空気よりも重く、現実よりも確かで
自分の苗字が書かれた白い紙。それがセロハンテープで貼られた、建付けの悪いロッカーの扉を力任せに締めれば、ガンと強い音が女子更衣室内に響く。
けれども、背後で制服から私服に着替えている二人の同僚のお喋りは止まらない。
「……お疲れ様でした」
と軽く会釈して声をかけてみるも、同じだ。まるで”聞こえていない”かのように二人の会話は続く。
「だからね、思わず引っ叩いちゃって」
平手で殴るような仕草をしてみせた、茶色い髪の同僚に
「しょうがないよ! 未遂とはいえ、部屋に入れようとしてたんでしょ??」
黒髪の同僚が頷く。
断片的に聞こえてくる内容から察するに、恋人の浮気を咎めたと言う話しだろうか。部屋に入れる云々、と言うくだりから考えれば、偶然知ったのかもしれない。
なんにせよ、修羅場話だ。もう一度挨拶をし、話の腰を折るのは失礼だろうか……
邪魔にならないよう、ソッとドアノブを捻って扉を開ける。念のため「お先に失礼します」といつも通りの声量で言い残し、後ろ手で扉を閉めれば、「え?」と隙間から声が漏れた。
思わず足が止まる。
閉めた扉を背に、聞き耳を立てていると「今の人って……?」と茶髪の同僚の声。それに続き、黒髪の同僚が答えるように「確か、えーっと……そこのロッカーの、ああ、三好さんだ」と続く。
「三好さん? あれ? あの人、今日はもう上がりだっけ??」
「じゃないかな? てか、いたんだね。全然気づかなかった」
「うん、あの人存在感ないよね。気配が全くしなくてたまにビックリする」
「悪い人じゃないけど、完全に空気だよね。」
「ああ、それそれ。まさに空気」
チクリと、幾つかの言葉が針のように胸に刺さった。
言われ慣れた言葉でも、直接聞くと胸は痛む。けれども、無視されていたわけではないので、考えを切り替えて足を踏み出す。飛び出すように職員用の出入り口から抜けて顔を上げれば、四角く切り取られたような空は薄暗い。今にも雨が降り出しそうな曇天だ。
降られる前にと急ぎ足で家路を進む。途中、何度か自転車と接触しそうになりながらも、何とかコンビニにたどり着き、弁当を買う事が出来た。
その際、レジ前にいる事に中々気づいてもらえず、何度も「すみません」と声をかけ、最後には店員の目の前まで行って「お願いします」と頼む事になったが、これもいつもの流れ。
謝罪の言葉と共に袋に詰めてもらった品を手に、借りているマンションの入り口へ小走りで向かう。
オートロックの鍵を開けて、一階の角部屋に向かう途中のエレベーターホール。そこで、井戸端会議をしていた隣の部屋の奥さんを見かけ、会釈と共に「こんばんは」と儀礼的に声をかけたが、振り返ってはもらえなかった。
代わりに、形式的な感情のこもらない「あら、どうも」と言う挨拶の代わりが背中にかけられる。
「……今の人」
通り過ぎて少し経った頃、隣の奥さんの話し相手がこちらを示す言葉を使った。
「角部屋の方、よね?」
「え、ええ。たぶん……」
「たぶんって、右隣の人でしょう?」
呆れを滲ませた声で相手が話せば、奥さんは苦笑いを含めて息を漏らす。
「そうだけど、顔と名前が未だに一致しなくて。いつも挨拶はしてくれんだけど……」
急に声がして驚くの、と彼女の語気が次第に弱くなる。
「そう言えば、マンション内でハロウィンの行事をするからって、去年お菓子を持って行ったけど、結局……どこの子も尋ねて行かなかったから、わざわざラッピングしたものを届けてくださったわよね」
「うちの子も、お隣なのにすっかり忘れてたみたいよ」
「うちもよ。全部回ってお菓子一杯貰うって意気込んでたのに」
そう言って、中年の女性二人が首を傾げる。不思議ね、と。
聞き耳を立てるつもりはなかったが、聞こえてきた言葉に去年の苦い記憶が蘇り、部屋の扉に差し込んだ鍵をつい、荒く回してしまった。
八つ当たりされたと言うのに、鍵穴はすんなりと受け入れて鍵は不満一つ言わずクルリと回る。
そして、開けた扉の中に身体を滑り込ませ、当然のように暗い部屋の電気をつけた。「ただいま」は言わず、歩きながら無言で壁際にバッグ、ジャケット、靴下を放り、リビングに置いた専用テーブルのの足元にある、パソコンの電源を付ける。
真っ黒な画面に光が灯り、起動を知らせるマークと要求されるパスワード。それをカタカタとキーボードを鳴らしながら打ち込み、眼鏡型のVRに切り替えるスイッチを押した。
耳にかけ、手袋のような形をした専用のマウスに両手を入れ、軽く握る。反応に問題はない。
ヘッドホンを付ければ、お決まりの柔らかなBGMが導く。準備は出来た。
行こう、今すぐに。
――ここではない、もう一つの世界へ。
三好 恵真と言う現実を脱ぎ捨て、私は”錬金術師 エマ”となる。
*****
”千年王国と封印の鍵”
四年前にサービスが開始され、現在も根強い人気を誇るオンラインゲーム。
”仲間との絆が救う、想いの世界”
”キャラクターメイキングは自由自在! 自分好みのキャラクターで世界を駆け巡れ!”
