氷の男爵令嬢、混沌を巻き起こす。
それは火炙りによく似ていた。じわじわと足元から焼かれる。
青々とした芝生、美しい白壁の屋敷、キラキラと降り注ぐ太陽。その華やかな庭に似つかわしくない炎だった。
火なんて出てない。私の足は燃えてなどいない。それでも私の眼には赤々と燃える炎が見えた。そしてそれが何なのかも知っていた。
ああ、私にもこんな感情があったのだ、と一人感慨深く思う。嫉妬、なんて。
私にしか見えないその炎は、足元に始まり全身を包み込んだ。でもその炎の中心にいる私はどこか冷静に、目の前の光景を、自分の中に生まれた感情を見ていた。燃えているのに、私の身体の芯だけはまるでつららが突き刺さっているように冷たかった。
ついさっきまで、私の隣にいたはず。誰よりも、私が長い時間傍にいたはず。それなのに。
私の眼には、幼馴染の青年、私の家に仕えるメイド、そして白い猫がいた。
まるで切り抜かれたような、一つの絵として完成したような光景だった。
朗らかなその空間、私だけが額縁の外側だった。
ああ、どうしよう。
そう思うけれど、私にできることなんて何もない。あんなに幸せそうなのにそれを私が崩すなんて、できそうにない。できるわけがない。わかってるのに、嫉妬心が止まらなかった。
他にもメイドたちや執事が庭にいるけれど、誰も私の様子にはきっと気づいていないだろう。私は表情筋がほとんど動かない。そのせいで陰で屋敷の人間が私のことを『氷の男爵令嬢』と呼んでいるのは知ってる。笑っていても、笑っていると人の眼には映らない。悲しんでいても、悲しんでいるとは見られない。私の感情はまるで外に出なかった。
実の親にも、幼馴染にも、友人にも、誰にも、直接感情を口にしない限り、私の思いは伝わらない。それでも唯一私の思っていることや感じていることを察してくれる人がいた。
それが今私の視線の先で笑っているメイド、ヴィオラだ。
幼いころからずっと一緒にいた。私が楽しいときも、悲しいときも、辛いときも、ヴィオラだけが気づいてくれて、私の側にいてくれた。でもそんな彼女が今いるのは私の隣ではなく少し離れた場所。彼女が見ているのは私ではなく、幼馴染である男爵子息のセオドール・ヴィエリチカと猫のシュレディンガー。
きっと彼女は私が今何を思っているかも気づいているだろう。この状況を良くは思っていないこと、ひどく嫉妬していることも。それでも一メイドである彼女は男爵子息であるセオドールを無下には扱えない。
わかってる。この状況がある意味仕方がないことも。
それでも、どうかヴィオラではなく私の方を見てほしいと、思わずにはいられなかった。
私だけのものでいてほしい。
醜い嫉妬は、私の身体を燃やしながら、氷でできたような冷静な心の器にどす黒い何かを満たしていった。
**********
歓喜。その言葉に表すほかなかった。
幼馴染であり、このシュトラーゼ男爵家の一人娘シャロンは、猫と戯れ、メイドであるヴィオラと談笑する俺のことをじっと見ていた。シャロンは昔から表情が乏しく『氷の男爵令嬢』とも称されているが、十年以上幼馴染をして、思いを寄せつづける俺にはわかる。
彼女は嫉妬している。
じわじわと足元から頭へと歓喜が駆け上がった。
あのシャロンが!俺に!嫉妬してくれている!
