空気よりも重く、現実よりも確かで 2
休みの日は、時間の概念が消える。
前日の夜、眠くなるまで仮想世界で過ごし、目を覚ましたら身体が空腹を訴えるまで電子の空の元で冒険を繰り返す。生理現象が起こる回数を減らすため、水分は控えめに。たまに椅子から立ち上がり、血液を滞りなく流す。
この日も、その予定だった。
昼過ぎ、丁度一時を回った頃に腹の虫がグウ……と鳴き、丁度ダンジョン内の探索も一通り終わった事もあり、少し遅い昼食をとキャラクターたちを安全エリアまで誘導し、仮想世界から戻って来た。
電気ケトルでお湯を沸かしながら、買い置きのカップ春雨の準備をする。
おかずは、缶詰の魚にするか。それともレトルトパウチの総菜か。不健康なのはわかっているが、一人分の料理程面倒な物はない。身体を動かすために必要な栄養さえあればそれでいい。食べられる味ならそれでいい。
――ピンポーン。
高い電子音が、ゴボゴボと沸騰し湯気を出すケトルの音に交じり聞こえてきた。
「宅配?」
首を捻り、壁に備え付けられたモニターを覗き込む。小さな液晶画面に映し出されているのは、明るい玄関と見知らぬ男……
年のころ、五十代前後か。画面越しでもわかる程に、不健康そうな顔色の男は不機嫌だと言いたげに口をへの字に曲げ、苛立った様子でこちらを見ている。
服装から、宅配会社の社員ではない事は伺えた。なら、誰か。新聞の勧誘か、宗教か、それとも引っ越しの挨拶か。
浮かんだ考えを次々に否定し、私は眉を顰める。最後以外は、オートロックのマンション入り口の背景になるはずだ。住人ではない人間は、中に入れないのだから。
けれども、引っ越しの挨拶とも思えない。見る限り、彼は手ぶらだ。
サービス業で、自分の身なりを考える事が多いからか、マニュアルに身ぎれいにするようにとあるからか、少なくとも整えられていない髭と髪型、よれて黄ばんだシャツの中年男性に嫌悪感を覚え、通話ボタンを押すのが躊躇われる。
やり過ごせないだろうか……
そう考えた時、再び呼び鈴が鳴らされた。
――ピンポーン。
心臓が跳ねる。
脅迫概念みたいなものだろうか、通話ボタンを押さないと言う選択を取った自分が、責められているような感じがした。
ゴクリと生唾を飲み込み、相手が諦めるのを待つ。視線の先は小さな液晶画面だが、扉一枚隔てた先に男性がいるような気がして、息を殺す。まだかまだかと、嵐が去るのを待つように画面の中の見知らぬ誰かの挙動を見続け――
一重瞼、上唇の薄い口。鷲鼻……
ふと、記憶の中で何かが引っかかった。
懐かしくあり、穏やかな時間だったと思い出した時、廊下の先からけたたましい音が響く。
――ドン! ドン!!
慌てて、画面を確かめる。鋼鈑の扉を力任せに殴っているのか、振り上げた拳が画面の外へ消え、再び戻るを繰り返している。
それと同時に、耳障りな掠れた声がスピーカー越しに聞こえてきた。
「おいこら! いるんだろう?? 居留守使ってんじゃねえぞ!!』
まるでドラマで使われそうなセリフだ。借金取りが、回収先の家族に向けて出て来いと怒鳴っているような。
けれど、違う。彼は借金取りじゃない。
二年前までルームシェアをしていた、親友の父親だ。
大葉 愛理
画面の中の男性の顔と同じく、一重瞼で上唇が薄く、鷲鼻だった。
少しふっくらとした身体に、愛嬌のある笑顔の三歳年上の女性。仕事は派遣を転々としており、寮のある工場系の仕事をしていた。
知り合ったのはオンラインゲームの中で、フレンドとして登録してくれた事が切っ掛けだった。
幻獣師と言う職で、錬金術師の”エマ”と同じく戦闘にほとんど参加せず、使役している二体の獣を使って戦うため、似たようなプレイスタイルだった。
話題はもっぱら、どういう攻撃に気を付けているのか、どの敵を倒すのがレベル上げの効率がいいかなど。ゲームの戦闘に関する内容だったが、次第に私生活についての話をするようになり、ある日近所で有名なケーキ屋の話題を出したところ、案外住んでいる場所が近い事がわかった。
話が合い、同性で、年齢が近い。
私は、すぐに彼女に興味を持った。どんな人なのか、考えて現実でも仲良くなれないか、友達になれないかと思うようになり、ゲームの中で出会って半年後、思い切って会わないかと切り出したところ、彼女も同じことを考えていたと笑って言ってくれた。
待ち合わせ先に現れたのは、ゲームの中のキャラクターとは異なり、ふっくらとした可愛らしい女性で、どことなく自分と似たような……寂しさを感じさせる雰囲気があった。
時々、儚げな表情をするのは何故か。その理由は、彼女と現実で会ってから一ヶ月後、一緒にダンジョン探索をしていた時にの事だ。電話が入ったと中座した彼女が、通話用に使っていたマイクの音声を切り忘れ、そこから漏れ聞こえた切羽詰まった声……
電話の相手は母親なのか、酷く焦った様子で受け答えしていた。
戻って来た彼女の様子がおかしかった事もあり、心の底から心配になった私は、「出来る事ある?」と、聞いてしまった。
それに対し、彼女は初め「大丈夫」だと言っていたが……画面の向こう側で泣き出し、ぽつりぽつりと語られる事情。
彼女の父親は、想像を絶するほどに横暴な人間だった。
母親を風俗で働かせ、酒を飲んでは自分以外の男の相手にしたからと言って殴り、金はギャンブルへ。借金を作り、母親の稼ぎだけでは足りないと今度は上の姉を仲間に売った。二束三文で奪われたものは尊厳と、少女だった頃の希望。恋をして、愛する人と結ばれると言う小さな幸せ。それを踏みにじられ、