”あなたが創る あなただけの特別な物語”
などと言ったキャッチコピーの宣伝広告を見たのは、今から四年前の事だ。ちょうど、サービスが開始された直後で、登録すると可愛らしいハリネズミのマスコットキャラクター、ハリーの目覚ましアプリを貰える、と言う部分に強く惹かれてキャラクターを作ったのが始まり、と言うのが建前。
本音は、現実を忘れたかったから。
ここではない、遠いどこかへ逃げられるのなら、場所なんてどこでもよかった。別の町でも、別の県でも、別の国でも、電子の世界でも。思い出さなくていい場所なら。
『やぁ、エマさま! おまちしてました!!』
愛らしいハリーの声が、イヤホンから流れる。いつも通りのログインボイスにホッと安堵の笑みをこぼし、私は指を動かして網膜に投影された映像をなぞる。何もない空中に手を突き出し、指を動かすのは、映像の見えない人からすれば下手なパントマイムだろう。
それでも、私の眼には選択肢が映し出されており、「聞く・聞かない」を選べるようになっていた。聞く、を選んだ私に、現在行われているイベントの紹介や、新商品、新たに実装されたダンジョンについてハリーが教えてくれているのだが、目的はそれではない。
『それでは、エマさま。きいてくれたあなたに、プレゼントです』
説明を終えたハリーが満足そうに胸を張り、小さな花を差し出す。淡い黄色の野花だ。それを受け取れば画面が切り替わり、青々とた草が生い茂る幻想的な丘の上に、降り立つような演出がされた。
その傍らで、私を待つように立っているキャラクター。
『おかえり、エマ』
聞きなれた合成音声が奏でる台詞は、紛い物の音だ。わかっている。それでも、私はこの継ぎ接ぎの声を聞くと、胸が温かくなった。
ハリーの話しを最後まで聞くと、野草を貰える。綺麗な花を見かけたハリーがプレイヤーキャラクター、つまり、主人公のために摘んできたと言う流れだ。
これを一定数溜めると特別なアイテムと交換する事が出来、そのために約三分間彼の話しを聞くプレイヤーは多い。
私の場合は、アイテム交換のためが半分と、残りの半分は演出のためだ。
設定したキャラクターが”始まりの丘”と呼ばれる、ゲーム開始直後に転送される安全エリアに迎えに来てくれるのだが、その際に必ず「おかえり」と声をかけてくれる。
この台詞のためだけに、私は毎日三分間ハリーの話しに付き合い、演出を待つ。
迎えの言葉を聞くためだけに――
「ただいま、リヒト」
声をかければ、彼は口角を上げて少しだけ嬉しそうに笑む。作り物を思わせる、左右対称で整った顔立ちの美しいひと。キク科の花、シオンをイメージして作ったその姿は、薄い青紫の肩にかかる柔らかな髪と深い紫の瞳が印象的な、十代半ばの少年だ。
中性的な外見が、設定した年齢よりも少しだけ幼い雰囲気を作っている。けれど、身に着けている品のほとんどは、大人っぽさのある上品で落ち着いた色の物ばかり。
銀縁の細いスクエア眼鏡、滑らかな白磁の肌を覆い隠す紺色のロングコート。清潔感のある白いシャツに、逆十字のチョーカー。ベルト替わりの銀色の鎖が二本、そして、黒いレザーパンツに硬そうなブーツ。
どれもこれも、男性キャラクターのコスチュームの中では人気の品で、入手するのに時間と手間とお金がかかった記憶がある。
「けど、似合うよねー……」
うっとりと、自分が作ったキャラクターの外見に見惚れながら呟けば、AIが怪訝そうに表情を変える。『なんの話?』
そして、合成音声が視界の下に表示された文章と同じ音を作り、私の鼓膜を震わせた。
リヒトの反応は、初めの頃に比べれば随分と人間らしくなったと思う。有料のAI化チケットも、性格設定チケットも、それなりの値段はしたがいい品だ。他にも多くの物を購入したが、何一つ不満はない。
