャラクターなのに、仮想が現実になった事を何故か心の底から喜べない。
困惑している私を他所に、ケダモノと揶揄された事で機嫌を悪くしたらしいフィラフトの尾が膨らむ。
「フィラフト ともうしますの ぎじ パートナー さん」
フンッと、鼻を鳴らし私を睨むように見る。
喜べない理由を探していた私の思考をその視線が止めた。また羞恥心と罪悪感と、幾つかの言い訳が浮かぶ。
学校の先生によそ見を注意され、クラスメイトの注目を集めた時のような気分だ。よもや、この年齢でそんな感覚を思い出す事になるとは……
「まあ いいです」
呆れたような顔で私を一瞥し、気を取り直すように口を引き結んだ後
「ル・ティーダは あなたに なにを はなしましたの?」
男神の名前にリヒトが不思議そうに三度、瞬きをして「んー……」と唸り、
「ここが、ボクのいた場所じゃない事とか、エマの世界とも違うとか。そう言う話し」
「くわしく おききしても?」
「別に。面白い内容じゃないけど、それでもいいなら」
前置きを一つして、リヒトは背もたれの上に乗せている腕に頬を付け、少しだけ考える素振りを見せたあとに口を開いた。
「簡単に言うとさ、ボクってナマモノじゃなかったらしいんだよね。データってヤツで、エマが外見を考えて、記憶を作って、それを機械ってのが動かして。ボクに意思はなくて、あるように見せかけるために、その機械ってのがゲーム? とか言うのの中でのエマとのやり取りを記録するらしくてさ、それらしく返答してたとか。よくわからないけど、オモチャだったって事を教えてもらったよ」
「ごじしんが なにものかは しりましたのね?」
フィラフトの言葉にリヒトが目を伏せ、
「キャラクターって言われてもピンとこないけど、絵本の中の登場人物みたいな物だって言われたら理解出来るかな。と言うか、そう教えてもらったよ。ボクは…………ううん、ボクだけじゃないけど、エマにとって仮想で、現実じゃない。削除ボタンってのを押せばいつでも消せる、そんな存在だってさ」
寂し気な声で呟く。それが、私の胸に棘のようなものを刺した。心が、痛む。
「……消さないよ」
咄嗟に、否定が口をついて出た。
「削除なんて、するわけない」
一つ口からこぼれれば、あとは感情のまま喉が声を作る。
「確かに、オンラインゲームはプレイヤーにとっては仮想で、その世界にいる人たちの理由は様々で、暇つぶしの人もいれば、現実を忘れるために没頭してる人だって。でも、簡単に削除ボタンを押す人なんていない」
「そうかな?」
「押せるわけない」
「絵本なんて簡単に捨てられると思うんだけど」
瞼が上がり、伏せられていた瞳が露になる。美しい青紫の宝石が、静かに私を映していた。
彼の眼に映っているのは、焦った顔の女。仮想である彼に、異世界の神様もが気づくほどの執着を示していたのに、宿っている狂気にたじろいでいる愚かな私。
毎朝、毎晩、彼がいた生活に救われていたと言うのに、どうして怖がっているのだろう。私の心は、何を躊躇っているのだろう。彼に、何故悲しそうな顔をさせているのだろう……
「出来るわけ、ない……」
呟けば、私を映している少年の瞳が見開かれた。
「え、ちょ、ちょっと待って」
慌てた様子で椅子から立ち上がり、リヒトが私の前まで足を進める。そして、右の袖を掴んで私の眼もとをごしごしと擦り始めた。
「な、なに??」
驚き声を上げれば、焦ったような声が被さる。
「ボクの台詞! なんで泣き出すの? ボク、何かした??」
「え?」
擦られ、ヒリヒリとする目元に触れれば、なおもあふれる雫が指先を濡らす。彼が言う通り、私は泣いているらしい。
「………………ご、ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「わからない。でも、ごめんなさい……」
「…………別に、ボクはなんだっていいよ? ゲームでも仮想でもオモチャでも」
「よくない、よくない」
言葉と同時に首を横に振る。すると、一瞬リヒトは困ったように眉を下げ、袖を離して両手で私の頬に触れる。そして、屈託なく微笑んで