心に傷を負った娘が自殺すれば、得た保険金を趣味の車に変えた。
愛理自身も、逃げ出すまでは相当酷い目にあったらしく、父親と似た年頃の男は苦手だと話してくれた。
そして、彼女は泣きながら私に助けを求めた。貯金はある、働かなくても二年は食べられる程度に。だから、少しの間身を隠させて欲しい、と。
私は、友達に頼られるのが嬉しかった。自分を必要とし、縋りついてきた彼女を見捨てると言う選択はなく、愛理が心穏やかに過ごせる居場所を提供できるよう、すぐさま部屋の掃除に取り掛かった。
不要な荷物を処分し、二部屋あったうちの一部屋を彼女のためにあけた。二日で「いつでもおいで」と言った私に愛理は驚いたが、感謝してくれた。
五日後やって来た彼女の荷物は、ボストンバッグが二つと小さな段ボールが一つ。
到底、年頃の女性の荷物の量には思えず、今度は私が酷く驚いてしまった。
それから一年。女二人の生活は、それなりに賑やかで楽しく、充実していたと思う。
仕事から帰れば「おかえり」の声が聞こえ、休日は昼間から酒盛りし、ドラマで好みのタイプの俳優が出てくれば、こんな人といつか結婚したいなと夢を語る。
けれども、楽しかった日常はそう長く続かず、ある日ボストンバッグ一つを持って愛理は消えた。
ノートパソコンの上に置手紙が一枚。残された言葉は、病気になった事と、病院が愛理の家族に電話をしてしまった事……
感謝の言葉と共に、親友と言う文字を見た時、私はその場に頽れて泣いた。
文面から感じたのは、彼女の覚悟。治る見込みのある病であっても、愛理は治療を拒絶するだろう。何度も「現実は疲れる。早く終わらないかな」と口にしていたぐらいだ。生き残るための努力や、命を繋ぎ止めるために必死になる事はないだろう。
そして、今から二年前。愛理の母親を名乗る人からゲーム内にメッセージが届いていた。
手紙には、彼女はとても用心深い事。オンラインゲームのアカウント名と、その中に残されたフレンドへ一通だけ、メールを出してほしいと頼まれた事。そして、治療せず亡くなった事が書かれていた。
彼女の母親は、父親の異常性について書いていた。出来る事なら、その部屋を引っ越すようにと言う忠告もあった。
けれど、私は愛理と過ごしたこの部屋を、愛理がいたこの場所を捨てて別の部屋を借りる事が出来ず、オートロックの出入り口で安心していた事もあり、契約を更新してまだ住んでいる。
それが間違いだったと気づいたのは、画面から彼女の父親の姿が無くなってからだ。
「舐めやがって……そっちがその気なら、こっちだってやってやる……」
スピーカーから聞こえてきた声に、嫌な汗が背筋を伝う。指先がゆっくりと冷えて行き、心臓が大きな音を立てて煩く鳴っていた。
子供のころから見る、奇妙な夢を思い出す。
様々な理由で、様々な死の瞬間を体験する夢は、悪夢だ。夢なのだから時間と共に薄れ、消えていき、不愉快な感情だけが残されているが、最初に見た夢だけは何故か脳裏にこびり付いたまま、時折自分に警告するかのように思い出される。
それが、今、また起こった。
歪んだ瞳が自分を見下ろし、振り下ろされる鋭い物。
――ガシャーン!!
記憶が反芻された瞬間、破砕音が突然響いた。
音はベランダに接している隣の部屋からだ。ルームシェアをしていた時、心ううが使っていた部屋の方から、ミシミシと割れた破片を靴で踏むような音と、乱雑に木製の引き出しを開ける音が続く。
愛理がいなくなっても、ずっとそのままにしていた部屋を踏み荒らされている。
恐怖に僅かに滲んだ怒り。それが、私の判断を鈍らせたのだろう。
目的物が見つからず、苛ついているらしい男性が扉を蹴り開け、リビングへと現れた。
「金はどこだ!!」
その言葉と同時に、棚の上にあったものを男性が薙ぎ払う。
気に入って飾っていたガラスの小物や、両親と撮った写真を収めた写真立て、鈴をつけた自転車の鍵。それらが音を立てて床に落ち、割れる。
怒りはあるのに、恐怖が身を竦ませる。一歩、一歩後ずさるが、背中に壁が当たった。そのまま横にずれていくと、気が収まらない男が床に落ちたものを蹴る。
破片が、部屋の中に散らばった。
「……クソが!!」
私の反応が気に入らなかったのだろうか。それとも、単に苛立っているからか。土足で目の前にやって来た男性は、振り上げた拳を私の頭に振り下ろした。
――ゴン。
骨が軋む音と共に、視界が強くぶれた。真後ろの壁に後頭部が当り、反動で脳みそが揺れる。一瞬、意識が飛んだ。けれど、痛みが引き戻す。額が切れたのか、視界が赤い。
「…………ッ」
無意識か、それとも本能がそうさせたのか。身を庇うように私は丸くなった。両手で頭を庇うようにすれば、それが気にらなかった男性の足がふくろはぎを蹴る。
素手よりも、靴の方が硬く痛い。
「いっ…………!?」
私は崩れるように膝を突き、くぐもった悲鳴が口から溢れた。
男性は「ウルセェ」と言って今度は背中を蹴る。背骨が軋み、強い痛みが呼吸を遮る。
「黙ってんじゃねえ!!」
痛みで声が出ない私を、男性は容赦なく蹴りつける。床に横になり、身を固くしてひたすら耐えるが、次第に感覚が鈍くなっていく。骨が折れたのか、皮膚が切れたのか。わからない、ただ、衝撃が何度も何度も脳を揺さぶった。
理不尽だ。不条理だ。無茶苦茶だ。