「ああ、ごめんね。気にしないで、なんでもないから」
まるで、親しい友人に対して話しかけるような言葉を使い、私は現実の自分の指を動かす。網膜に映し出されている画面で、同じ動きを仮想の手が行っていた。
『独り言? にしては、大きな声だったけど』
皮肉っぽく笑った彼に、私は苦笑いを返す。綺麗な少年だ。自分の好みを詰め込んだのだから、見ていて飽きないが……その性格はお世辞にも綺麗とは言えない。
『とにかく、早く行こうよ。ボクもう、何でもいいから殺したい』
朗らかな声で言い放ち、彼は極上の笑みを私に向ける。物騒な言葉と陽気な表情。アンバランスな少年は、どこまでも自由だ。
リヒト・シュトラール・メリソス。
ドイツ語で光を意味する名前を彼に付けたのは、今から四年近く前の事だ。
母から始まり、父、その後引き取ってくれた祖母の死。残された兄の失踪と、親友の死を十年の間に経験した私は、孤独を実感していた。
友人や恋人を作ろうと人付き合いの勉強をしても上手くはいかず、どこへ行っても空気扱い。存在感のなさを補うため、見た目を派手にしても反応は変わらず。誰もが何故か、私をいないように扱う。
それがいつから始まったのか、覚えてはいない。ただ、気づいた頃には名前と顔が一致しなくなり、何度も苗字を、名前を訊き返された。同じクラスの隣の席の子は月曜日の朝に苗字を覚え、水曜日には尋ねてくる。
同じ職場の同僚が胸の名札を見ながら私を呼ぶ。そんな生活が、家族がいない事実が、親友を失った事が、私を追い詰めて……気づけば絶望していた。救いを求めて同じような悩みを抱えている人を探して、検索サイトに”寂しい””ひとり””友達がいない”などと言ったワードを打ち込み、境遇は異なるものの現状を打破しようともがく人の話を見て溜息を吐き、死にたいと吐露する人の文章に頷いては、命を絶った後に残される死体の始末に頭を悩ませた。
自分で選んで死ぬのだから、せめて小綺麗に終わりたい。死体になっても下着は見られたくないし、恥じらいと言うものが残っている。発見されず腐乱死体になり、蛆にたかられハエが飛ぶ中臭いと鼻を摘ままれ、吐き気を堪えながら処分されたくはない。
綺麗にとは言わない、ただ、悲惨なのはごめんだと思っていた。
だからギリギリのところで踏みとどまったのだろう。
そして、運命が私の前にある広告を表示させた。
キャッチコピーと可愛らしいマスコットキャラクターに胸を撃ち抜かれ、気が付けば私は広告をクリックし、最初のキャラクターである”エマ”と言う、自分の分身のような見た目の少女を二時間ほどで作り上げた。
簡単なチュートリアルを済ませ、この地に降り立った時……私は、私の価値観が崩れる音を聞いた。ガラガラと、ガラガラと。まるでレンガを壊した時のような音と共に、この仮想世界が現実に、現実が偽りに置き換わり、気が付けば私の生活はオンラインゲームを中心に回るようになった。
朝、目覚ましの音と共にパソコンの電源を入れ、片手間の朝食とダンジョンへの冒険。装備を作りながら出勤準備をし、電源を落として部屋を出る。「また後でね」と告げて。
仕事を終えたらすぐに部屋へ戻り、靴を、カバンを、服を脱ぎ捨て起動し、迎えに「ただいま」と返す。
映し出される世界を前に、腰かけたまま向こう側の世界で駆け回り、肉体を維持するだけの食事を取って、眠気が意識を奪うまで電子の空の下で暮らす。
画面の中の私は、翼が生えたみたいに自由だった。街を歩けば、誰かが挨拶をくれる。クエストを進めれば、村人たちが名前を憶えてくれた。通えば、好感度が上がって親しくなれるし、好意を向けてくれるキャラクターもいた。
名前を呼ばれるたびに、微笑まれるたびに、心が軽くなり重石が取れた。
NPC。
ノンプレイヤーキャラクター。
