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短篇集

松葉杖の代わり

作者: 秋雨真一

サークルの友人からお題をもらって、だいたい30分ほどで書き上げたものです。

最期の短編投稿がいつだかは忘れましたが、多分、このサイトに上げているもののなかではいちばんの出来だと思います 2015年3月現在

 人は多くの物事に対して自分の評価を押し付けないと気が済まない。それはこの世界の多くの事象や物体、それらに対して人間の見地から役に立つか立たないかで辞典をつくり、廃棄したり、あるいは重用したりする。その過程を人は経済とか、消化吸収とか呼ぶ。

生存本能という一言で済ませてしまうには複雑すぎる社会のシステムは大きく入り乱れ、もはや人間ですら全貌を理解する事は不可能だろう。たとえば数学ひとつとってみても、一人の人間が学ばなければならないのは、歴史の上に登場した数多の天才たちが残してきた足跡であり、それは登山路に整備されたアンカーなどに似ている。先に道を通った人々が、あとから続く人々にわかるように道筋を示し、その手助けとなる様なヒントを点々と、体から零した血液の染みのように残したから、僕らは複雑奇怪なその理論を何とか辿っていける。ひとつだけ現実と違う点があるとすれば、その登山には終わりが無いと言う事で、もし頂上があるのならばそれは他の学問や学習と全く同じ、ひとつの宇宙を証明する定理に繋がっているということだろう。

松葉杖をついた彼女はどうだろう。僕は浜見という姓の女の子が、隣で一生懸命にノートを取っているのを退屈な思いで見守っていた。大学の講義室で機械工学を学んでいる彼女は今年で二十歳を迎える、長髪と強い意志の光を宿した瞳を持つ理知的な女性だ。

何故、僕がここまで彼女のことを知っているのかというと、それはつまり彼女が僕のガールフレンドだからである。付き合い始めてちょうど二年、新宿駅の都庁前で転んでいる女の子に声をかけたのがきっかけだった。

「智久、しっかり授業うけなさいよ。単位とれなくても知らないんだから」

 横目で、スマートフォンを机の下でいじくっている僕に彼女はいう。真面目な彼女のことだから、自分自身の成績よりも僕が進級できるかどうかに気をもんでいるに違いない。そうはいうものの、優等生である彼女より少し見劣りする程度の成績は確保している僕だから、特に今回の講義は難しいわけでもないのでノートを取る気力を持てないでいるだけなのだが。

何度も言うように、浜見は真面目だ。どんなにくだらない内容の講義でもノートをきちんととる。手を抜くところは抜き、力を集中すべき時は集中する生き方である僕と正反対に無駄の多い努力をすることも多い彼女は、中の上くらいには美しいその顔立ち以外に人目をひく何かを持っている。その何かというのは、むろん、机の縁に立てかけている松葉杖だ。

病院から借りているのではなく、自分で調達してきた木製の松葉杖は、僕の目から見てもとても扱いやすそうで、プラスティックやステンレスを多用した現代のそれとは違った機能性と利点を持っている。しかしそれだけでは目立つようなものでもないが、彼女が脇に挟んで柄を握りしめたその時から、どうにも気丈なその姿から目を離せなくなる。

「僕はやる時はやるんだ。久美も、少しは力を抜いたら? 板書をぜんぶうつしたからって単位がもらえるわけじゃないよ」

「そういってるから、前期の文化科目を落としたのよ」

 言いつつ、浜見久美は細く白い指でルーズリーフを一枚つまむと、自分がもう書き写した分のノートをこちらに寄越してきた。厳しく指摘をしながらも結局はこうしてフォローしてくれる彼女の優しさに何度たすけられたことか知らない。とにかく、彼女に報いるためにも、僕はようやく鞄の中から筆箱を取り出した。

 彼女は生まれつき、右足が不自由であるらしい。というのも、足首の付け根にあるアキレス腱が無いのだそうだ。かかとが動かないだけならまだしも、アキレス腱にまとわりついているいくつかの筋肉も先天的に失われてるものだから、右足は大雑把にしか動かない。そうなると、歩くだけでもバランスを失った体には重労働になる。そういうわけで、幼い頃から彼女は松葉杖と共に生活してきた。

これは別に、不謹慎とかそういう感情ではないのだけれども、何度か僕はこの松葉杖を憎たらしく思った事がある。この杖が無ければ、もっと彼女は僕を頼ってくれるのでは、そんな思いが頭をよぎる時があるのだ。男という生き物は愚かで、女性には頼るより頼られたい。肩を貸すのではなく貸したいのだ。僕も御多分に漏れず、こうしてやきもきとする時を偶さかに過ごしている。

やがて、講義が終わって空き時間に二人で大学近くの中央公園まで歩きに行くことにした。久美は、不自由な足を何とも思っていないようで、よく僕と一緒に散歩に出たがる。先日は中のほうまで青梅街道を下って行った。情けない事に最初に悲鳴を上げたのは僕だった。久美は誇らしげに、僕に自動販売機のポカリを奢ってくれたっけ。

「今日は悲鳴をあげないのね。感心、感心」

 いいながら、彼女は中央公園の噴水前にあるベンチに腰を下ろす。ここは木々に囲まれて気持ちがいい。時折、小鳥が周りまで近寄って来て、甲高い声でさえずったりする。

「こんどの日曜日、私、シーパラいきたいかも。金沢八景のほうの、ほら」

「シーサイドラインだね。あっちは勝手を知ってるし、いこうか」

「ごはん、奢ってよね。男なんだから」

「はいはい。いつも僕の奢りですよ」

 秋の空はどこまでも透き通って見える。すっかり冬の気配が近づいてきた時分だ、彼女はマフラーを細く首に巻いたまま、松葉杖を放り出して僕に抱き着いてきた。時折、こうして幼い少女のように僕に甘えてくる彼女は、いつも強がっているからたまには弱くありたい、のだそうで、発作的に僕のコートへ顔をうずめてくる彼女の頭をそっと撫でてやるのが、二人の間の秘め事というか、約束事になっていた。

「久美、松葉杖が汚れてるよ」

「いいもん。今は智久が私の松葉杖」

「下手に詩的なことを言うなよな。ほら、持つところが砂だらけだ」

 すると、久美は服の中から息継ぎをするように僕の顔を見上げると、むっとした表情で睨んだ。正直に言えば、惚気がすごくて怖くもなんともない。

「なによ、杖なんでいいでしょ、どうでも」

「よくないよ。こいつは今まで君を支えてくれてたんだぞ。ぞんざいに扱ったらこいつがかわいそうだ」

 自分で言いながら驚いた。なんだ、僕はこの松葉杖のことをそう思っていたのか。気付かないうちに、この松葉杖に対しても僕は僕の評価を押し付けていた。

なんとなくショックを受けている僕に、久美はこんどはきちんと座りなおすと、そのまま頭を僕の右肩に乗せてきた。

「だって、私にはもうひとつ、松葉杖があるもん。そっちを雑に扱ってるんだから、こっちの杖もそうしないと不公平でしょ」

 何でもないように君がいう。今度は僕の方から、枯葉のにおいと共に君を抱きしめた。

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