「ああ? 聞こえてないのか?」
男性は私の髪を掴み、力任せに持ち上げる。上半身の体重を、頭皮で支えているのだ。ブチブチと、毛髪が千切れる音が聞こえてくる。
心が、叫んでいた。怖いと、やめてと。けれど、喋りたくても、痛みに耐えているせいで喋れない。何が目的か、説明もされていない。不法侵入に器物破損、そして暴行。
意識は朦朧とし、身体にあまり力が入らない。それでも、男性は耳元でがなってる。金、カネ、かね、と。
ここで終わりなのだろうか。私の人生、これだけだったのか。
揺さぶられながら、冷静な自分がまるで走馬灯のように過去を見せてくる。それを拒絶するように、身体がある音を捕らえた。
――ピシッ
真上から、何かが割れる音が響き、その衝撃を耳ではなく肌が感じ取る。
まるで、巨大なガラスにひびが入る瞬間のような、そんな音に――男の蹴りが止まる。
そして、慌てた様子で足を踏み出した。ガタガタと、リビングに置かれた椅子に躓き、男性が転ぶ。
血で滲んだ視界に、ぼんやりとだが映し出されるものがあった。そして、その方向を転んだ男性も引きつった顔で見ている。
巨大なドアモニター。少し前、男性が部屋に現れる前まで見ていたそれが、何故か空中に浮いていた。
画面に映し出されているのは、まだ幼さの残る少年。
けれど、その表情はどこか歪で、半開きの口からは黒い物が垂れている。
「――も………………だ…………め………………にげ…………」
スピーカーから聞こえてくる、途切れ途切れの音声。
映像の向こう側で、少年がえずく。そのたびに黒い物が吐き出された。
まるでホラー映画だ。現実味のない、どこか他人事のようなその光景に、私は悪い夢を見ている気分になった。
これは現実じゃない。現実の自分はきっと、ゲームの最中に眠ってしまったのだろう。そして、悪夢を見ているに違いない。
ならば、意識を手放してもいいはずだ。
繋ぎ止めていたものを放そうとした時、男性の奇声が聞こえてきた。
振り返れば、モニターから溢れ出た黒い物と、部屋の物が混ざっていく。そして、その中に男性もいた。
溶けた家具の一つに、身体がゆっくりと埋もれていく。
「な……なんなんだよ!?」
叫び、もがく。けれど、男性がもがけばもがくほど、家具は輪郭を失い他の何かと混ざり合い、次第に近くのテーブルやポット、コップや男性が壊したガラスを巻き込み、形を失っていく。
「クソ! 助けろよ、助けろよおおおおおおおおおおおお!」
暴れる男性は、瞬く間に歪んだ何かの中に溶け込んでいき、水の中に沈んだ時のように、ガボガボと喉の奥で空気と水が絡むような音をさせ――声が、かき消える。
服の色も、肌の色も、髪の色も。もう、そこにはない。他の色と混ざり、汚い別の物になってしまった。
「え…………?」
乾いた声が、喉から一つ出た。
混乱しつつも、この場に留まるべきではないと本能が判断する。
折れた足を、腕を、引きずり這うように動く。逃れようと伸ばした手……
それが、天井だったものに混ざり、飲み込まれた――
「ひいっ!?」
声にならない悲鳴を上げ、慌てて腕を引き抜こうと力を込める。
垂れ落ちてきた天井は、私の腕を飲み込み色を変える。気が付けば、パソコンも携帯も、床に脱ぎ捨てたままだった服も、溶けていた。
自分ではないものが混ざる。それはまるで、ジワジワと触れている場所から歪められ、浸食されているような感覚だった。
恐慌状態に陥った私は、力の限り暴れた。すると、さっきの男性のように更に深く、二の腕まで入り込んでしまった。
「――急いで」
恐怖で混乱している私の頭の中で、柔らかな声音が語り掛ける。危機的状況だと言うのに、その声があまりにも綺麗で、心地よくて、泣いてしまいそうになった。
同時に、引き抜こうとしていた腕の周りに空気の膜が生まれ、身動きが取れるようになった。それを逃すまいと、力を込める。
けれど、引き抜く事は出来ない。滲み、溶け合い、ぐちゃぐちゃになった物と腕は、まだその中だ。
「――下へ」
巨大なモニターの中にいた少年の物とは異なる声が、導くように告げる。
自然と、視線が自分の身体の下へ向き、見慣れた絨毯の色が目に入る。
次の瞬間、床が抜けてしまったかのように、身体を浮遊感が包んだ。
深く、深く、どこまでも落ちていく自分が、この後どうなるのか――
考えるのをやめた時、誰かに抱き留められるような感覚と共に目が覚めた。
***
重たい瞼を押し上げれば、視界を滲ませていた赤は消えていて、私は床に横たわっていた。
窓から差し込む陽ざしが満ちた部屋は明るく、カーテンが風に揺れている。心地よい風が頬を撫でる中、ぼうっと夢心地で周囲をゆっくりと見渡し、上半身を起こす。
木製の壁、質のいい絨毯。上等な調度品は、色合いも落ち着いている。
安さに負けて購入し、下手ながら組み立てた家具とは違い、どれもこれも滑らかな質感で歪みがない。
「部屋……?」
どこの部屋か、考える。少なくとも、私が借りているマンションの一室ではないだろう。
安っぽい白い壁紙に、ワックスの塗られたフローリング。遮光性の高いカーテンに、統一感のない家具が並ぶ部屋は、私の足元に床に敷かれた絨毯一枚で揃えられる、良心的な価格の品ばかり。
ぼんやりとする意識の中、この場所に至るまでの記憶を探す。けれど、見つかるのはどこまでも落ちていく感覚と、浮遊感。そして、強い強い恐怖――