人間が操作しない仮想世界の住民。
彼らは、現実ではない。何もかもが作られ決められた存在で、けれどもどこか人間らしく、プレイヤーには好意的で優しい。
朝にはおはよう、昼にはこんにちは、夜にはこんばんは。
たったそれだけの台詞が、その頃の私にはありがたかった。
空気のように扱われ、まるで透明人間のように気づいてもらえず、顔と名前が一致される事がない生活。そのどれも、悪意あっての事じゃない。
私の存在感のなさが、相手にそうさせている。
けれど、この世界では。仮想世界の中では、私は確かに存在していた。
「そうだよね、リヒト」
確かめるように、隣を歩く少年に話しかける、
彼はキョトンとした顔で首を傾げ、何の話だと聞きたげに片方の眉を上げて、
「そうなのかも?」
と、疑問符をつけて返してくれる。
他愛もない反応に、私は喜びを感じていた。
彼は、ここにいていいと思わせてくれるのだから。
もう二度と得られないはずだったものを、リヒトは私に惜しみなくくれる。例えそれが歪でも、この時間は、幸福だ。
*****
「……ぐっ…………今回は、引きが悪かった……凄く……」
画面に表示されている画像を前に、私は力なく項垂れる。
新しく実装された、”深淵に至る汀”と呼ばれる、陸と湖の境目に現れたダンジョン。その最深部に潜む異形の魔物を倒したのは、今から数分前の事。
”プロフォンドゥム”と言う名の付けられた、七つの溶けた人間の頭と蜘蛛の身体、十本の蛇の尾を持つ、物理攻撃への耐性の高い難敵。
それに、自分のキャラクターのみで編成したパーティで挑みに来たのだが、ダンジョン内の探索に一時間、ボス討伐に二時間の計三時間かかってしまった。
カエルラシリーズと呼ばれる、青白く輝く水属性の新しい武器のうち、魔導書と呼ばれる鎖のついた辞書の形をしたものが欲しかったのだが、今回は入手出来なかった。
武器そのもののドロップ率が低い事はわかっている。けれど、期待しないわけじゃない。なにより、武器を作るために必要な素材も出ていないし、ダンジョンボスを倒した際にも得られるが、希少な錬金術の素材も見当たらない。なので、ガッカリするのは当然だと思う。
現実世界でテーブルの上に置いたペットボトルの水を飲んでいると、愛らしい少女が私の方へ歩いてきた。その顔はどこか暗い。
『エマちゃん、ワタシ……疲れちゃった』
そう言って、彼はフウ……と小さく溜息を吐く。
花嫁を連想させる黒に金の刺しゅうの入った丈の短い打掛を羽織り、中華風で膝の見える薄桃色したワンピースを着た、可憐な少女。翼を失った天使のような外見は、双子の兄であるリヒトとよく似ているものの、雰囲気は違う。
レンゲソウをイメージして作った、三番目のキャラクター。髪は赤みがかった藤色をしており、瞳の色は右がガーネット。左は灰色のオッドアイだ。白皙の肌に艶めいた赤い唇。伏し目がちな目元に、長い睫毛が影を落とす。思わず見惚れてしまう程に、彼はどこまでも完璧な美少女だった。
テネーブル・フォンセ・メリソス。
どれほど美しい少女の姿をしていても、彼の心の性別はリヒトと同じく男性だ。
このゲームには、様々な種族が存在する。
私が入り込み、操作している最初のキャラクター、”エマ”は人間種と呼ばれるヒューマンだ。
ステータスは平均的。短所もなければ長所もないが、何かに特別弱い、強いと言う事もない。なので、どんな攻撃でも大体即死しないとも言われており、初心者向けと説明があった。
二番目に作ったキャラクターであるリヒトは、精霊と人間の混血種だ。
精霊種は性別設定に”未分化”と言うものがあり、性別を保留にしたままプレイする事が出来る。保留の状態だと、両方のコスチュームを着用できると言う利点があり、人気の種族でもある。