「今があれば、それでいい。……でしょう?」
刹那的な言葉が、慰めに使われる。幼子に言い聞かせるように穏やかな声音で。ゲームだった頃と同じように、けれどその指先から感じられる体温が、仮想ではないと教えてくれた。
「うん、うん……」
温かさが、頬から入り込んで心の中にあった重石に触れた。ゆっくりと、固まっていたものが解かされていくようで、心地よさを感じる。
「これ、いつもエマに言ってたのにさ、なんか変な感じ。やっぱり、ボクとエマの間には壁みたいなものがあって、それがやっと取れたのかな? これが、自然なのかも?」
「映像じゃなくなった。体温、あるね」
「言われてみれば、そうだね。エマに触れても温かくなかったかも。うん、じゃあこれでよかったって事にしようか」
同意を求められ、私は頷く。
そのタイミングで、「コホン」と言う咳払いが二人だけに見えていた空間に待ったをかけた。
リヒトが振り返ったタイミングで私の声のした方を見れば、
「ふたりっきりの ときに してください ですの」
何とも言えない顔をしたフィラフトに、数秒の間をおいてカッと頬が赤くなる。
リヒトの指先が離れるのは名残惜しいが、それよりも男の人と触れ合ったと言う事実が、私の脳に衝撃を与え、しかも第三者が見ている中で見つめ合ってしまったと言う内容が、追い打ちをかける。
湯気が出そうな程に、顔も身体も熱くて、フィラフトの視線から逃れるためにその場に蹲って頭を抱えた。
「ぎじ パートナー……」
ポツリと聞こえてきた言葉に、今度は否定の言葉を投げられなかった。
***
「結局、勝てなかったけどね」
ホルスターの中に収めたナイフの柄をなぞりながら、あっけらかんとした声で言えば、複数の獣の特徴を持つフィラフトが全身の毛が逆立った。
「な なんという ことを……」
わなわなと肩を震わせるフィラフトに対し、どこ吹く風と言ったリヒト。
私はと言うと、口を開けて「へ……?」と間抜けな声を出し、呆気に取られていた。
「だって、殺せるのか気になるし」
純粋な興味だと言いたげな言葉に、その場面が容易に想像出来て頭を抱える。
きっと、出合頭にナイフを抜いて襲い掛かったのだろう。確実に仕留められるよう、足を狙ったかもしれない。もしかしたら、一撃でと考えて頭を……
思わず「うわぁ……」と口から声が漏れた。慌てて頭を振り、浮かんだあれこれを振り払う。
そして落ち着いて二人の様子を窺うように見れば、
「だからと いって なぐりかかる とは おそれおおいと おもいません でしたの!?」
と、声を荒げて怖い顔でフィラフトが叫ぶ。
「殴りかかってないよ?」
「え……?」
「ナイフで貫こうとしたんだけど」
「たいしてかわりません!!」
その声はもう、絶叫に近かった。
「おそろしい ほどに ごうまんで ふそんで ふけいで ああ ことばが たりませんの!!」
キイッと牙を剥き、怒りを露にするフィラフトに「そんなに褒めないで」と照れ臭そうにするリヒト。その温度差に危機感を覚えるも、止める手立てが何一つ浮かばない。むしろ、下手に口を挟めばすべての火の粉がこちらに飛んできそうな気配すらあった。
助けを求めるようにチラリと後方を見るも、彼と同じ顔をした少女と見紛う程愛らしい少年は……まだ目を閉じたまま。
目覚めの様子はない。
「でも、いなされて終わりなんて思わなかったよ。まぁ、二発目は入れられないだろうし、様子見って感じでやってみたんだけど。にしても、案外怒らないんだね、神様って。神の雷とか言うの、ちょっと期待してたんだけど」
残念だと溜息交じりに言って、同意を求めるように「ね」と私の方を向いたリヒトに
「期待、してたの……?」
と、思わず訊き返す。すると、満面の笑みで「うん。焼けこげちゃうぐらいのを」と返され、思わず引いてしまった。仮想が現実になった今、印象にズレが生じている。正直、あまりの非常識さに自分の記憶を疑う程に。ゲームだった頃の彼は、ここまで酷かっただろうか……?