無意識に身体をかき抱けば、天井や周囲の物と混ざったはずの腕がある事に気づく。
「…………え?」
確かめるように視線を落とし、自分の身体が無事な事に驚いた。けれど、違和感を感じて眉を顰める。
「ずいぶん ふこうな ほしのめぐりを していますのね」
溜息交じりの声が聞こえ、音のした方へ顔ごと視線を向ける。
そこには、形容しがたい姿かたちをした、奇妙な生き物が佇んでいた。
しいて言えば、イタチの顔にウサギの耳、羊やアルパカのような毛並みの身体にリスの尾だろうか。
複数の生き物の特徴を宿した、キメラのような動物。それが、こちらを静かに見つめている。
「な、なに……?」
人間の子どもよりも大きな身体で、首を擡げてこちらを見降ろす”それ”に身が竦む。白目のないこげ茶の瞳が、なんだか妙に冷たく感じた。
「あと いっぽ おそければ あなたは ころされて いましたの」
声音は、人間の物と変わらない。獣じみた口から牙が覗く中、感情のこもらない音がかけられる。
――殺されていた。
その言葉に、顔が強張る。私の反応に困惑したのか、”それ”はチラリと顔を横へ向けた。
”それ”の顔の動きを追い、視線を向ける。
「……もう、怖くないよ」
学んだどの言葉を当てはめても、足りないと感じる声が私の耳朶を震わせた。
身体に染み込んでいく優しく穏やかで、どこか暖かなその音は……心の中にスルリと入り込み、抱えている何もかもを包み込んだ。苦しみも悲しみも、痛みさえも一瞬で癒されていく。
それと同時に、頬を涙が伝い落ちた。ポタリ、ポタリと名状しがたい感情があふれ出し、雫となっていく。泣きたいわけじゃない。泣こうと思ったわけじゃない。それなのに、止まらない。
何より、涙で滲む視界の中、手の甲で拭うと言う選択が出来なかった。瞬きすら、する事が憚られるようで、一瞬でも目を離せない。呼吸の仕方を忘れたように、私は息を飲み、肺が慌てて吐き出させる。
私が今、この目で見ている人は、まるで太陽の化身のようだ。
黄金の光を編み込んだような髪に、サンストーンを埋め込んだような大きな瞳。艶のある健康的な唇は、慈悲深く笑みを作り、表情はどこまでも穏やかで……まるで、神仏を描いた絵を見ているような、そんな気分にさせる。
けれども、服装は昔の画家が描いた神々の物とは異なっていた。
白く長い、マントのような薄い布を胸元で乱雑に止め、そこから幾つもの金色の紐が伸び、マントの下の軍服のような赤色のジャケットに繋がっている。
ボタンは白く、仕立てのいい布が使われているのか、皴はほとんど出来ていない。
ジャケットの下には、それよりも少し深い色のズボンを履いており、腰のあたりで緩く黄金色のベルトを締め、その下から幅の広い四本の布が伸びていた。それは床に付くほど長く、膝上丈の裾の広いズボンから覗く褐色の肌を隠している。
靴は履いていないのか、子供らしい小さな足が布の間から覗いていた。
西洋人形のような色合いの男の子は、この世の何よりも美しく、神秘的だった。
文字通り言葉を失い、目を奪われている私に向かい、キメラのような獣が「コホン」と咳き込む。
すると、瞬きが出来た。次に、呼吸を思い出したかのように大きく息を吸い込み、早鐘を打つ心臓が慌てた様子で血液を流していく。
「わ……たし……あの…………」
混乱しながらも、口を動かす。まだ、涙は止まらない。
「ここ……どこ……? 夢? 天井が……腕……殴られて……」
途切れ途切れに伝えたのは、断片的な記憶の内容。振り上げられた拳、蹴りつけられた背中の痛み。赤く滲んだ視界の中、巨大な玄関モニターから溢れ出た黒が、部屋の中の物と混ざり合い形を失くしていった。
自分に暴力を振るった人間を飲み込み、私の腕を巻き込んで――
「凄く、気持ちが悪くて…………私、私……!?」
縋るように見れば、憐れむように男の子が目を伏せた。
「あなたの心の傷を、癒す術をぼくは持たない。出来るのは、封じて忘れさせる事……」
困ったようにわずかに眉根を寄せ、男の子はしゃがんで私に目線を合わせて口を開く。
「恐怖は、今はいらない?」
囁くような問いに、私は首を縦に振る。
肯定の意味と捉えたのか、男の子の幼い手が私の涙を拭い、指先に乗った滴に息を吹きかける。
すると、涙はフワフワと空中に浮きあがり、青い光を纏う。
「これは、あなたの中に残された、恐怖の種。なくてはならない感情。だけど、今は石にしておく」
光は次第に弱まり、広げられた男の子の掌の中にゆっくりと落ちてきた。
「飲み込めば、感情は戻る。いつか、受け入れられる時が来たら思い出して」
シャラリと音を立てたのは銀色の鎖。それを掴み、男の子が私の首に腕を回しつけてくれた。鼻孔を擽る仄かな香りは、春の森を連想させる。
心が、軽くなった。と、表現するべきなのだろうか。それとも、鈍くなったとでも言うのだろうか。
不安や混乱がかき消され、代わりに戸惑いが表面に現れる。
男の子の手が鎖から外れ、鼻の近くで香っていた春の森が離れていく。それを名残惜しく感じつつも、困惑が言葉を作り、声に変えた。
「貴方たち……誰?」
男の子が付けてくれた、飴玉サイズの石をギュッと掴み、尋ねる。すると、キメラの獣が顔を顰めた。
「……なのれ とは ぶれい ですの」
あまりにも冷ややかな声に息を飲む。緊張が、次の言葉を躊躇わせた。
「………………」
黙っていると、立ち上がった男の子がキメラの獣を静かに見つめ、僅かに首を傾げる。