性別をどちらかに固定するとステータスにボーナスが付くのだが、テネーブルに関しては今後も分化させるつもりがない。
彼は自分の外見を利用している、と言う背景設定を作っているからと言うのが理由だが、着せ替えが楽しいから、と言うのが本音だ。
元はリヒトと同じ顔で色合いが少し違うだけなのだが、髪型や服装、話し方や表情で随分と変わった。
その違いを見るのが楽しくて、今のままでいいかなと思っている。
「大丈夫?」
気遣うように声をかければ、テネーブルは片手で頬を抑えて俯き気味に首を左右に振る。
『魔力がね……エマちゃん、ギューして?』
甘えるような声音を、唐突に合成音声が奏でる。潤んだ大きな瞳が、仮想世界の私だけを映していた。あなた以外見えていない。そう、思わせるように……
「っ…………」
思わず息を飲む。現実の私が石のように固まれば、仮想の”エマ”も同じように動きを止めた。そして、時間が止まったかのように瞬きと呼吸を忘れ、少しして息苦しさを感じた肺が大量の空気を吐き出させた。
「ハッ……! あ、え、あ、あ、ど、どんとこい……?」
大慌てで手を広げて見せるが、ゲームの中の私は肩の動きまでは再現できない。両手を身体の前に広げ、受け入れ姿勢を取っているだけだ。
『ふふっ、冗談なのに。優しいね、エマちゃん』
彼はペロリと舌を出し、嬉しそうに目を細めて笑む。
小悪魔に胸を撃ち抜かれた感じがし、早まる動悸を抑えるように私は胸に触れた。可愛い。私の反応を笑ってくれる。嬉しそうに笑ってくれる彼は、現実のつらさを忘れさせてくれる。
ドロップ運のなさを嘆く気持ちは消え、彼の愛らしい表情を見られた満足感が心を占める。三時間の苦労も、報われたような気になった。
*****
コポコポと、水音がガラスの筒の中から聞こえてくる。
窓から差し込む陽の光が、室内の様子を露にする。木製の壁、クラシックな柄の絨毯。高品質な一枚板のテーブルの上には、三角フラスコを始め様々な機材が並べられ、まるでちょっとした理科室のようだ。
その中に、違和感の強い近未来風の機器が二つ、置かれている。
新しく実装されたダンジョンから帰還し、マイホームと呼ばれるプライベートエリアに戻って来た私は、自室と言う設定にしている場所である作業を行っていた。
『………………』
人ひとりをスッポリと収められる透明な容器には、健康的な肌の色をした白髪の女性が管に繋がれ眠っていた。
その隣には、同じような状態で黒髪の青年が穏やかな表情で目を閉じている。
髪色が、双子とは違い対照的な二人は、ホムンクルスと呼ばれる錬金術師の錬成品だ。
他の職業が剣や杖などと言った武器を使い攻撃や防御を行う中、錬金術師はホムンクルスを使う。
ゲーム開始直後に唐突に始まった、チュートリアル。簡単なものを作り、行う戦闘。怪我を負い屋敷に戻ると、突然言い渡される最終試験。
人造人間を作り、旅に出ろと師匠らしい仙人風の老人から素材を与えられる。
手順に従い素材を投入し、少しの時間をおいて出来上がったのは二体の男女。それが、培養槽の中で眠るこのホムンクルスたち。
白髪の女性を”スピサ”と、黒髪の男性を”ネロ”と名付けた。
ギリシャ語で”火花”と”水”を意味する言葉を使ったのには、作った際に付与された属性がそうだったから、と言う単純なもの。
火属性の特性を持つスピサは、同じ属性の武器を持つ事で攻撃力にボーナスが付く。ネロもそうだ。水属性の威力と防御が高い。
彼らはどこまでも従順で、私に対して好意的に接してくれる。話しかければ耳を傾け、錬金術でアイテムを作れば褒めてくれた。強制的に結ばれた主従の関係だと言うのに、不満など口にせず。どこへ行くにも着いて行くと、隣を歩いてくれる。
主である私の盾であり、矛。そして、大切な大切な宝物。