自分へ問いかけた言葉に対し、見つかった答えは”物騒な発言は多かったが、システム上非戦闘エリアで武器を抜く事がなかったので、見た事がない”だ。
アウトな発言に動きが付いた場合、こうなるのか……と答えが出た事で腑に落ちたような気分になる。
とは言え、彼は機嫌がいいらしくニコニコと楽しそうだ。
口さえ開かなければ、誰もが目を奪われ言葉を失くす程の美少年で……
「格好いい、よね……」
ポツリと漏れた言葉と同時に、スルリと首に何かが巻き付いた。
「!?」
「――誰の事?」
耳元に吐息交じりの声がかかり、ゾクリと背筋に何かが走る。早鐘を打つ心音が煩く、頬が紅潮した。意識が、接触している肌に集中する。感じる体温が、自分よりも少し低い。
「リヒトって言ったら、妬いちゃうかも」
巻き付いていた腕の片方が離れ、指先が肌をなぞる。下から上に、顎を通って唇をゆっくりと押すのは、薄い紅が爪を彩る中指だった。
「え……あ…………あの……」
触れている指が気になり、唇を動かせず声が震える。背中に感じている声の主に、私の心臓の音は聞こえているのではないかと考えると、恥ずかしくてたまらない。
けれど、払いのけて逃げ出すまでのパニックには至っておらず、混乱の中呆然と立ち尽くし、頭の中に”どうしよう、どうしよう”と言う文字がグルグル回るばかり。
助けを求めると言う方向にも考えは向かわず、そうこうしているうちに異変に気付いたらしいリヒトが椅子の背もたれを掴み、放り投げる。それが、頭上をかすめた。
――ガンッ!!
「………………!?」
真後ろの壁に当たり、音を立てて落下した椅子の足が折れる音が響き、突然の事にフィラフトが目を瞬かせた。
「……それでぇ?」
背後から妖しさを含ませた声が聞こえ、首や唇から温もりが離れていく。
纏っている布や装飾品が、動きに合わせて音を立てた。恐る恐る振り返れば、そこにはリヒトと同じ顔立ちをした、愛らしい少女が佇んでいた。
口元に弧を描き、目を細めて微笑むその姿はリヒトに比べると女性的で、無垢で可愛らしく、天使のように見える。けれど、彼女ではなく彼で、今しがた椅子を放り投げた少年の双子の弟、テネーブルだ。
小首を傾げて挑発するように見つめてくる弟に対し、フンッ鼻で息をしたリヒトが腕を組む。
「エマを盾にして、ボクを燃やそうとしてたでしょ」
その言葉に驚き、目を瞠る。すると、彼は口元を掌隠して「ふふふっ」と笑い声を漏らし
「気づいてたんだぁ」
甘く、けれど間延びした声で言葉を作り、異なる色をした双眸がリヒトを映した。
同じ顔をした、けれど雰囲気の異なる二人。
兄であるリヒトは男に自分の性別を固定しているが、弟であるテネーブルはまだ分化しておらず、見た目にそれほど大きな違いはないものの、手足は細く体つきは華奢だ。
胸のふくらみがない事を覗けば、私よりも女らしい雰囲気をしている。
そんな双子に一瞬見とれてしまったが、笑みを浮かべたまま険悪さが増し、ピリピリとした空気を肌に感じる。さすがに、止めなくてはとオロオロしていると
「どうせ、神様に相手にされなかったんだろ」
と、リヒトが吐き捨てるように言った。その言葉に、テネーブルの雰囲気が和らぐ。
「そうなんだよねー……。あんなに小さいのに、瞬き一つで炎を消しちゃうんだもん」
「一番強いのぶち込んだ?」
「うん。リヒトは?」
聞き返され、不機嫌を露にして「ボクも」と言えば、見つめ合った双子がわざとらしく溜息を吐く。
「まぁ、まだ本調子じゃないし。今度リベンジかな」
「そうだねー。燃やしたらどんな匂いがするか、気になるし」
物騒な内容で和やかに進む会話に顔が引きつる。怒髪天であろうフィラフトの方を見るのが怖い。
けれど、好奇心が目だけを向けさせる。チラリと見た複数の獣の特徴を持つ存在は、怒りよりも呆れの方が強いらしく、ポカンと口を開けたまま目を見開いていた。
そして、私の視線に気づいたのか
「………… しゅみを うたがい ますのよ」
頭を振った後、蔑むような目で私を見据えるフィラフトに何も言い返せず、キリキリと痛みを訴えてくる胃を抑えて俯く。
聞こえてくるのは、双子の楽しそうな話し声。けれども、その内容はやはり物騒で、どうやって神様を殺すか、の相談だ。
彼らの性格設定を作った過去の自分に言えるなら、こう言いたい。
……なんて事をしてくれたんだ、と。
「夢ではないと言われましても、夢であって欲しいのですが……」
ポツリと呟いた言葉に反応はなく、現実となった仮想は相変わらぬまま。
目覚める事のない夢を見せられている気分で、正直逃げ出したかった。