その反応に、慌てた獣が目を丸くして恭しく頭を下げた。
「わ……わたくしは フィラフト と もうしますのよ」
そして顔を上げ、口元を引きつらせたまま続ける。
「あなたが このせかいで ふべんなく いきられるよう しえんする やくめを おおせつかって おりますの」
「え……?」
「しりたいことが あれば こたえますのよ」
獣の余りの変わりように、私はふと隣に佇む男の子に目を向けた。彼はただ、感情の読めない瞳で口元に微かな笑みを浮かべているだけで、威圧などしているようには見えない。
変わらず、言葉にしづらい神秘さと柔らかな雰囲気があるだけで、慌てる必要など微塵も感じないが……
キメラの獣は「早く」と言いたげにこちらを見ている。なので、かえって冷静になれた。きっと夢を見ているに違いないと割り切り、それらしい質問をしてみようと考える。
「あの……私は誰、ここはどこの状態なんですが……あ、自分の事はわかってるので、ここはどこの方でお願いします……」
無礼と言われたため、ひとまず言葉遣いには気を付ける。
私の質問に、一瞬呆れたような表情になったものの、キメラの獣はすぐに姿勢を正し、
「さまざまな ことばで あらわせますのよ たとえば いせかい」
「い、異世界……?」
「ええ ことなる せかい または いじげん べつせかい いかい と いっても あうのかも しれませんの」
「要するに……元の場所とは、違うところって事でしょうか……」
「すくなくとも よびなが ちきゅう では ありませんの」
「………………」
思わず頭を抱える。
ゲームのし過ぎだろうかと、頭痛がした。これが夢だとしたら、思ったより私の心は重症なのかもしれない。常々、ここではない、どこか遠い場所へ行きたいと考えていたが、よもや異世界を夢の中で作り出し、ネットゲームのプレイ中に暴行された流れからの転移とは、病んでいるとしか言いようがない。
しかも、十歳前後と思われる美しく神秘的な、小学校低学年の男の子を想像し、登場させてしまうとは……
自分は断じてショタコンではないと叫びたいが、説得力の欠片もない。
キメラの獣にしても、私の好きな動物の寄せ集めなのかもしれない。ウサギやイタチは可愛いと思うし、有名なリスのキャラクターのグッズは幾つか部屋にある。羊やアルパカに関してはわからないが、羊毛には寝具や衣服でお世話になっているのだから、想像しやすかったのだろうか。
「……思いの他、私って……ヤバいヤツなのかな……」
心の声が口から洩れると、キメラの獣が小さく息を吐いた。
「きけんな じょうきょう では ありましたのよ」
「頭が?」
「……………… あたまの はなしは していませんのよ」
聞き返した言葉に呆れを通り越し、侮蔑交じりの視線が突き刺さる。
「いえ、あの……こんな綺麗な男の子や、人の言葉を話す動物とか、色々、夢にしては出来過ぎてて……」
語気が弱まり、最後はボソボソと俯き加減で話す。想像力の乏しい自分には、作れない設定だと思ったとは言えず、誤魔化すように引きつった顔で無理やり笑みを作れば、苦笑いになってしまった。
「ゆめでは ありませんのよ」
淡々とした声が、否定する。
「まぁ、確かに……夢の中で夢を見る事もあるし、起きるまで判断出来ないですもんね」
夢の住人の言葉に私は頷く。目覚めるまで、気づかないのだから現実だと言われても納得する他ない。
けれど、獣の隣に佇む男の子の視線に気づき、押し黙る。
彼は酷く悲し気に私を見ていた。
「あなたは、ぼくを夢だと思う?」
僅かな間をおいて、気づけば私は首を横に振っていた。
***
「お、もって……ない、です」
目元に影を作る長い睫毛が、男の子のサンストーンのような瞳を隠す。伏し目がちに、寂しさを含ませた声で告げられた言葉に、私は強い罪悪感のようなものを感じていた。
キュッと締め付けられるような痛みのする胸元を抑え、否定の言葉を口にする。
「夢みたいだなと、思っただけで。夢だとは、思ってない……です……」
「あなたの眼に、ぼくは映ってる?」
あくまで感想だと、言い訳のように続けた言葉に男の子は安堵したように口元に笑みを戻した。
「確り、映ってます」
大急ぎで首を縦に振れば、緊張していたらしいキメラの獣もホッと胸を撫でおろすように息を吐く。
「……よかった」
朗らかな声に、今度は別の感情が胸を締め付けた。キュウッ……と、なんとも言えない甘い感情が男の子の言葉と表情に反応し、鐘を鳴らす。
慌てて口元を抑え、溢れかけた単語を飲み込む。なんて可愛い男の子なのだろうか。なんて愛らしいのだろうか。彼が大人の男性だったなら、この瞬間私は恋に落ちただろう。
男の子の柔らかな雰囲気に癒され、時折見せる微かな表情の変化に胸を撃ち抜かれる。唇が奏でる淡い声は、どんな愛の囁きよりも心をときめかせ、胸を締め付けた。
僅か前に出会ったばかりの、それも年下の男の子相手に夢心地になるとは……
人恋しさも過ぎれば、常識が飛んでしまうのだろうか。それとも、この際自分に好意的な態度を取ってくれる人なら誰でもいいと、そこまで切羽詰まっているのか。
なんにしても、如何なものかともう一人の自分がブレーキをかける。一回り以上年の離れた相手に恋心を抱くのは、背徳感と罪悪感、そして躊躇いとほんの少しの憐れみ。自分への……憐れみ。
例え、相手が子供とは思えない程落ち着いた、穏やかな雰囲気をしていても。年齢と言う壁は、容易に超えられる物ではないし、超えていいべきものでもない。