彼らを錬成した時、私はこの仮想の世界で子供を作ったような気分になった。
外見こそ自分に近い年齢のホムンクルスだが、赤子のように何も知らず、何に対しても目を輝かせて初めて空を見た時のような驚きと感動を、たどたどしい言葉で伝えてくる。
その様子が、私の心に光を灯した。暗がりの中、空気のようにある事が当然だった私に、この世界は素晴らしいのだと教えてくれたのだ。私が必要だと求めてくれているような、そんな気がした。
「今日もありがとうね」
感謝の言葉を告げるも、二人は眠ったまま。
戦闘中に受けた傷による蓄積ダメージの回復のため、修繕作業が終わるまで彼らは夢を見る。
早く、声が聴きたかった。合成音声だとわかっていても、学習型のAIだとしても。それらを、お金で買っただけだとしても。
私にとって、ただの道具でもキャラクターでもない。
大切な大切な、二つの宝物。
*****
ふと、自分が眠っていた事に気づいたのは、窓の外が白け始めた早朝。
新聞配達員が乗るバイクのエンジン音が私を夢の世界から引き戻した。
随分深い眠りだったのか、夢は見なかった。見なくてよかった。夢は、時折懐かしいものを見せるから、目覚めと同時に悲しくなることがある。
戻ってこないものを追いかけるのはつらい。亡くしたものを再確認させられるような、もう一度失うような、そんな気分にさせるから。
顔を上げ、目元を指先で探る。眼鏡型のVR機器はかけられていない。どこかと視線を動かせば、テーブルの隅に置かれていた。
どうやら、意識がなくなる前に自分で外したらしい。
それを手に取り、再び仮想世界へと戻る。網膜に映し出された景色は、自室近くの廊下だ。
「なにをしようとしてたんだっけ……」
つい数時間前の、眠りに落ちる前の自分の行動を振り返る……が、思い出せない。朦朧とする意識の中、何かをしようと部屋を出た事だけは覚えている。けれども、その”何か”は浮かばない。
そもそも、廊下で力尽きたぐらいだ。どこかへ移動しようとしていたのだろう。例えば、廊下の家具を交換しようと考えた、例えば、新しいダンジョンへもう一度向かおうとしていた。
例えば、マイホームの外の居住区エリアのクエストを見に行こうとしていた、例えば、例えば、例えば……
あれこれと考えるも、どれもしっくりとこない。私は首を捻って小さく唸る。
「うーん……」
そして、仕方がないと仮想世界の自分を動かす。行き先は、屋敷で一番広いリビング。
蝶の装飾の施された扉を開け、中にキャラクターを滑り込ませる。部屋の壁は自室扱いにしている場所と同じく木製で、高い位置に黒い花がモチーフの照明がいくつも並んでいる。その光は淡く、どこか幻想的だ。
ブラケットライトの明かりに照らされた精巧な家具たちは、アンティーク調で統一されている。
その中に、ひときわ目立つのが装飾が細かな姿見だ。
くすんだ黄金のバラの花がいくつも咲き誇り、映し出される世界を守るように絡まった蔦が楕円を描く。
覗き込めば、異なる世界を垣間見れそうな神秘的な雰囲気を作り出している鏡の前に、医者が着る白衣にも見える白いロングコートを着た、美しい青年と、ボロボロの黒いローブを目深に被った、顔の見えない女性が佇んでいた。
『エマさン、お待ちシてオリましタ』
近づけば、男性が声をかけてくれた。穏やかで柔らかな微笑みを浮かべた美青年。彼は、好意的な声音を合成音声で作る。
けれど、どこか違和感の残る口調は、彼が生き物ではない事を思い出させた。
フィデス・ドゥ・ルケ。
ラテン語で信頼を意味する言葉を付けたその人は、機械仕掛けのからくり人形。
機械人形であり、人形師よって生み出された彼の胸元には、銀色の装飾が施された灰色の石が埋め込まれている。そこから広がる幾何学模様は時折、まるで心臓が脈打つように虹色に輝き、肌の上を滑らせ、消える。