どれだけアプローチしても生返事。俺なんかよりも本や猫のシュレディンガーが好きなシャロンはまるでなびく様子がない。家の関係からしても、おそらく俺とシャロンが将来結婚するのは決定事項のようなものだ。だが無表情とはいえシャロンの容貌は美しい。むしろ無表情だからこそ独特の凛とした美しさが際立つ。もしかしたら、男爵よりも位の上の貴族から言い寄られることもあるかもしれない。そうなれば同じく男爵家である俺はシャロンを落とすのが難しくなる。
要するに俺は焦っているのだ。俺は家や婚約とは関係なしにシャロンに惚れこんでいるが、シャロンはまるでそんな気を見せない。しかも年を重ねるごとに美しさは増していく。焦らないはずもない。
そこで俺が考え付いたのが『シャロン嫉妬大作戦』である。
簡単に説明すると、シャロンの側でいつも控えているヴィオラとばかり俺が話すことでシャロンを嫉妬させ、「なんだか胸が痛い……もしかして私セオドールのことが……!(トゥンク)」みたいな展開にさせるのだ。
もっとも、ヴィオラはシャロンのことが好きすぎるメイドのため、もしこんな邪な考えがバレたら十中八九ゴミを見るような目で見られるし、下手するとシャロンに近寄れなくなる可能性もある。この作戦はこっそりと行わなくてはならない。もともとヴィオラとそんなに仲が良いわけでもないため、話題作りのためにシャロンの愛猫であるシュレディンガーに協力してもらうことにした。
シュレディンガーも俺に懐いているわけではないが、東方の国の文化「袖の下」を使うことにした。袖の中にシュレディンガーの好みそうなものを入れておくのだ。今回チョイスしたのは東方の国では人気のある、猫の大好物だと聞いた「かつおぶし」を袖の中に仕込んだ。魚のカツオを加工した食べ物で、カビを使っているらしい。カビと聞いてギョッとしたが、香りは良い。猫の大好物だと聞き、信用し袖に入れていたが半信半疑であった。
しかし効果はてきめん。
普段シュトラーゼの屋敷に行ってもほとんど俺に寄ってこないくせに、それとなく袖を振ってみたらなかなかの勢いで飛びついた。内心ガッツポーズしながら白い毛をワシャワシャと撫でてやる。袖を噛まれまくるがそれも仕方がないこと。
そしてシュレディンガーに関していろいろとヴィオラに話しかければ作戦はほぼ完成。ちらりと横目でシャロンを見て作戦成功を確信した。
いつも通り、無表情に見えるがその榛色の眼には余裕がない……ように見える。普段俺のことなんかどうでも良い、とでもいうような冷めた視線を送ってくるのに今日の眼には熱がこもっている……ように見える。
これはイケる。完全にシャロンは俺に嫉妬している。
圧倒的な手応えに口角が上がるのが抑えきれない。夢中になって俺の袖を噛んでいたシュレディンガーがどんびいたような顔をしているが、その無礼な態度もボロボロになった袖も許そう。全部許そう。俺の心は今海よりも空よりも広いのだ。
勝利を確信した俺はシュレディンガーを機嫌よく撫でた。
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これは、まずい。非常にまずい。どれくらいまずいかと言いますと、お嬢さまのベッドの枕元にシュレディンガーが戦利品の雀の死骸を置いていった時と同じくらいまずいです。
足元からまるで氷水に浸されるように全身に冷たさが広がり、冷や汗が背中を伝っていました。麗らかな陽気だというのに、私の身体はまるで極寒に置いていかれたようです。
そしてその原因は私とセオドール様とシュレディンガーを少し離れたところから見つめるシャロンお嬢さまのせいです。榛色の眼は少し興味なさげで、いつも通りどこか気だるげに見えます。何も知らない人から見れば。
シャロンお嬢さまは昔から表情が乏しい方でした。喜んでいてもほとんど笑わず、悲しくても辛くても顔を顰めることはありません。人形のようにただただその美しいだけでした。幼いころから傍にいますが、当初はお嬢さまのことを薄気味悪く思ったりもしていました。作り物のように変化しない顔。抑揚のない声。いつも気だるげな榛色の眼は壁一枚挟んでいるようで。しかし、いつかに本をもって庭を歩いていたお嬢さまが躓き、手に持っていた本を水たまりに落とした時、私の中のシャロン様の印象は大きく変化しました。転んだ直後の驚愕。本が水たまりに落ちたと気づいたときの衝撃。そして状況を理解し終えた後ボロボロと涙を零しました。その間、顔の表情筋はほとんど機能していませんでした。しかし彼女が驚き、ショックを受け、悲しんでいたことが手に取るように分かったのです。
それ以来じっくりとお嬢さまのことを観察し、お嬢さまの感情がいつしか読み取れるようになりました。
そして現在、シャロンお嬢さまが何をお考えなのか、手に取るように理解できてしまいます。気だるげな榛色の眼の奥には嫉妬の炎が燃え上がり、いえそれどころか私の眼にはシャロンお嬢さま自身が燃え上がっているように見えます。大炎上です。嫉妬するシャロンお嬢さまなど想像したことも見たこともありませんでしたが、予想外にもほどがある嫉妬のしようです。今の彼女を見ていったい誰が『氷の男爵令嬢』などと呼べるでしょう。もっとも、他の方々はお気づきでないのでしょうが。
嫉妬の炎を身に纏いながら微動だにしないシャロンお嬢さま。そしてお嬢さまの視線の先には、私、セオドール・ヴィエリチカ、猫のシュレディンガー。
一体何に嫉妬してらっしゃるのか。
セオドール様、と考えさっさとその考えを否定します。シャロンお嬢さまは別に彼のことを嫌ってはいませんが、好いてもいません。彼女にとって彼は、紐の栞が付いている本に使う紙の栞のようなものなのです。つまり不必要。あっても捨てようとは思えないけれど積極的に使いたいとも思わない。そんな存在です。事実、セオドール様が屋敷を訪れれば歓待しますが、その瞳からは隠しきれない面倒くささがにじみ出ています。
シャロン様にとってセオドール様は本以下。シュレディンガー以下。正直優先順位の上位に置いてやる気はさらさらない、と言ったところでしょう。
そこまで考えてハッとしました。
嫉妬の先。それはおそらく愛猫であるシュレディンガー。
お嬢さまは猫に嫉妬しているのです!