冷静さを取り戻すために静かに深呼吸を繰り返していると、男の子の唇がゆっくりと開かれた。
「ぼくの名は、ル・ティーダ。あなたを”淀み”から引き上げ、”ノウム・プルウィア”に呼び寄せた。ここは、ぼくの対である女神、ラ・カマルの涙から作った世界。ぼくが守護する、たったひとつの場所」
自らの名を淡々と告げ、最後の一文を愛おし気に語った男の子の表情は、やはり子供とは思えない程大人びていた。
無意識に目元を擦り、確かめるようにル・ティーダと名乗った男の子を見る。彼は変わらず、柔らかな笑みを口元に湛えている。
つい、見とれていると「コホン」と咳払いの音が聞こえ、我に返る。
「あ、えっと…………………………」
混乱し、助けを求めるように咳払いをしたキメラの獣を見ると、獣もまた困惑している様子で目が合った。
「ル・ティーダは このせかいの せいを つかさどる かみ ですの」
「………………え?」
「ノウム・プルウィアを しゅご するのは ふたはしらの だんじょの かみがみ このかたは そのかみがみの ひとはしらであり ひかりと みらい いのちを つかさどる おがみ ル・ティーダ ですのよ」
「…………………………神、さ……ま?」
思わず訊き返せば、白けたような顔をされてしまった。
そして、噛んで含むようにもう一度、
「あなたを ”こんとんのゆがみ”が うみだした ”よどみ”から すくいあげ このせかいへ よんだのは わたくしたちの かみ ル・ティーダ ですの」
「………………救い上げた?」
「のまれていた でしょう? あらゆるものと まざりながら」
「それって」
言いかけた言葉に被せるように、
「あなたの へやは もう あとかたも ありませんのよ まざり のまれて しまいましたの」
「…………あれは、夢じゃ……」
疑っている心に、チクリと刺さる物があった。
恐怖はない。胸元の飴玉サイズの石を握れば、ほんのりと熱を持っていた。男の子の言葉が本当なら、怖いと思う感情は今、これになっているのだろう。だから、感じないのかもしれないが……
それでも、記憶の中に焼き付いた光景が訴えてくる。
殴られた、痛かった、蹴られた、骨が軋んだ。男性が沈み、自分の腕も――
思い出し、慌てて両手を見る。着ていた部屋着は、タートルネックの長そでシャツ。柄は紺とグレーの細めのストライプで、ズボンはジャージだった。白いラインが二本、太ももの外側についていたはずだが、目の前にある自分の腕は、白い布で覆われていた。
「……ブラウス?」
袖、腕、胸元へと視線を動かして行けば、それが白いブラウスでレースが至る所にあしらわれている事に気づく。そして、両肩には銀色の花の装飾と、中央に赤い色の石が施された留め金。そこから伸びるガウンはお尻を隠す程度の長さで、灰色の布に銀色の茨が描かれており、ジャージではなくこげ茶のピッタリとしたパンツを履き、更に深い色の茶色をしたブーツが足を守っている。
恐る恐る手を伸ばし、頭に触れる。指先に当たったものを取れば、モルタルボードと呼ばれる海外の卒業式でよく見かける帽子だった。ボタンから吊るされた房を垂らし、正方形の角帽。色はガウンと同じだが、模様は入っていない。ただ、中央部分に薔薇の刺しゅうと赤い石が入っている。
可愛らしいレースのブラウス、精巧な装飾。学者風のコスチュームに見覚えがあった。
「”エマ”の……服……」
口をついて出たのは、私の名前であり違うもの。
カタカナで呼ばれていたのは、名付けたのは、仮想世界の中の私。オンラインゲームに作った、最初のキャラクターであり、錬金術師と言う職の少女――
混乱した私は、キメラの獣と男の子を交互に見る。
獣は白けた顔のまま左右に首を振り、男の子は変わらず口元に柔らかな笑みを湛えていた。
***
「つまり あなたの うでを しゅうぜん するさいに ゲーム という ものの データを りよう しましたのよ」
幼子に言い聞かせるように、キメラの獣が説明する。けれど、その内容は到底受け入れがたいもので、混乱が混乱を呼び、私は額を抑えて頭の痛みに耐えていた。
「その、”混沌の歪み”って言うのが、偶然異世界に穴を開けたら私の部屋で、暴力振るって来た男の人の悪意に反応し、あふれ出して部屋を丸ごと飲み込んだって事……?」
簡単にまとめると、キメラの獣が頷く。更に頭痛が酷くなった。
要約すると、たまたま私の部屋が異世界に通じてしまい、そこからよくないものが出てきたと言う事らしいが……
不幸な星の巡りをしている、とフィラフトと名乗ったキメラの獣の言葉通り、完全な貰い事故のようなもので、私に一切の非はない。どれか一つ、例えば私が昼過ぎまで寝こけていたり、昼ご飯にピザの宅配を頼んでいたり、男が尋ねてきた時にトイレにでも逃げていれば、”混沌の歪み”と言うノウム・プルウィアで生まれたよくないものが、私の部屋を飲み込むことにはならず、運命通り殴り殺されるだけで終わっていたと言われ、それはそれで恐ろしい結末だったような気がし、血の気が引いた。
死ぬのと異世界に呼ばれるのと、どちらがマシか。究極の選択が付きつけられ、自分の意志とは関係なく後者に決まり、今現在、男神ル・ティーダの守護する世界で説明を受ける、と言うものの……
頭痛の種は、異世界に呼び寄せられたと言う点だけではない。