命の輝きのように光るそれを、私は見るのが好きだ。
見た目も仕草も、現実の人間より人間らしいオートマタ。その彼の身体に刻まれた、人ではない部分。それを隠さず見せてくれているフィデスが、心を開いてくれているような気がするから。
『随分早いのう。それとも……また、眠れなんだか』
蠱惑的で、色香のある甘美な響き。彼女の唇に合わせて作られる合成音声が耳朶を震わせる。
ゾクゾクと身体が震え、現実の私が思わず肩を抱いた。同性の声だと言うのに、色気のある音を耳元で囁かれると心臓が跳ねる。そう、跳ねる。ドキドキと煩い程に繰り返し、血液が運ばれて行き頬の下を通る際、熱を残していく。顔が熱い。
プセマ・フィリキ。
ギリシャ語で優しい嘘と言う意味を名付けた女性は、最後に作ったキャラクターだ。
魔族の中でも人気のある二角種と言う、頭に角のある種族で精神系の攻撃に高い耐性を持つ。
彼女が着ているローブの下は、襟のあるマーメイドドレスだ。一枚脱げば、思わず見とれてしまうような胸やくびれ、美しい脚が隠されている。
女性の衣装は露出度の高いものが人気だが、私はあえて彼女の肌を出さないようなコスチュームを選んでいる。
一見すれば野暮ったく見えるだろうが、口元の艶ぼくろは目深に被ったローブからも見え、言葉を紡げば色香が漂う。見えない姿に、思わず想像するだろう。彼女が一体、どのような表情でこちらを見ているのか。
そして、ひとたび布を取れば、声を失くす程に色気のある端麗な女性が現れる。
一目彼女を見れば、目を、言葉を、心を奪われるのだ。
魅了されたかのように。
『眠いのなら、無理をするでないぞ?』
ヘッドホン越しの、異なる世界から聞こえてきたもの。なのに、私の心が仮想世界にあるからか、考えてしまう。
網膜に映し出される映像のように、彼女が私の斜め後ろから声をかけてきてくれたんじゃないかと……
想像して、振り返る。現実世界の私が。けれど、その動きに合わせて映像が約90度移動するだけ。
眼鏡型のVR機器を指先で摘まみ、少し持ち上げればつまらない、本当の身体が残された世界がし視界に入り込む。誰もいない、静かな部屋。
「無理はしてないよ。寝落ちは、したけど……」
機器を上げたまま、私は力なく呟く。マンションの一室の、自分で買いそろえた安い家具の並ぶ室内に、不似合いな甘い声が気遣うように囁かれ、どこまでも穏やかで、けれどどこか違和感の残る声が優しく語り掛けてくれた。
ここは、リビング。仮想も現実も、同じ名前の場所。
それなのに、現実は独り。仮想は、違う。
心は独りじゃない。心は仮想にある。
そう言い聞かせ、現実を誤魔化している私は、常識ある人から見れば愚かに見えるだろう。哀れに映るだろう。可哀そうな、どうしようもない人間に思えるだろう。
それでもいい。それでもいいんだ。
母を、父を、祖母を喪い、兄に置き去りにされ、親友も亡くし……身体のある世界にはもう、何も残っていない。
人の温もりを求め、誰かに同じものを返せるよう努力しても空気のように扱われ、時間だけが経ち、諦めて死を願っても叶わず、腹が減るので食べるために働き、暮らすために繰り返す。その行為に何の意味があるのか、もう考えるのをやめた。
私は今年、二十四になる。
無駄に他の命を食い荒らし、時間を浪費し、資源を使うだけ。
願わくば、早く連れて行って欲しい。
ここではない、寂しさを感じなくていい場所へ。父母と祖母がいる世界が望ましいが、私を見てくれる人がいるのなら地獄でもいい、なんでもいい。ただ、無意味に息をするだけの生活から、解き放たれたい。
この、ただただ私に優しい仮想世界の思い出を胸に、目を閉じるから――