シュレディンガーは子猫の時からシャロン様が育てられている白猫です。シャロン様はシュレディンガーを溺愛していらっしゃいますし、シュレディンガーもシャロン様にいたく懐いています。暇があればシャロン様に構われに行き、定位置はシャロン様の膝の上、といった甘えぶり。
そして現在の異常事態。
なぜかシュレディンガーが大して好きでもないはずのセオドール様に懐きだしている、ということです。
セオドール様が屋敷を訪れるとシュレディンガーは彼には全く寄り付かず、シャロン様の膝の上にいるかどこかへ散歩へ行くのが通常です。にも拘わらずシュレディンガーは積極的にセオドール様にじゃれついています。
普段シャロン様にばかり甘えているのに、今日に限ってシャロン様よりセオドール様を選んだのです。
『どうして私のところに来てくれないの』
『誰よりも私と一緒にいたでしょう』
シャロン様の心の声が聞こえるようです。燃え上がる嫉妬の炎。私までが焼かれてしまいそうです。冷や汗が滝のように流れます。
このままではシャロン様が燃え尽きてしまう。
どうにかしてシュレディンガーをセオドール様が引き離さなければ。
やたらと話しかけてくるセオドール様に適当に返事をしながら考えを巡らせます。何故こんなことになっているのか、どうすれば失礼にならないように彼からシュレディンガーを奪えるか。
そこで何を答えたのか定かではありませんでした。
「シュレディンガーも俺が好きなだもんなあ。」
抱き上げながら、その言葉。私とお嬢さまが凍り付くのを感じました。この男はわかっていてしているのか。
ここでシュレディンガーがツンとしていたり、触るなと猫パンチをすればすべては丸く収まったのです。シュレディンガーの気まぐれだったのだと、たまたまだったのだと。
「んにゃー!」
機嫌よく、喉を鳴らしながら良いお返事をしたのです。
心の臓が凍ったかと思いました。なぜ、本当に今日に限って。
冷え切った身体で、私は恐る恐るお嬢さまの方を振り返りました。
*********
それは唐突におきました。
シュトラーゼ男爵家を訪れたヴィエリチカ男爵子息とのお茶会。一息ついて、シャロンお嬢さまの愛猫とセオドール様が戯れながら、後輩メイドであるヴィオラにあれこれと猫について話しているとき。私たちメイドや執事が後ろで控えていると、突如としてシャロンお嬢さまが榛色の眼から大粒の涙を零し始めたのです。
メイド執事、共に無言で騒然としました。
あの『氷の男爵令嬢』が!感情を持たない人形のようなお嬢さんが突然泣き出された!
それは真夏に雪が降るような驚きでした。
しかしそれだけに終わらず、今度は酷く取り乱したヴィオラがお嬢さまに駆け寄ります。
「シャロン様!シュレディンガーです!!」
何故か白猫シュレディンガーをお嬢さまに差し出しながら。しかもシュレディンガーを抱き上げていたセオドール様から奪い取った形で。
幼いころからメイドの品格を身に着けていたヴィオラが客人を突き飛ばし芝生に転がすなど、天変地異の前触れと言わざるを得ないような異常事態です。
泣く男爵令嬢。猫を差し出すメイド。芝生に転がる袖がボロボロの男爵子息。
シュトラーゼ男爵家始まって以来最大の混沌はお嬢さまが泣き止むまで続きました。
読了ありがとうございました!