「私の身体を、ゲームのデータで上書きって……」
溜息交じりに呟き、改めて両腕を見る。そこには、仕事中に負った手の甲の傷はなく、ささくれもない。瑞々しい、綺麗な手だ。自分の物とは思えず、何度も確かめるように手のひらを握る。動きも感覚も、何一つ以前と変わらない。
様々な家具が部屋の中で混ざり合い、その中に巻き込まれてしまった私の腕……
一度飲み込まれたものは二度と元に戻せない。
二の腕から先が魂の記憶からも失われ、更なる浸食を受けるところだった私を、ル・ティーダは境界を割き、落とす事で異世界へと導いた。
その際に、私が最も強く執着を示していた”もの”も一緒に。それが、オンラインゲームの”千年王国と封印の鍵”のデータとは、ある意味らしいと言えばらしい。それ以外への未練がなかったと言われると、家族の写真や友人との思い出の品に対し、申し訳ない気分になる。
けれど、どこか納得している自分もいた。
残されて、置いて行かれ、私は独り。家族も親友も、そんなつもりはなかったと思う。けれど、最後に残ったのは、幾ばくかの保険金と形見の品。そして、寂しさだけを感じさせる写真と思い出。
孤独に耐えきれず逃げ込んだ世界は、そんな私に優しかった。死のない場所、終わりのない物語。自分次第でなんだって出来た。作ったキャラクターたちと過ごす時間は、ぽっかりと空いた心の穴を埋め、孤独を癒してくれる。
人と縁遠い私にとって、それは安らぎで……強い執着が生まれていたとしても、仕方がないように思える。
「さいげん した というだけ ですのよ」
私の呟きに答えるようにフィラフトが言う。
「おおきな へんかは ないと おもいますの」
壁の鏡へ視線を向け、覗いてはどうかと顎を動かす。外見の変化が気にならないわけではなかったので、促されるまま鏡の前に立てば、そこには数年前の自分が少し違う色合いとなり映されていた。
「……若い」
ペタペタと両手で頬に触れる。肌艶がよく、寝不足のせいで出来た目の下のクマがない。日本人特有の黒髪黒目ではなく、濃茶のミディアムボブの髪にこげ茶の瞳が自分がこちらを驚いた顔で見ていた。
「あなたは、その姿をとても大切にしていたのかな」
声をかけられ、私は鏡越しに男の子を見る。静かに答えを待つように、こちらをジッと見ているル・ティーダと目が合い、思わず目を反らした。
彼の瞳に、心の奥底に隠している感情を見透かされているような気がして、居た堪れない気分になる。
ずっと、”エマ”になりたかった。このキャラクターになって、誰かに必要とされたかった。仕事へ行く時間が近づくと、絶望が足を掴んで私を悩ませる。誰もが私を空気のように扱う事に一切の悪気も、悪意もない。いじめではなく、単に私がそこに居る事に気づけないだけ。
だから、自分が作ったキャラクターに必要とされる”エマ”が羨ましくて、妬ましくて、そうなりたいと願っていた。
「オンラインゲームのキャラクターを作るのは初めてで、勝手がわからなくて自分に似せてしまっただけなんだけど……」
曖昧に返せば、男の子はふと考えるように瞬きをする。
「あなたの腕をデータから再現する時、思いのほか馴染むのが早かった。拒絶もなく、初めから同じものだったかのように合わさったから、もしかしたら、魂が宿っていたのかもしれない」
「魂が、宿るって……」
「その腕は、あなたになりたかったんだと思う。そしてあなたも。だから、一つになった事がとても自然で、二つだった事が嘘のように同じものになっている」
「……………………”エマ”が……私、に……?」
戸惑い、両腕を見る。そこにあるのは、錬金術師”エマ”の服装をした、二つの腕。二つの手、十本の指。同じように見えて、同じではない、綺麗な肌をした少女のもの。
「心は仮想に、”エマ”に重ねてた。ずっと、仮想世界へ行きたいと思って……。ここじゃない、どこかへ行けるのなら、死んでもいいと」
両手で肩を抱き、そっと目を閉じる。いつも置き去りにしていた心が、戻って来たような気がした。
「しにかけ ましたのよ」
「でも、生きてる」
「ル・ティーダの おかげ ですの」
「そうだね」
心の中に灯った感情が、自然と表情を作る。
振り返り、男の子の方を向いて
「助けてくれてありがとう、神様」
微笑み、思いを伝えれば羽が生えたように気持ちが軽くなった。
そんな私の反応に男の子は目を瞠り、キメラの獣が面食らったかのように口を開ける。
「…………あなた そんな かおも できますのね」
間をおいて紡がれた言葉に、私は首を捻る。
どんな顔かと鏡を見れば、別人のように晴れやかな表情の自分が映し出され、あまりの変化にギョッとした。
陰鬱とした、何もかもを諦めたような女の姿はそこにはない。
随分と懐かしい、子供の頃の自分が少しだけ大人びてそこに立っていた。
***
「休日の昼間、オンラインゲームの最中に呼び鈴が鳴り、インターフォン越しにがなる中年男に困惑していたら窓ガラスを割って押し入られ、ぼこぼこに殴り蹴られされたら、異世界から”混沌の歪み”と言う得体のしれないよくないものが部屋を飲み込み、中年男も巻き込んで家具家電と混ざり、間一髪のところで異世界の神様に助けられたけど、腕を失ったのでゲームデータから再現してもらい、若返った……と言うのは、なんとも言えないあらすじだと思うんですよね」
真顔でまとめた所、男の子の神様はキョトンと目を丸くし、キメラの獣であるフィラフトが呆れたように鼻で息を吐く。
「しぬよりは ましかと おもいますのよ」
「それは、そうなんですが」
「それとも、なにか ふまんが ありますの?」
ギッと睨みつけられ、慌てて首を横に振る。いいえいいえと焦りながら繰り返す私に、フィラフトは疲れたような顔で頭を振った。
「はじめの しおらしい あなたは どこへ いったの でしょう」
「…………あの時は、混乱していまして」
「ずっと こんらん していて くださいまし」
「あ……はい……」
無理だとは言えず、頷く。すると、やり取りを聞いていた男の子の表情が和らぎ、小さな笑い声が零れた。
それに、キメラの獣が目を瞬かせて言葉を失くす。
「どう しましたの……?」
驚愕、と言う言葉が似あう顔をしてキメラの獣が尋ねれば、男の子が目を細め
「”楽しい”を、感じたのかもしれない」
淡く柔らかな声音が、喜びを含ませて紡がれる。その音に、また胸がキュウッ……と甘い痛みを伝えてきた。
いけない扉が開いてしまいそうで、私は慌てて心の奥底から湧き上がる感情を抑え込む。幼い神様相手に邪な感情を抱いてしまったら、抱いたことを気づかれたら、それこそお目付け役らしいキメラの獣に睨み殺されるどころか、かみ殺されそうだ。
けれど、一度感じてしまったものは容易く消えやしない。
相手は神様だと言うのに、守りたい気分になってしまう。了承なく異世界に呼ばれた事も許せる気がするし、よくあるゲームの世界を救って的な要望にも全力で答えたいと考える。
なにより私は今、この上ない幸福感をヒシヒシと感じていた。
今なら魔王を倒す勇者になれと言われても全力で「OK」と言える。倒せる能力があるかどうかは別だけど。
多少邪険にされている感はあるものの、フィラフトと名乗ったキメラの獣は私を認識し、喋った言葉にしっかりと返答してくれる。
ル・ティーダも、宝石のような瞳に私を映し、話しかけてくれて……怯えていた私を気遣い、不思議な力を使ってくれた。
二人、と言っていいかはわからないけれど、彼らは私を空気にしない。いないように扱わない。
それが、忘れていた感情が、懐かしい感覚が、新たに出来た繋がりが、私の心を捉えてしまった。
「と とにかく ですの いまは じかんが おしいですのよ」
ハッと我に返り、フィラフトが頭を振って慌てた様子で捲し立てた。
そして、改まった様子で恭しく頭を垂れ、ル・ティーダに向かい礼をし、
「あとのことは わたくしめに おまかせくださいな あなたさまは ラ・カマルの もとへ」
と、告げる。
その言葉に、男の子の表情がまた読めないものへと変わった。
「……うん、そうだね」
小さな声で答え、幼い男の子はエマに向かう。身長差から、見上げられる格好となっているものの、何故かそれに酷く違和感があった。佇まいが堂々としているからか、それとも雰囲気が大人びているからか。理由はわからないが、妙に緊張した。
自然と背筋が伸びる。
「恵真と呼んだ方がいい? それとも、あなたが求めていた場所で使われていた、エマの方がいいのかな?」
問われ、逡巡する。慣れ親しんだ呼ばれ方に思い入れはあった。家族が大切に、本当に大切に呼んでくれていた名前。けれど、同時に虚しさが広がる。名付けてくれた父母も、大事にしてくれた祖母も、呼んでくれていた兄も、ここにはいない。
鏡に映るのは、仮想世界で作ったキャラクターと混じった自分。ならば――
「エマ、で。お願いします」
迷いを断ち切り、言葉にする。
すると、男の子は小さく頷いた。
「あなたは、受け入れてくれるんだね」
囁くほどに小さな声が唇からこぼれ、音が空気に溶けるのと同時にル・ティーダの身体から光の球がふわり、ふわりと離れていく。
それは次第に数を増やし、かき消えるように男の子の姿が薄くなっていった。
「え? え??」
慌ててフィラフトを見れば、獣は頭を下げたままだ。
「エマ、ぼくは行かなくちゃいけない。だけど、また会いに来る」
最後の光の球が消える直前に、頭の中に響いた言葉。
――覚えていて、あなたのために、ぼくは出来る事をするから。
決意を含んだ音は、まるで子供の物とは思えない程に落ち着いたもので、色気があった。
なにより、まるで恋しい人へ誓いを立てるかのように、大切に、大事に言葉を紡がれ、私は目の前で光となって消えた事実よりも、頭の中に直接入り込んだ幼い男の声に顔を赤くさせ、その場にしゃがみ込んで両耳を覆う。
「な、なんなの…………!?」
衝撃が、衝動が、心臓を脈打たせる。
けたたましい音を立て、暴れるように鳴り続ける鼓動に、戸惑いも困惑も驚きも焦りもひっくるめた、理解不能な感情が芽生え、グルグルと目が回るようだった。
恋をしても一方通行で、そこに居る事すら気づかれない事が多かったからか、それとも人付き合いを今まで上手く出来なかったからか、親し気に声をかけられる事も、気遣われる事も、ましては厚意などと言う言葉が相応しい態度に免疫がない。同性の愛理の時ですら、お帰りの一言で舞い上がっていたぐらいだ。
幼いとはいえ、異性であるル・ティーダに「あなたのために」と言う言葉を使われれば、気が動転するのは仕方がないのだが……
そんな私を、冷ややかな目で見ているたフィラフトが一言、
「はくあい ですのよ」
と吐き捨てるように言ってくれたおかげで、冷静さを取り戻せたのは数分後の事――
けれどまた、すぐに感情の大混乱が起こり、私は酷く狼狽える事になる。